3/5節『素人勇者の冒険譚』
「ああ――本物だ! 凄いな!」
闇の底から幾本もの石柱が伸びる、剣山さながらの迷宮。
その柱の一つの上で、充は感嘆の声をあげていた。
理由は彼の眼前に聳え立つ十メートルはあろう人の形をした巨躯の存在である。
「本当に動いてる!」
『迷宮の主、岩人形です』
充の耳に、彼の身を案じる声が届く。
艷やかな女性の声だが、その声の主の姿はどこにも見えない。
『沙々木様は試験役ですから、どうかご無理はなさらないでくださいね』
「ここで逃げるなんてもったいないことはできませんよ!」
耳元で囁かれる声に、青年は満面の笑みで応えた。
その目は、立ち塞がる岩の怪物を恐れることなく、真正面から見上げている。
抑えきれない興奮が、笑顔になって溢れてしまう。
この状況が、楽しくて仕方ない。
充は、手に握った剣を構え直し、ただ嬉しそうに眼前の敵を見つめた。
彼がこのように興奮するのも無理はない。
なにせ、この事態こそ――。
異世界の魔女に頼まれ始めた、この迷宮探索こそ。
幼い頃からの憧れの状況そのものであったのだから。
* * *
充が古風な剣を手に、この迷宮に入ったのは二時間ほど前のことである。
象牙のように白い石柱が奈落の底からいくつも生えている大きな竪穴。
柱と柱を蜘蛛糸のように繋ぐ細い通路は複雑に絡み、迷路じみている。
ひやりと湿った鉄臭い風が闇の底から吹き上げ、髪を揺らす。
闇の黒と岩々の白とに包まれたモノトーンの洞窟。
そうした現実離れした空間を、充は剣を振るい、喜々として進んだ。
ときに触れると宙に浮く岩を足場として。
ときに落石の罠を避け。
あるいは柱の内部に隠された階段を駆け上がって。
魔法によって身体能力が向上し、重量感たっぷりの剣も軽々と扱える。
岸壁から滲み出してくる蠢く液体や転がって襲いかかる岩石も剣一本で撃退し。
充は疲れも知らず、苦もなく迷宮を走り抜けた。
やがて彼は迷宮中心部にある、ひときわ太い柱の上に辿り着いた。
そこに待ち受けていたのは、淡い光を放つ宝箱であった。
期待を込めて開けたその宝箱には、山と詰まったまばゆい金貨。
これぞ冒険――その壮観は、充にとって伏し拝みたくなるほどに尊かった。
それから持てるだけの金貨を懐に入れ、では帰ろうかと彼が踵を返したとき。
その歩みを阻むように足場が揺れ、突如、目の前の地面が隆起した。
そして、地面を割って姿を現したのが――件の岩人形であった。
* * *
冒険のすえに見つけた宝と、宝を守る巨人の出現。
それこそ、幼い頃から読み漁ってきた冒険譚のクライマックスである。
充は、憧れの舞台に自分が立てたことに、涙するほど喜んでいた。
しかし――。
『岩人形の動きは速くありませんが、押し潰されると危険です』
ミヤの艶やかな声が、感激に震える充の思考を現実に引き戻した。
『まずは――』
「まずは〈調査弾〉ですよね!」
今が仕事中であることを思い出した充は、すぐに腰へ手を伸ばす。
そして、そこに提げた道具袋から、手のひらサイズの丸い球を掴み取り。
「――やぁっ!」
〈調査弾〉と呼ばれるその球を、岩の巨人に向けて放り投げた。
球は空中で破裂し、乾いた破裂音と細かい火花が周囲に散る。
この音や光への反応具合を見て、未知の魔物の能力を推し量る――。
それがこの世界の冒険者のセオリーらしい。
巨人は球に反応し、ピクリと巨体を震わせた。
とはいえ――。
「でも、私だと結果を判断できないんですが!」
とはいえ、充には冒険者の経験というものがない。
巨人の動きを見ても、球に反応したことまでしかわからない。
『光にも音にも反応ありです。顔の部分に視覚と聴覚が備わっていますよ』
「ありがとうございます!」
そこへ、ミヤの声が補足を届ける。
充は姿の見えない魔女へ礼を言い、岩でできた巨人の頭を注視した。
目も耳も見当たらないが、あそこに感覚器官があるのだろうか。
ならば、弱点も頭部ということになるのか。
攻略法に頭を巡らせた充であったが――。
そのとき、岩人形の動きが変わった。
磁鉄鉱のごとく黒光りする巨人が、不意に身震いして両腕を振りまわした。
サイズでいえば、三階建てのビルが暴れるようなものである。
迷宮内の空気がかきまわされ、充の頬がビリビリと震える。
それは足元の侵入者への威嚇か、臨戦態勢を整える準備運動か。
いずれにせよ、悠長にしている余裕はなさそうであった。
『岩人形の攻撃が来ます! 距離を取ってください! 遠距離でも、右手で狙いを定めて呪文を唱えれば魔法が発動しますので――』
「OK! 行きます!」
相手の動きを知らせる耳元の声が止むより先に、充は動いた。
剣を腰に収め、一足飛びで巨人から間合いを取る。
同時に、岩人形も動いていた。
岩の擦れ合う重低音と共に、拳が振り上げられる。
今度は威嚇でも準備運動でもない。
逃げる充へ狙いを定め、屈み込むようにその豪腕を打ち下ろしてきた。
迫る巨拳の威圧感を前に、充の脳裏に浮かんだのは――新幹線の姿。
それは「走る新幹線の前に立ちはだかったらこんな気分か」という想像。
これでミヤ曰く「動きは速くない」のだから恐れ入る。
充がそのような益体もないことを考えていた、次の瞬間。
黒い巨人の拳は深々と地面に突き刺さっていた。
一帯がひび割れ、無数の白い岩片となって飛び散る。
同時に、爆音が洞内を揺さぶった。
しかし、無惨に飛び散る土塊のなかに充の姿はない。
そのことに気付いた巨人が、頭を左右へと巡らせた。
「おおおお――!」
そのとき、迷宮に咆哮が響き渡った。
その声は岩石の巨体の、さらに上から。
声に反応した岩人形が頭上へ顔を向ければ。
果たしてそこには、魔法で強化された跳躍により上空へと退避した充がいた。
充は無重力感を味わいながら、足下の岩人形が顔を上げたことを確認する。
今が好機。
そう判断したときには、右手を標的へと突き出していた。
このときを待っていた――自分がずっと憧れていた、魔法を使う瞬間を。
充は待望の言葉を、呪文を、喉を震わせ叫んだ。
「〈桜火〉ッ!」
呪文を叫ぶや、充の右手の先で紅い光が弾けた。
軽い反動が腕に伝わり、その軽さに反して猛烈な爆風が周囲を薙ぐ。
両腕で抱えるほどの大きさの火球が、凄まじい勢いで撃ち出されていた。
火球は舞い散る火の粉が桜の花弁となり、空中に渦巻く花吹雪の軌跡を描いた。
それは迎撃を試みた巨人の拳を粉砕し、一直線にその顔面へと突き刺さり――。
そして盛大に炸裂した。
薄桃色の爆炎に包まれる岩人形の巨大な影。
そこへ、剣を構え直した充の身体が落下していく。
魔法の軌跡である花吹雪のトンネルのなかを、真っ直ぐに。
仄かに甘く薫る爆風の先に、よろめく巨体が見えた。
まだ倒れてはいない。
「トドメぇっ!」
その額へ、落下の勢いをつけた充の剣が突き刺さった。
ガツリ、と強烈な手応えが両手にかかる。
燃え盛る岩の巨人の頭を断ち割らんと、充は剣の柄を力強く握り締め――。
しかし激突の衝撃に耐えられず、充の手から柄がすっぽ抜けた。
「え――」
まずい――と思ったときには遅かった。
勢い余った充の身体は、そのまま岩人形の背中を転げ落ちていた。
『大丈夫ですか!?』
ゴロゴロと派手に転がる充を、慌てた声音が追いすがる。
巨人の拳で砕けた地面に倒れ込んだ充は、しばらく声も出せないでいたが――。
「身体は魔法のおかげで痛くないですけど……目がまわった……」
やがて土まみれで呻き声をあげながら、なんとか耳元の声に返事をした。
「それで……岩人形は……?」
それから頭を振り振り、よろめき立ち上がった充は、顔を上げた。
敵の姿を、揺れる視界で探る。
そこでようやく、離れた場所に立ち尽くす、黒い巨体に気付いた。
迷宮の主、岩人形は――。
その全身をドロリと融解させ、薄桃色の煙をあげ、桜の花弁に埋もれるように。
頭部に充の剣を突き立てられた格好のまま、完全に機能を停止していた。
「ははは……やった」
充はその光景を確認するや全身の緊張を解き、万感の想いを呟き声に滲ませた。
剣を振り、魔法を操り、迷路をさまよう。
空を翔け、宝を見つけ、怪物を倒す。
子供の頃に夢見て、今でも憧れている冒険譚。
日本では、どんなに求めても得られなかった体験。
それをこうして味わえるとは。
充は物言わぬ巨人の足元に歩み寄ると、黒々としたその巨躯を見上げた。
そして、痺れが残る両手の感触と達成感を、今度こそ逃すまいと握り締めた。
『お疲れ様です、沙々木様。協力していただき、ありがとうございました!』
「あ……」
そこへ再び囁きかけられた耳元の声で、充は我に返った。
そうだ、こんな機会をくれた恩人に、こちらこそ感謝を伝えなければ。
姿勢を正した充は、その場で小さく一礼した。
「ミヤさん! こちらこそ感謝しています! こんな体験ができるなんて!」
『いえ、そんな……。ご迷惑でなかったのなら、良かったですが……』
「迷惑だなんてとんでもない! また呼んでくれたら、何度でもやりますよ!」
『あ……ありがとうございます!』
安堵の吐息が耳をくすぐり、充の頬も思わず緩む。
『あの、それでは迷宮を消しますので、足元に気をつけてください』
艶やかながら、どこか幼さを感じさせる魔女の声がそう告げる。
すると、とたんに周囲の景色がぐにゃりと歪んだ。
絵の具に水を垂らしたように、洞窟の岩壁が溶け、闇と岩の境界が混ざり合う。
それは日常では決して見ることができないであろう不可思議な光景。
目の前で繰り広げられる神秘に、充は感嘆の溜息をついた。
そして――。
「やっぱりこのバイト……最高だ」
今日、何度目ともわからない想いを。
自分にとって、これ以上の感激はまたと得られないだろうという実感を。
魔女への感謝の念と共に、口にしたのだった。
――実際のところは。
充の人生を激変させる真に運命の岐路となる出来事は、こののち――。
仮設迷宮試験後の休憩時間に待っていたのだが――。
このときの感動に打ち震える充は、まだそれを知る由もなかった。
※ゴーレム……チェコ(ゴーレムが誕生したとされる16世紀時点では神聖ローマ帝国)の首都プラハの伝承に登場する、作者の命令どおりに動く泥で作られた人形のこと。あるいは、神話や伝承に登場する石や金属等で作られた自律する人形全般を指す。ここでは、迷宮を守るために作られ、魔法の力によって動く人形のこと。