第四話 『漆黒の誓い』
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地面に倒れ伏した母をただ呆然と見つめていた。
――理解できない。目の前で起きたことに現実感が沸いてこない。
傍らで地面を踏みしめる音が聞こえ、ゆっくりとその方向を見上げる。フードの隙間を塗り込めたような闇が僕を見下ろしていた。
「――!?」
左胸に軽い衝撃を感じた直後、息が詰まる。続いて訪れたのは強い嘔吐感。視線を下ろすと、男の右手が左胸に沈み込んでいた。
「ゲホ――」
咳と共に口から飛び出した物は血。
――母が散らしたものと同じ色の。
男は僕の胸からゆっくりと右腕を引き抜く。僕は支えを失い、地面に崩れ落ちた。喉から漏れだした空気に混じりおめきが混じる。
夜空を見上げる形で仰向けに転がった僕の目に、赤い血を滴らせた男の右手が映った。その指先は奇妙にねじれた包丁のような形に変わっていた。
男は目の前で指先を軽く擦り合わせると、そのまま刃物のような指を自分の左腕にあてがい、パーカーの袖ごと切り裂いた。
滝のように流れ出た男の血が僕の体に降り注ぐ。すでに指の一本すら動かす力もなくなっていた僕は為す術なくそれを浴びた。
血と共に体温が失われていく中、その血は焼けるように熱く感じた。
「うあっ!?」
消えかけていた意識が不意に呼び起こされる。その激痛は突然胸の奥で生じた。
あまりに唐突で致命的であったためか、知覚できなかった胸の傷が突然暴れ出したかのように痛みをもたらす。まるで内側から体を食い破られているかのようだった。
「ぐあ、うあああああ――!!」
痛みにより体が反射的に動く。胸をかきむしり、体を丸める。痛みはすぐに全身へと広がっていった。
瞳だけを動かして男を見上げる。僕の苦しむ様を見下ろしていた男はやがてかすかに顔を上げた。
月明かりを受けた男の左目が赤く輝いて見えた。
錯覚ではない。空に浮かんでいる月よりもなお鮮やかな赤い光をたたえた目で男は僕を見下ろし――そして笑った。
胸の奥に炎が宿る。それは本来なによりも先に抱くべきだった感情。目の前に立つ男に対する激しい怒り。
「ま、て――」
立ち去ろうとする男に手を伸ばす。肩越しにかえりみた男と視線が交わったが、男は立ち止まることもなく闇の中へと姿を消した。
痛みがさらに増し、腕を伸ばすことすら苦痛になる。それでも必死に手足で地面を掻き、母の元へと這いずった。
母の体に手が届き、肩をつかむ。母は何の抵抗もなく仰向けに転がった。
「母さん、母さん――」
必死で体を起こし、母の体に覆い被さるようにして揺さぶった。薄く開いていた瞼がかすかに動き、瞳が僕の方へと向けられた。
母が何かを言いたげに唇をかすかに震わせたが、声を発することなく一度だけ大きく胸を上下させた。
「母さん――ダメだ――」
無意識に母の体に刻まれた傷を手で押さえつけた。大切な物が母の中から抜けていく――そう感じた。
だが止まらない。止めるには自分の手はあまりにも小さい。
――許さない。
――絶対にあの男を許してはならない。
手のひらからこぼれる母の温もりを感じながら、胸の奥に生じた炎が大きく膨れ上がり、怒り以外のありとあらゆる感情を塗りつぶす。
先ほどまで全身をむしばんでいた痛みが感じられなくなっていた。同時に視界も白くぼやけていく。自分の中からもまた、何かが抜けていくのがわかった。
おそらくはこれが死なのだろう。本能的にそう理解する。
「まだ、ダメだ――」
歯を食いしばり、力の限り母を抱きしめる。
――まだ死ぬわけにはいかない。
――あいつに報いを与えるまでは。
――母と同じ痛みを刻みこむまでは。
腕の中の温もりが消えゆくにつれ、黒い感情が燃え上がる。
漆黒の誓いを胸に僕の意識は闇へと沈んだ。