第十七話 『翳る空』
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断片的な映像が入り乱れる夢にひたされた浅い眠りから目を覚ます。内容をはっきりと思い出すことはできないが、多くが恐怖を伴うものであったことだけは覚えている。
瞼の上から眼球を指で揉みながら時計を見上げると、まだ五時を回ったところだった。昨夜は軽い興奮状態が続き、布団に入ってもしばらく眠ることができずにいたのでこれでもよく眠れたほうだ。
布団から這い出て洗面所で顔を洗う。洗濯機にまとめて入れておいた昨日の着衣は既に洗い終わっていたが、念のためにもう一度回すことにした。
昨日はデパートで昼食をとって以来なにも口にしていないはずなのに空腹感はまるでない。胃袋ではなく細胞そのものが活力に満ちている感覚だ。おそらく昨夜の地下水路で女の体から引き剥がした黒い物体を取り込んだことによるものだろう。
両手を広げて顔の前にかざす。あの時は本当に無意識だったが、今思えば自分が具体的になにをしたのかがわからない。胃の中の食物をどのように溶かしているのか説明できないのと似ている。ただ手の中で蠢いていた肉塊を握りつぶした瞬間、こびりついた肉片から飛散した血しぶきに至るまでが自分の一部となったように感じた。
一夜明けて冷静に思い返すとあまりに異常で現実味がない。今の今まで目をそらし続けていたが、自分が完全に人間ではなくなったことを突きつけられた思いがした。
洗面台の鏡を前にしてシャツを脱ぐ。以前はあばらが浮いていた貧弱な上半身と、枯れ枝のようだった両腕をしなやかな筋肉が包み込み皮膚を波立たせている。左胸にはあの夜に負わされた傷痕が刻まれたままだ。
女々しい顔立ちは以前と変わりないが、少しだけ険のある目つきになった気がする。髪が耳を覆い隠すほど伸びているのでそろそろ切らなければならないが、以前までそれをしてくれていた母はもういない。
「あいつを殺すことができるなら――それでいいさ」
両手を握りしめながら呟く。あの男を殺す力を自分は欲した。それが叶ったというのならたとえ怪物になろうとも構いはしない。
シャツを着直して洗面所を出る。台所でコップ一杯の牛乳を飲んでからテレビの電源を点けた。チャンネルをニュースに合わせるが、流れているのは天気予報や各地の情景が報じられているばかりだった。
昨夜のことに少しでも触れられているかと思ったが、考えてみれば遺体が見つかるのは少なくとも夜が明けてからだろう。ニュースになるとしてももう少し時間が必要なはずだ。遺体を移動させるといっていたが、師匠は大丈夫だろうか。
そんなことを考えながらしばらくニュースをぼんやり眺めていたが、ドアの呼び鈴が鳴り響いた音でハッと目を覚ます。どうやら座ったまま眠ってしまったようだ。テレビの時刻表示は九時を少し過ぎていた。
「アハハハハ! ゴウ、なんだその顔? ほっぺた真っ赤だぞ」
ドアを開けた途端、昭が俺の顔を指さして笑い声をあげた。ずっとちゃぶ台に頬杖をついていたせいか、跡が残っているようだ。
「うるさいな。それより朝からなんの用だよ」
「日曜だけどお母さん仕事いっちゃったから遊びにきた」
昭がふんぞり返っていった。隣には瑠花がどこか申し訳なさそうな顔をして立っている。
「イバるところじゃあないだろ。別に来るのはいいけど、俺もう少ししたら出かけるから遊んではやれないぞ」
いいながらドアをいっぱいに押し開き、二人を中に入れてやる。昭はさっさと部屋に駆け込んだが、瑠花はその場から動かずに俺を見上げて首を傾げた。
「ゴウ兄ちゃん、どっかいくの?」
「――ちょっと用事があるんだ。そんなたいしたことじゃあないんだけど――」
「おじゃましちゃっていいの?」
瑠花の伺うような口調で俺に気を遣っているのだとわかる。一人で留守番をすることの退屈さは俺もよく知っているので、最初から追い返すつもりはない。
「遠慮するなよ。こないだみたいに部屋で勝手に遊んでくれてたらいい。――瑠花はえらいな」
瑠花の頭をなでようとして伸ばしかけた腕が硬直した。血にまみれたように赤くぬめ光る右手から無数の血管が伸び、それらが飢えた蛇のように這い回っていた。まるで新たな獲物を求めるように。
「は――!?」
反射的に右手を引き、左手で覆い隠す。突然のことに瑠花が驚いて身を引いた。
「どうしたの?」
全身に汗をにじませながらそっと右手に視線を落とす。なんの変化もしていないのを確認してほっと息をついた。
自覚していないだけで昨日のことが尾を引いているのかもしれない。ただの錯覚だと自分にいい聞かせた。
「なんでもない。――驚かせてごめんな」
「ううん――」
瑠花の取り繕うような笑顔が逆につらい。瑠花は俺の傍らを抜け、自分の靴と脱ぎ散らかされていた昭の靴を一緒にそろえて玄関にあがった。
飲み物を用意してやったりしながら出て行く機会をうかがう。洗濯機を動かしたままでは二人が気にするかもしれないので、少なくとも止まってから行くべきだと考えた。もちろん洗い落とされてはいるはずだが、血に染まって間もない衣服をこの二人に見せたくないと感じた。
洗濯が終わったのは九時半を過ぎた頃だった。テレビにかじりついている昭の隣で瑠花は俺が貸してやったノートと色鉛筆で絵を描いている。
今が出かける頃合いだと考えて腰を浮かしかけた時、再びドアのチャイムが鳴り響く。昭と瑠花も顔を上げ、三人で顔を見合わせる形になった。
「景子さん仕事に行ったんだよな?」
「うん、こんな早く帰ってこないよ」
郵便かなにかだろうか? 心当たりのなさに首を傾げながらドアを開ける。
「あ、ゴウちゃんおはよ。いてくれてよかったぁ」
亜矢が後ろ手の姿勢で立っていた。今までに亜矢が連絡もなしに家まで来たことはなかったので、思わずぽかんと口を開けてしまった。
「亜矢――どうしたんだ?」
「いきなり家まで来てごめんね。もし暇だったらって思ったんだけど――お客さんかな?」
亜矢が部屋の中をチラリと覗きながらいった。玄関から居間は直線上にあるので、当然興味深げな顔を向ける昭たちの姿も見えている。
「いや、それは大丈夫なんだけど。なんか急な用事か?」
「うん、もしよかったらどこかに遊びに行かないかなって。せっかくの日曜日なんだし」
昭たちに見られているせいか、亜矢がはにかみながらいった。亜矢がこんな誘い方をしてくるのは初めてだ。日曜日だからという理由だけではない気がして、断りづらく感じた。
「昭、昼ごはんとかは大丈夫か?」
振り返って呼びかけると、昭は一瞬呆けたような顔をしてからうんうんとうなずいた。
「あ、大丈夫だよ。お母さん作っていってくれてるから――」
「そっか。亜矢、いいよ。行こう」
「いいの?」
「あぁ、二人とも小さいけどしっかりしてるさ。ただ、その――ちょっと先に行きたいところあるんだけどいいか?」
「うん、いいよ」
亜矢が嬉しそうに笑った。
準備をするといって部屋に戻る。いつも着ているスタジャンは洗濯してしまっているので、厚手のパーカーをシャツの上から被る。
「なんだよー用事ってデートか。ゴウのくせにすみにおけないなーこの!」
昭がニヤニヤと笑いながら隣に来て、背中をバンバン叩いてくる。隅に置くなんて言葉を一体どこで覚えたのか。
「亜矢はただの友達でそんなんじゃあない。それよりちゃんと留守番してろよ。こないだみたいに瑠花を一人でほったらかしにしたら怒るからな」
「わかってるって。まぁ俺にまかせてごゆーっくりしてこいよな。きしし」
昭が口元を押さえながらリスのように笑った。ほっぺたを引っ張り合う見苦しい喧嘩を再び始めてしまったものの、さすがに亜矢を長く待たせるわけにもいかない。すぐに切り上げて瑠花に向き直る。
「それじゃあ瑠花、行ってくるな。ゆっくりしてけよ」
瑠花はうつむき気味に小さくうなずいた。俺は財布だけをジーンズのポケットに突っ込み、靴をひっかけるように履いて外に出た。
「悪い。待ったか?」
「ううん、全然」
通路の柵にもたれかかっていた亜矢が首を横に振って笑う。いつもよりおめかししているせいか少し印象が違って見える。以前も亜矢をひどく女の子らしく感じたが、距離を離していた期間が長かったせいだろうか。
「ゴウちゃん、行きたいところってどこ?」
「あぁ――その、母さんのお墓参り行こうと思ってさ」
「あ、そっか。それならわたしも行かなきゃね」
目に寂しげな光をよぎらせた亜矢の顔を見て胸が痛む。本当は墓参りが目的ではなかったからだ。
公共墓地に着くまでの道のりではいつもより話をするのが難しかった。亜矢に普段と違う雰囲気を感じたせいか、妙に意識してしまう。
母さんの墓前で二人で手を合わせる。それが済んでから俺は墓地の奥へと顔を向け、亜矢に呼びかけた。
「へぇ、気付かなかったけどここって結構見晴らしいいんだな」
亜矢の返事を待たずに墓地の突き当たりへと歩き出す。墓地は小高い場所にあるため街を見下ろせる位置にある。
「わぁ――いい眺めだね」
亜矢が俺の隣で両腕を上げて伸びをする。今日は晴れているのでその気になればかなり遠くまで見通せそうだが、俺の目的は眼下に見える貯水池なので景色は二の次だ。
視線を下に向けてすぐ異常に気づく。貯水池の周りにパトカーが何台も止まり、池の周囲に人だかりができている。用水路へ続く足場に捜査員らしき人が何人もいた。遺体は既に運ばれたらしく、足場の端あたりにテープが人の形に貼られていた。
師匠はおそらく遺体を用水路の外へ出してあそこに置いたのだろう。それだけで地下にあるよりもずっと発見は早まったはずだ。
「あれってなにかな? 警察の人いっぱい来てるね――」
俺が下を向いているのに気付いた亜矢が怪訝そうに呟いた。
「最近ニュースでやってる失踪事件のつながりかもしれない。この街でも行方不明だった人が死体で見つかったらしいし」
「殺されるのは女の人ばっかりだね。――怖い」
亜矢の声は震えていた。やはり連れてくるべきではなかったかもしれないと後悔する。
女の遺体がどうなったかの確認は済んだし、これ以上ここにいるべきではない。柵から体を離して亜矢の手を引いた。
「大丈夫さ、きっと警察が犯人を見つけてくれる。もう行こう」
「――うん。そうだよね」
できるだけ明るい声で呼びかけると、亜矢は少しだけ笑顔を戻してうなずいた。
そのまま足早に墓地をあとにして駅へと向かう。さすがに日曜の駅前は人が多く、年齢の近い子供のグループも多く見受けられる。染み着いてしまった癖で、女の子と二人で歩いているのが少し恥ずかしくなってきた。亜矢はこういうことは気にならないのだろうか?
「な、なぁ。今日はこれからどうするんだ?」
「うーん。そういえば決めてなかったなぁ。どうしようか」
「なんだそれ?」
亜矢の言葉に俺は肩すかしを食った気がした。わざわざ家まで訪ねてくるくらいだからそれなりの理由なり予定なりがあると思ったのだ。そのことを伝えると亜矢は不満げにほっぺたを膨らませた。
「もう、子供なんだから。こういうのは予定とかたてないものなの」
亜矢はそっぽを向いて駅に向かって歩いていく。予定がないのはともかく、子供扱いされたのはどういうことだろうか。釈然としないままついていくと券売機の前で亜矢が難しい顔をして止まった。
「どうしたんだ?」
「――よし決めた。渋谷とか行っちゃおう!」
「はぁ!? なんであんな遠くまで――目的もないんだろ?」
渋谷までは電車で三十分以上かかる。以前母さんと一度だけ行ったことがあるだけで、よほどの用事がなければ行くことはない。まして自分たちだけでそんな遠くまで行ったことがないという不安もあった。
「いいの。大人は渋谷くらい行くの」
亜矢はそういうと券売機にさっさとお金を入れだした。どうやら意志は固いらしく、おとなしく従うしかなさそうだ。
乗り換えなどに手こずりながらも俺と亜矢はなんとか渋谷までたどり着く。東坂とは比較にならないほど密度の高い街並みに困惑しつつ、俺と亜矢は渋谷駅の周辺から見て回った。
最初こそ戸惑いや不安はあったものの、見知らぬ街を歩くというのはやはり楽しい。色々な店舗を見て回るうちにそういった感情はいつの間にか消し飛んでいた。
「なぁ、今日はなんでここまで来ようって思ったんだ?」
昼食をとるために入ったファーストフード店で気になっていたことを聞いた。ただの気まぐれという理由だけではないような気がしていたからだ。
「迷惑だった?」
「まさか。楽しいよ、来てよかったって思ってる」
「よかった。楽しいのわたしだけじゃないかなって思ってたんだ」
亜矢の言葉に違和感を覚える。楽しいといっている割に、亜矢の表情にはどこか陰がある。
「ひょっとしてさ――なにかあったのか?」
俺がいうと亜矢の顔にはっきりと影が差した。気のせいであってほしかったが、やはり的を射てしまったようだ。
亜矢はなにもいわずにオレンジジュースの入ったカップを揺らしていたが、ふいと店の外に視線を移してぼそりと呟いた。
「少し曇ってきたね」
つられて店の窓から空を見上げると、確かに薄い雲のヴェールがかかり始めていた。そういえば天気予報で夜から曇りになるといっていた気がする。
「そうだな。でも雨にはならないらしいから大丈夫だよ」
フォローしたつもりだが亜矢はなにも答えなかった。少しの間沈黙が流れたあと、亜矢がコップに視線を落としたまま話し始めた。
「ゴウちゃん。今度また一緒に行きたいところあるんだけど、ついてきてくれる?」
「いいけど――どこへ?」
「東坂神社」
「なんだ、近所じゃあないかよ。それなら今日だって行けるぞ?」
「今日じゃダメなの。晴れてる日がいいんだ」
亜矢が再び空を見上げていった。空が曇っていてはなにか都合が悪いのだろうか。理由はわからないが特に断る理由もない。俺は力強くうなずいて見せた。
「わかった、いつでも付き合うよ」
「――ありがとう」
亜矢が微笑みを向けてくる。胸の奥で小さな痛みを感じた。まるで指先に棘の欠片が刺さったような、かすかだが鋭い痛みだった。
「それより早く他のところも見て回ろう。せっかくここまで来たんだし」
感じた痛みを紛らわすように俺は勢いよく立ち上がった。亜矢は目をぱちくりとさせたが、すぐに笑って残ったジュースを飲み干した。その顔には先程見せた陰はすでにない。
「うん。行こう行こう」
俺と亜矢はトレーを返却口に戻して店をあとにした。薄く広がる雲に日差しが遮られたせいか少しだけ風が冷たい。
なぜかわからないが胸の奥がひどく熱い。俺は大きく息を吸い込んで冷却された空気を胸一杯に吸い込んだ。




