第二十二話 『さらば愛しき化身よ』
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風切り音が耳元で聞こえるのと同時に横へ飛ぶ。亜矢の右触脚が真っ直ぐに伸び、俺が立っていた背後のフェンスに突き立った。先端の速度は完全に目で追える領域を越えている。
「スットロいね。次は当てちゃうよ」
亜矢は嘲笑の響きを声に含ませながら地面を転がった俺を振り返る。触脚が引き抜かれた際に節目に巻き込まれたフェンスが紙のように引き裂かれた。先ほどよりも肥大した外皮は蟹や海老など甲殻類の脚部を思わせる威容へと変貌している。
両手で地面を突き飛ばして体を跳ね起こし、同時に亜矢から距離をとる。目測に過ぎないが、触脚は伸ばせて四、五メートルほどのはずだ。
触脚をしならせて地面を打った亜矢の体が宙に浮き、爛と輝く瞳が闇夜に真紅の軌跡を描いた。一瞬で触脚の射程まで亜矢が詰めてくる。再び片方の触脚が地面に突き立てられ、超高速で放たれた突きが左肩をかすめた。まともに受ければ間違いなく腕ごと持っていかれるだろう。
脳裏にはっきりとした死のイメージが浮かぶ。本能的な恐怖が呼吸を荒げ、足をすくませる。つい今し方固めたはずの覚悟が揺らぎだす。
「クスクス――怖い? さっきわたしを殺すって息巻いたばっかりなのに、カッコ悪いなぁ。逃げてばっかりだとすぐ追いつめちゃうよ?」
戻した触脚の先端に頬ずりしながら亜矢が恍惚とした表情を浮かべる。唇の端を噛み、恐怖心が引きずり出されそうになるのをこらえる。亜矢がいうように逃げてばかりではどうにもならない。だが心とは裏腹に、両足が前に踏み出すことを拒んでいた。
亜矢を傷つけたくないからかもしれない。だが一番の理由はただ自分が傷つきたくないからだ。いまだに痛みを恐れるかつての自分が両足を縛り付けていた。
触脚が鎌首をもたげるのを見て後ろに飛ぶ。空中で上体を反らした俺の左胸を触脚がかすめ、着ていたスタジャンの綿が舞い散った。
この期に及んでまだ自分の心配か――自己嫌悪に駆られながら両手を地面につき、バク転の要領で後方へと大きく跳ねた。
触脚の届かぬ間合いまで離れた俺に再び亜矢が追いすがる。先ほどと同じく触脚をバネのようにしならせての跳躍だが、視線は俺ではなく着地先の地面に向けられている。俺の攻撃など想定していない、あまりにも無防備な体勢だった。
頭に浮かんだのは昭の背中。俺を守るため、勝てるはずもない相手に立ちはだかった小さくて幼い背中。
きっと今の俺よりずっと大きな恐怖があっただろう。どんな目にあわされるかも理解していた。それなのにあいつは前に踏み出した。
歯を食いしばり、逃避に向かおうとしていた両足を無理矢理前へと踏み出す。
「な!?」
亜矢の目が驚愕に見開かれる。着地点に向かって俺が踏み出すなど予想していなかったのだろう。苦し紛れに振り下ろされた亜矢の右触脚を更に前方へと踏み込むこんでかわす。
俺は弱い――昭のように強くはない。
左足を踏み込み、右肘を引いて拳を握り固める。左肩を浅く抉られる感触を覚えるが構わずに腰を落とした。
今だけでいい。お前の強さを――勇気を俺にくれ。
強く念じて拳を繰り出す。胸骨の中央へ吸い込まれるように到達した拳が確かな手応えとともに深々とめり込んだ。
「がはァッ――!!」
亜矢の体がくの字に折れ曲がる。人間とは明らかに異質な頑強さを感じさせる皮膚、さらにはその奥にある岩のような骨格。そして自らの拳がそれらを貫いた感触が伝わった。
胸を押さえて膝をついた亜矢と右の拳を交互に見る。動くことが出来なかったのは異質な感触が右手にこびりついていたためだった。大切に想っていた相手を殴るというのはここまで不快な感触が残るのか。
「よ――くも――」
憎しみに満ちた亜矢の声で我を取り戻す。顔を上げた亜矢が口から唾液を垂れ流し、憎悪の炎によって光を増した瞳で俺を見上げてくる。
「よくもやったな――この、クソが――」
総身の毛が逆立つ悪寒が全身を走る。横薙に振るわれた触脚を反射的に上げた左腕でかろうじて防ぐ。たいして振りかぶってすらないその一撃で俺の左腕は軋み、体は大きく弾き飛ばされた。
「ぐあ――」
衝撃によって脳が揺れ、平衡感覚が失われる。這いつくばりながら右のこめかみを手のひらで叩き、一刻も早く立ち上がろうと四肢に力を込める。
「油断した――結構やるじゃ――ない。業――」
亜矢が胸を押さえながら触脚を支えに立ち上がろうとしていた。俺は視界の揺れが治まるのを待たず、無理矢理体を起こして膝をつく。
「いっとくけど、こんな程度じゃわたしはすぐ治るんだよ? 今みたいなヘマだって、もう二度としない」
亜矢はそういいながらゆっくりと背筋を伸ばす。言葉と裏腹に胸の痛みはあるのだろう。苦痛に顔を歪めている。
「もう無理だ。お前は俺には勝てない」
頭を左右に振りながら立ち上がり、宣言した。揺れが治まった視界の中央で亜矢が呆けたような目を向けてくる。
「それ本気でいってる? ラッキーパンチ一発で調子に乗っちゃった?」
「本気だよ。自慢の脚はもう俺には当てられない」
血混じりの唾を吐き捨てながら亜矢を見据える。奇妙なほどに頭の奥が冷めている。亜矢がこめかみをピクリと揺らし、直後に左触脚を地面に突き立てた。
「舐めるな!」
亜矢が怒声を発するより早く左触脚に向かって駆ける。突き出された右触脚は俺にかすりもせず大きくそれた。
「なに――!?」
とっさに亜矢が引き抜こうとした左触脚を右足で踏みつける。触脚の先端がコンクリートを砕いて更に深く沈んだ。
「さっきから攻撃に移るたび地面を打ち付けるのはどうしてだ? 威力を見せつけるためじゃあない。お前はどちらか片方を使って体を支えないとその脚を振れないんだ。違うか?」
「黙れェ!!」
亜矢が伸ばした右触脚を横薙に振るう。左触脚を抑えていた右足を大きく踏み込んで上体を沈めると、頭上スレスレを触脚が通り過ぎる。
「私は強くなった! もう負けたりしないーー誰にもォォ!」
亜矢はおめきを撒き散らしながら再び触脚を振り上げた。その先端が振り下ろされるより速く肉薄した亜矢の脇腹へと右肘を打ち込んだ。
「ぎゃふ――」
亜矢が再び体を折り曲げた隙に背後へ回る。左肩から伸びる触脚の根本あたりを両手で掴みながら膝裏を蹴り、無理矢理地面に膝をつかせた。
「パワーがあり過ぎてお前自身持て余してる。だから精密に動かすことは出来ないし、咄嗟の変化に対応できない。伊達を気取りすぎたな」
「ぐっ――この野郎!!」
亜矢は唾を吐き散らしながら右触脚の先端を背後に向けた。俺は亜矢の背に足をかけ、左触脚を渾身の力でねじり上げた。
「悪あがきはよせ! お前の――負けだ!!」
亜矢の肩胛骨のあたりから伸びた触脚がブチブチという音を立ててちぎれていく。触脚を掴んだ両手を引き、亜矢の背中を思い切り蹴り飛ばした。
「ギャアアアアァァ!!!」
空気を切り裂くような凄まじい絶叫をあげ、亜矢が地面に倒れ込んだ。手元に残った触脚が力を失っていくのがわかる。渾身の力を込めて握ると触脚はたやすく砕け、血煙となって俺の左腕に吸い込まれていった。
口を開けて大きく息を吸い込んだ。その時激しい吐き気に襲われ、俺は立っていられずに口元を手で抑えながら膝をついた。
「うげ――げぼっ、ゲホォッ――」
口から大量の吐瀉物が吐き出される。それは胃の中にあったものすべてを出し尽くしてようやく治まった。
「うぐっ――くっ――」
嗚咽とともにこみ上げてきたのは涙。目と鼻と口すべてから液体を垂れ流しながら俺はむせび泣いた。
「どう――したの、業。せっかく、チャンスだった――今――」
途切れがちな亜矢の声が聞こえて顔を上げる。左肩を押さえながら、おぼつかない足取りで亜矢が歩いてくる。その顔には笑顔が浮かんでいた。
「ど――して、泣いてるの? 楽しくないの――?」
「楽しいわけ――楽しいわけないだろ!! お前はどうして笑っていられるんだよ!?」
亜矢が自分の顔に手を当てて首をかしげる。自分でも笑っていることに気づいていないようだった。
「あは――本当だ。なんで笑ってるんだろ? すごく痛くて悔しいのに――わたし笑ってる。アハハハ――」
開け放った口から狂気に満ちた笑い声を漏らし、亜矢が両手を広げて天を仰いだ。
「わたし、今はじめて業と繋がってる。今までみたいにうわべだけじゃなくて、本当の意味で心が重なってる気がする。――業は違うの? わたしと同じ気持ちにはならないの?」
これ以上亜矢の声を聞きたくなかった。頭がおかしくなりそうだった。
「やめろ――もうやめてくれぇ!! その姿で、その声で俺を呼ぶな!」
一刻も早くこの悪夢を終わらせたい――その思いに駆り立てられるように、言葉にならない叫びをあげて亜矢に突進した。
「あははは! 楽しい――本当に楽しいよ。ねぇ、ゴウちゃん?」
亜矢が残った触脚を俺に向けて振り下ろす。だがその一撃はすでにかわすまでもないほどに遅く、弱々しく地面を打った。
棒立ちに等しい亜矢の前で拳を握り、深く腰を落とす。亜矢の胸部には先の一撃で与えたダメージがいまだに楔として残っている。今度こそ間違いなく貫ける。
理性が悲鳴をあげ、脳が様々な思いを呼び起こす。それらすべてを振り切るようにして俺は握りしめた拳を解き放った。
「さよなら――亜矢」
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「あやちゃん、なにしてるの?」
照りつける太陽の下、手に持ったスコップでコンクリートの地面を叩いている亜矢に声をかける。そこは先日出来たばかりの有料駐車場の一角だった。
振り返った亜矢は汗だくになっていた。そのせいで気づけなかったが、どうやら泣いてもいるらしい。
「ゴウちゃん。どうしよう――これじゃ出てこれないよぉ」
亜矢がコンクリートの地面を指さしながらいった。俺は意味が分からずに首をかしげる。
「この木の下、いっぱいセミさんがいるの。ここにあった木は夏になるとセミさんのぬけがらいっぱいつくの」
そこまで聞いてようやく亜矢の行動を理解した。初夏から続いていたこのあたりの工事によってその木は切り倒され、地面も舗装されてしまった。そのせいでセミの幼虫が地面に埋まったままになっているといいたいのだろう。
「セミさんってすごく長いあいだ土の中にいるんだよ。これじゃ空が飛べなくて、セミさんかわいそうだよぉ――」
亜矢はそういってわんわん鳴き出した。どうにもならない――それは小学二年生の俺でも理解できることだった。正直めんどくさいとすら思った。
「――だいじょうぶだよ、セミは地面ほるのがうまいんだ。ほら、いまごろあの木の下までいってるよ」
俺は駐車場と隣接した家屋の庭に生えている木を指さしていった。もちろん嘘だ。
「――ほんと? だいじょうぶかなぁ?」
亜矢がしゃくりあげながら心配そうにいった。
「ほんとだよ――あやちゃん優しすぎるんだって。それよりこんな暑いところにいたらあやちゃんがにっしゃびょうなるよ。学校で先生にいわれただろ」
「――うん。ありがとね、ゴウちゃん」
涙を拭いながら亜矢がうなずく。俺は亜矢の手を引くようにしてその場をあとにした。
それは遙かに過ぎ去った時間――俺と亜矢がなんのしがらみもなく友達でいられた頃の、ある夏の日の思い出だった。




