第二十一話 『咎の烙印』
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「亜矢――つまんない冗談はやめろよ。遅いし帰ろう、送るから――」
射竦めるような視線を向けてくる亜矢から逃れるようにして顔を背ける。その時視界の端でなにかが蠢くのに気づき、吸い込まれるようにそちらへ顔を向けた。
廊下に転がっていた怪物の死体が形をなくし、どろりと崩れる。それが巨大なアメーバのように亜矢の足下へ這いずっていく。
「その感じだと本当にわたしのこと気づいてなかった? んふふ、結構いつ気づくかなってドキドキしてたけど、以外と鈍感なんだね。ヒントもいくつか出してたのに」
「ヒント――?」
「クラスのみんなにゴウちゃんが入院したこととか、おばさんが死んじゃったことバラしたの私だよ。お見舞いに行ってたの私だけだし、先生が詳しい経緯なんて知ってるはずないでしょ?」
頭を強く殴られたような衝撃が突き抜ける。同時に亜矢と一緒に共同墓地で貯水池を見下ろしたときの会話が頭をよぎった。
――殺されるのは女の人ばっかりだね。
確かに亜矢はそういった。どうしてあの場所で見つかったのが女だと知っていた? 現場はすでに警察によって片づけられたあとだったのに。
沸きかけた疑念を振り払うように頭を振った。そんなはずはない。亜矢に限ってそんなことはあり得ない。
「でも私だってゴウちゃんが似たようなことになってるの、進級するまで気づかなかったしお互い様かな。お人形さん使ってゴウちゃんがどれくらい強いのか試したけど、不思議なことできるんだね。あの女の人を動かしてた私のカケラが、ゴウちゃんに掴み出されたと思ったらあっという間に消えちゃった」
亜矢の声が逃避を求める俺の意識に割り込んでくる。顔を上げることができずにいる俺の目の前で、アメーバ状になった怪物の肉片が亜矢の足に吸い込まれるようにして肌と一体化していった。まるで水滴同士が混じり合うように。
「あれと同じかはわからないけど、私も似たようなことが出来るんだよ。それだけじゃなくて――」
怪物であったものを完全に取り込んだ亜矢の体に波紋がたち、薄手のワンピースが奇妙に蠢き出す。両腕で体を抱き抱えるようにして前屈みになった亜矢の背中が突然盛り上がり、黒く長大ななにかが皮膚を突き破って飛び出した。
月明かりに照らされたそれは血に塗れて滑光る一対の触脚だった。形状的には蜘蛛の歩脚と酷似している。重厚な外皮に覆われた脚部が鎌首をもたげるようにゆっくりと持ち上げられ、杭のように鋭い先端がまるで意志をもつかのように左右へ振られた。
「あ――はぁ――」
亜矢が髪を振り乱しながら顔を上げ、上気した吐息を漏らす。見知ったはずの幼なじみが見せた表情に戦慄を覚えながらも、いまだに俺の頭は目の前の現実を拒んでいた。
「こんなことだって出来るんだよ。さすがにここまで大きいのは初めてだけど。驚いた?」
「違う――こんなのはおかしい――間違ってる。こんなの正しくないことなんだ――」
耳を押さえながら頭を左右に振った。これは夢だと自分に言い聞かせる。頭を抱えてうずくまりたくなる衝動が全身を駆けめぐる。
唐突に足下の床――シューズの爪先スレスレの場所に亜矢の触脚が突き立てられる。轟音とともに砂埃が舞い上がり、砕けた建材が四方に飛び散った。顔を上げた瞬間左肩を衝撃が貫き、後方へと全身が引っ張られる。背後で壁の砕ける音が聞こえ、左肩から焼けるような熱を伴う激痛が頭に伝達された。
「あぐ――ぐああああぁぁ!!!!」
亜矢の右肩から伸びる触脚に左肩を刺し貫かれ、壁へと縫い止められた。両手で触脚を掴んで渾身の力を込めるがピクリとも動かせない。あまりにも規格外な、とてつもないパワーだった。
「口ごもってちゃ聞こえないよ? それに人とお話するときは目を見て話さなきゃ」
亜矢がたしなめるような口調で笑い、触脚を壁から抜いた。持ち上げられて宙吊りになった俺は自重で肩の傷が引き裂けないよう両手で触脚を掴むのが精一杯だった。
「や、やめろ、亜矢――降ろして、くれ――」
「あはは、ゴウちゃん痛い? 足バタバタさせちゃって、まるで虫みたい。あははは――」
哄笑を廊下に響かせながら亜矢が振り返る。俺をぶら下げたまま廊下を裸足で歩く亜矢の足音に混じり、空いた方の触脚が床を打つ硬質な音がこだまする。
「ここは空気も悪いし、雰囲気でないね。屋上行こうよ、ね?」
腰の後ろで組んだ両手を揺らしながら亜矢が俺を見上げてくる。触脚にしがみつくのに必死で答えることの出来ない俺にかまわず、亜矢は軽い足取りで階段を昇っていく。
「はい、とうちゃーく」
屋上へ出る扉の前で立ち止まった亜矢がドアノブを掴んで回す。施錠されていたであろうドアノブがメリメリと音を立ててひしゃげ、金具の根本からへし折れた。錠の役割を果たしていた金具が取り去られた扉は力なく外側に向かって開け放たれる。
屋上に出た途端凄まじい遠心力を受ける。肩から流れ出る血に塗れて摩擦を失っていた掌はたやすく振りほどかれ、俺は背中から屋上へと投げ出された。
「うあ――っぐぅ――!」
右手で左肩の傷を押さえながら上体を起こす。振り返ると、亜矢が肩から伸びる異形の触脚を揺らしながら屋上を囲むフェンスに向かって歩いていった。
「神社の境内ほどじゃないけど、ここも星がよく見えるね。でもやっぱり光が邪魔だな――」
フェンスに指をかけながら亜矢が呟く。右手を濡らす血の熱さと痛みが呆けていた俺に正気をもたらした。
「いつからそうなったんだ――?」
「さぁ?」
「なにがあったんだよ――教えてくれ、亜矢」
「ふふ――さぁ?」
「さっきあの怪物をお義父さんって呼んだけど、まさかあいつは――」
「そうだよ。せっかく動けるように生き返してあげたのに、てんで役に立たなかったね。ほんと骨の髄まで使えない人だったなぁ」
「生き――返した?」
「うん。前頭葉ってわかる? 脳味噌のここらへん――おでこのあたり。ここが潰れちゃってたから私の欠片を埋め込んで動けるようにしてあげたんだ。そうするとゴウちゃんを襲わせたお人形さんとは違って自分の意志である程度動くの。その分勝手なことも色々させちゃったけど」
「ここ最近の失踪事件は――やっぱりあいつが?」
「半分はね。もう半分は私――あぁでも、私はあの人と違って食べるために殺したわけじゃあないよ。色々とお勉強のため。お義父さんは体が変な風に変わってたでしょ? あれって凄く痛いらしいの。新鮮な血肉を食べれば治まるらしくて、それであんまり目立たないようにねって約束で許してあげてたの」
「そんな――そんな理由で人間を殺させたのか?」
「仕方ないよ。ワンちゃんやネコちゃんが食べられたりしたら可哀想でしょ? その点人間ならそこら辺にいくらでもいるもん」
「おばさんはどうしたんだ――? このことを知ってるのか?」
「お母さん? あの人ならとっくに死んでるよ」
亜矢はあっさりと、当然のように答えた。
「そんなはずない! この間お前を家まで送ったとき、遅くなったお前を叱ってたじゃないか! 俺は確かに聞こえ――」
『亜矢! こんな遅くまで遊んでちゃダメじゃない』
言葉を失い、口を開きかけたままで俺は固まった。今亜矢の口から紡がれたその声はあの夜と同じ――ドア越しに聞こえた亜矢の母親と同じ声だった。
「んふ、上手いでしょ? 声帯を変えるくらいなら簡単だからね。お母さんやお義父さんにかかってくる電話も全部私が対応してたんだよ。だから私が家にいる時に電話してもらうよう学校にはお願いしたの」
亜矢の得意げな声が耳に響く。胸の奥でなにかが音を立てて崩れ落ちていくのを感じ、両手を地面についた。右手に巻いていたブレスレットの十字架が手の甲に落ち、月の光を受けて鈍く光る。
「嬉しいな、ずっとそれつけてくれてるね。でもせっかく買い直したプレゼントだけど、やっぱり小さいなぁ――」
地面についた俺の右手を挟み込むように亜矢の触脚が伸び、交差された触脚の先端が手前に引かれた。ブレスレットが弾け飛び、手の甲に十字の傷が深々と刻み込まれる。
「ぐあ、ぁ――!」
「そうそう、ゴウちゃんにはそれくらい大きな十字架が必要だよね。――知ってるんだよ、ゴウちゃんがわたしを避けはじめた本当の理由」
トーンを落とした亜矢の言葉が心臓に突き刺さる。右手の甲を押さえながら顔を上げた先で、表情をなくした顔で亜矢が見下ろしていた。
「理由――俺は、俺はただ――」
「ゴウちゃん本当は知ってたでしょ? わたしが家でなにかされてるってこと」
鼓動が速まり、背筋が凍り付く。亜矢は首を左右にゆっくりと振った。
「もちろんなにをって理解してたわけじゃないことはわかるよ。それにたとえ知ってたとして、どうすることもできなかったことだって」
「違う! 俺は――」
声をあげようとした瞬間、側頭部に強烈な衝撃を受けて体が傾ぐ。俺の頭部に振るわれた亜矢の触脚が再び鎌首をもたげるような形で静止した。
「言い訳しないで。殺したくなっちゃうから――」
少し悲しげな声でそういうと、亜矢は俺に向かって歩を進める。双肩から伸びた触脚を揺らしながら近づく亜矢に心の底から恐怖を感じた。
「ひ――!」
情けない声が口から漏れる。尻餅をつき、足で這いずるようにして亜矢から離れようともがいた。
亜矢の体に傷や痣が目立つようになったのは両親が再婚したと聞いて少ししてからだろうか。亜矢は周囲に気づかせないよう隠していたが、少なくとも俺は気がついていた。日に日に陰を増していく亜矢の瞳が怖かった。時折すがるような目を向けてくる亜矢が疎ましく感じられた。女子と遊ぶのは恥ずかしい――そんな言葉を突きつけて俺は亜矢と距離を置いた。
「この力を手に入れて、最初に沸いたのは怒りだった。知っていたのに助けてくれなかったお母さんでも、毎日わたしを虐めてたあの男でもなくて、ゴウちゃんに対しての。――不思議だよね、ゴウちゃんがなにもできないのは仕方ないってわかってたのに」
背中とフェンスが激しくぶつかる。俺の逃げ場を奪うように触脚を左右に開きながら亜矢が目の前で立ち止まる。
「許して――許してくれ、亜矢。あの時の俺は――俺にはどうすることもできなかった。助けたかった。だけど――」
亜矢の肩から伸びる触脚が今にも振り下ろされそうに思えた。恐怖と罪の意識から俺は頭を抱えてうずくまるしかできなかった。
「そんなに怖がらないで。さっきはつい調子に乗ってひどいことしちゃったけど、なんだか気が変わっちゃった。本当のことを知ったら怒って、もっとガーって感じで躍り掛かってくると思ってたんだ」
亜矢の口調が突然柔らかくなる。亜矢の両手が俺の頬にあてられ、そっと顔を上げさせられた。
「ゴウちゃんは弱くて当然だもんね。だってゴウちゃんは生まれてしばらくの間、男の子ですらなかったんだから」
亜矢の言葉がむき出しになっていた心に突き刺さる。瞳に諧謔の光を宿らせながら亜矢は続けた。
「お母さんから産まれるのが早すぎたんだっけ? 人間って胎児のうちは女の子から始まって、それから成長するにつれて男の子になっていくんだよね。その途中で出てきちゃったから中途半端な体で大きくなったって教えてくれたね。他の子みたいに立ってオシッコ出来るようになったのが五歳くらいだっけ?」
心は既に折れていた。楽しそうに話す亜矢に対して怒りも悲しみも沸いてこない。恐怖によって歯が噛み合わず、ガチガチと音を立てる。
「だけど最近になって本当に男らしくなったよね。退院してからそうなったってことはわたしと同じ変化があったんだと思うけど、ゴウちゃんは私たちと全然違うよね。目だって赤くならないし」
亜矢が顔を間近に近づけ、暗闇でもなお煌々と輝く深紅の瞳で穿つように俺の目をのぞき込む。だがすぐに亜矢は小さく笑って顔を離し、俺の頭に腕を回して優しく抱き寄せた。ワンピース越しに感じた亜矢の肌はぞっとするほど硬く、冷たかった。
「でもそんなのいいか。わたしは昔のゴウちゃんも今のゴウちゃんもどっちも好き。反省もしてるみたいだし、許してあげてもいいよ」
優しい口調に含まれた明らかな毒。それでも俺は安堵した。崩れた心はただ安らぎを求めていた。
「許して――くれるのか?」
「うん。でも、一つだけお願い聞いてくれる?」
抗うことなど出来ない。力なくうなずいた俺に顔を寄せ、亜矢が耳元で囁いた。
「桐生さんたちを殺して。ゴウちゃんが、自分の手で」
耳を疑うその言葉に瞼を見開いた。真横に動かした俺の瞳と、深紅に染まった亜矢の瞳が交錯する。
「なんで――あの人たちを?」
「邪魔だったから。わたしは孤独と絶望でゴウちゃんが壊れる様が見たかったのに、あの人たちが支えてしまった。本当ならもっともっとわたしに依存させられるはずだったのに。何度か殺そうと考えたけど、あんまり身近で迂闊なことはできなかった」
冷え切っていた心にかすかな熱が戻る。歯噛みしながら語る亜矢に対して初めて邪悪なものを感じた。
「桐生さんがゴウちゃんの家でご飯一緒に食べた日があったでしょ? あの日もわたしはそんなゴウちゃんを見てた。そのうち景子さんが一人で部屋から出てきたときは、今ここで殺そうかって本気で迷った。結局ゴウちゃんが部屋から飛び出してきて機会を逃したけど」
「なんだと――」
あの日、景子を案じて飛び出したのは本当に偶然だった。もしニュースで危機感を煽られていたなかったらあんな行動はしなかった。
亜矢が口角を持ち上げ、狂気に満ちた笑顔を浮かべる。消え失せていた原始的な感情が沸々とたぎり、萎えた手足に力がこもった。
「気づかなかった? わたしはあの時アパートの真下にいたんだよ」
無意識に振るった右腕が空を切る。数メートルほど後ろに飛んだ亜矢が音もなく着地し、不機嫌そうに首をかしげた。
「なんのつもり? わたしがせっかく罪ほろぼしの機会をあげてるのに」
「亜矢――お前にどれだけ憎まれることになっても、永遠に罪を背負うことになってもそれだけは駄目だ。絶対に許さない」
デパートで見た景子たちの後ろ姿が脳裏をよぎる。あの幸せを壊すことはさせない――そう思うだけで木偶のようだった両足に力が戻る。
「あの人たちを傷つけさせはしない。そのためならたとえお前とでも――いや、お前は違う。お前は亜矢の姿をした別物だ!」
亜矢は目を丸くして俺を見つめたあと、一切の表情を消し去った。振り下ろされた触脚の先端が深々と床に突き立てられ、屋上に轟音が響きわたる。
「そう、ずっと一緒だったわたしよりぽっと出のお隣さんが大事なの。それにわたしが別物? 今回もそうやって自分に都合のいい理由をつけるのね」
亜矢に対して左手をかざし、構えをとる。既に左肩に穿たれた傷からは血が止まり、右手の傷も皮膜が張りつつある。亜矢は違うといったが俺もすでに普通の人間とは違ってしまった。だからこそ俺だけが亜矢を止められる。異質であれど、近しいもの同士として。
「手足を砕いて動けなくしてからあの親子を殺すところを見せつけてやる――もう後悔したって遅いよ」
大きく息を吐き出し、右拳を握りしめる。塞がりかけていた傷口が裂け、俺の弱さが犯した罪――咎の烙印と呼ぶべき赤い十字架が再び浮かび上がった。
「亜矢、お前を――殺す」
忌まわしき誓いを言葉にした。罪の深さに負け、心が折れてしまわぬように。




