第一章 -10
10
四月初旬、ガイウス一行はエライウッサ島を出発した。ユバは最愛の妻に、彼女の分まで家族の墓に詣でると約束し、ローマ街道の彼方へ消えていった。何度も何度も振り返りながら。
ユバも決して自分の楽しみばかり考えていたわけではない。本当はセレネ叔母と二人エジプトまで旅をしたかったのだろう。ピュートドリスはそう信じた。今でも、この時点でのユバの誠意は疑っていない。
ところが、それから二ヶ月が過ぎた頃に手紙が届いたのだ。ユバはセレネ叔母に、「君に会いたい。今すぐ話したいことがある」と書いてきた。驚いたことに、彼はまだシリアのアンティオキアにいるという。
数日前に、ガイウス一行がシリアからユダヤへ南下中であるとの情報がもたらされていた。それが確かなら、ユバは一行から離脱したことになる。
ピュートドリスは首をかしげたが、なんとか納得した。おそらくユバは、セレネ叔母恋しさと、自分だけエジプトを訪ねる後ろめたさに耐えられなくなったのだろう。結婚以来、夫婦はどこへ行くにも一緒だった。ユバにとってセレネ叔母は、最愛の妻であり、無二の親友だ。
そうピュートドリスに指摘されるまでもなく、セレネ叔母は手紙を読み終えるや否や頬をゆるめていた。「しょうがない人なんだから」とぼやいて見せつつ、いそいそと侍女たちに荷造りを指示した。エライウッサ島では、あまり他人に干渉しないアルケラオスでさえ呆れ返るほど、毎日ピュートドリスとおしゃべりをして楽しんでいたが、やはり夫に会う喜びに優りはしなかったのだろう。
アルケラオスは、セレネ叔母のために船を用意させた。アンティオキアには二日とかからずに到着する。
甲板から元気に手を振るセレネ叔母を、ピュートドリスは見送った。妻とふた月と離れていられなかった軟弱夫ののろけ話を、必ず手紙に書いて送るよう約束させていた。
疑ってもみなかった。セレネ叔母が不幸のどん底へ突き落されるなど。
このあと、ピュートドリスもまた荷造りを終えた。所領ポントスに戻るためである。セレネ叔母を連れていく予定だったが、しかたがない。来年、ガイウス一行が任務を済ませた帰途にでも、また誘えばいい。
ローマ街道が整備され、速く安全に情報が届くようになったので、国を離れていても統治を続けることは不可能ではない。けれどもピュートドリスは、年に一度は自国王宮に帰ることを習いとしてきた。地方の視察も、ポレモンの妻だった頃から好んで続けていた。
アルケラオスも今が良い時期と勧めてきた。ガイウスが戻ってくる前に、今一度国内の支度を確認しておくのがよかろう、と。
数十名の護衛を従え、ピュートドリスはエライウッサ島を出た。カッパドキアの領内を北上し、ポントス王都セバステを目指した。
楽しい旅だった。なにしろ子どもたち全員を伴っていた。十二歳のポレモン二世、十歳のゼノン、七歳のアントニア、そして二歳のアルケラオス。
ピュートドリスの乗る馬車のまわりを、年上三人がわあわあ言いながら駆けていた。草原を転げまわり、岩によじ登り、ウサギを追いまわした。二歳のアルケラオスがそれに懸命に加わろうとしていた。
兄二人がたちまち笑みを大きくした。ポレモンはゼノンより生意気を言わない弟を贔屓にしたし、ゼノンはゼノンで子分ができたことを喜んでいた。二人は毎日弟を取り合って過ごしていた。それで姫の座を奪われたアントニアが妬いてしまうのだが、兄たちについてまわって疲れた二歳児にたっぷり甘えられると、姉たる気概を勇んで発揮するのだった。
「アルケちゃん、今日も良い子だったわね。ごほうびにおねえちゃまが、おやすみのお歌を歌ってあげるわよ」
と、ピュートドリスの口調を真似し、替え歌で割り込む兄たちを怒りながら、弟を寝かしつけようとするのだった。
結局ピュートドリスが、やれやれと笑いながらアルケラオスを自分の膝に乗せた。
王家の者らしくないと、以前家臣に言われたことがある。王家では、王子たちは生まれた瞬間に敵同士になる。腹違いであろうと、実の兄弟であろうと関係ない。王位をめぐり兄弟が血みどろの争いをした話など、古来掃いて捨てるほどある。兄弟は生まれてすぐに離され、彼らを傀儡にしようと企む家臣たちに、あることないこと吹き込まれながら熱心に養育されるのだ。
しかしピュートドリスはそもそも王族ではない。成り上がりの富豪の娘だ。そしてポレモンとアルケラオスもまた似た出自だった。
乳母の手は大いに借りた。けれどもピュートドリスは、基本的に自らで子どもたちを一緒に育てた。四人ともに自らの母乳を与え、四人ともを抱いて歩き、子守り歌を聞かせ、同じ部屋で眠りもした。
ただ母が自分と弟に接してくれたように接しているだけだった。ピュートドリスは自分が当たり前と思う家族を作っているところだ。同じ家で食べて眠り笑い合い、殺し合うほどの喧嘩はしない、どこにでもいる家族だ。
けれどもいつか、王族という身分を突きつけられる日が来るのかもしれない。願わくばそれが、自分の生きているうちであってほしいと思う。死後では、仲違いした子どもたちになにもしてやれない。
弟が離脱したので、ポレモンとゼノンは二人の将来について意見を戦わせはじめた。ポレモンが将来ポントスの王になると言うと、ゼノンは兄よりももっと大きな国の王になり、戦争で兄を負かしてやると返した。例えばアルメニアやボスポロスを征服する、と。
「お兄様たち、ケンカはだめよ!」
ふくれっ面のアントニアが割り込んだ。
「でないとアントニアがじゅうまんの軍団を連れて、やっつけちゃうわよ!」
アントニアならやりかねなかった。ローマに願い出て兄たちを懲らしめそうだった。ポレモンとゼノンはたちまち妹へひざまずいた。
「女大王アントニア様にかなう者などおりませぬ」
このような調子で、ピュートドリス一行はポントスを目指した。
手紙が二巻届いたのは、旅が八日目を過ぎたあたりだったと思う。