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ピュートドリスとティベリウス  作者: 東道安利
第一章 初恋の人
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第一章 -13



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 どうしてティベリウス・ネロはセレネ叔母を追い返さなかったのだろう。夫に裏切られたかつての家族を哀れんだのだろうか。あるいは時期を見て、ローマのアウグストゥスのところへ行くよう勧めるつもりなのかもしれない。いずれにしろ、いつまでも一緒にいては危険だ。それがわからないほど鈍い人ではないと思っていたが――。

 跳ね上がるばかりの心臓をかろうじて吐き出さずにいた。歩くピュートドリスは、自尊心を総動員して胸を張っていた。優美に見えないことを覚悟で、大股に足を動かした。そうしないとたちまち震えで立ち往生してしまいそうだったからだ。行く手を最初の用心棒が先導していた。

 だがその左肩越しに、すでに見えていた。鬱蒼とした林の先に開けた場所があった。ディオニッソスの祠があると聞いていたが、それらしきものは見えない。というのも大勢の人間で埋めつくされていたからだ。

 宴はすでに盛りを過ぎているのだろう。辺りにいる男女はほとんどが出来上がっているように見えた。男たちは主にティベリウスの傭兵だろう。年頃は二十代から四十代で、軽装だが一応甲冑をまとっている。数は、ざっと見渡すかぎり五十人程度か。だが主人を守る必要性も感じていないのか、多くがもはや赤ら顔をにやけさせつつ、地べたに座るか、寝転がっていた。武装していない男たちは、キュプセラの街から召集された芸人楽人の類だろう。踊りや物まねを披露し、赤ら顔たちから大笑いを引き出していたが、彼らもまた酔っているのか、すでに演技の体をなしていなかった。奏でる笛の音も、咳き込んでいるように途切れ途切れだった。

 驚いたことに、十代前半に見える少年もいた。五、六人が上半身裸で、男たちに酒をついでまわっている。

 女は男より数が少なかったが、全員が三十歳未満に見えた。行く手で薄靄のような布きれをまとい、集団で踊りを披露している。それ以外は、赤ら顔たちの傍らに座し、酌をするか、一緒に馬鹿に大きい声で笑っている。否、ほとんどもう絡み合っている。

 ピュートドリスは思わず顔を背けたが、すでに乳房も露わな女がそこかしこにいた。ティベリウス・ネロはキュプセラで遊女を大勢買い出したのか、元から同行させていたのか。それにしてもまだ真っ昼間だ。

 ピュートドリスと最初の用心棒は広場の中央を進んだ。

 すると行く手の赤ら顔が一人、ピュートドリスへ首を向けてきた。にたりと笑みをさらに大きくしたが、途端に気色を変え、盛大に胃の中身をぶちまけてきた。幸いまだ距離があったので、ピュートドリスは軽やかに迂回し、胸のむかつく臭いに耐えるだけで済んだ。最初の用心棒の腕に直進を遮られてもいた。

 しかし地面には嘔吐物ばかりでなく、種や獣骨や食器が散乱し、かろうじてましな物を踏んで歩むほかない状態だった。

 少年までが散乱していた。赤ら顔の一人にのしかかられ、別の理由で真っ赤な顔をして涙を浮かべていた。

 用心棒が、赤ら顔の頭に足を乗せながら先導を続けた。鼻の骨かなにかがめきりと音を立て、ぐぎゃっという声も聞こえたようだったが、淡々と進んだ。

 前方には階段があった。その果てで踊り子たちが舞い、行く手をふさいでいた。うち一人が、仲間たちから離され、階下に引きずり下ろされ、薄靄を赤ら顔二人に取り合われていた。まだ少女で、薄靄を着たことさえ初めてだったに違いない。顔を恐怖と羞恥に歪ませ、涙を散らしている。

 ピュートドリスが歩幅をさらに大きくして進み出ると、用心棒もすぐに肩を並べてきた。二人は同時に入り、すれ違いざま、ピュートドリスは一方の赤ら顔の股間に剣の柄を突き上げてやったが、うめき声はもう一方からも聞こえた。少女の背中を後方へ力強く押しやった腕も、二本だった。

 ピュートドリスはうなり声を漏らしていた。

 世にも稀にみる下品な宴だ。これがティベリウス・ネロの主宰とは。教養高い男たちを数人招き、静かに哲学談義するのが、ローマ貴族にふさわしい宴ではないのか。そこまで高尚でなくとも、昼間から半裸の男女を見世物にするあり様はあんまりではないのか。

 なにかの間違いよね? そうだと言ってよ。胸中叫びながら、階段を踏みつけた。

 階段を上りきると、踊り子たちが動きを止め、ピュートドリスへ振り返ってきた。とたんに傍らで見物していた男が四人ばかり、しなやかな体に飛びついた。

 悲鳴とともに崩れ落ちていく娘たち。

「控えなさい!」

 ピュートドリスは怒鳴りつけた。

「この私、ポントス女王、カッパドキア王妃、ピュートドリスの眼前で淫らな振る舞いは許しません!」

 至高の思い出が深い亀裂に歪む。ずばりずばりと生傷を負っていく。

 自分の奴隷ならまだ許される。遊女を金で買うことも許される。だが踊り子たちもあの少年少女も、決して彼の所有物ではなかろう。その種のことを生業としている者でもなかろう。

 こんなはずではなかった。こんなことをする人ではなかった。

 そう思っていた。

「勇ましいな、女王陛下」

 地を這うような低音が、前方から聞こえた。ピュートドリスはぞわりと震えた。のけぞり、階段へ傾き、背中を、思わずのように伸ばされた用心棒の腕に押さえられたほどだった。

「さすが噂に違わぬアマゾン殿だ。噂とは、ここにいるもう一人の女王陛下から聞いたのだがな」

「…ピュリス、とうとう来たのね」

 踊り子たちが左右に分かれていく。ピュートドリスは彼女たちを止めたいと思った。だがもはや時は来た。二十年越しの再会が、今果たされる。

 胸の高鳴りは少しも収まっていなかった。だが同じ鼓動であるはずなのに、ここへ足を踏み入れる前のそれとはなにかが違う。体も、今や火照るどころか冷たい汗を流している。震えは止まない。衣服の中に入り込んだミミズのように、いつまでも這いずりまわっている。

 二十年、焦がれた。愛しい、愛しい、初めての思い人。心の奥底の祭壇で燦然と輝く黄金像。

 何度も夢に見た。決して忘れなかった。遠ざかる気高い背中を追いかけた。

 だれを押しのけてでも結婚したかった。恋しさに、泣いて、わめいて、悶えた日々もあった。その腕に抱かれ、もう一度接吻されることばかり思い描いた。頬ではなく、唇に、その薄く優しい唇で。それが叶わずとも、せめてその青く澄んだ瞳にもう一度映りたいと願った。

 待ち望んだ瞬間。そのはずだった。

「しかし、許さないとはずいぶん思い上がった言いようではないのか? この場はこの私、ティベリウス・クラウディウス・ネロが与えているのだ」

 ピュートドリスは一瞬まぶたを閉じた。そしてもう一度、ひくつかせながら上げた。彼はいた。踊り子たちが開けた道の先、黄金に縁どられた一人用臥台に座している。それがまるで玉座であるかのように、両足を大きく開いてふんぞっている。

 赤みがかった茶髪が見える。あの瞳は、この距離からは見えない。

 その左右に、それぞれ十代前半に見える少年と少女をはべらせていた。また臥台の傍らにはもちろん、あの見張りに立っていた小柄な用心棒がひざまずいている。手前には、すでにあらかた食べ尽くされた食卓がある。

 その背後には、二十人ほどの男が立ち並んでいた。さすがに酔っている様子はない。それどころか広場下の者たちとは比べ物にならない威容を誇示している。およそ半数がローマ軍団兵の装備をしているためだ。ただ競技祭に出かけるだけの一私人を正規兵が護衛しているとすれば、それは軍の私物化ではないのか。彼らは「王」とその両隣の臥台を、半円を描くようにして囲んでいた。残る半数はギリシア人の傭兵だろう。軍団兵よりは軽装だが、やはり下の者らとは種類が違うとばかりに、武装して、油断も隙もない顔をしている。

 両隣の臥台は三人用だ。ピュートドリスの左手側のそれに、男が二人体を預けている。トーガをまとっているのでローマ人なのだろう。一方が金髪、もう一方が茶髪だ。そして尻だけを乗せて、やや身をすくませているように見える若い男も一人。こちらはトーガも甲冑も身に着けていない。

 ほかにも男が四人ほどいたが、広場下にいた連中が主人の宴席にまでなだれ込んできたのだろう。地べたに座り、臥台や食卓にもたれ、杯を片手にふやけた赤ら顔をしている。もはや傭兵にも見えない。はっきり言って、ごろつきだ。

 そして右手側の臥台だ。女が二人、その上に横臥していた。緑と赤のヒマティオン、金糸に銀糸のリボン、そして大粒の宝石をあしらった髪飾りがひと際目を引く。

 侍女が一人ずつ、ひっそりと付き添っていた。それぞれの女主人、デュナミスとセレネ叔母に。

「許してあげて、ティベリウス」

 緑のヒマティオンが盛り上がり、デュナミスの声で言った。

「なにせこのお嬢さんは富豪の一人娘で、生まれたその時からわがまま三昧、それはそれは甘やかされて育ったから――」

 そこでデュナミスはふと言葉を切った。

「お前がそう言うのなら、デュナミス」

 首を傾げて自身の左へ、その男は笑ったようだった。

「お前にはあたたかい思いやりというものがあるな。見てくれは救いようもなく老婆だが。それこそ女の最高の美徳であると、私は思うぞ。少しは思いやってくれないか、アマゾン殿。愛する女と引き裂かれ、淫乱女と九年も婚姻させられ、ようやく解放されたこの四十の男盛りを」

 どうして同情を求める。どうして女を嘲る。すでに傷ついている元妻を貶める。

 その男――ティベリウス・ネロは、首をゆっくりと正面へ戻した。顎を反らし、眼前の客人を見下ろそうとする。

 あの青は見えない。ただぎらぎらした光だけ、体に塗りつけられるようにして届く。

「して、この度は私に挨拶しに参ったとのことだな? ならば覚えておくがいい。決めるのはこの私だ。そなたを許すか、許さぬか。なにしろそなたとアルケラオスは、もう六年も私へ礼を尽くすことを怠っていたのだからな」

 至高の思い出は、もう傷を負っているかもわからない。見えないのだ。あの気高い姿が、もうかすんで見えないのだ。

 消えなければならないのか、あの頃のあなたが。

 二十年待った。待ち過ぎた。

 時は戻らない。せめてただ過ぎ去るだけにしてくれればよかった。

 私も変わったのだろう。少なくとも、年を取った。そしてあなたも変わった。それだけだ。きっと、そうだ……。

 二十年間、私は夢を見ていたのだろうか。







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