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第十八話 『揺らぐ月を見上げて』





 まだ日没まで間があるはずだが、沈みかけた太陽の残り火は分厚い雲を透過するには至らない。周囲には既に闇の帳が下りていた。


「わざわざ送ってもらってごめんね。今日は本当に楽しかったぁ」


 亜矢が家の門扉に手をかけながら振り返る。亜矢の家は俺のアパートから五十メートルも離れてはいないが、この一人で帰らせるのは不安だった。


「俺も楽しかった。――おばさんたちはいるのか?」


 亜矢の家に視線を向けながら尋ねる。室内はしんとしているがリビングや玄関には明かりがついている。


「うん。こんな時間まで遊んでたから怒られちゃうかも」


 亜矢がイタズラっぽくちろりと舌を出した。時刻はもうすぐ七時になる。たしかに子供だけで遊んでいていい時間ではない。


「それじゃあまた明日。ゴウちゃんも気をつけて帰ってね」

「――あぁ。またな」


 亜矢が玄関から家へはいると、直後に中から声が聞こえた。


「亜矢! こんな遅くまで遊んでちゃダメじゃない」


 それは久しぶりに聞く亜矢の母親の声だった。


「ごめんなさぁい。でもゴウちゃんと一緒だったから大丈夫だよ」

「そうなの? それならいいけど――ちゃんと連絡はしなきゃダメよ」


 どうやら怒っているわけではないらしい。俺はほっと息をついてその場をあとにした。


 帰ろうかとも思ったが、不意に師匠がどうしているのか気になった。昨夜はなにも考えずにあとを任せてしまったが、思い返してみると遺体の場所を移すなどというとんでもないことをさせてしまった。


 きびすを返し、橋に向かって歩を早める。いるかどうかはわからないが、あの場所以外に俺は師匠がいそうなところを知らない。


 橋に着くと土手を滑り降りるのもわずらわしく感じ、一息に川原へと飛び降りた。足が地面につくと同時に橋の下へと走り込み、斜面を見上げる。師匠が片膝を立てて斜面の最上段に腰掛け、川の流れをじっと見つめていた。


「せわしないのう。今日は一段と来るのが遅かったな」


 俺に顔を向けることなく師匠がいった。


「師匠――よかった。警察に連れて行かれたんじゃないかって思った――」


 肩で息をつきながらいうと、師匠はふっと笑って立ち上がり、斜面を飛び降りた。帽子を頭に乗せ、手にはボストンバッグが握られている。


「そんなヘマはせんわい。用水路から地上に出しただけじゃったからな」

「昨日はありがとう。――どっか行くのか?」

「あぁ。儂は今夜この街を発つ。お前には一応いっておこうと思ってな」


 突然のことに頭の中が白く染まる。同時に後悔と罪悪感が沸き立った。


「俺のせいか? やっぱり昨日のことでなにか――」

「そうではない。少し前にいっただろう、事情が変わったと。詳しくは話さんが元々儂はこの街に長居するつもりはなかったのだ」


 師匠はそういって首を横に振るが、タイミングから考えて昨日のことが少なからず原因となっているのは間違いない。言葉を失いうつむいていると、師匠がため息混じりにぽつりと呟いた。


「――腹減ったの。メシでも行くか」





 「お、じいさん毎度。――んん?」


 角刈りに鉢巻きをした赤ら顔の店主が目を丸くして顔を近づけてくる。どうしていいかわからず、とりあえず愛想笑いを浮かべた。


 ここは駅から少し離れた高架下の通りで、夜になるといくつかの屋台が店を出している。とはいえ母さんと一緒に近くを通ったことがあるくらいで、立ち寄ったことは一度もない。


「じいさん、その子は?」

「孫じゃ」

「孫ォ!?」


 あやうく店主と声がかぶりそうになる。あまりにしれっとでたらめをいうので反応が遅れたのが幸いだった。


(事情を説明するのもめんどくさい。お前も話を合わせい)

(お――おう)


 腰を屈めて耳打ちする師匠に相づちを返す。店主は俺と師匠を交互に見比べてから陽気な笑い声を上げた。


「はえー、じいさんにこんなかわいいお孫さんいたとはねぇ。えっと、お坊ちゃん? お嬢ちゃん?」

「――男だよ」

「もういいじゃろ、酒くれ。こいつにはジュースと、他に適当にみつくろって出してやってくれ。業、ここ座れ」


 師匠が屋台の正面に並べてある丸イスに座りながら隣を指さす。


「わ、わかったオジーチャン」


 ぎこちなく答えて腰を下ろす。目の前では様々な具材が煮込まれたおでんが湯気をたてている。店主がそれらを皿に盛り、オレンジジュースの瓶と一緒に置いてくれた。


「はいよ、お待ちどう。――それにしてもじいさん、せっかくお孫さんと一緒ならもっといい店連れてってやりゃいいのに。なにもこんな小汚い屋台連れてくることねぇだろ」

「ええ、うるさい。いいから他の客の相手でもしとれ」

「へいへい、孫との語らいを邪魔する気なんてねーからよ」


 店主はおどけたように肩をすくめると、野外テーブルを広げただけの簡素なテーブル席のほうに向かった。そこでは数人の男女が談笑していて、店主とも親しげに話しているあたり常連なのだろう。


「こういう店に来るのは初めてか?」


 師匠はそういってコップになみなみと注がれた酒を口に含んだ。


「うん。師匠はよく来るのか?」

「まぁな。儂が産まれた街ではここよりもっと薄汚い屋台が建ち並ぶ通りがあって、幼い頃はそこで残飯漁ったり、金があるときは具材もよくしれんゴッタ煮を食ったりしておった」


 大根を箸でつつきながら師匠が懐かしげにいった。俺も茶色くなるまで煮込まれた卵を箸で割って口に運んだ。


「あちち。――あ、すごいうまい」


 俺がそういうと師匠は口ひげを小さく揺らした。


「そうか。遠慮せんでどんどん食え」


 いわれるまま黙々と箸を進める。というより何を話すべきかわからず、食べるくらいしかできないというのが正しい。時々店主が戻ってきては師匠のコップに酒を注ぎ直したり、空になった皿におでんを盛りつけてくれたりする以外は特に会話もないまま時間が過ぎていった。


「この一ヶ月で教えたことは続けておるか?」


 先に話を切り出したのは師匠だった。慌てて口に入れていたちくわを飲み込んでうなずく。


「あぁ、続けてるよ。でも戦いとはなんの関係もないことばっかりじゃないか。俺はもっと――」

「関係がないと思うのはお前がガキだからじゃ。学ぶことは戦いに限らず生きることすべてに繋がる重要な習慣。最初に学校のテストをがんばれといったのはそのためだ」

「でも、学校で教えてくれる知識がそんなに色々な役に立つのか?」

「学校という制度の本来持つ役割は子供に学ぶという行為そのものを教えること。今では目的がすり替わってあべこべになっているようだがな」

「学ぶという行為――? 毎日勉強しろってことか?」

「なにも教科書や問題集を解くばかりが勉強ではない。生きていく上で目や耳にする情報を取捨選択し己の血肉とすること――それが学ぶということだ。少なくとも儂が知る強い者達は皆学ぶことに貪欲じゃ。戦場で馬鹿は真っ先に死ぬ」


「お、映画かなんかの話かい?」


 店主の赤ら顔が急に割って入ってきたので飛び上がりそうになった。師匠はため息をつきながら手をプラプラと振ってみせる。


「――映画の話じゃ。話に入ってくるでない」

「どうだい坊ちゃん、うちのおでんうまいか?」


 店主は師匠にかまわず俺に笑顔を向けてきた。


「お、おいしいです」

「ガハハ、そうかそうか。ほれ、ジュースもう一本オマケしちゃる」


 店主は豪快に笑いながらジュースの瓶を俺の前に置いた。


「ありがとう――」


 俺が頭を下げると店主は笑い声をあげて再びテーブル席へと戻っていった。師匠はやれやれという感じで額に手をあてる。


「――どこまで話したかの。まぁ儂が最後にいいたかったのはそういうことじゃ。これでもう儂がお前に教えてやれることなどない。元々お前は戦う力を持っていたが、それを行使する段階を踏んでいなかったために戸惑いがあっただけだ。あとは自分で考えて自分で学べ」


 師匠はそういってからコップに注がれた酒を一息に空けた。俺はおでんの入った皿に目を落とす。


「俺にできるのかな?」

「できそうになければやめればいい。お前はもう少し不真面目になるくらいでいいと思うぞ」

「途中で諦めるなんてそんなのイヤだよ」

「――前にいったかもしれんが、この世はとにかく理不尽なことであふれている。悪人が幸せな生を送り、善人が泣きを見るようなことだらけじゃ。それらすべてを受け止めていてはただ生きづらいだけ。真面目であることは時に己の首を絞める」


 師匠の手が屋台の奥に伸び、日本酒の瓶を掴んだ。瓶に満たされた透明な液体を揺らしながら師匠が言葉を続ける。


「大人は酒でそれらをごまかせる。だが子供のお前はそうはいかん。だからせめて酒が飲めるくらい大人になるまでは――もう少し気楽にいけ」


 そういってコップの縁までいっぱいに酒を注ぐ。俺は師匠の言葉に賛同も否定もできず、ただ手元の皿を見つめるしかできなかった。



 それから一通り飲み食いをしたあと、師匠がコートのポケットから取り出したしわくちゃな紙幣で会計を済ませた。俺は屋台の店主に礼をいってから店を出る。


 駅まではあっという間だった。師匠はバッグを肩に担いで俺を振り向くと、いつもと変わらない口調でいった。


「ここでお別れじゃ。達者で暮らせよ」

「なぁ、これからどこ行くんだ? ――次はいつくるんだ?」

「とりあえずアメリカにでも渡るつもりじゃ。この街に来ることはおそらく二度とない」


 アメリカに渡る――簡単にいうがどこまで本気なのかわからない。だが二度と戻らないという言葉にはひどく真実味があった。


「そんな顔をするな。こんな怪しいジジイのことなんぞ忘れちまえばいい」

「忘れないよ。俺の――命の恩人なんだぞ――」


 声に嗚咽が混じる。目から涙があふれていた。初めてあった日のこと、ビルで助けてもらった時のこと、橋の下で教えを受けたことが次々に浮かんだ。この人がいたから自分は今こうしていられるという思いがこみ上げる。


「ふ――まったく真面目な奴じゃ。泣いたらお前の母も悲しむぞ?」

「――うん」

「学校の勉強をサボるなよ。無理に体を鍛えるなよ」

「――うん」

「それじゃあ儂はもう行くぞ。最後に業、もっと笑って生きろ。スマイルじゃ、スマーイル」


 師匠は笑ってそういうと駅に向かって歩きだした。その後ろ姿が人混みに紛れて消えるまでずっと見つめていたが、再び目からこぼれそうになった涙をこらえようとして空を見上げた。


 涙でぼやけた夜空の真ん中に丸い月が揺らいでいる。ふと既視感を覚えて記憶をたどった。


 母と歩いた最後の夜、あの時母が空を見上げていたのは今の自分と同じだったのか? だがあの時母が泣く理由などなかったはずだ。


 いくら考えても答えは出ない。俺は涙を拭い、アパートへ帰るために歩き出す。


 背後で電車の発車アナウンスが鳴るのが聞こえた。振り向きかけた体を無理矢理戻し、家に向かって歩みを早めた。



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