第一章 -11
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ピュートドリスは激怒しながら街道を馬で駆け抜けた。あわあわと歩道へ避けた人々も、まさかそれが女王だとは思わなかっただろう。髪を振り乱し、顔じゅうの筋肉を波打たせ、力任せに鞭を振るう単騎。女神ヘラが、とうとう堪忍袋の緒が切れて世界ごと夫を破滅させに向かうところに見えたかもしれないが、あながち的外れでもなかった。
家臣たちに子ども四人を任せ、あとを追ってくるように言った。ポントス行きは中止だった。アルケラオスの手紙には、「努めたが、どうしようもなかった」と記されていた。
夫に罪はなかろう。しかしそのときは同じ男というだけでその首を刎ね飛ばしてやりたい気持ちだった。火あぶりにするでもいい。磔にするでもいい。
ユバを殺してやる。セレネ叔母に代わって。
かわいそうに、セレネ叔母の手紙はいくつもの染みで滲んでいた。文字も乱れ、文体もあって無きがごとくで、普段の優美さの片鱗も見えなかった。
叔母からこんな手紙をもらうのは初めてだ。それでもピュートドリスはなんとか状況を理解した。ユバが浮気した。ばかりかその女を第二夫人として王宮に迎え入れると決めた。それで第一夫人に紹介するために、彼女をアンティオキアへ呼び出したのだ。
あの男の頭の中にはなにが湧いているのだろう。
ああ、わかっていた。国王が第二夫人を迎えるなど珍しいことではない。世間的に責められることでもない。むしろ多くの子孫を残すために、公に推奨すらされることである。これまでのユバが、むしろ稀有な部類だったのだ。
だが世の男どもがなんと言おうと、ピュートドリスは許せなかった。ユバはセレネ叔母を裏切った。共に似た境涯を耐え、長く手を取り合って生きてきたことも忘れたように。
セレネ叔母は立派にユバを支えてきた。おかげで最西の僻地だったマウリタニアは、空前の繁栄を迎えた。国王本人の良識と教養による善政ももちろんだが、王妃との機知に富んだ会話を楽しみに王宮を訪れる客は絶えることなく、それが西の華たるにぎわいに大いに貢献してきたのだ。
ユバのために、セレネ叔母は一男二女を産んだ。娘二人がすでに降嫁し、息子は父王の留守を任されるほどに成長していた。妻として母として、そして女として、これほど完璧に男の望みをかなえてきた人はいなかった。
そんなセレネ叔母は、今年四十歳になる。確かにもう子どもを産むことこそ困難だろうが、それでもこれほど美しくて夫思いの四十歳は、世界のどこにもいないはずだった。
だが、ユバはあっさり陥落してしまった。二十八歳の未亡人に。
馬を駆りながら、ピュートドリスは涙を滲ませた。わからないのか、男には。この屈辱が。自分たちは老齢に達してなお厚顔無恥にも若い妻を娶り、その妻が若者と不貞行為を働けば、たちまち惨殺するくせに。
わからないのか。四十を過ぎて夫を寝取られる苦しみが。
セレネ叔母の自尊心はずたずたどころではなかろう。実際、セレネ叔母は乱れた言葉で書いてきた。「こんな目に遭うなんて、クレオパトラお母様に顔向けできない」と。二十五年にわたる結婚生活をすべて否定されたような気持ちでいるだろう。
結局若い女がいいのか。子どもさえ産んでしまえば、あとは用済みか。少しばかり年を取っただけでないがしろにされるのか。若さという価値には、なにものもかなわないというのか。これまでいくら良き伴侶であったとしても。
女とは、それまでの存在なのか。
無論、ユバはセレネ叔母を捨てたわけではなかった。それどころか彼女への誠意のつもりで、わざわざ呼び出して第二夫人を紹介したのだ。セレネ叔母の正妻としての身分を保証し、後継ぎも彼女とのあいだに授かった長男にすると明言したそうだ。
だが、そんなのは当たり前だ。
ピュートドリスはその時の光景が目に浮かぶようだった。第二夫人が腕にしなだれかかるままにしつつ、ユバは同情あふれるまなざしで言うのだ。
「この子はかわいそうんだよ、セレネ。高貴な身分に生まれたのに、今は夫を亡くして独りぼっちなんだ。だれかが守ってあげなきゃ」
するとその女は、ひっそりとセレネ叔母に笑みを向けるのだった。
完全にたぶらかされたのだ。エライウッサ島が近づくにつれ、ピュートドリスはだんだんユバのことも哀れに思えてきた。だがセレネ叔母にした仕打ちを許す気は毛頭ない。
その女は、確かに美人だった。美女を選んで作られた家系に生まれたのだから、当然だ。夫を亡くしたのも事実だ。だが決してマウリタニア王が救いの手を差し伸べねばならないほどの不遇を託っていたわけではない。未亡人になったのは、六年も前だ。あとは父親の脛をかじりつつあちこちで遊びまわっていたに過ぎない。父親とは、アルケラオスのことだ。
アルケラオスはピュートドリスのほかに妻を迎えなかった。だがそれは若い頃に遊びつくし、そろそろ正式に嫡男を持たなければまずいと思い至ったからだろう。前夫ポレモンも、デュナミスとすでに婚姻していたが、五十歳を過ぎてピュートドリスに求婚してきたあたり、事情はほぼ同じだったのだろう。
生まれの悪くない女から息子が欲しかった。それだけだったのか。
だがそれを叶えてやっても、結局妻が年を取れば用済みと見なすのだ。
アルケラオスは王族に生まれたのではない。父親は大勢の神殿奴隷を束ねる司祭だったが、そのなかの最も美しい女に目をつけたのだろう。彼女は息子が成人してなお、マルクス・アントニウスを籠絡させるだけの魅力を保持していた。母親の手管により、アルケラオスは王位に就いたと言われる。
そして彼もまた、高級遊女とのあいだに娘をもうけたのだった。ピュートドリスは母親のほうには会ったことがない。すでに亡き人だと聞いている。しかし娘グラピュラーには何度か会った。一応、義理の娘だ。
けれども二人はお互いにかまわなかった。仲良くしなければならない理由も、いがみ合う理由もないように思われたからだ。グラピュラーはユダヤ王家に嫁いだ。しかし夫である王子アレクサンドロスが父王に処刑されると、一時カッパドキアに帰ってきた。しかしあとは時折父親に金をせびりにくるだけで、どこでなにをしているのかわからなかった。新しい夫を探しつつ、美しい女に生まれた人生を謳歌していたと思われる。
だが美しさの絶頂も、そろそろ傾きが見えはじめたころだったろう。悲しいかな、どんな女も老いという現実からは逃げられない。美しさを誇るなら、その分だけ失う苦痛も大きいものなのかもしれない。
そう考え至り、ピュートドリスは思わず馬に鞭入れる手を止めた。
同じ運命を背負いながら、お互いを傷つけ合う。その運命を武器にして。それが女なのか。
第二夫人とはいえ、国王との婚姻ならば、グラピュラーの自尊心を満たしたのだろう。だがはるか西の彼方のマウリタニアまで嫁ぐ覚悟を固めたとは驚きだ。本気なのだろうか。
ピュートドリスはもう一度力を込めて、馬を打った。急ぐ理由は、ユバを殺すためではない。グラピュラーを叱りつけるためでもない。セレネ叔母をなぐさめるためだが、アルケラオスの手紙を見るに、もうエライウッサ島を出立してしまったのだろう。彼が「どうしようもなかった」と書いたのは、手に負えない尻軽娘のことではない。
セレネ叔母は、手紙の最後にこう書きなぐっていた。
「私はユバに復讐します。この屈辱を晴らす方法は一つしかありません。私はロードス島に行きます。そこでティベリウスが待っています。私は彼と結婚します。ティベリウスも独身で、引退している身ですから、だれも私たちを止められません。ピュリス、あなたには悪いけれど、どうか私たちの新しい門出を祝福してください」
エライウッサ島で、ピュートドリスは夫と話し合った。セレネ叔母の手紙をなん度も読み返した。ひどく乱れていたが、やはり確かに彼女の字だった。客室には、叔母が涙で濡らして投げ捨てていった上掛けがそのまま残っていた。
一刻の猶予もないことはわかっていた。それでもピュートドリスはしばし茫然として、セレネ叔母がいた部屋に座り込んでいた。
子どもたちが帰ってきた。
ピュートドリスは立ち上がった。息子たちに接吻をし、アントニアだけを馬車に乗せた。きっかり十人の護衛兵を従え、エライウッサ島を後にした。
六月二十九日、セレネ叔母の出立から十日が過ぎていた。