第五話 『喪失と狂疾』
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暗闇の中、すぐ側でだれかが話す声が聞こえる。聞き覚えがある声の響きに沈み込んでいた意識が呼び起こされ、重い瞼を開けた。
最初に目に付いたのは白い天井。視線を右に向けると窓の外に広がる青空。闇になれた瞳が悲鳴をあげ、すぐに目を背ける。声を出そうとしたが体が動かせない。寝起きであるとはいえ明らかな違和感があった。
ゆっくりと深呼吸をしてからまずは手の指を人差し指から一本ずつ曲げていく。それを左右の手で交互に繰り返すと、ようやく全身に感覚が行き渡る。自分の体だというのに、一つ一つの動作に確認を要した。
「七柄くん、目が覚めたの!?」
声がした方へ目を向けると、亜矢が大きな目を向けてくる。傍には知らない女の人が立っていた。
「あ――や」
奥歯を噛みしめながら上体をゆっくりと起こす。頭に鈍い痛みを感じた。まるで頭の中に濃い霧がかかっているようだ。
「よかったぁ。お医者さんもいつ目が覚めるかわからないって言われて、わたしどうしようって思ってたんだ」
亜矢がベッドの側まで来て胸をなで下ろす。
こめかみを指先でゆっくりと揉みながら大きく息を吸い込む。縮こまっていた肺がゆっくりと開いていくのを感じた。
「まだ無理をしてはダメよ。ひどいケガだったんだから」
顔を上げると女の人がベッドの右手側に立ち、心配そうな顔を向けてくる。髪をショートボブに切りそろえた綺麗な人だ。
「ここは――どこ?」
「東坂の市立病院だよ。わたし昨日もきたけど、七柄くん昨日はずっと眠ってた」
「昨日も――今は何日なんだ?」
部屋の中を見回した。壁に掛けてある時計の短針は四時を回ったところだ。
「三月の一日だよ。七柄くんひどい怪我してここに運ばれて、それからずっと眠ってたんだって。おみまいで部屋に入れてもらえるようになったのは三日くらい前で――」
「僕は、十日も眠っていたのか!?」
愕然とした。あの夜から十日も自分はただ眠っていただけだったのか。
患者服の上から胸に手をあてると分厚く包帯が巻かれているのがわかった。やはりあの夜のことは――現実だった。
うつむいていると、額に柔らかい感触を感じた。女の人が僕の額に手を当て、熱を計っている。
「まだ少し熱があるみたい。もう少し横になってたほうがいいわ」
この人は誰だ? 記憶を探るが思い出せない。白いセーターにジーンズという格好なので看護士さんではないようだが。
僕の視線に気づいたのか、女の人は柔らかな表情を作って腰を屈めた。
「私のこと覚えてないよね。業ちゃんがもっと小さい頃一度だけ会ったきりだし。桐生景子です」
女の人は胸に手を当てながら優しい口調でいった。桐生という名前には聞き覚えがあった。母さんが以前話していたことがある。確か仕事場の友達だといっていた。
「母さんは――」
胸がズキリと痛む。意を決して言葉を続けた。
「母さんは、どうなったの?」
桐生の表情がこわばる。少し目を泳がせたが、やがてベッドの向かい側に座っている亜矢に声をかけた。
「――亜矢ちゃん、もうすぐ暗くなるし今日は帰ったらどう? おうちの人も心配するでしょ」
「え? でも――」
急に話を振られた亜矢は困惑した表情で僕を見た。
「――美作、いいよ。来てくれてありがとう」
僕がそういうと、亜矢は小さく頷いてランドセルを背負った。
「うん。じゃあ七柄くん、また来るね。学校のプリントそのファイルに入れて置いたから」
亜矢が指さした方に顔を向けると、ベッドの傍に備え付けのラックにクリアファイルが置かれていた。
「わかった。じゃあな」
亜矢は頷いて病室のドアを開け、部屋を出る前に桐生にペコリと頭を下げてから出て行った。
「あの子面会が出来るようになってからずっとお見舞いに来てくれてるみたいよ。いいお友達を――」
「それより、母さんのこと教えてください。――嘘はつかないで」
桐生の話に言葉をかぶせる。桐生は少し面食らったようだったが、すぐに表情を戻して傍にあったイスを引き、姿勢良く腰を下ろした。
「――業ちゃん。ここに運ばれる前のことは、覚えている?」
慎重に、言葉を選ぶようにゆっくりと桐生がいった。頷いてみせると桐生は悲しげに眉をひそめる。
「そう。あの夜、雛美さん――お母さんとあなたはここに運ばれて手当を受けた。あなたの傷は深かったけど奇跡的に命は助かったの。だけど――」
桐生は言葉を切って深呼吸した。この人にとっていいづらいことだろうことはわかるし、僕もまた聞きたくはなかった。
桐生は切り出しづらそうに口を開けては閉じ、ようやく言葉を続けた。
「お母さんは、ここに運ばれたときにはもう――亡くなっていたの」
桐生の言葉は自分が予想していたものだった。
理解はしていた。あの夜の事は眠りの中で鮮明に、繰り返し繰り返し見せ続けられていたから。
だが――それでもどこかで期待していた。
「う、うう――!!」
心の中で何かが崩れ、感情がせきを切ったように溢れ出す。闇の中で自分を見下ろす赤い目が脳裏をよぎり、狂疾にかられそうになる。
歯を食いしばり、頭を両手で抱えた。
「業ちゃん落ち着いて! 傷に響くわ」
桐生がイスから立ち上がって肩に手をおいてくる。僕は破裂寸前の感情を必死に押さえ、何度も深呼吸した。
「母さんは――母さんはどうしたの?」
頭に食い込ませていた両手を引きはがし、ゆっくりと降ろす。桐生はまた言葉を詰まらせたが、膝をついて僕に目線を合わせてからゆっくりと話し始めた。
「お母さんはあなたのお父さんが連れて帰ったの。もちろんあなたが目を覚ますのを待とうとはしたんだけど――」
桐生の言葉に耳を疑った。父さん? 父さんだって!?
「なんだよそれ――父さん!? 僕は一度も会ったことさえないんだぞ? それがどうして今頃!?」
ほとんど絶叫に近い声を上げていた。戸惑いと怒りがない交ぜになり、押さえ込んだ感情が再び膨れ上がる。今度こそ冷静ではいられなくなった。
「落ち着いて話を切いて。あなたのお父さんはとっても忙しい人で、今まで会いたくても会えない状態で――」
「うるさい! 嘘だ! あんたの言う事なんて信じるか」
「業ちゃん聞いて! 私はあなたのお父さんから――」
それ以上桐生の言葉を聴きたくなかった。僕は弾かれたようにベッドの手すりをつかみ、反対側へと降り立った。その弾みで手すりのフレームがぐにゃりと曲がったが、構わず病室のドアから廊下へ飛び出した。
病院の廊下を裸足で駆ける。階段を降りるのが煩わしくて最上段から下まで一気に飛び降りた。病院のロビーを全速力で駆け抜け、出口の自動ドアが体の通る隙間が出来た瞬間にすり抜けた。
「七柄くん――!?」
亜矢の声が背後から聞こえたが、振り返らずに走った。
熱のせいで頭は重く感じられたが、体が羽のように軽い。周囲がひどく遅く動いている。
違う、僕が速いのか――?
人の多い駅前を避け住宅街をまっすぐ走る。目の前にブロック塀が立っていたが、道を曲がることすら煩わしい。速度を落とさず力の限り地面を蹴った。
体が空へと舞い上がった。
自分が思い描いていたのとはかけ離れた結果に反応が追いつかず、空中で勢い余って何度も体が回転した。地面に激突しかけたところで尻もちをつくように着地し、勢いのまま立ち上がって再び走る。着地したのは人家の庭で、鎖につながれた犬が驚いて吠えたててくるが構いはしない。
僕はそのまま、文字通り一直線に家までたどり着いた。
道路からアパートの二階を見上げる。喉の奥が焼けるように熱い。息をつく度に胸が破れそうになる。
「母さん――」
肩で息をつきながらアパートの階段を昇り、自室へと向かう。さっきまでの感覚が嘘のように体が重い。めまいでまっすぐ歩くのすら辛いほどに。
通路の端の手すりは最上段裏に空洞があり、合い鍵が隠してある。それを震える手で鍵穴に差し込んだ。
業――おかえり。
一歩部屋に入った瞬間母が笑顔で振り返った――気がした。だがそれは白濁しかけた意識が見せた甘い幻にすぎなかった。
部屋に人の気配はなく、ただ冷たく沈んだ空気に満ちていた。
「うぐ、うあああ――!」
涙と嗚咽がこみ上げ、その場に膝を付く。
這うようにして奥の部屋を目指し、母がいつも眠っていた場所へとたどり着く。僕は体を丸めるようにそこに倒れ込んだ。
患者服の胸元が赤黒く染まっている。傷口が開いたらしいが、そんなことはもうどうでもよかった。
かすかに残る母の香り。ここで間違いなく僕は母と暮らしていた。ドロドロに溶けた意識の中、僕はそんな事を思った。
「業!」
玄関から誰かが呼ぶ声が聞こえた。瞼を薄く開けると開け放たれたドアの向こうに誰かが立っている。
――来るな! ここに入るな!!
逆光で顔すら見えない相手に僕は心の中で叫んだ。
聖域を汚されたような怒りと不快感。それは意識を失う瞬間まで胸の奥で燃え続けた。