入道雲の弟
毎日の疲労は溜まっていく。倦怠は体に染み込んでいく。自分にとってそれが義務だと理解していても、やはり、僕にはそれは重荷だった。
気分転換も兼ねて、外に出る。僕の家は二人暮らしだ。弟と二人。母は生きていて、父は既に他界した。僕は弟の面倒を見ている。訳あって、弟は外に出る事ができない。
僕と弟の生活費は、父の遺産で賄っていた。生活費だけではなく、弟のための金も別に必要だった。それはやむなく必要なものなので、姉ーー姉もいるーーも、月々、僕らを助けてくれた。僕は今、働いていない。弟の事を見なくてはならないから、それどころではない。
僕は色々な雑務に疲れていた。弟は感情の起伏が激しかった。彼は自分の状況を考えると、八つ当たりせざるを得なかった。僕はそれに付き合わなくてはならなかった。辛い事だったが、仕方なかった。
僕は三十の年を過ぎていた。いつまで、弟に取り憑かれているのだろう。僕も仕事を持ち、女性と付き合い、結婚する事は可能なはずだ。自分の人生を弟に吸い取られているような気がして、そう思うと、あいつを絞め殺してやりたい気持ちにさえなった。
僕は疲れていた。そんなある日、ふと街に出た。弟には食糧を買いに行くと言った。それから、弟のための雑務もこなす予定だった。
僕は気晴らしに街の本屋に立ち寄った。平積みにされた本。いろんな本が置いてある。そこで目についたのはベストセラー本だった。特に、今、売れに売れている小説が目についた。
盛んに宣伝していたので、書名ぐらいは僕も知っていた。『君の名前を知りたい』 確か、そんな書名だったはずだ。あらすじも知っていた。余命一年の女の子と、男の子が付き合って、別れる話だ。
十代の頃、似たような小説を見た事があった。それもベストセラー本だった。どんな書名だったか、今はもう覚えていない。あらすじは大体同じで、またもや、余命僅かの少女が出てくる。あの頃から、ああいう本は嫌いだった。
皆が泣いた、と言った。映画を五回見たという人もいた。小説は映画化され、ドラマ化され、色々な媒体に広がっていった。余命わずかの少女はまるで、多くの人の涙を誘う為に冥界から召喚されているかのようだった。これでは、本当に余命わずかの少女はやりきれないであろう。そんな事も考えられた。
現実の世界でも、最近、有名人が癌で亡くなった。彼女はまだ二十代半ばで、前途ある女性だった。美人で聡明なタレントとして、キャスターの仕事もしていたし、モデルの仕事もしていた。誰もが知っている婚約者がいて、婚約者も芸能人。どっちかと言えば、堅い感じの俳優だった。多くの人がこのカップルに好感を持っていた。確かに、彼らには悪人の影はなかった。我欲も感じられなかった。
突如として、女の方が癌に侵されている事が見つかった。それもかなり進行していた。その事が分かると、多くの人が、女に応援の言葉を送った。沢山の涙も流れた。女の方でも、自分が病魔と戦っている様を、逐一、ブログに綴っていった。多くの人がそれを見た。そこには、ベストセラー小説と同じ現象があった。僕は夢を見ているような気がした。本当の病というのは、本当の死というのは、そんな風に簡単に物語に、涙に還元できないものなんだと僕は思ったけれど、もちろん、そんな事を言えば「不謹慎だ」と非難されるのは目に見えていた。
僕は、弟の事を考えていたのだ。弟は余命一年だった。だけど、宣告から一年半生きていた。それが本当の所だった。
弟は悲劇的な存在ではなかった。むしろ、喜劇的な存在だった。体が弱って、下の事も自分でできないから、僕がやっていた。僕はそんな事を物語に載せる気はない。僕が弟の尻を拭く、そんな風景に涙する観客がいるとしたら、僕はそいつに腹を立てる。人生は喜劇じゃない。悲劇でもない。人生は人生だ。ただ、それだけだ。生きて死ぬ。思えば、当たり前の事じゃないか。
正直言って、弟にはとっとと死んで欲しいという気持ちもあった。病魔に食われた人間は、生きている僕達から精力と金銭を吸い取っていた。弟に死んで欲しいと何度も思った。本当に、何度も思った。でも、ある日、弟はこう言った。
「兄貴」
「何?」
「俺に死んで欲しいだろう?」
「…そんな事ないよ」
「嘘つかなくていいよ。兄貴は俺が重荷になっているはずだ。でも、大丈夫」
「何が『大丈夫』なんだ?」
「俺、来年の秋まで持たないから」
僕は弟に、どうしてそんな風に思うのか、しつこく尋ねたが、『俺にはわかるんだよ』の一点張りだった。夏を越せないというのが弟の直観らしかった。今は七月過ぎ。もう夏に入っている。
弟はそう言ったものの、病状は安定していた。痛みもそれほどないようだった。医師はもう諦めていて、自宅療養を勧めていた。つまり、弟はあとは死ぬばかりだった。それなのに、傍目には病院にいた時より元気に見えた。
そうは言っても、やっぱり病気は進行していた。弟は悪性の癌にかかっていて、あちこちに転移していた。病院にいる時はあと一月ももたないだろうと思ったが、僕と二人で住むようになってからは、少なくとも精神的には良くなったように見える。
母は事情があって別に暮らしていた。姉は仕事の関係で離れた場所にいた。それで、僕が弟を看取る事になったのだった。
そんな中で、ふと外に出てきてーー僕が腹に据え兼ねたのは、人間の事などまるでわからないし、興味もないのに、死に傾斜していく人間をお得意のベストセラーに利用する作家だった。僕はそのような作家を憎んだ。そんなドラマ、映画を作る人を憎んだ。彼らに涙する人達を嫌った。
弟はきっと、近親者以外の誰にも知られる事なく死ぬだろう。メディアに取り上げられた人間の死は大々的に、大きな意味あるものとして取り扱われる。だけど、弟の死は全く取り上げられないだろうし、取り上げられる事も望んでいない。
インスタグラムだかツイッターだかブログだかで、僕が「弟の死を看取る」日記をつければ、きっと沢山のアクセスが集まるに違いない。多くの人が泣いたり、励ましたりしてくれるだろう。だが、それは、弟を世界に売る事でもあった。安っぽい涙に、人間の死を託す事でもあった。
まるでリアリティの欠けた、余命何年かの少女が物語に出てきて、その為に、僕達は自分のほんとうの死を忘れる。死は生と同じくらい惨めなものだ。僕はそう思う。…いや、弟を見ていると、そう思わないとやっていけない。
あいつはもうすぐ、死ぬだろう。そう思うと、心も安らぐ。弟も、死を頼りにしているような感じがあった。「俺が死ねば兄貴を解放してやれる」 はっきりそう言った事もあった。そしてそれはーー死は、弟自身を解放する事でもあった。
僕は本屋で何も買わずに外にでた。世の中は相変わらずだった。余命いくばくかの人間は生きている人間が心地よく涙を流すために存在している。僕は弟を絞め殺してやりたいと思うし、同時に、痩せた体を抱きしめて、あいつの変わりに死んだっていいとも思う。でも僕は疲れていたし、僕も弟も共に、生よりも死に近くなっている感じがあった。介護疲れの果てに自殺する老人は決して非人間的な人間じゃない。その疲労は人間的なものだ。死が間近にあるのに、妙なロマンスに浮かれているよりは、まだ真っ当な感性を持っているのかもしれない。
…僕は頭の中でそんな嫌厭を撒き散らしていた。本当はアパートに帰るのが嫌だっただけだと思う。弟と二人のあの空間が耐えられない。なんであいつは死んでくれないのだろう。どうして未来ある僕をいつまでもこうやって拘束するのだろう? そんな疑問が湧き上がってきて、でも、死んでいく人間を看取るのは生きていく人間の努めだと思い直したり。色々考えながら、スーパーで弟にも食べれそうなものを探した。
後は病院に行って、クスリをもらわなければならないが、これはもう治療のためのクスリではない。痛み止めみたいなもので、まあ気休めだ。先にスーパーに行って荷物を重くした事を後悔したが、病院は電車で一駅なのでそう大した距離ではない。幸い、持ってきたリュックに食材を詰めて、駅に向かった。クスリをもらわなくては。
ホームで電車を待っている時も、床にある弟の姿が頭に思い浮かんでいた。家に帰って弟がもし死んでいたら、僕はどんなにほっとするだろう。そして、どんなに悲しいだろう。弟は僕の分身みたいに見えていた。
弟と一緒に虫取りをした事を思い出した。弟と喧嘩した事を思い出した。弟は乱暴な口調で話す人間だったが、優しい所もあった。今も、昔の弟の姿がふと見えて、泣きそうになる事がある。
死が弟の精神を半ば壊していた。壊れた精神から、僕に八つ当たりしたりしてきた。僕は一々、耐えていた。耐える事もなかったのに。
「どうして死ぬのが俺なんだろう」
ある日、弟は言った。
「どうして他人じゃなくて、俺なんだろう。何故なんだろうな、兄さん」
僕に答えられるはずがなかった。そんな質問はしてはいけない。そうも言えなかった。弟の素朴な言葉は僕を責めているようにも感じられた。どうして死ぬのはあんたじゃないんだ? 死に至る人間は皆、そんな言葉を持っているのかもしれない。
物語にくるまれた死。現実とは関係ない死。ベストセラーが量産される為に、メディアやら広告業界のクソッタレが回り回るために、毎年毎年召喚される余命いくばくかの少女。少女の世話を見る少年。そんな全てがクソッタレだった。僕は…もう少しでやってきた電車を蹴っ飛ばすところだ。クソッタレ。クソッタレ。小さな声で呟いている僕は、他人の目からは完全に狂人だったろう。
生きる事は悲劇でも、喜劇でもない。生きる事はもっとこう……ああ、でもその先は言う事ができない。
僕は電車に乗った。このまま、どこまでも電車に乗っていきたかった。弟のいるアパートに帰りたくなかった。不動産会社だって嫌だろう。病死した人間が出たら困るだろう。僕も困るし、皆、困っている。ああ、あの野郎を殺してやりたい! 心中でもいい。もううんざりだ!
自虐的な気持ちを爆発させつつ、大人しくシートに座っていた。外を見る。外は晴れている。太陽は、人の意志とも、人の浮沈とも関係なく晴れていた。僕は太陽を眺めた。死にゆく人間もこれから生きていく人間も等しく照らす太陽をじっと見た。
自虐的な気持ちはそう長くは続かなかった。電車から降りる時には多少、気持ちが和らいでいた。憎しみというのは、それほど長続きはしないらしい。
病院への道のりで、僕は一つ、妙な事を考えた。それは簡単な事で、次のようなものだ。
今日、もしアパートに帰って弟が死んでいたら、僕はとてもほっとするだろう。それと共に、僕はやっぱり泣くだろう。大泣きするだろう。涙を流すだろう。
弟が死んだら、悲しいし、苦しいし、嬉しくもあるだろう。
でも、その時、僕が泣いたら、その涙は、物語を見て涙している薄っぺらい連中の涙とどう区別するのか。僕だって連中の一人じゃないか。僕だって弟を、自分の物語にあてはめて見ているんじゃないか。弟の死はカントの「物自体」のように決して触れられないものじゃないのか。
僕には僕の物語があって、それはたまたまクソなベストセラーとは違う物語であるだけだ。僕もまた自分の物語の中で弟の死を理解する。そのような理解形式を取るに違いない。だとしたら、僕と連中はどう違うだろうか。
僕はそんな事を考えた。考えると、不思議に嫌悪は湧き起こらず、ほっとするような気持ちになった。
僕もまた夢を見ているのだ。自分の物語、自分の嘘の中で、他人の死を見ているんだ。俺だっていい加減な奴じゃないか! 世間のクソな連中と同じくらいのクソ野郎じゃないか!
…そんな事を僕は考えた。でも、その思考はいつまでも続かなかった。僕は病院までの道をとぼとぼ歩いていった。
空を見上げると、夏らしい入道雲が見えた。それを見て僕は、〈あいつも秋まではもたないんだな〉と思った。そう思うと、急に、入道雲が弟の化身のように見えた。そんな気がした。