彼女がヘッドホンを外した日
その都市にはいつからかずっと雨が降っていた。
雨足が弱い日もあれば、強い日もあるが、強弱に関わらず年中雨が降っているのだ。
そこに住む者たちの大体はずっと自分の家の中で暮らしている。
そして遮音性の高いヘッドホンで好きな音楽を聴いて過ごしている。
雨音は彼らにとってもはや公害のようなものでしかなかった。
そんな雨の降る中、赤く大きな傘を差して佇む者がいた。
齢十四、五ぐらいの、肌の色が白い少女だ。
この都市の住人が外へ出るときは、地下で開かれる定期市の日ぐらいのものだが、今日はその日には当たらない。しかし彼女はなぜか雨の中で佇んでいた。
赤色の傘を差した少女は、これまた同じ色合いの赤いヘッドホンをしていた。どうやら赤は彼女のお気に入りの色らしい。
彼女は傘を差しながらも白色のレインコートを着ていた。だが、フードを被っていないが為に腰まで長く伸ばした黒い髪は水滴が落ちるぐらい濡れていた。その髪の肩にかかった部分には赤いメッシュが入っている。
少女はしばらくうつろな目をしてその場で立ち止まっていたが、少し経って歩き出した。
やがて、降っている雨がさらに強さを増す。それは嵐と呼んでも差し支えないものとなった。
彼女は急ぎ足になって近くの廃墟へと駆けこむ。雨除けの塗料が塗られていないので外壁は剥げ落ちているが、かろうじて建物としての体裁を保っているといったようなところだった。誰かを迎えるための扉もない。建物の中は空気が冷たく、不愛想な灰色の壁に囲まれただけの空間だ。
少女は雨宿りをしようと試みたのだろう。
しかし、そこには先客がいた。
男だ。
彼は黒いレインコートを着て、そして壁にもたれるように座り込みながら、ボディが黒いアコースティックギターで音を奏でていた。その横にはギターケースと膨らんだ黒いカバンがあった。
少女は彼をじっと見て、不思議そうな顔をした。そして彼女はヘッドホンを外す。
久しぶりに聞く激しい雨音と共に、既にこの空間を満たしていた音色が彼女の耳に届く。外した赤いヘッドホンからは悲しげなピアノソナタが漏れ出していた。
男が弾いていたのは昔に流行ったフォークソングだった。少女はその演奏に聞き入っている様子だった。
「ねえ、どうしてこんなところでギターを弾いてるの?」彼女は大きな目を細めて言う。
「さあ? どうしてだろう」それに対して男が言った。彼の声は透き通っていて、壁に反響して聞こえると楽器から発せられたもののようであった。
男は目にかかった黒い前髪をかき分けながら言う。「君こそどうしてこんなところに?」
「さあ?」とにやりと笑って彼女は答えた。
「音楽はいいね」男はケースにギターを仕舞い立ち上がりながらそう言う。その身長は少女の頭一つ分高く、彼女は少しだけ驚いた。
「いいけど、もう飽きた」
少女が赤色の唇を尖らせながらぎゅっと、雫の垂れるレインコートの裾を握る。彼女の立っている辺りの床は濡れて黒ずんでいた。
「そうかな?」と男は少女の立っているより奥の入口を見ながら返した。
「音楽は良い。いろんな場所に連れて行ってくれる」
「いろんな場所?」少女は不思議そうに男に問う。
「そう、例えば雨の降っていない外の世界とかね」
彼女は『雨』という単語を聞いて、嫌な顔をした。「雨は嫌いよ」
「外の世界に行ってみたいかい?」男がにっこりという風な笑みを浮かべて聞いた。彼は少女に何歩か歩み寄る。
少女は何も言わず、首を縦に振った。
次の瞬間には、男の黒いレインコートの懐から取り出されたナイフが少女の胸を貫いていた。
彼女の悲痛な、声にならない叫びが建物の中に響き渡る。
しばらくして男がナイフを引き抜くと、少女はゆっくりと床にうつ伏せで倒れ込んだ。
やがて、彼女の体の脇には血の水溜まりが出来てゆく。
白いレインコートの背中の部分は、徐々に赤く染まっていった。
男が倒れた物言わぬ少女の髪を掴んで、軽く彼女の顔を持ち上げる。
その表情は、驚きも混じっていたが、なぜか穏やかさを孕んでいた。
男は手を離すとその顔はドサリという音を立てて地面を打つ。
そして彼は少女の懐を探ってオーディオ機器を取り出す。そして彼女の首からその機器に繋がる赤いヘッドホンを毟り取って、壁の傍にある黒いカバンに入れる。
外は依然として強い雨が降っていた。