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第二十話 『朱に交わりて』




 鋭利な凶器と化した蛍光灯を突きつけたまま神経を研ぎ澄ます。だが怪物は口から涎を垂れ流しながら低い唸りをあげるだけで、向かってくる様子がない。


「――セ、バ」


 怪物が黒い毛に覆われた手を小刻みに震わせ、奇妙に歪んだこめかみのあたりを押さえながらなにかを呟いた。


「コロセバ――キエル――コノ、イタミ――」


 耳障りな吐息が混じって聞き取りづらいが、間違いなく人間の言葉だった。


「こいつ――喋れるのか」


 あまりのことに意表を突かれたが、敵から意識を外せば死を招く。今はただこいつを殺すことだけを考えろ――沸きかけた疑問を飲み込み、地面を蹴る。空中で蛍光灯を持つ右手を引き、怪物の顔面に向けて突進の勢いそのままに突き出した。


 だが奇襲にも似たその一撃は空を切る。一切の予備動作なしで真横に飛んだ怪物は壁を蹴り、まるでヤモリのように天井へと張り付いた。瞼も鼻もそげ落ちたような平面的な顔を俺に向け、耳のあたりまで裂けた口を開けて奇声を発する。


「う!?」


 反射的に体を反らす。弾かれたように飛びかかってきた怪物が振るった右腕が眼前を通り過ぎていく。空間ごとえぐり取るような圧力を伴う怪物の爪がスローモーに鼻先をかすめていった。まるで動画をコマ送りにしたように。


 引き伸ばされていた時間が戻り、床が抜けそうな衝撃と共に怪物が降り立つ。怪物が振り向くのと同時に横へと振るわれた腕を屈んでかわし、後ろに跳んで距離をとる。


 怪物がもどかしげに牙を軋らせ、せき込むように喉の奥を震わせた。頭を後ろに大きく反らした怪物の胸が突如膨らみ、喉に向かってせり上がっていく。


 なにをする気かと思った刹那、怪物の上体がぐんと勢いよく戻された。背筋に寒気を覚え、横に大きく跳んで床を転がる。怪物の口から吐き出された粘液の塊が、いましがた俺の立っていた場所で弾けて周囲に散った。床をぬらした粘液から白い煙があがり、部屋中に異臭が立ちこめる。


 口元を押さえながら立ち上がる。鼓動が速まっているのは恐怖もあるが、それ以上に高揚があった。得体の知れぬ存在と戦える強さが自分にはある――そんな実感が総身を震わせた。


 怪物がざらついた唸りをあげて再び突進してくる。掴みかかってきた右手を左腕で外側に逸らしたが、すさまじい衝撃を受けて足が地面から浮きかける。やはりまともな力勝負は出来そうにない。


 次々と繰り出される攻撃を後ろへ下がりながらかわしていく。すぐにかかとが固いものに触れ、壁際に追いつめられたことに気づかされる。


 手刀の形に引き絞られた怪物の右手が矢のように放たれる。後ろ髪が壁に触れるほど上体を反らし、迫り来る破壊をギリギリまで引きつけてから一気に顔を横に振った。


 ばすっという思っていたよりも地味な音が耳元で鳴り、同時に粉塵が舞い散る。どうやら怪物の一撃に比して建材が脆すぎたらしい。手首まで壁に埋めた怪物が間近で口を大きく開けた。


「うおぉ!」


 握りしめていた蛍光灯を逆手にし、気合いと共に怪物の口内に突き立てた。バリバリとガラスの割れる音を響かせながらほとんど根本まで一気に押し込む。


「グ――ギャアアアアァァ!!」


 絶叫とともに怪物が背中を丸め、数歩後ずさる。両手で押さえた口元から血が流れ落ち、それに混じったガラス片が音を立てて床に散らばった。


 手に残った蛍光灯の残骸を投げ捨て、身悶えする怪物の側まで歩み寄る。俺が近づいたことに気づいた怪物が顔を上げた瞬間、側頭部にめがけてハイキックを叩き込む。練習などしたこともない、以前にテレビで見たことのある動きを真似ただけのものだったが、予想外に綺麗に決まった。


 横へと大きく吹っ飛んだ怪物は転がりながら窓際の壁へとぶつかった。怪物は腕を震わせながら窓の手すりに掴まり、ゆっくりと体を起こす。激しくせき込みながら口の中に残ったガラス片とどす黒い血を吐き散らす。


「立て――まだまだそんなもんじゃあ済まさない。お前が殺した人たち全部の痛みをくれてやる」


 怪物は頭をぶんぶんと震わせ、再び俺に向き直って雄叫びをあげた。先ほどより怒りが色濃く現れたその声は、すでに人間の耳では聞き取れない領域の音波が混じっている。鼓膜を直接揺さぶられるような耳鳴りがして思わず顔をしかめる。


 壁を蹴るようにして躍り掛かってきた怪物が振り下ろしてきた左腕を後方に飛んでかわす。地面に足がつくのと、怪物が右腕を槍のように突き出してくるのが同時だった。


「おぉ――!!」


 前に踏み出しながら左腕で怪物の腕を真上に跳ね上げ、がら空きになった脇腹に右肘を打ち込んだ。体重を前方にかけて怪物の勢いに押されないよう両足を踏ん張る。怪物の体を覆う分厚い筋肉を通してすら肋骨が砕けるのがはっきり感じ取れた。


「グゲッ!」


 奇怪な声を上げて動きを止めた怪物の顎を真下から蹴り上げる。大きく仰け反って棒立ちになった怪物の右腕を掴み、柔道の背負い投げを荒っぽくしたような形で背後に投げ飛ばした。


 ビル全体を揺るがすほどの勢いで壁に叩きつけられた怪物は、それでもなお動きを止めなかった。壁に手を突き、酔っぱらったようにふらついた足取りで立ち上がろうとしている。恐ろしい程タフだが用水路で戦った女と違い、手応えは確かに感じる。


 目の前に右手をかざした。女の死体を動かしていた得体の知れぬ物体の感触を思い出す。先ほど直に触れたとき、こいつからは間違いなくあれと同じものを感じた。それなら同じ方法で殺せるはずだ。


「とどめだ。地獄に落ちろ――化け物め」


 大股で怪物に向かって歩み寄る。怪物は俺が向けた右腕に危険なものを感じたのか、明らかに怯んだ様子で壁に手をついた。壁を支えにふらつく足で部屋の出口を目指す。


「ヒ――ヒィ――」


 情けない声をあげ、這うようにして廊下へと逃れた怪物の姿を見ていいしれぬ快感がこみ上げてくる。口元に浮かびかけた笑いをかみ殺し、後を追うようにして部屋を出た。


「どこに行く? 逃げられると――」


 言葉を失う。長い廊下の先、怪物を挟む位置の暗がりに立つ人影――ここにいるはずのない見慣れたシルエット。


「ゴウちゃん」


 真っ白なチューブトップワンピースを着た亜矢が窓から差し込む月明かりの下で立ち尽くしていた。抑揚のない口調で亜矢がぽつりと呟き、視線を俺と怪物へ交互に向けた。ワンピースの裾がガラスのない窓から吹く風に揺れている。


 ――どうしてここに?


 ――あとをつけられた?


 ――なんで気づかなかった?


 いくつもの疑問が頭の中にわき上がる。思考に一瞬の空白が生まれた俺より早く、怪物が這うようにして亜矢に向かっていった。何よりも優先すべきことを忘れて呆けている自分に気づき、全身から血の気が引いた。


「よせ――やめろォ!!」


 絶叫とともに怪物を追うが、その時すでに怪物は亜矢の両肩を掴み、壁に背中から押しつけていた。


 母が死んだ夜の光景がフラッシュバックする。二度と繰り返すまいと誓ったはずなのに――自分自身に対する怒りと後悔が狂おしいほどに燃え上がる。声にならぬ叫びをあげ、亜矢に向かって右手をちぎれそうなほどに伸ばした。


「――だからいったのに。勝てっこないよって」


 壁に押しつけられた亜矢の口から声が漏れる。床を蹴ろうとしていた右足を踏み止めたのは違和感。亜矢の言葉に対してではなく、壁に押しつけている怪物に対しての。


 怪物の頭頂部から細く尖ったものが飛び出していた。怪物は小刻みに体を震わせ、血が全身から噴き出し始めている。亜矢が着ているワンピースのスカートから伸びた黒く細長いなにかが、怪物を股下から頭部にかけて刺し貫いていた。


「いうこと聞かないからこうなるんだよ? お義父とうさん――」


 亜矢が子供をあやすようにいった直後、怪物の体が真っ二つに裂けた。怪物を肉片へと変えた黒い触手の先端が蛇のように蠢き、亜矢のスカートの中へとするりと戻る。


「あ、や――?」


 一連の流れをただ呆然と見ていた俺はようやくそれだけ口にした。頭が働かない。理解が追いつかない。今、目の前で一体なにが起こった?


「本当はもう少し楽しみたかったけど、時間もないしちょうどよかったのかもしれないね。ここならだれにも邪魔されないし」


 亜矢が目を伏せたまま俺に向き直る。真っ白な裸足のまま廊下を歩き出した亜矢を見て、割れたガラスを踏みはしないか――そんな馬鹿げた考えしか浮かんでこなかった。


「無事で――よかった。でも、ケガするぞ――そんな、裸足で――」


 考えたままを口にするしかできない。完全に頭は止まっていた。亜矢が口元を押さえながらクスクスと笑う。


「そうそう、それがゴウちゃんだよね。自分が背負いきれないものからすぐに目をそらして逃げるの。器のちっちゃーい、本当にカッコ悪い男の子」


 亜矢が近づいてくるのに合わせて後ずさる。顔を上げた先に、目を閉じたまま口元に微笑をたたえる亜矢の顔があった。


「でもそれでいいんだよ。だって――」


 亜矢の瞼がゆっくりと開かれる。血のように赤く、炎のような輝きを宿した瞳がまっすぐ俺を見つめてくる。


「それが私の好きだったゴウちゃんだもん」



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