第一章 初恋の人 ー1
第一章 初恋の人
(後一年)
1
ピュートドリスは愛馬の歩度をゆるめていた。蹄の下は、すでに獣道と呼ぶのがふさわしいようなあり様だった。両縁から茂みが迫り、今にも押しつぶされそうだ。
頭上からもだ。太陽は今一日で最も高い位置にあるはずなのに、ヘリオスの光はことごとく木の枝ごときに遮られている。
馬上にいるのも限界。そう思った矢先、だしぬけに行く手を塞がれた。
「女人、この先になに用か?」
驚いたピュートドリスは、必要以上に強く手綱を引いていた。馬の真正面に立ったまま、男は微動だにせず、落ち着きはらった様子でいた。
「驚かさないでよ」
ピュートドリスは怒気を隠さなかった。馬上から身を乗り出すと、兜の奥の鋭い眼光に迎えられた。一瞬ぞくりとし、それから慌ててそれを恥じた。尊大に胸を張り、震えを隠した。
男はじっとピュートドリスの答えを待っていた。くすんだ瑠璃色のマントに、木の葉をいくらか貼りつかせていた。ピュートドリスの気配に気づくまで、茂みの中にいたらしい。
「あなた、ティベリウス・ネロ殿の護衛?」
「だとしたら?」
ピュートドリスと同じくらい尊大に聞こえる口調だった。むっとしながらも負けじと、ピュートドリスはさらに胸を張った。
「ティベリウス殿にお会いしたいの」
「なぜ?」
「あなた、私がだれだか知ってる?」
「いや」
この返答に、ピュートドリスは腹を立てた。知っているわけがないと思いながら訊いたのだが。
ティベリウス・ネロの護民官特権は切れているから、この男は国家ローマに帰属する兵ではない。ティベリウスの奴隷か。いや、武装しているので、私費で雇った傭兵だろう。房飾りのない兜を目深にかぶり、皮の胸当てを身に着けている。左腰に提げているのは、ローマ軍団兵が使うグラディウス剣に似ている。右腰にも短剣が一振り。装備のどれ一つ見ても華やかなものはなく、むしろその辺の街で中古品を間に合わせに揃えたような出で立ちだ。
こんな下々の者が、ピュートドリスを知るはずがないのだ。
それにしてもこのそっけなさときたらなによ。
「ポントス女王、カッパドキア王妃、ピュートドリスよ。光栄に思うことね、用心棒さん」
「ポントス女王…? カッパドキア王妃…?」
頬当ての間で、男の顎がしかめられた。
信じられないのはよくわかる。なにしろたった独りなのだから。護衛はおろか、侍女の一人さえ連れていないのだから。
それにしてももう少し控えめに不信の気持ちを表せないの。
男が言葉を継ぐ前に、ピュートドリスは教えた。
「信じられないのなら、セレネ叔母様に確かめるといいわ。先に来ているでしょう? それからあの忌々しいデュナミスの婆にも」
「忌々しいデュナミス…?」
男はしかめた顎をかしげ、それから意外にもうなずいてきた。
「ああ、そういえばポントス女王とボスポロス女王は、夫を共有していたのだったな」
「共有? 馬鹿言わないで! 私が妻よ、ただ一人の。それも昔の話!」
思い出すだに腹立たしかったので、ピュートドリスは男に鋭く指先を突きつけた。
「とにかくさっさとティベリウス殿のところへ案内なさい! 叔母様たちと一緒に、この先で宴を開いているのでしょう? 私がご挨拶しちゃいけないの?」
男はまだ怪しむ様子でにらんできていた。
「ポントス女王が、単身、トラキアのこんな藪の中まで一体なにをしに来た? ティベリウスに挨拶をするなら、ロードス島にいるあいだにいくらでも暇があっただろう?」
「あなたに話す必要はないわ!」
身分を知らせたのに、男の尊大さは少しもゆらがなかった。いい加減我慢の限界だ。
「ティベリウス殿にお会いしたときに話します。さあ、早くなさい!」
女王に急かされても、男は自分の調子を乱す気配もなかった。もう数呼吸のあいだ、じっとピュートドリスを観察していた。それから小さく吐息し、一転して、ひどくあっさりと言った。
「下馬されるがよかろう」
言われなくてもそのつもりだった。この気の利かない男は手を貸すそぶりさえ見せなかったが、ピュートドリスは軽やかに馬から下りた。
地面に両脚で立つと、この男を見上げねばならなくなった。なるほど態度はともかく、見てくれは申し分ない用心棒をティベリウスは見繕った。ピュートドリスは女の標準より背が高いと自負しているが、この男はさらに頭一つ分ほど上背があった。それもただ高身長というばかりでなく、肩幅も広く、胸板も厚く見える。ゲルマニア人を名乗っても通じそうだ。ただし男の顎に散らばる髭は金色ではない。話す言葉も滑らかなギリシア語だ。
ティベリウスのために、ピュートドリスはラテン語を話す用意をしてここに来たのだが。
「武装しているな」
「悪い? 女の独り旅だったのよ」
ピュートドリスはすまして答えた。左腰の鞘を叩いてみせた。
「なんならちょっと手合せしてあげましょうか? 私、これでも腕には自信があるのよ。キリキアの山賊どもをこてんぱんにしてやれるように、少女の頃から毎日剣の練習をしていたの」
「結構だ」
取りつく島もないような返答に、またもむっとさせられる。もちろん冗談だったが、剣の腕に自信があるのは嘘ではない。
それでも内心安堵したことに、男はピュートドリスから剣を取り上げようとはしなかった。
男は馬の手綱を取った。しかし歩き出す前に、馬の目をつくづくと見つめた。そして栗毛に覆われた首を、いたく優しく撫でる。
「美しいな。良く育てられている」
当たり前だった。運命を共にするのに最高の友を、ピュートドリスは選んできたのだ。白馬ではないが、ポントスでいちばん見事で忠実な馬だと確信を持って言える。
それにしても馬より先に褒めるべきものが、この男の目には映らないのだろうか。
いや、どうでもよいのだ、こんなただの見張り役にすぎない男など。重要なのは、この道の先にいる男だ。
ティベリウス・クラウディウス・ネロ。二十年間、一日たりとも忘れたことはない男――。