第三話 『赤い花びら』
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久しぶりの外食を済ませ、駅前の商店街を母と二人で見て回る。今日が誕生日である以外、いつもと変わらない病院からの帰り道だった。
「遅くなっちゃったね。眠たくない?」
時刻は夜の九時を回っていた。本当は瞼が重くなりかけていたが首を横に振る。
「大丈夫だよ。全然平気」
「そう――? でも業ももう十二歳か。早いなぁ」
そういいながら母が僕の頭を撫でる。
「早くなんかないよ。中学生になるまであと一年もあるし」
「ふふ、業はいつもそれだね。そんなに制服が着たい?」
答えなかったが、実際その通りだった。朝の通学途中で見る制服を着た中学生がとても大人びて見えて、自分も着ることが出来れば一気に大人に近づけるような、そんな期待があった。
「大人になれば僕だって体が大きくなるし、もっと強くなれるもん。そしたら母さんも心配しなくていいでしょ?」
そういって母を見上げる。母はなにも言わずに優しく微笑むと、なぜか顔を空に向けた。つられて夜空を見上げる。街灯の明かりで星は見えづらいが、少しだけ赤みがかった満月が煌々と輝いていた。
「業、春休みになったら旅行にでも行こっか?」
空を見上げたまま母がいった。
「旅行? どこに?」
「うーん、景色がきれいで静かで、おいしいもの食べられるところがいいなぁ。業はどこか行きたいところある?」
聞かれても特に浮かばない。そもそも家から離れることに少し抵抗があった。旅先で体調を崩したりすれば、それこそ母に迷惑をかけるだろう。
だが母がせっかく提案してくれたことだ。ひょっとして誕生日プレゼントのつもりで前から計画してくれていたのかもしれない。
「どこでもいいよ。旅行なんて久しぶりだし、楽しみだな」
出来る限り明るく答え、視線を道の先に落とす。
それと同時に足を止め、母の袖を強く引いた。背筋を撫でられるような嫌な感触がはしる。母も顔を下ろすと、同じく立ち止まった。
十メートルほど離れた街頭の下で、黒い人影が光を負うように静かに立たずんでいる。
逆光の上、パーカーのフードを目深に被っているので顔はまったくわからない。だぼっとした服装で体格はよくわからないし、フードの隙間から垂れている長い黒髪のせいで性別の判断もしづらい。
だがかなり背丈が高く、それだけでなんとなく男であると感じた。
ただ、僕と母が歩みを止めたのは出で立ちのせいではない。その男の周囲だけが異様な冷気に覆われているような感覚におそわれたからだ。
それは男がただの通行人ではないと直感させるに充分すぎるものだった。
男がおもむろに歩き出す。その歩みは間違いなく僕たちへと向けられていた。
母は僕を押し退けるように前に出ると、手にしていたハンドバッグから取り出した何かを前に突きだした。
「――なにか用ですか?」
普段の母からは考えられない硬質な声色だった。男は足を止め、母の右手に視線を落としたようだ。
――電動シェーバー?
母が手にしていたものはデパートの家電コーナーでよく見るそれに近い形状をしていた。少なくとも僕には一度として見せたことのないものであることは確かだ。
男の肩が小さく揺れ、再び歩みを進めた。笑った――のだろうか?
母は意を決したように口元を引き締め、スイッチにかけていた親指を押し込んだ。
プシュン、と空気が抜けるような音と共に細いワイヤーで繋がった小さな金属が射出され、男の左胸に命中した。ワイヤーを伝うように火花が散り、男は体をビクンと震わせた。
――ひょっとしてスタンガン?
――何かの映画で見た覚えがある。
――何故母さんがそんな物を?
頭の中に様々な疑問がわき起こり、乾いた眼球を潤すための瞬きがほんの一瞬僕の視界を遮った。
目を開けたとき、男の姿は消えていた。
「母さん――!!」
いまだ五メートル以上離れていたはずの男は、母のすぐ側に立っていた。母が振り向くのとほとんど同時に男の右腕が跳ね上がる。
赤い花びらが散ったのだと、そう思った。
――母は花の香りのする人だから。