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第八話 『師の教え』



 「そろそろ落ち着いたか?」


 顔を上げると目の前に缶コーヒーが差し出されていた。声をあげて泣いたのが効いたか、体の震えはもう止まっていた。


 手を伸ばして缶を受け取り、改めて男を見上げる。背が高いことは予想していたがここまでとは思わなかった。二メートルはないにせよ、百九十センチは間違いなくあるだろう。百四十がせいぜいの自分からして見るとまるで巨人のようだ。


「橋の下におった小僧じゃな? ――ふた月も経たんというのにどこか変わったのう」


 男は缶コーヒーのタブを開け、隣の壁にもたれかかった。


「おじさん、どうしてあんなとこにいたんだ?」

「あそこらへんは夜に人気がなくなるから寝床にちょうどいいんじゃ。屋上で寝とったら下の階から物音が聞こえてな。見に降りたらお前が妙な化け物と取っ組み合いしとった」


 化け物――それを聞いて先ほどの恐怖が再び蘇ってくる。今思えばなぜ自分はあんな場所に一人でいられたのだろう。あまりにも現実感のない状況を見て、どこかおかしくなっていたのだろうか。


「良かったら話してみ。お前明らかに以前と違っとる。一体何があったんじゃ」


 話していいものかどうか少し悩んだ。だが誰かに話したい気持ちがあったことと、男の素性のしれなさがかえって話しやすく感じた。


 俺はそれまで胸につかえていた想いを吐き出すかのようにこれまでのいきさつを男に話した。話し終わるまでの間、男は一言も喋らずに話を聴いてくれた。抑えようとしても気持ちが昂ぶり、自然と声が大きくなった。


 一通り話し終え、両膝を抱えて震えを抑える。男は何もいわずにいたが、話がひととおり済んだのを見計らうようにして一息にコーヒーを飲み下す。


「――そうか。辛い思いをしたようじゃな」


 男にそういわれて胸の奥が熱くなるのを感じた。自分がどれほど他人に胸の内を打ち明けたかったのか初めて気付かされた。


「しかし、その夜からお前に妙な力が宿ったというくだりはにわかに信じられん。大きな怪我を負ったショックで以前と体の調子が違うというだけではないのか?」


 俺はまだタブを開けていない缶コーヒーを顔の高さに持ち上げ、それを一息に握りつぶしてみせた。ひしゃげた蓋の隙間から中に入っていた液体が吹き出し、通りの向こう側にまで撒き散らされる。


「お――!?」


 男は壁から背を離し、俺の手元と飛び散ったコーヒーを交互に見やる。手からひしゃげたスチール缶を取り上げ、目の前にかざしてまじまじと見ている。仕掛けがないか探しているようだ。


「ううむ――これは。なるほどのう――」


 男はサングラスを指先で押し上げ、ため息を漏らした。そのまま空き缶を十メートルほど離れたくずかごに投げ入れる。缶は見事にくずかごの中へと落ちた。


 再び壁にもたれかかり、何かを考えるように顎に手を当てていた男はやがてコートのポケットから取り出した煙草を咥え、ライターで火をつけた。大きく吸い込んだ煙を吐き出し、ぼそりと呟くようにいった。


「レッドラム、か――」

「れっどらむ?」


 男の言葉を反芻した。耳慣れない言葉に首をかしげていると、男はもう一度タバコの煙を吐き出してゆっくりと喋りだした。


「上海、インドあたりで囁かれとる都市伝説じゃ。廃ビルに潜むといわれる赤い瞳の人食い鬼――お前を襲った奴らと似ておると思ってな」

「あんなのが世界中に!? おじさんは見たことあるのか?」

「まぁな。もうどれくらい前になるかわからんが、あれと出くわしたことがある。――あの時のことはあまり思い出したくはない」

「戦ったのか、あの怪物と!? 勝ったのか?」


 思わず立ち上がっていた。男はタバコの吸殻を空き缶に落としこみ、大きなため息をついた。口元の髭がふわりと揺れる。


「――思い出したくないといっとるのにこのガキめ。戦ったなんて立派なもんじゃあないわ。殺されそうになったのを必死で逃げたんじゃ。――今でも暗闇に浮かぶ血のように赤い瞳は覚えておる。若い頃のトラウマじゃ」

「でもさっきはあの怪物を吹っ飛ばしたじゃないか」

「吹っ飛ばすつもりで打ったわ。だが見ただろう? 目が見えなくなり、体勢すら崩していた相手にこれ以上ないタイミングで打ち込んだにもかかわらず、奴はすっ転んだだけじゃ。むしろ打ち込んだわしの腕のほうが折れるかと思ったわ」


 男は思い出したように右腕をさすった。


「あの技はなに? おじさんなんかの格闘技やってたの?」

 立て続けに質問をぶつける。初めて本音を打ち明けることが出来た相手と出会えて興奮していた。


「――かじった程度にはな。ずっと昔、若い頃の話じゃ。もはや錆び付いて使い物にはならん」

「それでもいい。俺にその技を教えてくれ! 力がついただけじゃあいつらには勝てないんだ」


 男は俺をゆっくりと見下ろした。顔はサングラスと髭で覆われているのに、呆れた表情を浮かべていることはすぐに理解できた。


「お前自分がなにをいっているかわかっておるか? あいつらと戦う? 寝言は寝ていうもんじゃぞ」

「俺は本気だ! さっきは失敗したけど、ちゃんと出来てればきっと勝ててた!」

「勝つ、という言葉で濁すな! あいつらに勝つというのはすなわち殺すという事じゃ。お前奴らを殺せるのか? 羽虫やアリとはわけが違うぞ」


 男にいわれて言葉に詰まる。

 殺す――そう、当然そうなる。テレビで見た格闘技の試合とは違う。ゴングも、リングアウトもない。勝つには、殺すしかないのだ。


 ぞっとして両肩を抱く。体が小さく震えていた。


「血肉の詰まった生物を殺すことの重みがお前にわかるか? その手には消えない感触が、耳には恨みの声が死ぬまでこびりつく。――やめておけ。まずは母を悼み、前向きに生きることを考えろ。お前の母もきっとそれを望んでおる」


 男は言葉の最後で口調を柔らかくした。母がこんな事を望まないことも、自分の考えが間違っていることもわかっている。だが、だからといって認めるわけにはいかなかった。


「――浮かぶんだ」

「なに?」

「夜になって眠ろうとするとあいつの顔が浮かぶ。最後に感じた母さんの熱が胸にこみ上げる。あいつを――殺せって声が頭に響くんだ」


 両肩を抱いていた両手に力がこもる。胸の奥がじりりと灼ける。


「俺はきっとこの想いに死ぬまで取り付かれる。たとえ間違っていたとしても俺はあいつを追いかけないといけないんだ。あいつを見つけて、母さんの仇を討たないときっと俺は前に進めないんだ――!」


 絞り出すようにいって、奥歯を噛みしめる。廃ビルに一人で入ることができたのも、得体の知れない怪物に挑みかかることができたのも恐怖を感じなかったせいではない。ただ駆り立てられていたのだ。頭に響くこの声に。


 男は夜空を見上げて再び口髭を揺らした。


「――今日はもう遅い。帰って寝ろ。明日も学校じゃろ?」


 男は空を見上げたままいった。しばらく何も答えずに黙っていたが、男はそれ以上何もいわなかった。


 男に背を向けてもと来た道へと歩きだした時、背後から男の声がした。


「一晩頭を冷やして、それでもそのバカな考えが消えておらんかったら――学校の帰りにでも最初に会った橋の下に来い。」


 振り向くと男は俺と反対の方向へと歩き出していた。呼び止めようと踏み出した足を止めるように、再び男が口を開く。


「できれば来るなよ」


 そういって男は足を早めた。大きな背中が闇に消えるまで、ただじっとその場に立ち尽くすしか出来なかった。



 家に帰って簡単にシャワーを浴び、ひと心地つくとひどく空腹であることに気がついた。体に異変が起こって以来食事量が明らかに増えた。食欲がなくても何かを口に入れなければならない衝動に駆られる。


 冷蔵庫にあった卵を五個ほど割って油をひいたフライパンで炒め、残り物の冷ご飯をぶち込んでケチャップで味付けするというオムライスを崩したような手抜き料理を作る。母の帰りが遅い時が多かったので、料理の真似事くらいならできるのだ。もちろん味は褒められたものではない。それでも無理に胃袋に押し込んだ。


 空腹が治まると今度は眠気に襲われる。時刻は既に夜の二時を過ぎていた。こんなに夜更しをしたのは産まれて初めてのことだった。押入れから布団を引きずり出して倒れ込むのと同時に眠りに落ちる。目が覚めた時には八時を回っていて、危うく遅刻するところだった。



 学校では誰とも話すことなく過ごした。進級した初日に起こした騒ぎのせいで孤立が進んだ、という方が正しい。亜矢が時折心配そうな目線を向けてくるが、目を合わさないようにした。


 学校が終わると真っ直ぐに橋を目指す。誰にも見られていないのを確認してから橋の下に行くと、以前と同じ場所、同じ姿勢で男が寝ていた。違うのは帽子を顔にのせて眠っていることくらいか。


「おじさん、約束通り来たぞ! 俺に格闘技教えてくれるんだろ?」


 声を上げて呼びかけると、男はゆっくりとした動きで帽子を持ち上げこちらに顔を向けた。大きなため息をついて体を起こす。


「はぁ――本当に来たか。その様子では考えは変わっとらんな」

「変えない。俺はあいつらをやっつけたい! たとえそのために殺すことになったって、俺はやる!」


 息を荒げて叫ぶ。男はしばらく口髭を手でしごくように撫でていたが、やがて重々しく口を開いた。


「復讐はなにも産まない。死んだ人間が還るわけでもない。たとえ復讐を果たしたとしても残るのは虚しさだけである――」


 突然の正論に戸惑う。今更どうしてそんなことをいいだすのか――そう思った直後、男は口調を変えて続けた。


「お前はこれから幾度となく諭されることだろう。だがそれは違う。復讐とは死者のためではなく、己の心に決着をつけるためのもの。昨夜お前がいったように忌まわしき過去を断ち切り、己を未来へと導くための行い。少なくとも儂はそう思っている。復讐が無意味などとは所詮傍観者のたわ言よ」


 男はそういって立ち上がる。高所に立った男を見上げるとさらに巨大に映る。本当に巨人のようだった。


「初めにいっておくが大したことはしてやれんぞ。それでもいいんじゃな?」

「うん!」


 俺が大きく頷くと、男は土手の斜面を降りて目の前に立った。三メートルほどの距離を置いて向かい合う形になる。


「それで小僧、お前の名前は?」

「業。七柄業だ――いや、です」


 口調を改める。教えてもらう立場になるならそうするべきだと思った。


「ななつか、ごう――? 字はどう書く?」


 男は首をかしげた。口で説明しながら指で空中をなぞり漢字を書いてみせる。男はしばらく顎に手を当てて小さく唸っていた。そんなにわかりづらい字だろうか――?


「いや、もうわかった。随分変わった字だと思ってな」

「あぁ。父親が付けた名前だって――母さんから聞いた。それで、おじさんの名前は?」


 あまり話したいことでもなかったので話題を変えた。すると男は首を横に振った。


「儂に名前はない。おじさんでも爺さんでも好きに呼べ」

「何いってるんだよ。名前ない人なんているはずないだろ」


 俺がそういうと男は再び頭を振った。


「そういう人間もいるんじゃ。気にするな」


 そういわれても納得できるはずがない。だが男はそれ以上何もいうつもりがないようだった。


「わかったよ。じゃあ――師匠」


 俺がいうと、男はぷっと吹き出し、手にしていた帽子を取り落とした。


「――なんじゃ、その大層な呼び方は」

「だっておじさん先生って感じじゃないし、名前も教えてくれないし。教えてくれる人なんだしそれでいいだろ?」


 男は口をぽかんと開けていたが、やがて足元に落ちた帽子を拾い上げ、ほこりを払いながら大きく笑った。


「はっははは――まさかこの年になってそう呼ばれるとは思わなかったわ。わかった、好きにせい。――物好きめ」


 男――師匠は帽子を頭に乗せ、懐からタバコを取り出して口にくわえた。


「それじゃあ最初の修行――というより約束事といくか。覚悟はいいな?」

「約束事?」

「これから儂がお前に教えてやる間、一切その力を他人に見せるな。無意味に暴力を振るうことなどもってのほか。あくまでお前は年相応のガキとして振舞え――いいな?」


 俺が曖昧に首をかしげると、師匠はタバコの煙を大きく吐き出した。


「意識してその力を抑えんと、お前はいつか必ず敵以外の人間を傷つける。もしかしたらそれは大切な家族や友人かもしれん。それに無意味に目立って正体がバレたら困るじゃろうが?」

「あぁ――そうだな。わかった、約束するよ」


 頷いてみせると、師匠の口元の髭がふっと揺れた。


「ではまず一つ目の授業といくか。お前、苦手な勉強とかはあるか?」

「勉強? なんでそんな事聞くんだよ?」

「いいから教えろ」


 釈然としなかったが、とりあえず国語と社会科が苦手だと伝える。前者は文章等の読み解きが、後者は覚えることの多さが嫌いだった。


「そうか。ならその二つをまずテストで八十点以上取れるように頑張れ。続きはそれからじゃ」


 師匠はそういって立ち上がり、斜面を再び登り始める。慌てて師匠を呼び止めた。


「ちょ、ちょっと待って! それだけ? っていうかなんでそんな事する必要があるんだよ。戦い方教えてくれるって――」

「儂は一言もそんなこといっとらん。嫌ならいつでもやめろ」


 師匠はそれだけいうと再び元の場所に寝転がり、タバコをふかし始めた。俺は呆気にとられてその姿をしばらく見ていたが、大したことは出来ないという最初にいわれた言葉を思い出す。だからといって、苦手な科目を頑張れなどといわれるとは思ってもいなかった。


 だが今はほかに頼れる人間がいない。不安な気持ちを抑え、師匠に大声で呼びかけた。


「それが出来たら戦い方教えてくれるんだな!? 約束だからな!」


 師匠は何もこたえず、口から煙の輪をポンポンといくつか吐いただけだった。


 この人本当に大したことしてくれないんじゃあないか――そんな思いが胸をよぎった。



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