表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
14/66

第一章 -14



14



 ティベリウス・ネロの人生に転機が訪れたのは十二年前だった。

 前年、二十八歳の若さで執政官に就任した。愛妻ヴィプサーニアとのあいだには長男を授かっていた。すでに武功も著しく、次代を担う最も頼もしき将軍として大いに期待されていた。世界で最も幸福な男とは、おそらく彼であっただろう。

 だが十二年前、彼の義父マルクス・アグリッパが亡くなった。アウグストゥスに尽くし続けた、五十一年の生涯だった。

 アウグストゥスは最高の右腕を失った。国家ローマもまた当代随一の将軍を亡くした。だが彼らにはまだ若きティベリウスがいた。

 アウグストゥスは寡婦となった娘ユリアを継息子に託すと決めた。つまりヴィプサーニアと離婚し、娘と再婚するようティベリウスに求めたのである。そしてすでに自身の養子としている長男ガイウスをはじめ、五人の孫も任せるつもりでいた。アウグストゥス自身病弱で知られ、アグリッパに先立たれるとは思ってもみなかったのだろう。自分になにかあった場合に後を託せる男が、どうしても必要だった。

 だが、ティベリウスはこの要求に抵抗したという。妻ヴィプサーニアを愛していた、その一事のために。

 しかしアウグストゥスは決して引かなかった。妻リヴィアにも息子の説得を求めた。彼にしてみれば、自分が亡き後の国家の運命を左右する重大事だった。より個人的な心情を言えば、孫が成熟するまで守ってくれる男がいなければ、安心して死ねないと思ったのだろう。

 結局、その要求はかなえられた。

 今や、事情を知るほとんど全員が口をそろえる。ティベリウスはヴィプサーニアと無理矢理離婚させられた、と。

「でも、決めたのは彼ではないの?」

 あるとき、ピュートドリスはセレネ叔母に言ってみたことがある。

「いくら継父と母親が強制してきたからって、別れない選択もできたはずだわ」

 顔を見たこともないのに妬ましく思ったティベリウスの愛妻だが、父親を亡くした直後に夫に別れを告げられ、息子まで奪われたと聞けばあまりに酷い仕打ちと思う。家父長制のローマでは、原則として子どもは父親の家に属し、離婚した母親が連れて行くことはできない。もっとも、アウグストゥスその人は妻リヴィアを前夫に離縁してもらったとき、息子のティベリウスも引き取ったらしいが。

 そのうえヴィプサーニアは、胎内にいたティベリウスの第二子を流産したという。

「ユリアの夫になって、アウグストゥスの婿になれば、最高位までの出世が約束されるも同然でしょ。結局、妻よりも出世を選んだということではないの?」

 惚れた男の冷酷な一面を見たように思い、ピュートドリスは少なからず幻滅していた。自分も彼が妻と離婚してくれやしないかと考えながら生きていたのだが、棚に上げた。

 だが、セレネ叔母は沈痛な面持ちで首を振った。

「ティベリウスはヴィプサーニアを本当に愛していたわ。生まれたばかりのドルーススを、母親から引き離したいとも思っていなかったのよ。それでも離婚を決めたのは、ローマとアウグストゥスのことを考えたから。そして、もうそうしなければヴィプサーニアがいたたまれなくなると思ったからよ」

 ピュートドリスももう黙るしかなかった。それが女の世界の嫌なところだ。例えティベリウスが強引にヴィプサーニアと結婚し続けたとしても、彼女は義母リヴィアの冷淡な視線に耐え続けなければならなかっただろう。その取り巻きたちにまで、夫のためになぜ離婚してやらないのかと日々責められなければならなかっただろう。

 ティベリウスはそれでも妻を守ろうと考えたかもしれない。だが離婚するか、夫の将来を犠牲にしてどこか遠くの島ででも家族で暮らすか、ティベリウスが愛した女もまた、彼女自身の決断を下したのだろう。大切な存在を全部失うことになろうとも。

 それから、セレネ叔母は話してくれた。離婚後、ティベリウスは一度だけヴィプサーニアを見かけたという。人混みの中ですれ違い、彼だけが足を止めた。振り返り、その背中を目で追った。彼方に消えるまでずっと見守っていた。その両眼には、うっすら涙が浮かんでいたという。

 以後、もう二度と元妻と会うことがないように、彼は努めているそうだ。

 ピュートドリスはうなだれた。

 勝てない。そう思った。

 彼の最愛の妻は死んだのだ。少なくとも彼の中では。そう思う以外にどうやって耐えろというのか。

 二十一歳の最も美しい姿のまま、最も心を通わせ、最も愛おしいと思い合っていた頃のまま、彼女は死んだ。そうして彼の心の奥底に永遠に刻まれたのだ。

 現在、ヴィプサーニアは別の男と再婚し、五人もの子どもを育てているという。

 彼女が今幸いであれ不幸であれ関係ない。ティベリウスを恨んでいようと、忘れていようと、忘れたふりとしていようとも関係ない。

 彼女は幸せだ。女としてこれよりも幸せなことはないと、ピュートドリスは思った。

 涙が一雫こぼれたのは、悔しさのためだったのだろうか。

 こうしてティベリウス・ネロはアウグストゥスの新しい片腕となった。その後はますます武功を上げ、国家防衛の最前線に立ち続けた。だが私生活では決して幸せではなかったようだ。

 彼にとって、ヴィプサーニアが最高の女ならば、ユリアは最悪の女ということになるのだろう。

 夫妻は息子を授かった。けれどもまもなく死んでしまい、それをきっかけにしたように寝室を別にしたという。

 今やユリアは父親の手で罰せられたので、その悪評は世界じゅうに伝わっている。彼女は夫の子どもを懐妊するたびに、これ幸いと男遊びにくり出す女だったという。相手も一人二人ではなく、ほとんど不特定多数で、身分も様々だったと聞く。寝室を分けたとき、ティベリウスはおそらく気づいていたのだろう。

 すでにアグリッパの妻でいるときから、ユリアは不貞行為を常習していたと言われる。当時のティベリウスにも言い寄っていたとさえ伝えられ、そのためもあって彼はユリアとの再婚を嫌がったという。

 ピュートドリスには、ユリアの気持ちがわからないでもない。アグリッパは良き夫だったかもしれないが、彼女の父親と同年齢だ。近くに若く容姿の見事な男――そう、ピュートドリスが恋に落ちた、まさにあの頃の彼がいたなら、興味を持たないほうがおかしいのではないか。

 だがティベリウスは生真面目な男だった。妻ヴィプサーニアを愛してもいた。ほかの男どもと違い、ただ一夜の情事さえ拒んだのだろう。それでユリアには、結婚して彼を手に入れるほかなかった。

 また、アグリッパもティベリウスも外地勤務が多い男だった。一年の大半を、彼女は一人で過ごさねばならなかった。夫どもはいい。結婚していようと、外地でも内地でも、奴隷や遊女といつでも好きなだけ遊べる。だが妻にそれは許されていない。女は性欲など持ってはいけないことになっているのだ。男どもの性欲にはいつでも応えなければいけないことになっているにも関わらず。おまけに夫の女遊びを止める資格もない。

 その当時、ピュートドリス自身もまた一年の半分を夫と過ごしていなかった。ポレモンはデュナミスのいるボスポロス王国に行っていたからだ。夫のいない時間を、ピュートドリスはポントス王国の視察に使った。手紙で夫の指示を仰ぎつつも、統治を覚えてもいった。もちろん子育てにも熱を入れた。

 だがだからといって、ユリアにこのように言う気にはなれない。私は、あるいは世間の某夫人は、こうして立派に夫の留守を預かっていたのに、一方あなたときたら――ピュートドリスはそんな考え方をする女がいちばん嫌いだ。

 まず、お前と相手は違う人間だと言いたい。優劣ではなくただ違う人間だと言いたい。次に、お前がやっていることは本当に立派だったか考え直せと言いたい。ピュートドリスはただユリアと暇のつぶし方が違っていたに過ぎないと考える。さらに、本当に立派だったとして、他人を貶めなければ確かめられないほど自信がないのかと問いたい。哀れではないのか、自分が。だれにも認められない自分が。その不満は、自分の下にいるように見える女にぶつけるより、お前を認めない男どもに向けるほうが勇敢だ。

 子を産めない女に、子を産んだというだけで威張り散らす女がいる。女児ばかり産んだ女を、男児を産んだからと見下す女もいる。自分と同じように夫に尽くせと強制する女もいる。そしていずれの女も、男の都合で築かれた価値観に振りまわされていることに気づいていない。

 女は女が憎いのだ。自分より若いから、美しいから、男に好かれるから、頭が良いから、資産があるから――。

 女が女を見下すのだ。年を取っているから、美しくないから、結婚していないから、子どもがいないから、頭が悪いから、身分が低いから――。

 少しでも自分と異なる立場の同性に目をつけずにはおれないのだ。そして一方、憎まれまいと、見下されまいと、常に必死で生きているのだ。

 ピュートドリス自身、そうした意識に無縁とは言い難い。だがなるべく遠ざかっていたいと思う。ある意味ではデュナミスが、ピュートドリスの女へ対する憎しみを一身に引き受けてくれているのかもしれない。嫌だと思う。相手がデュナミスのような女であれ、一歩間違えばただの虐めだ。

 ユリアは、女に求められる役割を果たしていた。アグリッパとのあいだには五人もの子どもをもうけ、しかも全員健康に育っていた。社会が求める、立派な功績だ。すぐに失いはしたが、ティベリウスの息子をも出産した。

 ただ一人の男では満足できなかっただけだ。あるいはティベリウスのほうが、どうしても元妻を忘れられずにいたのか。どちらにせよ、その両方にせよ、夫婦仲は日を追うごとに冷えていった。

 ティベリウスは軍務に専念した。属州イリュリクムで、険しい天候と地勢の下、蛮族の脅威から国家を守り続けた。アウグストゥスからはユリアと寝室を分けたことで苦情を言われたかもしれないが、それ以外の面では忠実に尽くした。

 そんな彼を九年前、さらなる、そして最大の悲痛が打ちのめした。弟ドルーススが、ゲルマニアで病死したのである。

 アウグストゥスは新領土獲得に乗り出していた。栄誉と実利もあっただろうが、まるで右腕アグリッパに死なれた自らの不安を払拭したがっているようにも見えた。それでその大役を、第二の継息子ドルーススに任せたのだった。ドルーススは順調に戦役を進めた。北方からもたらされる勝利に、首都ローマは連年沸いた。九年前のその年、ドルーススは執政官に就任し、新領土の境界と定めたエルベ川に到達した。無事に首都に戻っていれば、盛大な凱旋式が行われただろう。だが帰途、彼は落馬した。

 知らせを受けたティベリウスは、イリュリクム属州の冬営地を飛び出し、一昼夜馬を走らせた。彼の腕の中で、二十九歳の弟は息を引き取ったという。

 この知らせを聞いた時、ピュートドリスは真っ先に弟アントニオスを思い浮かべた。

 弟の葬式後、ティベリウスはゲルマニア遠征を引き継いだ。そしてわずか一年後、アウグストゥスは彼に凱旋式を挙行させた。勝利と、ゲルマニア制覇を祝して。

 凱旋式は、ローマ男最高の栄誉である。だがピュートドリスはこの知らせに我が耳を疑ったことを覚えている。これほど残酷な栄誉があるか、と。

 アウグストゥスにしてみれば、ドルーススの死に沈んだ首都を励ましたかったのだろう。だがそのために最も傷を受けていた男をさらに苦しめた。そうは思わなかったのだろうか。

 実際、ティベリウスは勝利を収めた。立派に凱旋将軍に値した。だがドルーススも勝利を収めていた。なぜもっと早く彼に凱旋式を許可してあげなかったのか。その年はアウグストゥスの孫ガイウスがゲルマニアで従軍していた。つまり我が孫を凱旋式でお披露目できる年だったのだ。 

 同年、制覇したはずのゲルマニアで反乱が起こり、ティベリウスはまた戦場へ戻っていった。彼には、わかっていたのだろう。

 しかし、ならば彼は凱旋式を辞退すればよかったのか。否、ローマが戦役をはじめた以上、いつかは挙げねばならない式だった。そして弟亡き今、彼以外の男が凱旋将軍になるわけにもいかなかった。

 彼は、思いのやり場がなかっただろう。

 凱旋式から一年が過ぎた。アウグストゥスは元老院に諮り、ティベリウスに護民官特権を与えた。これは肉体の不可侵、政策立案の権利、拒否権の行使を保証するものである。かつてはアグリッパとしか分かち合わなかったこの大権を、アウグストゥスはもはやただ一人の頼れる男となった継子に、五年期限で与えた。そのうえで彼にゲルマニアを離れ、アルメニアへ向かうよう命じた。ちょうどその頃にかの国が現在に至る不穏な情勢に入ったのである。ティベリウスは、結局東方には行った。ただし、一切の公務を放棄し、一私人として引退すると宣言して。

 第一人者の家は恐慌状態に陥った。大喧嘩の末の家出であったと伝えられる。アウグストゥスは怒り心頭に発し、現在まで収まっていない。引退などありえなかった。三十六歳の継息子が、孫と娘を託した婿が、当代一となったであろう将軍が、最後に残された頼れる男が、彼を見捨てて逃げると言った。それも同然だった。

 無責任、薄情者、恩知らずと、アウグストゥスは罵倒した。リヴィアは取りすがって哀願した。ティベリウスはそれに遺言状の作成と四日間の断食で応えた。最後には、継父が病で伏せったとの知らせを尻目に、ロードス島へと船を出した。妻と、それに一人息子までも置き去りにした。

 以来、六年である。

 ピュートドリスはまず思ったのは、なぜもう一年早く家出してくれなかったのかということだった。すでに再婚してしまったではないか。

 自分とティベリウスにはつくづく縁がないようだと、胸中苦さを噛みしめたものだ。ポレモンのときもそうだった。ピュートドリスがポレモンと結婚した二年後、ティベリウスは離婚したのだった。もう二年行き遅れたからどうだったというのだろう。運命の女神は、自分とティベリウスのあいだをつなぐ気などさらさらないのだろうか。

 しかしピュートドリスの思いはともかく、この引退騒動は世界じゅうの耳目を集めた。なにしろローマの最高権力者が娘婿に逆らわれ、逃げられたのだ。だれもがその原因を憶測した。

 ピュートドリスは思う。最愛の女との離別、最悪の女との結婚、弟の死、酷い凱旋式と続く激務、それにアウグストゥスの孫贔屓――溜まりに溜まった思いがとうとう決壊したとしてもおかしくはない、と。

 セレネ叔母も同意見であると手紙に書いてきた。学者マカロンは、ティベリウスと面識があるとのことで、ピュートドリスの代わりに彼に礼を尽くしにいくとロードスへ出かけた。マカロンは苦しそうだった。他者の悲痛を我が胸に引き受け、少しでも楽にしてやることがなぜできないのか。そう考えているように見えた。

 おかしいと思っているのは、継父と実母だけであるらしい。

 第一人者の孫贔屓だが、引退の少し前、ローマ市民らは劇場に現れたアウグストゥスに向かい、孫二人を執政官にせよと歓声を上げたという。二人ともまだ十代前半で、当然アウグストゥスも早すぎる名誉であると拒否した。しかし内心では歓迎していたのだろう。

 彼は孫二人と違い、ティベリウスを養子にはしなかった。つまり彼にとってティベリウスは臨時の存在なのだ。自分が年若い孫たちを残して死んだ場合、彼に国を任せることにやぶさかではない。自分が始めたゲルマニア遠征を含め、国家のあらゆる厄介事を治めておいてもらう。孫二人が成熟するまで。そう考えているのだ。

 自分の子どもでもない継父の孫を託され、しかも臨時と見なされる。継父ばかりではない、市民までがそういう目で見てくる。これではなにをするにも無暗に枷となるだけだ。ローマもまた、国を治めるに際し、成熟や実力よりも血筋を優先することにした。そういうことではないのか。どこにでもある王政国家のように。

 あくまで婿であり臨時。そしてアウグストゥスが実際に亡くなれば、ティベリウスはどうなるのだろう。ガイウスと彼を持ち上げる連中に「早く退けばいいのに」と思われながら後処理に努めるのだろうか。これは不快であるばかりではない。身の危険すら感じる事態だ。

 それで、彼はへそを曲げた。市民らに対しても、お望みとあらば消えて差し上げようとでも考えたかもしれない。そして継父にも市民にも、自分という男がいなくなったらどういうことになるか、わからせてやろうと思った。そういうことなのか。

 孫贔屓を面白く思わなかったのは確かだろう。だがピュートドリスがその見方をマカロンにぶつけてみると、彼は激しく首を振った。

「女王陛下、彼は決して無責任な男ではありません。ガイウスとルキウスを妬むほど狭量な男でもありません。もしも彼らの優遇を気に入らないのなら、首都を離れて良いことなどないではありませんか」

 そのとおりだった。ガイウスらに対抗するならば、首都に居続けてさらに実績を重ねるほうが絶対に有利だ。実際、アウグストゥスが孫のために功績輝かしいティベリウスを引退させたなどと言う人もいるのだ。アウグストゥスの激怒ぶりがそれほど耳に入っていないのだろう。

 ティベリウスは今、ロードス島まで離れて、ガイウスのために立場を脅かされる状況になっている。そんな危険を冒してまでも、引退しなければならない強烈な思いがあったのだ。

 時が流れた。リヴィアは息子を心配するあまりデュナミスにまで手紙を寄越したという。生きているただ一人の息子が単身で遠く東方にいるのだ。気持ちはわかるが、こうなった原因は、なににせよ、彼女の夫アウグストゥスに発しているのではないか。

 アウグストゥスはまだ少しも怒りを鎮めていない。今年のガイウスの側近たちの意気軒昂ぶりがそれを証明していた。彼にしてみれば、なにが悪いという心境だろう。一人娘を娶らせた。護民官特権を与えた。臨時とはいえ、血縁でもない男に自分の後を任せるつもりでいた。それなのにその報いが三十六歳での引退とは、まさに無責任、薄情者、恩知らず以外のなにであるのか。

 裏を返せば、彼はそれだけ継子を信頼していたということだろう。

 そして二年前、ユリアが離島へ終身追放刑に処せられた。姦通罪である。夫に捨てられた第一人者の娘は、もはや狂ったように男を求めて止まらない日々を送っていたようだ。ついに父親の目にも余るようになり、その家父長権が行使された。ティベリウスとはようやく離婚となった。

 夢中で母乳をすする幼いアルケラオスを見下ろしながら、ピュートドリスはため息をついたのだった。

 だが皮肉だと思った。アウグストゥスは例の独身女に税金を課す法と並べて、姦通を取り締まる法を成立させていた。つまり自らの法のために、一人娘を罰せざるをえなくなったのである。そもそも無理に結婚などさせなければ、娘を追放することも、継子に家出されることもなかっただろう。結果、彼は大切な家族を二人も不幸にした。

 否、三人だ。それはピュートドリスの叔父ユルス・アントニウスである。マルクス・アントニウスとフルヴィアの次男で、アウグストゥスの姉オクタヴィアに育てられた人だ。彼がアジア属州の総督として赴任してきた時、ピュートドリスは一度だけ会ったことがある。優しくも悲しい目をした人だった。

 彼が、ユリアの最も親しくしていた姦通相手だった。ほかの男どもは追放刑だけで済んだが、アウグストゥスはユルスだけは許さなかった。仇の息子であるのに実の甥も同然に育ててやった、その忘恩だと思ったのだろう。処刑命令が下されたが、叔父は自らで命を絶つことを選んだ。

 セレネ叔母は悲しみに暮れた。兄を失ったのだ。エジプトから連れられてきて以来、最も心を砕いて守ってくれた人だという。ティベリウスもまた、遠く離れたロードス島でなにを思っただろう。浮気妻ともども当然の報いと思っただろうか。

 ――我々はアントニウスの子女と同じ家で育ちました。ですから同じ血を継ぐあなたがたもまた、我々の家族同然。

 二十年前、彼はピュートドリスにそう言っていた。

 取り返しのつかない家族の不幸。引き起こしたのは紛れもなくアウグストゥスだった。残されたのは母親を失った五人の孫だ。

 次の年、ティベリウスの護民官特権の期限が切れた。そしてガイウス・カエサルが東方へやってきた。ティベリウスは突然「流罪人」と化した。

 そして現在、彼はオリュンピア競技祭へ向かうところである。引退の因となったであろう諸々の出来事から、心が回復したようである。妻の追放も家族の自害も、さして堪えていないようである。晴れて独身となったことを喜んでいるのだろう。優雅な引退生活をますます謳歌するつもりでいるのだろう。欲にまみれた豪勢な宴の只中で、ピュートドリスを迎えようとしている。唯一の気がかりは、護民官特権が期限切れしたことだけで、とりあえず用心棒を雇っている。

 二十年は、長かった。回復したと見える心は、実は諸々の出来事に影響され、歪み、変わってしまったということなのか。

 ピュートドリスは考えた。ティベリウス・ネロにとって、最高の女はヴィプサーニアだ。最悪の女はユリアだ。自分はどちらかに取って代わりうるか、と。

 最高の女は、まず無理だ。至高の思い出のまま事実上死んだ存在にかなうものか。最悪の女も、おそらく無理だ。どんなにひどく振る舞おうとも、彼のその後の人生でもっと悪い女が出てこない保証などない。女も想像できないほど最悪な女が、世の中にはいるものだ。

 ならば、私はどうして彼に会う? どういう女として、彼の前に立つ?

 長く抱き続けてきた問いがそれだった。今、目の前の男に、答えを示すときが来た。







評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ