第七話 『闇に蠢くもの』
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暗い部屋で頭から布団をかぶり、膝を抱える。母がいなくなってから自分の家がとてつもなく広く、寒々しく感じるようになった。
桐生からは一緒に暮らすよういわれたが断った。母と暮らした家を離れたくないのももちろんだが、なにより父を名乗る男の思い通りになるのが嫌だった。
震えているのは寒さのせいでも恐怖によるものでもない。胸の内からこみ上げる得体の知れない衝動が吹き出しそうだからだ。
足元に散らばる金属製のフォークやスプーンに視線を落とす。まるで無理やり外された知恵の輪のようにいびつな形に曲がったそれらの中から比較的まともな一本を拾い、指先に力を込める。ありきたりな手品のようにグニャリと曲がった。もちろんタネはない。
病院で目覚めたあの日以来、全身に異常とも言えるほどの力が満ちていた。意識せずにガラスのコップを持つと握りつぶしてしまうことすらある。
最初は自身の変化に戸惑いを抱いたが、結局このことを誰にも打ち明けることはしなかった。他の人間に信用が置けなかったことは確かだが、何よりこの力を知られては都合が悪いという思いがあった。日に日に自分の内面が歪んでいくのがわかる。
夜が訪れるたびにあの日のことが思い浮かび、心がバラバラにちぎれそうになる。同時に訪れるのは焦燥感。こんなところで震えることしかできない自分に対する苛立ち。
衝動的に立ち上がり、壁に掛けてあったニット帽とブルゾンを掴んでいた。時刻は既に二十三時を回っている。
ドアノブに手を掛けようとしたところで思いとどまる。もしも桐生に気づかれると面倒なことになるのはまちがいない。少し迷ったが、靴を持って窓から出ることにする。
窓を開けて体を半分乗り出す。アパートの隣は公園になっていてこの時間に人影はない。窓から二メートルほど先のブロック塀めがけて窓から飛び出す。だが力みすぎたせいか勢い余って飛び越してしまった。
「うわ――っと!」
大声をあげそうになるのをかろうじて抑え、公園の草むらに着地した。いまだに力の制御がまったく出来ずにいる。
すぐ慣れるさ――そう自分に言い聞かせて足裏に付いた砂を払い、手に持っていた靴を履いた。ニット帽を目深にかぶり、駅前の繁華街に向けて歩きだす。
こんな事をして意味があるかはわからない。それでも何かをせずにはいられなかった。そうしなければ胸の奥でくすぶる黒い炎に燃やし尽くされてしまうような、そんな想いに駆られる。
だが、いざ繁華街の明かりを見ると徐々に頭が冷えてきた。こんな時間に子供が一人で歩いていたら間違いなく目立つ。警察官にでも見つかれば色々と事情を聴かれるだろう。そうなったら最悪だ。
出来るだけ大通りから離れた細い路地に入る。そこは雑居ビルが左右に並ぶオフィス街になっていて、昼間はともかくこの時間帯に人の気配はない。繁華街の喧噪を遠くに聞きながら、道端に積まれていたビールケースに腰を下ろした。
あの男はまだこの街のどこかにいるだろうか――そんなことを考えながら大きく息を吐く。四月の中旬とはいえいまだに夜の寒さは衰えない。体に変化が起きてから身を切るほど冷たいはずの空気を不思議と辛くは感じなくなったが、吐いた息はまるで煙のように白く凍った。
吐き出した分と同じ量の空気を鼻と口から吸い込んだとき、奇妙な匂いが紛れ込んだ。立ち上がってもう一度鼻で深く息を吸うと、今度は間違いなく覚えのある匂いが鼻をくすぐった。同時に忌まわしい夜の記憶がよみがえる。
「血の臭い――」
萎えかけていた心が奮い起こされ、再び歩き出す。微かに混じっていた異臭が徐々に濃さを増し、やがてそれは一軒の古びたビルから垂れ流されている事がわかった。
鼓動が高まり、忘れかけていた恐怖が顔をもたげる。深呼吸を一度してから周囲を見渡した。そしてビルの隙間で錆び付き、中程から折れているガスパイプを見つけ、それを力任せに引っ張る。朽ちかけていたガスパイプは簡単に折れ、ちょうど手頃な長さになった。
ビルの入り口は半分ほど開いていて、中に入るのは簡単だった。そっとドアを開けると、錆のせいか耳障りな音が鳴る。真っ暗な通路に明かりはないが、闇に慣れた目は問題なく中の様子を見渡すことが出来た。少なくとも入口から見える範囲にはなんの気配もない。
できるだけドアを大きく開けたまま息を殺して中に入ると、血の匂いに誇り臭さが混じっている。どうやら長く使われていない建物のようで、壁にはあちこちスプレーで落書きがされ、割れたガラスや木材の破片が散乱していた。足音を立てないようそれらをよけて歩いているうちに階段を見つけ、二階へと上がる。
その時気持ちの悪い音が耳をかすめ、全身が泡立った。なにか固い物ががり、がりと削れる音。犬がドライフードをかじる音に似ていたが、それよりさらに不快な耳障りをしている。
口の中に溜まった唾液を飲み込み、耳を澄ませる。音は上の階から聞こえてくるようだった。
一歩一歩慎重に階段を踏みしめて三階へと上がる。耳を澄ます必要もないほどはっきりと聞こえる。体が震え、奥歯がガチガチと鳴りだす。それでも歯を食いしばって音のする方へと足を進めた。
暗い廊下の突き当たりに部屋の入り口があり、音と共に何かがうごめく気配があった。意を決して近づき、ドアの取り外された入り口から中の様子をそっとうかがう。
部屋の中央で黒い影がうずくまり、なにかを貪るようにかじっている。こちらには背を向けているためにその何かがわからない。もっとよく見えるよう体を乗り出したとき、手にしていたガスパイプが壁を掻いた。
しまった――そう思ったのと同時に黒い影が動きを止め、膝を曲げた姿勢で立ち上がる。その拍子に影が抱えていた物がどさりと床に落ち、足の間からその正体を覗かせた。
髪を振り乱した女性――いや、女性だったものというべきか。右腕は根本から無くなっていて、無惨な傷口から赤黒い肉と白い骨が覗いていた。光を映していない虚ろな瞳をした女と視線が合った瞬間、今まで押し殺していた感情が爆発した。
「うわあああああああああああ!!!」
建物全体に響きわたるほどの絶叫。影がこちらを振り向く。その瞳には血のように赤い光が宿っていた。恐怖に駆られ、心はその場から逃げ出すことを望んでいた。だが意志とは裏腹に俺の体は握りしめていたガスパイプを振り上げながら部屋に飛び込んでいた。その勢いのままで影との距離を詰め、紅く輝く瞳にめがけてガスパイプを振り下ろす。
確かな手応えと共にガスパイプがめり込む。だがその衝撃に耐えられなかったガスパイプが途中で折れ曲がり、頭部を砕くには至らなかった。
「グギャ――!」
気味の悪い声をあげ、影は部屋の隅へと転がった。だがすぐに起きあがると低い姿勢でこちらへと向き直る。
月明かりに照らし出されたそれは真っ白な肌をした得体の知れぬ生き物だった。肌といっても生物的な質感ではなく、石を張り付けたようにあちこちひび割れている。唇はなく、剥き出しの歯茎からはガラス片を埋め込んだように歪な歯が生え揃っていた。
あいつじゃない――怪物の異様さに対する恐怖より先に湧いてきたのは困惑と落胆。あの男以外にもこんなのがいるのか?
戸惑いによって生じた硬直を見逃さず、怪物が弾かれたようにこちらへと飛んできた。鋭い爪の伸びた指を鉤状に曲げ、下から上へと左腕を振るう。
「うわ!」
反射的に体を反らせてその一撃をかわすが、手にしていたガスパイプを弾かれてしまう。怪物は立て続けに体をひねり、今度は右腕を振り下ろしてきた。身を引いたがかわしきれず、ニット帽が引き裂かれる。
「こいつ――!」
拳を握り、怪物の顔面に思い切り打ち込んだ。だが手首が内側に曲がってしまい手応えがまるでない。以前ボクシングの真似事をさせられたときも同じようにして手首を痛めたことが頭をよぎる。
怪物の腕がぬっと伸び、両腕を捕まれる。ふりほどこうとした瞬間、急に足下をすくわれ背中から地面に押し倒される。足下に広がる血だまりに足を取られたようだった。
怪物が歯を鳴らしながら覆い被さってくる。押し返そうとするが腕の長さが違いすぎた。眼前に怪物の顔が迫り、顔を横に逸らすと再び血塗れの女と目が合った。
――俺もああなるのか――こんなところで――いやだ!
「小僧! 目を閉じろ!」
不意に大きな声が響き、何か固い物が床を叩く音がした。その直後視界が白く染まる。凄まじい勢いで真っ白な粉が吹きつけられたようだった。
「ホキャアッ!?」
声と音のした方へと振り向いた怪物が顔のあたりを両手で押さえた。両腕の戒めを解かれ、這うようにして怪物の下から抜け出す。
「ハァッ!」
声の主が手にしていた消化器を放り投げ、短い気合いと共に前方へと踏み込み、怪物の胸に右の掌打を打ち込んだ。怪物は後方へと大きく仰け反り、背中から床に倒れ込む。どうやら女の死体につまづいたらしい。
「小僧、立て! 逃げるぞ」
声の主――長身の男が叫んだ。俺は立ち上がる暇すら与えられず小脇に抱えられ、部屋から連れ出された。
「この莫迦め、あんな化け物相手に何のつもりじゃ! 死ぬところだったんだぞ!!」
抱えられながら男を見上げる。いつか見た顔だった。
灰色の長い髪と口ひげ、丸い銀色のサングラス。魔法使いを思わせる姿をした男は俺を抱えたまま階段を駆け下り、開け放たれていた入り口から外へと飛び出した。
男はそのまま足を止めることなく路地を駆け抜け、大通りに出たところでようやく俺を降ろし、息を荒げながら腰を下ろした。
「ここまでくれば――大丈夫じゃろ。――老体にはこたえるわ」
男は肩で息をつきながら途切れ途切れにそういうと、呆然としたままの俺の頭に大きな掌を乗せて優しげに微笑んだ。
「怖かったな。大丈夫か?」
その言葉を聞いた瞬間堰が切れたように涙があふれ出す。置き去りにしてきた恐怖が戻り、声をあげて泣いた。
髪の毛を通して伝わる男の手の温もりが何故かひどく懐かしいものに感じられた。