第二十五話 『暗き野を馳せる者』
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空は雲一つなく晴れ渡り、遅れてやってきた春の風が肌に心地いい。きっとあとひと月もすれば夏が顔をのぞかせるだろう。
「――それじゃあお墓のお掃除して帰りましょうか。古くなったお花も換えないとね」
墓参りについてきてくれた景子が俺の肩に手を置いていった。もちろん昭や瑠花も一緒だ。
「あぁ、俺がやるよ」
景子が持っていた仏花を受け取り、俺は水差しから古くなった花を抜いた。少し萎びたキクの花に混じって、一輪だけ白い花を咲かせたアヤメがある。その花だけを上着のポケットにそっとしまった。
掃除も終わり、墓地をあとにする。瑠花と手を繋いで歩く景子の後ろについていた俺の袖を昭が引いてきた。
「なぁゴウ。俺考えたんだけどさー」
「うん?」
「俺がもうちょっと大きくなったらかくとうぎ教えてくれよ。このあいだみたいなやつ。俺もゴウみたいに強くなりたい」
特撮のヒーローを見るようなキラキラとした目で昭が見上げてくる。
「格闘技――? あぁ、あれか。ダメだよ、あんなのお前には必要ない」
前を向いたまま素っ気なく返す。向けられた純粋な憧れの目が後ろめたかった。俺に勇気をくれたのはお前だと教えてやりたかった。
「えー、いいじゃんか教えろよー。このケチ」
唇を尖らせてブーブーいいだした昭の頭に手を乗せ、頭をぐしゃぐしゃと撫で回す。
「いいんだよ。お前は今のままでいいんだ」
普段の俺らしくない物言いだったのだろう。昭は意外そうに目をぱちくりとさせ、それから少し照れたような笑顔を浮かべた。
「いい天気だし、このまま商店街まで行ってお昼ご飯食べようか」
橋を渡ったところで景子が俺たちを振り向いていった。
「やった、行こ行こ! ゴウも行くだろ!?」
昭が俺の腕を強く引いてくる。俺は景子と昭の顔を交互に見やり、ゆっくり首を横に振った。
「――悪い、俺はこれからちょっと行きたいところあるんだ。景子さん、俺はいいから三人で行ってきてよ」
そういうと昭は不満の声を上げ、瑠花もがっかりしたような表情をした。景子は少しだけ寂しげな表情を見せたが、すぐにそれをかき消してうなずいた。
「――わかったわ、気をつけて行ってらっしゃい。晩ご飯はゴウちゃんの分もカレー作るから、遅くならないようにね」
景子はそういって昭と瑠花の手を引き、駅に向かう道を歩いていった。何度も俺を振り向いて手を振ってくれる二人の姿が見えなくなるまでその場に立ち尽くし、流れる川に沿って歩き出す。
橋の下には誰もいなかった。俺が師匠と初めて出会い、そして亜矢が死を選んだであろう場所に立ち、川の流れに目を落とす。
あの夜から一週間が経っていた。亜矢は両親の仕事関係で突然の転校をしたと教師からクラスメイトに説明された。おそらく寡神がそうなるよう手を回したのだろう。亜矢が住んでいた家はあっという間に取り壊され、すでに更地になっていた。
連続失踪事件の犯人はいまだ見つからない扱いになっている。行方不明者が見つかることもないのだろう。犠牲者の遺族は真実を知ることすらできず、これからもいなくなった家族を待ち続けるのだろう。結局自分ができたことなどなにもない。この街に残ったものはあまりに大きな傷痕だけだった。
上着のポケットに刺していた花を取り出して目の前にかざす。亜矢はこれをどんな気持ちで供えてくれたのだろう。人間だった頃の思いが残っていたのか、それともこれすら俺を絶望させるための布石だったのか――。
よぎった思いをかき消すように頭を振った。もはや確かめる術さえないことを悪く考える意味などなにもない。
「たとえ俺のことを憎んでいても、お前は母さんのことだけは想ってくれていた。そうだよな――」
そう呟いて右手に巻いていた包帯をほどく。傷痕はいまもはっきりと右手の甲に刻まれたままだ。胸の傷同様、おそらく一生消えることはないだろう。
花を右手に持ち替え、川の縁に膝をついてそっと水の上に置いた。ゆっくりと流れに乗って白い花が運ばれていく。
「いつかお前のところにいったらもう一度謝るよ。だから少しの間――さよなら、亜矢」
水面を浮かぶ白い花は陽光の反射に紛れ、やがて見えなくなった。立ち去ろうとして、俺は一度だけ橋と土手の間にあるスペースを振り返った。
――もう二度と来るなよ。誰もいない空間からそんな声が聞こえた気がしたからだ。
*
冷気によって澄みきった空気の下、月の光を浴びるようにして一人の男が空を見上げていた。
五階建てビルの屋上に設けられた手すりに両肘をついて背を預け、パーカーのフードを目深に被っている。肩幅が広く、厚手のジャケット越しにでも見て取れるほどがっしりとした体躯をしている。
時折白い息を吐く以外は微動だにせずいた男の体がぴくりと動き、やや億劫そうに左手をフードの隙間に差し込んだ。
「あぁ」
男は少し間延びした、寝ぼけたような声をあげた。
『――俺だ。まさか寝てたんじゃないよな?』
男の左耳に差しているイヤホン型のインカムから呆れたような声が漏れる。男は口元に苦笑を浮かべながら手すりから背を離した。
「寝てないよ。少し昔のこと考えてただけだ」
『だったらいい。それより今どこにいるんだ? こっちは準備済んだってのに』
「奴らの真上だよ、ここからもう見えてる。五匹――多分元々はネズミかなにかじゃないかな」
『あっそ――仕事が早くて助かるぜ。こっちはいつでもいいが、くれぐれも無理はすんなよ? この前だって長官に怒られたばっかだろ』
「気をつける。忙しくなるからしばらく通信は切るよ。俺からかけるまで静かにやらせてくれ」
『了解。通信が切れるのを合図にこっちも状況に入る』
インカムが沈黙するのを確認し、男は大きく息を吐いてジャケットの袖を肘まで捲り、手すりを乗り越えた。三十メートルはあろうかという高さから見下ろした先には暗い路地が続いている。そこで蠢くいくつかの大きな影を男の目は捉えていた。
まるで階段を降りるような気軽さで男がビルの屋上から身を踊らせた。傍目には投身自殺としか思えぬ暴挙の中、男は冷静に着地点を見定めて両膝を曲げ、広げていた右手を握り固める。
暗闇にも鮮やかな輝きを放つ紅十字が手の甲に浮かび上がるのと、両足が地面に着くのはほとんど同時だった。
着地の衝撃で巻き上がった砂埃に混じって赤黒い液体が周囲に飛び散る。男の足下には血と肉の飛び出した毛皮が敷かれていた。おそらく大型犬ほどの大きさをしていたであろう生物が踏みつぶされ、原形もとどめぬほどぺしゃんこにされていた。
周囲にいた影たちの反応は素早かった。真上から急襲された個体とは違い、頭部からいくつも飛び出した蜘蛛の複眼に似た無数の目で男の姿を捉えていたからだ。
口内に生え揃った牙を剥き出しにして、まず手近にいた二体が同時に男へ飛びかかる。一瞬遅れてもう一体がそのあとに続いて跳躍した。だが男の動きはそれよりさらに速く、淀みのないものだった。
男は着地と同時に戦闘態勢へと移行していた全身を捻る。まるで竜巻のように繰り出された右正拳、左アッパー、右廻し足刀蹴りによって三体の獣が砕かれ、血煙へと変わる。だがそれとほぼ同時にもう一体が壁を蹴り、男の背後から飛びかかった。
男は蹴りによって伸びきった足をそこからさらに高く持ち上げ、上半身を後方へ捻ると同時にすさまじい勢いで振り下ろした。美しい半円を描いた男のかかとが獣の頭部を捉えて地面に叩きつけ、もう一つ大きな血だまりを作り出す。
男を中心に膨れ上がった空気が風をまき、着ていたジャケットの裾を揺らした。同時にパーカーのフードが煽られて捲れ上がり、頼りない街頭の光が男の素顔を照らし出す。少年のような甘さと獣じみた精悍さが同居した、整ってはいるがアンバランスさを感じさせる顔立ちだった。前髪を残して後ろへ撫でつけた頭髪はやや逆立ち、どこか獣のたてがみを思わせる。
男が両手を軽く開くと、重力に引かれて落下をはじめていた血や細かな肉片が、意志を持ったかのように手のひらに集まっていく。両手にハンドボールほどの血肉の塊が出来上がったところで男は無造作にそれらを握りつぶした。完全な液体と化した血肉が一瞬で――まるで乾いた砂に垂らした水のように男の腕に取り込まれる。
男はふぅ、と一息着いてから腕を軽く廻し、左耳に手をあてる。
「――終わった。回収も済んだし感染ったりする事はないと思うけど、一応気をつけてくれ」
『マジか? 今回は特に速いな、十秒経ってないぞ? まぁいいや、今からそっち向かうから誘導を――』
「待った」
男は会話を切り、路地の奥――闇の溜まり場に目を向けた。無数の赤い光が幾つも瞬き、耳障りな鳴き声を上げている。
「――やっぱりもう少しかかりそうだ。数も多いからヤバイかもしれない。もし俺が死んだらあとは頼む」
『は? おい、どういうことだ!? 場所教えろ、業。業――!』
男――七柄業はインカムを耳から外し、路地の端に投げ捨てた。
あれから五年か――気配が押し寄せるのを感じながら業はぼんやり考える。身体はデカくなったし、力も強くなっただろう。少しは自分が望んだものに近付けただろうか。
沸きかけたセンチな感情を鼻で笑い飛ばし、業は右手の甲を獣の群へとかざす。闇に浮かんだ血の十字架に危険なものを感じたか、獣の群れは一瞬たじろいだように足を止めた。
「どうした。俺の血は猫いらずじゃあないんだぜ」
業の言葉に獣たちが目の色を変えた。言葉などわかるはずもないが、少なくとも自分たちが貶められたことは理解したらしい。
ヤバイかもしれない――言葉ではそういったが、ここで死ぬつもりは微塵もない。ここで死んでは自分が今まで奪ってきたすべてを裏切ることになる。さすがにそれは許されまい。
横顔に街灯の光が作り出した精悍な影を貼り付け、業が駆ける。かつての弱々しかった姿はすでになく、彼もまた一個の獣となって闇夜に吼えた。
「来い! 死ぬのは俺か――それともお前らか?」
(了)




