第九話 『成長の兆し』
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先生が持つ紙の束をじっと見つめながら自分の名が呼ばれるのを待つ。学年はじめの小テストで、成績になどほとんど反映されないにもかかわらず俺の心臓は激しく脈打っていた。中学校や高校受験の発表を待っている人たちもこんな感じなのだろうか。
「七柄くん」
名前を呼ばれて反射的に背筋が伸びる。先生が差し出したテスト用紙を顔を伏せたまま受け取った。席に戻って恐る恐る裏返しにした用紙をめくり、点を確認する。
「や――った!」
思わず声を上げてしまい、周囲の視線を集めてしまった。慌てて口元を抑えて顔を伏せる。
もう一度見直すとテスト用紙には間違いなく赤ペンで八一点と書かれている。社会の小テストは八六点だったので、これで国語も師匠にいわれた条件をクリアしたことになる。ほっと息をついてクリアファイルにテスト用紙を丁寧に挟んだ。
終業のチャイムが鳴るのと同時に教室を飛び出し、下駄箱に急ぐ。とはいえ行動には気をつけろといわれたこともあり、出来るだけ他の生徒と足並みを揃えて歩くよう気をつけた。
「七柄くーん、待ってぇ」
靴をはきかえ、正門を出たところで後ろから声をかけられた。振り向くと亜矢が走ってくる。どうやら気づかない間に足を速めてしまっていたらしい。
「ハァ、ハァ――。テスト、うまくいったみたいだね。おめでとう」
「ああ――」
亜矢が目の前で立ち止まり、肩で息をつく。答える前に周囲に視線を飛ばして、同じクラスの人間がいないことを確認してから頷いてみせた。
「ありがとな――美作に教えてもらったおかげだ」
今回のテストは師匠からいわれた三日後に行われたものだったが、さすがに日がなさすぎた。とはいえ今回のテストで失敗してしまうと次の段階に進めるのがいつになるかわからない。悩んだ末に出した結論は両科目が得意な亜矢に教えてもらうことだった。
算数が得意な自分とは逆に、亜矢は国語や社会が得意だった。だから以前はよく一緒に勉強をしていた頃もある。とはいえそれも一年以上前の話で、いくら方法がないとはいえ今更頼むのはさすがに気が引けた。
だがいざ頼んでみると亜矢は嫌な顔一つせず、今回のテストで出そうなポイントや、勉強法を教えてくれた。だから今回のテストが上手くいったのは間違いなく亜矢のおかげだった。
「そんなことないよ、七柄くん頭いいんだもん。――だからもし良かったら、今度算数の勉強手伝ってね」
「ああ、わかったよ」
それで少しは借りを返せるかもしれない。力強く頷いてみせると、亜矢はうれしそうに笑った。
しばらく亜矢と並んで歩く。そういえばこうして二人で帰るのはいつ以来だろうか。久しぶりなせいもあり、なんだか話しかけづらい。
「ねぇ。七柄くんなんだか背が伸びたね」
「マジか!?」
「うん。ちょっと前まで私の方が高かったのに、今はほとんど変わらないよ」
いわれてみると背丈が追いついた気がする。身長の低さはコンプレックスだったので少し興奮してしまった。
「でもまだ私の方が高いけどね――ふふっ」
「ちぇっ――すぐに追い越すよ」
口を尖らせて亜矢から顔を背ける。そこでまっすぐ家に向かう道と、河川敷に続く道が分かれているのに気づいた。
「あ、七柄くんどこ行くの?」
「俺ちょっと用事あるからこっちに行くよ。それじゃあな」
家への道を行こうとする亜矢に手を振り、川へ向かって走った。
とはいえ今日師匠がいるかどうかはわからない。またどこかの建物にでも入り込んで寝てるかもしれないな――そんなことを考えながらいつもの橋の下へと降りると、タバコの煙がプカプカと浮かんでいるのが見えて少しだけホッとした。
「師匠! いわれた通りテストで八十点以上取ったぞ」
俺が呼びかけると、仰向けで寝ていた師匠がのそりと上体を起こしてこちらを振り向いた。いかにもめんどくさそうに眉を八の字に曲げ、足下の空き缶にタバコをねじ込んだ。
「あぁ、お前か。やれやれ――と」
師匠は立ち上がって斜面をぽんと飛び降りた。そのまま足音も軽く地面に降り立つ。
「どれ、見せてみい」
ランドセルを下ろし、中からテスト用紙の入ったファイルを取り出して師匠に差し出す。師匠はそれを受け取り、二枚のテスト用紙を交互に見比べて小さく何度か頷くような仕草を見せた。
「ふぅん。――お前、文章の意図を読みとったり、細かいことを覚えたりするのが苦手じゃろ?」
「え――?」
ぎくりとした。まさにその通りであったから。
「間違えた問題や、答えの書き方にそれが出ておる。大方、誰か勉強のできるものに教えてもらって一夜漬けでもしたんじゃろ」
そこまでバレると思わなかった。初めて会った時も思ったが、まるで心を読まれているようだ。あまりに鋭すぎる。
「で、でもちゃんといわれた以上の点は取ったぞ! ズルだってしてないし、それならどうやって点を取ったかなんてどうでもいいじゃあないか」
「愚か者。お前くらいの頃から過程をないがしろにしてどうする。たしかに結果は他人にとって大切じゃが、それに至るまでの道程はそれ以上に意味がある。誰でもない、お前自身にとってな」
「そんなこといわれたって点数を指定してきたのは師匠だろ! 今更過程がどうとかいってくるのはズルいぞ」
師匠はため息をつきながら用紙をファイルに戻した。
「――別にダメだとはいっておらん。今後もテストはこの調子で頑張れ。もちろん他の科目もな。ちゃんと抜き打ちで検査するから怠けるんじゃあないぞ」
「え!? 一回だけじゃあないのか?」
「当たり前じゃろうが。継続は力となる――逆にいえば継続できん奴に力をつけることなど出来るか」
師匠がファイルを返してくる。釈然としない表情のまま見上げると、師匠は小さく口髭を揺らした。
「――ま、少しは頑張ったようだな。よくやった」
不意にほめられたせいか胸の奥が少しだけ熱くなる。師匠は土手まで下がり、斜面にどかりと腰を下ろした。
「それでは次じゃ。――お前、母の墓には参ったか?」
いきなり母の話を振られたので面食らう。答えられずにいると、師匠はやれやれといったように頭を振った。
「その様子ではまだじゃな。お前はいまだに母の死に完全に向かい合ってはおらんようだ――違うか?」
「――それがなんだよ。そんなの関係ないだろ」
絞り出すように声を出す。師匠のいうように、まだ一度として母の墓には行ったことがない。現実を目の当たりにするのが怖かったから。
「――お前は子供じゃ、受け入れたくない気持ちはわかる。だが今のお前には必要なこと。戦う理由がそれであるなら尚のことな」
師匠はそういってサングラスを中指で押し上げる。滝のように流れる銀髪が風に揺れ、レンズが川に映った日光を反射してかすかに光った。
「母の墓に向かい、今一度自分の覚悟を確かめろ。なによりお前の無事な顔を見せてやれ――きっと寂しがっておる。それが二つ目の課題じゃ」
師匠はそういって立ち上がり、斜面を登り始めた。
「ちょっと待ってよ! まさかそれが次の修行か!? いわれた通り母さんのお墓にはちゃんと行く。でも戦い方もちゃんと教えてくれよ」
「まだ早い」
「でも、この前の奴みたいなのにまた会ったらどうすればいいんだ!? 逃げられるとも限らないし――」
そもそも自分が逃げようとするかもわからない、という言葉をかろうじて飲み込む。そんなことをいえば見捨てられるかもしれないという恐れがあった。
師匠はしばらく背を向けたままでいたが、やがて髪をかきむしりながら振り返った。
「――うーむ、仕方ないのう」
そういって再び斜面を降り、軽く右肩を回した。
「ならば一つだけ――突きの打ち方だけ教えてやる」
「つき? パンチのことか?」
「そうじゃ。これは基本中の基本ではあるが、あらゆる体術の基となるといって過言ではない最重要技術。そこで見ておけ」
師匠は俺から離れた位置で軽く両足を開き、左半身が前になるように右足を後ろに下げ、膝を曲げて少しだけ腰を落とす。左手を軽く開いて前方に向け、右腕は肘を体に密着させたまま垂直に曲げて拳を握る。
「拳の作り方は小指から人差し指にかけて順に指を握り込め。最後に束ねた指を親指で押さえ込む」
次の瞬間、師匠の左腕が手前に引かれ、空気を切る音と共に右腕がまっすぐに突き出される。全体の動きはけして速くはないが、一切の無駄がないその動作は美しかった。格闘技など全く知らない自分でも洗練されていると思えるほどだ。
「わぁ――」
思わず感嘆の声が漏れる。師匠は構えを戻し、首だけをこちらに向けた。
「わかったか?」
「も、もう一回! 今度は横から見るから!」
慌てて師匠の横に回り込む。俺が場所を変えたのを見計らってから、師匠は再び同じ動作を繰り返した。先ほどの動きを映像で再生したかのように何一つ変わらず、乱れもない。
「わかったか?」
師匠が同じ言葉で尋ねてくる。首を縦に振ってみせると、師匠は構えを解いてコートの襟を正した。
「突くときは手首を腕と一直線にしろ。最初は気持ち手の甲が上方向へ反るようにすれば失敗しても圧拳――手のひらで相手を打つ技になるから手首を痛めづらい。拳は最初手の甲を下に向け、腕を伸ばしきるまでの間に百八十度回転させる。相手を打つ際は中指が当たるように心がけ――」
「ま、待って! そんないっぺんにいわれても覚えられないよ。――っていうか、パンチってそんなに難しい技だったのか?」
「基本にして最も重要だといっただろう。――ほれ、ペンと紙はなんのためにある?」
師匠が下ろしてあったランドセルを指さしていった。慌てて中から筆箱とノートを開き、今いわれた事を書きつづる。
「もちろんこれはただの型にすぎん。実戦でこの動きをバカ正直に出来るはずもないが、まずこれが出来なければ話にならん」
「わかった――わかりました」
「敬語にするかせんのかはっきりせんか。――まぁいい」
師匠は呆れたようにいった。そして思い出したようにぽんと手を打つ。
「そうそう、今の動作を反復するくらいはかまわんが、くれぐれも自分でトレーニングなどするなよ。腕立てとか腹筋とか、筋力トレーニングのたぐいも一切禁止しておくからな」
「どうして?」
俺が首を傾げると、師匠はコートのポケットから黒い缶コーヒーを取り出した。
「肉体とはすなわち器。そして器にはそれぞれ許容量というものがある。それ以上は当然入らん」
「うつわ――?」
師匠は手に持った缶を軽く振って見せた。中でチャポチャポと液体が波打つ音がする。
「しかるに、お前はその小さな器に入りきらんほどの力をすでに得てしまっておる。そこへさらに詰めようとするは、いうなればこの小さな缶で川の水をすべて汲み取ろうとするようなもの。けしてものにはならん」
師匠は流れる川を指さしていったが、今一つ言葉の意味がつかめない。俺が曖昧な表情を浮かべているのを察したのか、師匠は咳払いをして缶のふたを開けた。
「――要は無理してもいいことはないという事じゃ。それに成長期のお前が筋トレなんぞしたら背が伸びんぞ。大人になってもチビのままでいたいか?」
わかりやすいデメリットを挙げられてぞっとした。首を横に振ると師匠は一度大きく頷き、缶コーヒーに口を付けた。
「――それじゃあ今日はもう終わりじゃ。とっとと帰れ」
師匠は背を向けると今度は足早に斜面を登りきり、いつもと同じ場所に同じ姿勢で寝転がった。
俺はランドセルを担ぎ、師匠を見上げる。タバコをふかし始めた師匠に向かって深く頭を下げた。
「ありがとうございました!」
少し照れくさかったが大きな声でいった。そのまま頭を上げると同時に振り返って土手を駆け上がる。なんだか凄いことを教えてもらったような、妙な高揚感があった。
ただ一つ師匠からいわれた課題――母の墓参りだけが心に重くのしかかっていた。
*
その部屋は重く粘ついた空気と暗闇で満ちていた。規則的に脈を打つ音がこだまし、まるで生物の胎内を思わせる闇の中で二つの赤い光が灯る。それは爛と輝く一対の目だった。
「痛いの――?」
哀れみとも蔑みとも取れる声が響くと同時に影が蠢き、赤い光がもう二つ灯った。どうやら声を発した影に覆いかぶさっていたらしいもう一つの影が揺れ、獣のようにおめきをあげる。
「我慢して。あなたは今までずっと、痛みを与えるだけだったんだから」
冷たい響きを含んだその声に、上になった影は体を竦める。
「心配しなくても大丈夫。あなたのその痛みも、怒りも全部晴らさせてあげる。――だけど今は駄目。もう少ししたらあなたのしたいようにさせてあげる。以前のようにね」
下の影の語調が慈母の如く変わる。それを聞いたもう一つの影は歓喜したように総身を震わせ、再び下の影に覆いかぶさった。
暗い天井に向けられていた赤い瞳が部屋の隅へと向けられる。そこに打ち捨てられていた塊が視線に応えるように不気味に蠢いた。
「まだわからないことだらけだもの。もう少しだけ、時間がいるの――」