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いただきます

作者: 狗山黒

 ボウルに卵を割り入れ、カラザを取り除く。混ぜるときは、白身を切るようにして混ぜるといい。そこに鰹出汁と葛粉の代わりに片栗粉を入れ、よく混ぜる。それができたら、粗みじんにした青ネギとシラスを加え、薄口醤油で味付けをする。

 たっぷりの油をフライパンで熱し、余分な油はふき取る。そこに薄く卵液をひき、弱火で焼いていく。底が焼けたら手前にひっくり返す。油をひき、片栗粉が沈まないように再びかき混ぜた卵液を入れ、焼いてある卵を芯に巻いていく。それを何回も繰り返し、卵液がなくなったら、表面をきれいに焼く。

 卵焼きが完成したら、熱いうちに巻きすで形をととのえる。

 お皿に移し、あらかじめ作っておいた大根おろしを添える。


 お母さんが死んだ。交通事故だったらしい。

 お母さんは料理が好きだった。台所はいつも、お母さんの作る料理の匂いと包丁がまな板を叩く音で溢れていた。

 お母さんは、本当になんでも作ってくれた。肉じゃがも麻婆豆腐もハンバーグも、プリンもケーキも。インスタントは使わず、全て自分の手から作っていた。文化の境を軽々と越えて、色んな料理を食べさせてくれた。

 お母さんは私によく料理を教えてくれた。おいしいカレーの作り方、出汁のとり方、お米を炊くのにちょうどいい水の分量。お菓子も一緒に作った。

 お母さんが私に初めて教えてくれた料理は、卵焼きだった。卵をといて、巻きながら焼くだけの簡単な料理だ。けれど、その簡単な料理こそ腕が問われるのだと、お母さんはよく私に言っていた。簡単な料理こそ、決まった分量で、手間を惜しまず、愛情を込めなさい。お母さんの口癖だった。

 私はお母さんが大好きだったから、とても悲しかった。突然すぎて初めは泣くこともできなかったけど、その後一週間は泣き続けた。心に穴が空いて心臓を抜き取られた感じがした。しばらくは、ご飯が食べられなかった。

 何日かして、気付いた。私には家族がいる、悲しいけれど淋しくはない。

 お父さんもお兄ちゃんも、家事のできない人だった。それでも、お母さんが死んでからは、掃除や洗濯をしてくれた。ただ、二人とも料理だけはまるで駄目だった。

 お母さんがあまりに上手に料理する人だったから、舌が肥えてしまったのだと思う。二人とも自分で作っては、落ち込んでいた。

 それからは、料理を教わっていた私が台所に立つようになった。毎日三食三人分用意するのは、容易いことじゃなかった。でも、私は料理が好きだったし、家族のために料理を作るのはつらくなかった。

 台所は私の城になったのだ。


 父が初めて見知らぬ女の人を連れてきた。私と年の変わらない男の子もいた。

 父は、何度もその二人を連れてきた。私は毎度お茶を出しては引っ込み、兄と二人で様子を窺っていた。

 その男の子はいつも嫌そうな顔で隣に大人しく座っていた。女の人は気付かないのか、いつだって父と楽しそうに話していた。

 五人で出掛ける誘いもあったが、全て兄が断っていた。

 兄は、きっと再婚相手だと言っていた。


 兄の言葉は当たる。父はその人と結婚した。

 どちらもそれなりに年だからと、式は挙げなかった。

 兄は嫌がったが、私は特に賛成も反対もしなかった。父が幸せならそれでいいと思ったし、同時に母を忘れるようなことはしないでほしいと思っていた。

 初めは義母と私が台所に立っていた。しかし、徐々に私は追われるようになる。部活が大変だから、怪我したら危ないから。何かと理由をつけては、私が台所に入れないようにしていた。

 義母は専業主婦だった。しかし、私の母より上手な料理は作れなかった。自慢みたいだが、私も母の血を受け継ぎ、その母に料理を教わったのだから、母ほどではないが、料理は得意だ。義母もそれに気付いていたはずだ、だから私を追い出したのだ。専業主婦の自分より料理が上手な継子の存在を、義母のプライドは許さなかったのだ。

 義母と私の腕の差は歴然としていた。

 彼女はあまり凝った料理を作らなかったし、何より簡単になればなるほど力の差が明確になった。

 決してまずいわけではない。けれど目玉焼きの黄身を中央にすることはできないし、お味噌汁の味はまちまち、出汁はとらずだしの素を使う。誰の目にも、私の方が料理上手だと分かる。

 初めのうちは兄が嫌がった。母の不在を思い知らせるような義母の存在、母を忘れようとしているような父の存在。どちらも気に食わなかったのだ。何より、私達三人の中に割って入ってくるような形だったから嫌なのだ。

 だが、兄の反抗は突然ぱたりと止む。私は、その理由を知っていたけど、誰にも話さなかった。話したくなるような、ことではなかった。

 義理の兄だけが、義母の料理が出る度に僅かに嫌そうな表情を浮かべていた。勿論、私はいつだって不服そうな顔をしていたはずだ。

 義理の兄の行動は、反抗期だからかもしれないし、ただ舌が肥えただけかもしれない。理由は分からないけれど、私にはありがたかった。よく義母を外に連れ出し、私に料理を作らせてくれた。

 義母ははっきりと私を嫌っていたわけじゃない。虐待とかはなく、表面的には分け隔てなく接してもらっていた。でも、小さい嫌味をよく言ってくるし、彼女が私にくれるものはセンスの悪いものばかりだった。私だって馬鹿じゃない、彼女が私を気に入ってないのは分かっていた。私も、彼女が嫌いだった。

 私にとって彼女は役に立たない家政婦のおばさんでしかない。

 私は義母を「母」とは呼ばない。


 兄は実家から大学に通ったが、義理の兄は大学合格が決まると早々に家を出ていった。

 私はほとんど反抗もせず、優等生で過ごした。あとで、私の願いが通りやすくなるように、だ。

 父は私の大学進学を渋ったが、義母は私に賛成してくれた。不本意だが、義母を味方につけ私は父を押し切り大学に進学し、独り暮らしを始めることになった。早く家を出たかった。

 料理人になるつもりはなかった。料理をするのは好きだが、私は知らない人に愛情こめた料理を出せるような人間ではなかった。私の夢は、別のところにあった。

 私はよく友人を家に招待しては、料理を振る舞った。みんな喜んでくれた。小さな幸せだが、私には十分だ。


 父が死んだ。自殺だった。

 悲しかったし、淋しかった。義母は泣いてばかりで、兄も呆然自失としているだけ。一番冷静なのは義理の兄で、彼だけが私を慰めてくれた。

 けれど、母の死んだ時よりショックは少なかった。私は父が死ぬことを予想していたし、理由も知っていた。

 ある意味、私が悪いのかもしれない。でも、再婚してから母を蔑ろにした、父を許せなかった。

 私は遺産相続の放棄をした。

 これは、義母と兄への復讐でもあった。巻き込まれてしまう義理の兄には申し訳ないが、私は彼らを許しはしない。仲良く負の遺産を背負ったらいい。

 彼らは父の秘密を知ることになるだろう。けれど、彼らは周りに助けを求めることはきっとしない。迂闊なことをすれば、自分達の秘密が暴かれてしまうから。

 私がそれを知っているなんて、彼らは露ほども思ってないのだろう。

 これでいいのだ。二人とも不幸になってしまえばいい。借金を背負って首の回らなくなる義母と、寝取られた女をいずれ寝取られる兄。義理の兄に申し訳ないと思っても、彼はあくまで義理【・・】の兄だ。

 幸い、私は優秀な学生だったから、学費の免除をしてもらうことができたし、いくつかの奨学金を得ることができた。事実上、私は家族と縁を切ったのだ。


 私は大学を出て、無事就職することができた。

 半年もしないうちに、私には彼氏ができた。迷子になっているところを助けてもらったのが、きっかけだった。

 何度も会ううちに、彼に対する気持ちは最高潮になる。何を捨ててでも、この人と一緒に居たい、そう思うようになった。

 大学を出て一年後、私と彼は同棲を始めた。

 勿論共働きになるから、家事は分担制で、自然な流れで私が料理をすることになった。

 彼は私の料理を美味しい、と喜んで食べてくれた。私には、何よりそれが嬉しかった。

 気持ちが最高潮ということは、それ以上上昇することはないということ。平行線か、下降するのみ。

 段々と、彼の短所が見えてくるようになった。

 私が嫌がっても煙草を吸う、お箸の持ち方が気に入らない、靴をそろえない。大したことではない、でも挙げるときりがない。

 嫌いになるのとは違う。けれど、慣れてきたからか、最初の緊張は失われ、ぞんざいな扱いになっただけ。

 彼に私の態度はどう映っていたのだろう。彼は暴力を振るうようになった。

 痛いのは嫌だし、一刻も早く逃げ出したかった。なのに、私の体は動かなった。

 彼はひとしきり私を殴ると、うずくまる私を見て抱き締めて泣きながら謝り倒すのだ。いつも、そうだった。

 いくら嫌いなところが見えてきたとはいえ、彼の全てが嫌いだったわけじゃない、まだ好きだった。何より、彼が謝りながら「離れないで」と言うと、どうしても一緒にいなければいけない気がしたのだ。

 こんな関係になっても私は彼に料理を作り続けた。彼が、腹を立てて捨てても。

 ある日から彼が帰らないようになった。私の方が帰りが早いから待つことになるのだけれど、いつになっても帰ってこなかった。

 料理を作り寝ないで待つこともあった。でも、彼は帰ってきても料理に手を付けず、私を無視して寝るだけだった。

 私は料理を泣きながら食べた。


 早く逃げたらいいのに、そんな関係が一年半続いた。

 けれど、転機はやってきた。

 彼は珍しく私より早く帰ってきていた。居間に正座して、待っていた。

 ああ、ただごとじゃないな、きっと別れ話だ、それも何か問題のある理由での別れ話だ。瞬時にそれだけ考えつくほど、私は冷静だった。あんなに好きだったのに、離れたくないと思ってたのに、いざこうなってしまうと、まるで他人事のようだった。

 私が馬鹿だったんだな、と彼の前に座ると、少し間があってから絞り出すように話し始めた。

「実は、浮気していたんだ」

「お前にばれる前に別れようと思ってたけど、でも妊娠させた。中絶は嫌がるし、何より相手の親にばれたから、結婚しなきゃいけなくなった。だから、悪いけど」

「分かった、別れよう」

 突然気持ちが冷めてきて、別れるのもどうなるのも気にならなくなった。もう二度と暴力を受けることはないんだ、と思うと安堵さえした。

 彼は何かに怯えていたのか、私の言葉に肩を撫でおろした。お金を請求されると思っていたのか、すがりつかれると思っていたのか。

 彼の予想していただろうことに反して、あまりに私が抵抗しないのに驚いたのか、彼は焦って色々まくしたてたけど、私の耳には入らなかった。もう彼の言葉に、耳を傾ける必要はないのだ。

 彼は出ていき、私はそのまま、そのマンションに住み続けた。

 風の噂で、彼は無事結婚したと聞いた。暴力も振るわず、真面目な夫として生活してるらしい。

 これを聞いて、初めて悲しくなった。私は、一人の人を失ったのだ。また、失ったのだ。やっと、涙を流した。

 母や父の時ほどじゃない。けれど、今まで傍にあったものが突然消えるのは、いつだってつらい。体の半分を冷水に浸したように、冷たくて、淋しい。

 私も妊娠したら、彼を更生させて一緒にいることができたのかもしれない、そんなありもしない仮定ばかり考えて、後悔し続けた。

 料理することも食べることもできなくなった。


 一回浮気した人間は何度でも浮気する。きっと彼も、また浮気するだろう。でもそれは、私も同じ。

 何人もの男の人と付き合って、何度だって料理した。彼の好みに合わせるうち、レパートリーも増えた。お弁当も作った、頼まれれば朝ごはんだって作りに行った。それでも長くは続かなかった。

 態度や振る舞いにも気を遣った。相手を怒らせないように、最大限気をつけた。それでも別れることになったのは、きっと相性が悪くて、求めるものが違って、運命や宿命なのだと、自分に言い聞かせていた。けれど、友人達は私がダメな人間を引き寄せ、ダメな人間を育てているのだ、と言っていた。

 ああ振り返って、目をそらさずに過去を直視すれば、その通りで、私に人を見る目がないだけで世話焼きなだけだった。実際は、別に好きでも何でもないけど、いると便利だから。それが分かっても、こんなことを続けてしまうのは、私が淋しがりだから。

 最初のうちはそんな風に思っていなかった。ただの、偶然だと思っていた。

 自分よりかなり年上の、亡き父と同じくらいの年の人と別れたときに、ようやく気付いた。

 私が求めていたのは、家族。それも、私を置いていかない家族。別れもしない、秘密も持たない。そんな家族が欲しかった。

 結果的には、付き合っていた人達の中にそれに該当する人はいなかった。それでもきっと私の求める人になってくれると思い続けては、夢破れた。

 料理をするのも、美味しい料理さえあれば帰ってきてくれると、離れないでいてくれると思っていたからだった。私の料理は愛をこめて家族に振る舞うものではなく、家族をひきとめる道具に成り下がってしまったのだ。

 ひたすら、機械的に作っていただけ。そこに楽しみも幸せもない。母と同じようには、作れなくなっていた。

 自分がそういう人間しか寄せ付けないのだ、と付き合うのをやめたらよかったのに、私にはできなかった。脳は理解しても心と体は、家族を求め続けていた。


 次に付き合ったのは、浮気男と有名な人だった。何を思ったのか、彼から私に告白してきた。

 今度こそ、これで最後にしよう、と思った私は付き合った。同棲はしないが、通い妻のように彼の家に行っては家事をして料理をした。

 彼は私と付き合っている間にも、彼は浮気していた。それでも、私のところに帰ってきてくれた。浮気相手が奇襲してきたら守ってくれることもあった。初めての彼氏以来、久しぶりに、かなりまともに、ちゃんと愛してくれる人だった。

 どんなに浮気しても私は彼を好きだったし、彼も私のところに帰ってくるから私のことが好きだったのだろう。そう考えると、離れられなかった。

 私の前に付き合っていた人も、きっと私みたいなことを考えていたのだろう。彼女は、どうしてこの人と別れられたのだろう。

 別れるべきなんだろう、と他人事みたいに考え続けたある日、彼から別れを切り出された。

 彼の家に行ったら、知らない女の人と二人仲良く座っていた。

 彼のためにと作った料理を手に提げたまま、どういうことかと聞いた。

 彼は浮気をしても、相手を自分の家に連れ込むことはなかった。いつもと違うから何かあるのだろう、と察していた。

 別れ話の時、私はいつも冷静で静かで、まるで喚かず、第三者のような対応をしていた。今回も同じで、私は突っ立ったまま、俯瞰するような気持ちで彼の話を聞いた。

 彼は、お金持ちのその人と正式に付き合って結婚したいのだと言った。彼女もそれを望んでいるらしい。

 私は短く「そう」と返事をして、料理を袋ごと、皿ごと捨てた。普段食べ物を捨てない私の行為に、彼はさすがに驚いていた。私が何より料理好きと知っていたから。

 私が何も言わず帰ろうとするので、彼の方が戸惑い、私が扉を開けようとすると、声を掛けてきた。

 私に言う事など、何もなかった。だけど、何も言わないのも気まずかったので、かすれる声で一つだけ聞いた。今までの私なら、絶対聞かないようなことを聞いた。

 彼は、それに肯定してくれた。

 私には、それだけでよかった。初めから嫌われてなどいなかったのだ、それが知れただけでよかった。

 悲しみが襲うのは、大体数日後だった。けれど、今回は違って、彼の家から帰る途中で涙が溢れてきた。恥ずかしかったけれど、帰りの電車の中、不審な目で見られながら、手すりにつかまってぼろぼろ泣いた。人前で泣くなんて、数年ぶりだった。

 彼の言葉が、そのまま信じられるわけはなかった。いつも、そうやって私は独りになる。

 私が便利な人間だからかもしれない。別れなかったのも、くだらない独占欲からかもしれない。そうやって疑心暗鬼してしまう。でも、彼の言葉は本当のことかもしれない。私が最初からちゃんと好きになれば、諦めなければ、相手も私を捨てないでいてくれたからかもしれないのに。

 どうして今頃そんなことに気付いてしまったのだろう。相手が、初めから私を嫌っていたなら付き合うはずがない。どうしてもっと早くに気付かなかったのだろう。もう、最後と決めたのに。なんて馬鹿なんだろう。

 家に着いてから、電気もつけず、服も化粧もそのままに、玄関に座り込んで泣き続けた。暗くて冷たい床の上で、壁によりかかり膝を抱えて声を上げて泣いた。居間の窓から見える、月明かりがぼやけていた。


 私がどこかおかしいのは、分かっていた。自分の家族が苦しんでいるのを知っていて、それを楽しんでいるのだから、私がまともなはずはない。

 今までの素行も、私がおかしいからなのかもしれない。普通の人なら冷静でいられないときに、頭が冷えてしまうのも、私のどこかが壊れているからかもしれない。

 でも、もうどうでもよくなった。何度も繰り返して、何度も泣いて、私に家族はできないのだと理解してしまった。

 変化は明確だった。

 今までなら、私は一月も泣き続けなかった。それなのに、何ヶ月過ぎても、突然思い出しては、涙がこぼれることが多かった。

 思い出すのは、大抵初めて付き合った彼だった。彼が一番まともな人だったからだろう。けれどその後、必ず母の顔が思い浮かび、虚しくなる。

 欲しがっていたものが、手に入らないと気付いてしまったのなら、新しく別のものをねだればいい。でも、私に欲しいものはもうなかった。

 何も求めていない人間は、生きてはいられない。

 やはり機械的に料理だけは続けていた。そこに愛はない。もはや体に染みついていたから、日課になっていただけ。けれど、作っても食べられず捨てるだけだった。たとえ、食べても無味で、吐くことになる。だから泣きながら、謝りながら、捨てた。

 お腹は減る、けれど食欲はない。心が生きることを拒絶していた。目の前に料理があっても、食べたいと思えない。

 食べなければ動くこともままならない。私はとうとう、料理もできなくなってしまった。

 台所には立てる。材料もある。道具を使うこともできる。順序も分量も、全部頭に入ってる。けれど、いざまな板の上に材料をのせると、体が固まる。体が料理することを拒否する。

 頭は、料理をしたい、しないといけないと言っている。でも心が追い付かない。体が置いてかれる。今まで一緒だったのに、バラバラになってしまった。

 動かない体で、包丁を置いて、しゃがみこんでは嗚咽を上げて泣いた。

 体が動かない。でも、原因はそれだけじゃなかった。

 料理は、愛を込めて作るものだ。ならば、今の私は、私を愛しているか。

 答えは、否。

 愛がなければ、機械的に料理することもできない。

 母との思い出が、一番の思い出が断ち切られてしまったようで、余計泣いた。

 仕事にも行けなくなって、毎日床の上で泣くばかりだった。たまに思い出したように、憑りつかれたように買い物に行くだけだった。


 雨が降っている。強い風に吹かれた大粒の滴が、音を立てて窓を叩く。

 私はその音を背に、うずくまっていた。私の雨は、もう枯れていた。

 照明をつけていないから、部屋は暗い。雨雲を部屋の中に引きずりこんだように、薄暗い。

 何もしないでいるうちに夜が来たのか、部屋は一層暗くなった。

 もう寝てしまおうかと横になるとふいに玄関の戸が開けられた。

 鍵を閉めてなかったから、勝手に入られても仕方ないが、それでもノックもチャイムもないから驚いた。

 でもすぐに冷静になった私は、音もなく身を立てた。

 もし強盗や殺人犯なら抵抗する気はない。生きていたいとは、思ってない。

 足音は間違いなくこちらに近づいていた。同時に、水の落ちる音もした。雨に濡れてきたのだろう、何に急かされたのか。

 その人は、立ち止まる。おそらく、居間の入り口。

 雷鳴の前に、稲光が走り部屋に私の影が映り、相手の顔が一瞬見えた。

 知っている顔だったが、私の知っている顔ではなかった。

 以前より頬はこけ肌は土気色、悲壮な雰囲気を漂わせていた。落ちくぼんだ瞳の奥、狂気を孕んだように目玉がぎらついている。

 想像通り雨に濡れたのだろう、伸びた髪が肌に貼りつき、服は重く湿っていた。

 独特の雨の匂いに交じるアルコールの匂い、久しぶりの薄い煙草の匂い。私の知らない間に、彼も変わった。

 特筆すべきは、その片手に握られた包丁。血が出るのではないかというくらい、強く握られている。

 彼は私に気付いてないのだろう。当然だ、彼の変わり様も著しいが、私のも相当だ。彼の知っている私は少し太っていたくらいだが、今の私は見る影もないくらい痩せている。

 私も、彼も一歩も動かない。私を殺す勇気はないのか、今になって臆病風に吹かれているのか、私を睨んだまま彼はそこに立っている。

 私は、逃げることもできず、中途半端に身を起こしたまま硬直している。何を言うべきかは、分からない。

 沈黙を破ったのは、遅れてきた雷鳴。轟く雷鳴に勇気を呼び起こされたのか、彼は口を開いた。

「金の在り処は」

低い声だった。張りつめた、震える冷たい低い声だった。

 私は蚊の鳴くような声で「通帳ならある」とだけ答えた。

 次の台詞も想像できて、彼はそれを裏切らず「寄越せ」と包丁を向けてきた。

 私はよろめきふらつきながら、通帳を手に彼の前に立つ。

 彼が通帳を手にする前に、頭に浮かんだことを聞いてみる。

「私を、殺すの」

悲しくも怖くもないが、久しぶりに話したからか私の声は震えていた。

「かもな」

彼は短い返事を漏らし、通帳を奪い取った。

 ああ死ぬのか、と思うと、分離していた私の三つの部位は一体となった。

「殺す前に、一つだけ頼みを聞いて」

私の言葉に、彼は怪訝そうな顔をした。暗い部屋でも至近距離にいたら分かる。

「警察か」

腹の底から這い出るような声で彼は言う。

 私は首を振って、声を出す。

「料理が、したいの」

 彼は不思議そうに眉をしかめたが、許可をくれた。

 

 ほとんど力のない体に喝を入れ、私は電気をつけ台所に立つ。久々の照明が、眼に沁みて涙が出た。

 椅子にかけてあったエプロンをして、冷蔵庫を開く。作りもしないのに、材料だけはそろえてあるから、大抵のものは作れる。

 私は卵を四つ、青ネギとシラス、大根、片栗粉を取り出し、戸棚から鰹節と昆布、薄口醤油を出した。

 まずは昆布を一リットルの水につけておく。

 大根を洗い、皮を向いて、五センチ幅に輪切り。それを小皿にすりおろして、冷蔵庫で冷やしておく。

 次に青ネギを切って、小皿に移しておく。

 少し時間が経ったら、昆布を浸してある水を中火にかける。沸騰直前に火を止め、昆布を取り出し、再び火にかける。沸騰したら差し水をし、少し温度を下げる。そこに鰹節を入れ、沸騰させる。五分ほど弱火で煮たら、ざるで静かにこす。出し汁はこれで完成。

 ボウルに卵を割ってカラザをとり、白身を切るように混ぜる。そこに出し汁百二十シーシーと片栗粉小さじ一を加え、再び混ぜる。最後に適量の青ネギとシラスを加え、薄口醤油で味付けをする。

 フライパンにたっぷりの油をひき、熱してから余分な油はキッチンペーパーでふき取る。薄く卵液をひき、弱火で焼いて、手前に巻いていく。卵液は片栗粉が沈まないように、フライパンに入れる前に逐一かき混ぜる。先程のキッチンペーパーで油をひき、再び薄く卵液をひいて、焼いてある卵を芯に巻いていく。その工程を繰り返し、卵液がなくなったら、表面をきれいに焼く。

 フライパンから取り出し、熱いうちに巻きすで形をととのえる。

 まな板に移し、食べやすい大きさに切ってからお皿にのせる。冷蔵庫から出した、大根おろしを添えて出来上がり。


 ずっと料理をしていなかったからブランクがあるし、体が思ったように動かないから、きっと以前ほど上手にはできてない。

 それでも、彼に対して、今出せるだけの愛を込めて、この卵焼きを作った。母がくれた、卵焼きを。

 居間に座っていた彼を呼び出し、お箸をつけて卵焼きを出す。

 私は彼を見守らず、道具を洗う。

 私が洗い始めてから少し沈黙があって、お箸とお皿がぶつかる音がした。

 彼の咀嚼音がして、食器の音がして。私が洗い終わっても、彼は食べていた。

 振り向くと、彼は口を動かしながら、俯いていた。肩が震えている。

 やがてお皿は空になり、彼はお箸を置いた。それでも、彼は顔を上げない。

 シンクによりかかり、その様子を見ているうちに、私の頬にも涙が伝った。

 料理を作れたことに対する感動かもしれない、相手が完食してくれたことへの歓喜かもしれない。こんな私でも、まだ大丈夫なんだ、という説明のできない安堵かもしれない。ただとにかく、嬉しかった。また、料理したいと思えた。

 静かだった台所に、私の嗚咽が響くようになる。

 いい年した大人が、机を挟んで二人、声を出して泣いている。

 間抜けな光景だ。でも、さっきまでは鋭かった照明が暖かかった。

 彼が、私の名を呼んだ気がした。


 ようやっと二人が泣き止んだ頃には、雨が上がり、日が昇っていた。濡れていた彼も、乾いていた。

 泣き止んですぐ、二人で顔を見合わせて、小さく笑った。

 彼は机に通帳と包丁を置いて、「悪かった」と言って出ていった。

 よく考えたら、彼が初めて食べた私の料理は、卵焼きだった。私が料理できるときに作ったお弁当にはだいたい入っていたものだから、味を覚えていたのだろう。

 私は、お皿とお箸を片付けてから、久しぶりにシャワーを浴びパジャマを着て、布団で寝た。

 去り際に、「また来る」と彼が言っていた。


 彼が来たのは、一週間後のことだった。

 さすがにその期間で太りはしないが、それでもこの前よりはしゃんとしていた。

 ソファに座らせ私がお茶を出すとすぐ、思っていた通りに、彼は謝ってきた。母親と義理の兄では借金を返しきれず自分が背負うことになったんだが、母親が不倫をしたため払うことになった慰謝料も肩代わりすることになり、借金を新たにしたが返せず自棄になってした、と話してくれた。

 世間的に見れば、彼のしたことは強盗未遂だ。でも、彼を追い詰めたのは、間接的には私だ。

 彼の話が終わると、食い気味に私は謝った。彼は意外そうな顔をしたが、黙って聞いてくれた。

「私が、全部話していればよかったの、全部。私はお父さんが借金してるのを知っていたし、知ってて大学に行きたがったの。相続放棄したのも、知ってたから。本当は、実の娘である私が払うべきなのに。でも、私、お父さんが許せなかった。お母さんのことを、馬鹿にするようになったお父さんのことを許せなかった。それに、おばさんが、兄さんに手を出したのも、兄さんがその手をとったのも、全部許せなかった。不幸になればいいと、思ってた。申し訳ないとは思ってたけど、本当の家族じゃないなら、巻き込まれたっていいと思ってたの。ごめんなさい。謝ってすむことじゃないけど、ごめんなさい」

 最後の方は、涙にまみれてぐしゃぐしゃだったけど、それでも彼は聞いてくれた。

 沈黙をうつように私の嗚咽が響いて、しばらくして彼も口を開いた。

「俺だって、知ってた。知ってて全部やって、あんなことをしたのは俺だ。お前が謝ることじゃない、悪いのは俺だ」

「でも、だったら、私に」

私の言葉に、彼は首を振った。

「俺は、全部知ってたんだ。全てを知らなかったのは、そっちだ。俺は、お前が知ってるのも、知ってて逃げようとしてるのも分かってて、分かっているから逃がしたんだ」

彼の言葉に驚いて、息を呑む。何を言われているのか、瞬時に理解できなくて、返答が遅れた。

「なんで、そんなこと」

と私が聞くと、再び彼は黙った。

 ややあって、恥ずかしそうに語り始めた。

「母さんは、あまり料理をしなかった。昔は、あれが普通だと思ってたけど。でも、母さんが再婚して、あの卵焼きを初めて食べたとき、あんまり旨くて感動した。初めはそれを普通だと思ってるお前らが妬ましかったけど、段々そんなのどうでもよくなって。俺が母さん連れ出してたのも、お前の料理の方が好きだったから」

「普通なら、お袋の味がいいってんだろうけど、俺、あの頃から、母さんあんま好きじゃなかったから。家事はおざなりだし、なんていうか、母親であることより女であることを優先するんだよ」

 彼の話の意図が全く見えない。その先の見えない話に驚いて、私の涙は目玉の奥に吸い込まれていった。理解できない話など、私の涙は受け付けていない。理解できなければ返答はできない、黙って聞くしかない。

「でも俺の母さんなのに変わりはないから、それを奪ったお兄さんは、好きになれなかった。いや、今でも好きじゃない。悪いのは、先に手出した母さんだけど」

「お父さんも、そこまで好きじゃなかった。どうしても、家族に割って入ってきた人みたいで。だけど、お前が大学に行きたいって言った時、渋りながら結局行かせたのは、多分お父さんもお前が逃げ出したいの知ってたからじゃないかって。お父さんも、母さんとお兄さんのこと知ってたんじゃないかな。お父さんが、お前のこと守ろうとしてるのが分かって、それでかなり家族だと思えるようになった」

彼はそこまで話して、お茶を飲んでから背もたれに背を預けた。

 もう話は終わりかと思って口を開こうとした時、彼は呻くような声を出して口を手で覆った。そのまま顔を覆ったり宙を仰いだり、どうにも落ち着きがない。話してはいけないのかと思い、私は口を閉じて、彼の様子を見守る。

 彼は、もう一度呻ってから、小声で「よし」と漏らした。その顔は、トマトのように真っ赤だ。

「初めは、お前のことだって好きじゃなかった。どう接したらいいのか分からないってのもあったけど、やっぱり自分の家族の邪魔しにきてるやつだから。でもさ、お前の料理食べた時からは、そうでもなかった。でも、やっぱ家族じゃないんだ」

 その言葉に、別にショックは受けなかったが、違う衝撃はあった。ああ、やはり私に家族なんてできないんだ。そういう結論がでてしまうと、彼の今までの話は「お前も含め家族は嫌いだ」という話だったと分かる。そうなれば、私の涙の出番だ。やはりみんな私のことなど嫌いになるのだ。もはや私の態度どうこうではなく、これは生まれ持ったものなのだ。自然と眉尻も下がり、私の涙は次々と落ちていく。

 音も立てず滴を落とすだけの私に、彼は驚き慌てふためく。顔は赤いまま、両手を顔の前でぶんぶん左右に振って、おそらく否定を表している。

 それでも私にはなんなのか分からず、首を傾げる。

「ち、ちっが、違う、違う、まだ話終わってない、続きがあるから、ちゃんと聞け。おら、涙拭け。な、な」

 彼が身を乗り出してきたので、思わずのけぞるが簡単に捕まった。何をする気なのかと驚いて声も出せないでいると、伸ばされた彼の袖が向かってくる。無意識に目を瞑ると、どうやら涙を拭かれた。まるで、子ども扱いだ。

 少し私が落ち着いたのを見て、安堵したように彼はソファに身を預ける。私は、心臓が止まり死んだのではないかと思うほど、体を硬直させている。嫌だったとか、不快感を感じることもできない。涙だけは、落ち続けている。

「俺家族のことそんな好きじゃないけど、借金背負ったのは、離れる前にけじめつけるのと、お前を守るためだったんだよ。折角逃げたのに、母さんやお兄さんがそっち行ったら意味ないから。俺、母さんがお前のことこっそりいじめてたの知ってたし。迷惑かもしれないし、もう会えないと思ってたけど」

そこまで話すと、彼はまた顔を覆い始めて呻りだした。手の届いていない耳元が、赤い。

 あんまりに様子が変なので、下から顔を覗くように

「大丈夫」

と聞いてみる。

 すると、彼は指の間から瞳を覗かせた。正直、この人が何をしたいのか分からない。奇怪な行動に、涙も呆れたようだ。

 彼が指を閉じたり開いたりしてるのを、しばし見つめていると

「ああ、もう」

と大きな声で語気を荒らげて彼は顔の覆いを外した。

 私が何か気に障るようなことをしたのだろうか、と眉尻を下げた瞬間、彼の両手が目に捉えられないほどの速度で伸びてきて、私の頬に当てられた。

 またしても私が固まっていると、真っ赤な彼の顔と何かを決心したような目が近づいてきて、私は急いで目を閉じた。

 そして、頭突きされた。

 彼は私の頬から手を放さず顔を離して、「いってえ」と濁った声を上げる。私は頭を揺らす。ああ、世界が点滅している。

 目の前を星が飛ぶ中、どうやら彼はもう一度向かってきたらしい。今度は避けようと顔を動かそうとしたところ、彼の手に力が込められて顔が上に引かれる。

 今度は真っ先に目を閉じると、こちらも固く閉じられた唇に、柔らかくて暖かな感触。

 咄嗟に目を開くと、至近距離に目を閉じた熟れた彼の顔。

 体が硬直して何もできないまま、恥ずかしくてもう一度目を閉じ、なりゆきに任せていると鳥に啄まれるように、何度も口付けされた。

 私だってキスくらい何度だってしたことあるし、彼だって何度もしてるだろう。それなのに、なぜだか、学生同士がするような随分初々しいキス。呼吸の仕方も忘れて、溺れていく魚のような感覚。

 少し上を向かされていた首に痛みが走りだすと、彼はキスを止め、顔を離した。顔は変わらず真っ赤だが、部屋の照明が少し濡れた唇を照らし、艶やかだ。

 頭は回りだしたが、私の体は固まったまま。そんな私から彼は手を離し、深めに呼吸をして、口を開いた。彼の眼が、私の瞳とぶつかる。

「俺は、お前が好きだ」

 彼の口から零れた言葉が、流れ星のように右耳から左耳を駆け抜けて、一瞬なんかじゃ理解できなかった。私の口は半開きになり、目は見開かれている。きっと、ここ最近で一番間抜けな顔をしている。カレーが出来上がるくらいの時間が私の周囲にのみ流れて、ようやく私の口から飛び出てきたのは、小さく漏れる「は」の音だった。

「やっぱ、嫌だよな」

 幾分間があってから、そう言った彼は気と肩を落とし、明らかに意気消沈し始めた。さきほどまでの私のように眉尻を落とし、悲壮感を漂わせている。

「え、あ、ごめんなさい。そうじゃなくて」

私の焦る言葉に、彼は俯いていた顔をあげ、私を見た。まさに捨てられた子犬のような顔をしている。

 まるで私が悪いかのようだが、今までの行動で私が悪いところなどあっただろうか。告白する前に、キスをしてきたのは、あちらさんだ。

 それでも、見るに堪えなくて

「ちょっと、驚いただけだから」

と私が言うと、垂れていた耳が立ち上がる如く、垂れていたしっぽを振り回す如く、彼の顔に歓喜が広がる。別に「はい付き合いましょう」と言ったわけではないのだが。

 私は別に、そこまで彼のことが好きなわけじゃない。けれど、彼の喜ぶ顔を見て、自分の頬が紅潮していくのが分かる。

 私のその様子を見て彼は再び口を開いた。まだ、唇が濡れている。その唇から、なんて言葉が飛び出すのだろう。

「家族だと思えないっていうのは、思おうとする前に、妹じゃなくて女になったから、ずっと家族だと思えなかったってこと。だから、名前も呼べなかった」

 ああ、確かによく考えたら、彼に名前を呼ばれた記憶はない。いつも、お前と呼ばれていた気がする。

「料理がきっかけだから、胃袋掴まれてるだけかもしれない。でも正直顔も好みだったし、楽しそうに料理してる姿とか、一生懸命勉強してる姿とか、俺達のこと警戒してる姿とか、意外と鈍くさいとことか、母さんに反抗してる時の不服そうな顔とか、実は肉付きいいとことか、思ったよりよく落ち込むとことか、涙もろいとことか、お前が好きなんだ。昔と全然違ってようと、俺が好きなのは、お前だ」

「お前が出ていったときに、もう会えないと思ったから諦めて何度も別の人と付き合ったけど、やっぱり忘れられなかった。偶然ここ来て、お前だって気付いて、失恋したのに、今でも好きなんだよ」

 途中から顔を俯けたのに、首まで赤いのがはっきり分かる。彼がこんな人だなんて、同じ家に住んでたのに、知らなかった。私まで、顔が赤くなっていく。

 顔を上げた彼はまた口を隠して、私と目を合わせた。

「偶然でも、なんででも、ここに来れてよかった」

 別に、彼のことを家族だと思ってはいない。けれど、そういう意味で好きかと言われても、頷けない。だというのに、私の顔はみるみる紅潮していく。ああ、顔が熱い。なぜだか、目頭も熱い。

 少し浮いていた腰に、力が入らず、私は床にへたりこむ。

 私を見ていた彼は何を思ったのか、机を乗り越え私の目の前に座ると、私を抱き締めた。

「まだ、返事してない、よ」

彼の腕の中で、囁くような声を出す。

 彼の腕の力は強くなる。痛いけど潰れそうだけど、嫌じゃない。不思議と、心地好い。

「そんなの、見てれば分かる」

「でも、私、まだ、そういう風には見れないよ」

「それなら、待つ、お前が愛してくれるまで、待つ。まだ、ってことは、希望はあるんだろ」

耳元に息を吹きかけるみたいに、彼は私に返事をする。それがくすぐったくて、でも気持ち良くて、なんとなく彼の肩に頬をすり寄せた。

「もし、ダメだったら」

私がそう言うと、彼の手が私の服を掴んだ。

「ダメだったら、お前が幸せになるのを、見てるだけだ」

頭上から、優しい声が降ってくる。

 聞いたことのない言葉に、視界がぼやける。

 こんなことを言ってくれる人は、私の周囲にはいなかった。あるいは、私が気付いてなかった。

 私が足掻いてでも手に入れたかった、水中でもがくように欲しがったものに、ようやくたどり着いた。私は、ゴールを見失っていたから、そこにたどり着けなかっただけなのだ。

 この人とだって、いつかは別れる時がくる。この人の全てを知ることなんてできないのかもしれない。私が望んでいた家族には、きっとなれない。

 もしかしたら、嫌われるかもしれない。私の方が嫌いになるかもしれない。

 でも、今、私を愛してくれるのも待っていてくれるのも、この人だ。今、私を包んでいるのも、この人だ。手をひいてくれたのも、この人だ。私が望んでいるものは、この人が持っている。

 肩口が濡れるのに気付いたのか、彼の腕は一層私を締め付けた。

 私は彼の腰におそるおそる手を回してみた。

「だったら、あとほんの少し、待っていて」


 私は料理をするのが何より好きだ。

 初めは一人分も作れなくて、それが三人分になって。邪魔される中五人分作ったり作れなかったり。今度は一人分で、それが二人分になって、減ったり増えたりを繰り返して、とうとう作れなくもなった。でも、今は二人分。

 朝ごはんの献立はいつも決まっていて、ご飯とお味噌汁、焼き鮭と卵焼き。彼は必ずこれを食べていく。

 毎日同じ味は飽きるから、たまに具を変えてみたり甘くしたり。だけど、彼が一番好きなのは青ネギとシラスの入っただし巻き。

 私の何がそんなに好きなのか、彼は恥ずかしがってあれ以来絶対に教えてくれないが、彼は無条件に膨大な、暖かくて優しい愛を注いでくれる。

 私の器はそんなに大きくないから、彼の愛情は溢れて流れていってしまう。だから、私は流れる前に、その愛情を料理にこめて彼に返す。

 今日も私は料理する。

 こんにちはこんばんは鰹出汁に昆布を入れない狗山です。面倒なだけです。卵焼きとだし巻きをごっちゃにして書いてます。どっちも焼いた卵だからいいんだよ。

 マーサの幸せのレシピというドイツ映画がありまして、それを見ていると料理したくなります。そういう話でした。ちなみにハリウッドのリメイク版なら近くのレンタル屋にあります。アメリカだからドイツ語はダメなのかクーゲルシュライバー

 義理のお兄さんもとい旦那さんは、もっとこう、子供の頃野山を駆け回り悪戯ばっかしてよく叱られていた、女の子の扱いを知らず興味もなく、女の子を宇宙人だと思ってるような男子が少し俺様や亭主関白寄りに成長した感じです、ただし主人公ちゃんにベタ惚れ。とにかく、もっとかっこいいイケメンなちょっと怖いお兄さんです多分。こうなったのは、あれだ、初恋の人を目の前にして、しかも告白直前、且つその子が出るとこ出して引っ込むとこ引っ込めた(再会時は全部引っ込んでましたが)美人になっていたから、ドキドキで壊れそうなだけです。本当は今にも食い荒らしたいとか思ってます。「お前の手料理よりお前が食いたい」とか言います、変態です。好きなところを語ってる部分、こいつ何言ってんだと思うでしょうが、私も書きながら何言ってんだこいつと思いましたまる

 主人公ちゃんは自分を冷静だと評しますが、実際はキャパシティーを越えたのでショートしてるだけです。パァァァァァンッ



おまけ

「ねえ、肉付きがいいってどういうこと」

「あ? 俺そんなこと言ったか? うーむ……あ!」

「思い出した? ねえ、どういうこと。デブってこと?」

「い、や、そんなことないけど」

「なら、どういう意味なの」

「それはちょっと、憚られるっつーか」

「はーあ、私そんなに太ってるのかー」

「え、あ、ごめん! そんな落ち込むなよ! 全然太ってないから! 俺それぐらいが好きだから!」

「やっぱ、太ってるってことなの? ごめんって」

「だから違うって。あー、うー、んー」

「はっきり言ってよ」

「うわああああ、腕組むなああああ!」

「ちゃんと言わないと明日のお夕飯は粘り物ばっかにするからね」

 ※義理のお兄さんは粘る食べ物が大嫌いです。

「えええ、ごめんなさい! でもそれはひどい! ちゃんと言うから、考え直して」

「で? 意味は?」

「うー、抱きやすいっつーか、触り心地いいっつーか、出るとこ出てるっつーか」

「?」

「うわあああ、もう、いい! 知るか! いただきまあああすっ!」

「え、ちょ! きゃああああああああああああ!」

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