第六話 『変わりゆく情景』
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春休みが明けた最初の登校日。冬の冷たく澄んだ空気が混じった校舎に他の生徒達の元気な笑い声が響く。重い足取りで歩いているのは自分だけだ。
あの日、気づいたら再び病院に運ばれていた。その後は術後経過をはかるためということで、傷が完治してからも一ヶ月近く入院させられることになり、結局アパートに戻るころには五年生の終業式をすぎてしまっていた。
その間も亜矢がこまめに訪ねてきてくれたおかげでプリントや新しい教科書の用意などは済ませることができていたが、久しぶりの学校は以前よりも更によそよそしい雰囲気が感じられた。まるで転校でもしてきたかのようだ。
通っている小学校は校舎が北校舎と南校舎で二つに分けられ、一階中央の渡り廊下で繋がれたH型の造りで北校舎の三階が六年生の教室になっている。気分が沈んでいるためか、三階まで続く階段は異様に永く感じられた。
新学年の教室に足を踏み入れた瞬間、クラス中から視線が向けられるのを感じた。だが以前なら感じていた心臓を捕まれるような恐怖は沸いてこない。――ただ居心地が悪いだけだ。
席は五十音順で決まっていて、幸い一番後ろの列だった。ランドセルを机に置いて顔を上げると、黒板の前にいた数人の女子に混じって亜矢がいた。亜矢が小さく手を振ってくるのを見て少し気が楽になる。できるだけ表情には出さないようにして小さくうなづいて返す。
机に座り教科書を確認していると足音が近づいてくるのに気づく。顔を上げると目にしたくない顔ばかりが並んでいて、思わず顔を背けたくなった。
「よう七柄、ずいぶん長い春休みだったなぁ。病院で死にかけてたんだろ?」
坊主頭の伸びかけた斉藤がなれなれしく頭を叩いてくる。
「こいつひ弱だからな。普通の奴だったら一週間くらいで治ってたんじゃねえ?」
小杉があごの脂肪を揺らして笑った。名前と違って無駄に図体のでかい奴で、いつも斉藤とつるんでいる。この二人と他に二、三人がいわゆるいじめっ子グループというやつだ。当然自分はいじめられる側である。
クラス替えで今度こそ別れたいと思っていたが叶わなかったようだ。
「傷はすぐに治ったんだ。でも検査とか色々あって――」
「なぁ死ぬかもしれないケガだったんだろ? どんな感じだった? やっぱ眠くなる感じか?」
斉藤が言葉をかぶせてくる。こいつはいつもこうだ。多分こいつらにとっていじめる相手は自分の都合よく動くおもちゃにしか見えないんだろう。
できるだけ気にしないよう顔を伏せ、教科書を机にしまうことにする。だが二人はなおもしつこく声をかけてきた。
「おい聞いてんのかよ。せっかく俺たちが心配してやってんだぞ」
「そうだよ。どうせお前のことだし、お袋さん死んじまってへこんでるだろうってな」
頭からざっと血の気が引く。どうしてその事を知っているのか。困惑と同時に押し寄せたのは悲しみと、怒り。
「なんで知ってるんだ?」
「先生が学級会で言ってたんだよ。もうみんな知ってるぜ」
考えてみれば当然かもしれない。入院している間、学校になにかしら連絡が入ったのだろう。それで他の生徒たちに注意を促すため校内に公表されたのか。
頭では理解したが感情の昂ぶりはおさまらない。
それを知っていながらどうしてこいつらはヘラヘラと笑っていられる? 心の中に土足で入られたような不快感がこみ上げた。
「なに睨んでんだよ。ホントのことだろ」
気づかない間に表情に出ていたらしい。椅子から立ち上がり、斉藤の目を正面からにらみつけた。頭一つ分以上背は高いが、以前と違ってまっすぐに目をみつめる事ができる。
「なんだよやる気か? オカマチビのくせに」
斉藤が襟元に手を伸ばしてくる。その手を払い、逆に両手でパーカーの襟元を掴んで引き寄せた。軽い。
「うわ! おい、いい加減に――」
「てめぇ、調子乗ってんじゃねえぞ」
小杉が横から顔を殴りつけてくる。痛みはまるでなかったが、煩わしく感じたので左腕を離して小杉の胸を軽く突き飛ばす。
「ぐえっ!」
つぶれた蛙のような声をあげ、小杉が派手に後ろへと転がった。机や椅子をまきこんでけたたましい音が鳴り響く。そこかしこで女子が悲鳴をあげた。
「は、離せよこの野郎――」
見ると斉藤が襟を掴んだ腕を引きはがそうとしていた。空いていた左腕で再び襟元を強く掴み、肘を下げて無理矢理目線を合わせさせる。
「死ぬのがどんな感じかって聞いたな? 眠るのとはまるで違うよ。意識ははっきりしてるのに周りがだんだん暗くなるんだ。はじめは熱くて、だんだん冷たくなっていく。そのうちにそれさえわからなくなっていく感じさ」
斉藤は顔を真っ赤にして力を込めているようだが意味はない。その目には恐怖の感情が浮かんでいる。
「もっとわかりやすく教えてやろうか? 今ここで」
下げていた両腕を今度はゆっくりと上げていく。斉藤の足が地面から浮き、肘を伸ばしきる頃にはつま先が床から完全に離れていた。
「今まで散々調子に乗ってたのはどっちだ? その気になれば僕は――」
頭の中で止めようとする自分の声が聞こえる。言葉を切り、頭を軽く降った。足をバタつかせている斉藤を見上げ、再び口を開く。
「俺は――お前なんか今すぐ殺せるんだ」
斉藤の体から力が抜けていくのがわかる。口の端から泡を吹き、もがく様を見て残酷な快感が胸に湧く。
いっそこのまま――そんな思いすら頭をよぎった。
「七柄くんダメ! もうやめて」
強く腕を引かれ、急激に頭が冷める。振り向くと亜矢が必死に腕を引いていた。
「亜矢――」
我に返り、斉藤を掴んでいた腕を下ろす。襟を掴んでいた手を離すと斉藤は膝から崩れ落ち、激しくせき込みだした。
顔を上げ、亜矢に向き直ろうとした拍子に視線に気づく。
クラス中からだけではなく、廊下からも騒ぎを聞きつけて集まってきた別の教室にいた生徒達が自分を見ていた。誰もが一様に恐怖を帯びた目で。
「なんの騒ぎですか!」
生徒をかき分けるようにして二人の教師が現れた。教室内の状況からすぐに察した様子で顔を見合わせる。一人が腹を押さえてうずくまっていた小杉を助けお越し、もう一人が周りの生徒に声をかけていく。
「みんな早く自分の教室に戻りなさい! 七柄くん、あとで職員室で話を聞かせてください」
言葉が出ず、ただうなずくことしかできない。不安げな表情で見つめてくる亜矢の視線だけが痛かった。
その日の放課後、職員室の横にある父兄用の応接室で三十分ほど事情を聞かれた後意外にもあっさりと解放された。斉藤と小杉はたいした怪我もなく、奴らの日頃の行いもあってか教師側も向こうの撒いた種と思ったらしい。
帰り道をたどる足は重かった。別に朝の振る舞いを悔やんだわけではない。ただ家に帰ると否応なく母がもういないことを突き付けられる。それが苦しい。
ふと道の先に目をやるとアパートの前に大きなトラックが停車しているのに気付いた。コンテナには引っ越し会社のマークが描かれている。
「あら、業ちゃんお帰りなさい」
トラックの陰から桐生が顔を出す。トレーナーの袖をまくり、首には白いタオルを巻いている。引っ越しの途中らしく、男女のスタッフが交互にトラックからダンボールをアパートの二階に運び込んでいた。
「今日からお隣さんだからよろしくね。引っ越しが終わるまでドタバタすると思うけど」
桐生が汗を拭いながら笑った。なんと答えるべきかわからず、顔を伏せながら側を通り抜けようとした。
「あ、業ちゃんちょっと待って」
二階への階段の手前で呼び止められ、足を止めて振り向く。
「さっき学校の先生から電話があったんだけど、学校で友達と何かあった?」
もしかして、とは思っていたがやはり連絡はされていたようだ。
あの後病院で聞かされたが、桐生が俺の身元引受人という形になったらしい。父からの頼みでそうなったというが詳しいいきさつは知らない。というより知りたくもなかった。
「何もない。あんな奴ら友達じゃないし、そもそも桐生さんには関係ない」
「でも、私は君のこともう少し知っておきたくて。お父さんからも――」
頭に血が昇る。母さんと俺がこんな状態になって顔すら見せない男がなんのつもりだ。それに昔から自分を知っているような、桐生の態度も受け入れ難かった。
「いい加減にしろ。あんたはただの他人だろ? いきなり母親ヅラなんかするな! 迷惑なんだよ!!」
感情に任せて声をあげ、すぐに我に返る。彼女に感情をぶつけてどうなる。これでは亜矢に八つ当たりをしていた以前の自分と何も変わらない。
桐生は何もいい返さず、ただ悲しげにうつむいた。考えるまでもなく、この人にしても今の状況を望んでいるはずはない。俺の父親を名乗る男に何をいわれたか知らないが、戸惑いを抱いているのは同じはずだ。
「おいお前、お母さんいじめるな」
不意に聞こえた幼い声。視線を下げると桐生の傍らに小さな男の子が立っていた。
「お母――さん?」
再び桐生を見上げると、さっきまでただの女性だった桐生が母親の顔つきに変わっている。それだけでまるで別人に思えた。
「昭、いきなり何いってるの! ごめんね業ちゃん、この子は昭っていって私の子供。今年で小学生になってあなたと同じ学校に――」
「あ、お母さんが言ってたのお前か。なんだよ六年生のくせにチビだな。このチビ!」
昭が指さしながら舌をベッと突き出す。
「な、なんだと!? お前の方が俺よりチビだろ!」
「背伸びしたら届くじゃん。僕はまだ一年生だぞ」
昭はそういうと目の前まで来てつま先立ちになる。確かにそうされると身長差はほとんどなくなった。いい返す言葉がとっさに浮かばず奥歯をギリギリ鳴らしながら昭と睨み合っていると、もう一つ別の視線を感じてそちらに目をやった。
桐生の後ろに隠れるようにして女の子がこちらを見ていた。昭よりさらに頭一つ分小さく、怯えた目をして俺を見ている。視線が合うと、女の子は完全に桐生の後ろに隠れてしまった。
「こっちは妹の瑠花。ちょっと人見知りなだけだから気にしないで。よかったら仲良くしてやってね」
桐生が背後に隠れてしまった瑠花に手を回しながら微笑んだ。その笑顔を見て何かが胸に突き刺さるような気がした。耐えられなくなり、駆け足で階段を昇った。
「あ、逃げるなこのチビ!」
「うるさい、ドチビ!」
二階から昭を怒鳴りつけ、そのまま部屋に走った。
ドアを閉め、鍵をかけても桐生が昭を叱る声が聞こえてくる。
ランドセルを降ろした際、タンスの上に置かれた写真立てが目に付いた。笑顔で写る母と自分の姿を見て胸の奥から熱いものがこみ上げ、目から溢れて頬を伝う。
だから、家に帰るのは嫌なんだ。