第十六話 『闇と血と狂気に痺れて』
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街灯の明かりを避け、闇をなぞるようにして猛烈なスピードで走る女を追走するうち、徐々に住宅街を遠ざかる。
極端な前傾姿勢で走る女の姿はもはや人間というより獣じみていた。ベージュのロングコートの裾と黒髪をなびかせながらペタペタと不気味な足音をたてて疾走する姿を誰かが目にしたなら、きっと大声を上げるだろう。
やがて女は街外れにある貯水池のあたりで足を止め、大きく跳躍して池に飛び込んだ。俺は池に面する道路のガードレールに手をかけ、身を乗り出して池をのぞき込む。水音はたっていないし、苔や水草が生い茂る水面も揺れてはいない。
池の縁を半周ほど囲むようにしてコンクリート製の足場があり、ちょうど人一人が歩ける程度の幅がある。この池は共同墓地から見下ろせる位置にあり、昼間ならば釣り竿を垂らす人の姿も見受けられた。当然この時間にそんな酔狂な人影はない。
ガードレールを乗り越え、池の縁に降り立つ。足場にそって歩いていると、用水路へと続くトンネルの入り口が開いていることに気付いた。開いているというより、普段立ち入り禁止のために閉じられている金網が強烈な力で無理矢理引きちぎられている。
以前に廃ビルへと立ち入った時を思い出す。だが今日はあの時よりも落ち着いている。呼吸も乱れていない。俺は意を決して金網の隙間から用水路の中へと入った。
普段は点検作業のために使われている通路らしく、水路と同程度の幅をした足場が奥へと続いていた。自分の足音以外には水の流れる音しかせず、非常灯すらない通路は完全な闇に包まれている。夜目が利くようになっていなければ歩くことすらできなかっただろう。
入り口から数十メートルほど進んだ時、開けた空間が通路の先に見えた。円形の金網が足場のように張られたドーム状の空間で、天井の格子蓋がはめられた通気孔の隙間からかすかに月明かりが差し込んでいた。部屋の中央には金属製のバルブハンドルが取り付けてある。水路の水量を調節するための装置だろうか。
部屋へ一歩足を踏み入れた時、背筋に冷たいものが走る。反射的に前方へと体を投げ出し、金網を転がって背後を振り向いた。
部屋の入り口の真上、通路と接する位置の壁に女が張り付き、今しがた俺の首筋へと伸ばした右手を握りしめていた。よほどの力を込めていたのだろう。女は自らの手のひらに食い込んだ指先を一本一本引きはがすようにして手を開き、壁に張り付いた姿勢で顔を俺に向ける。垂れ下がった髪が顔を覆っているため表情は見て取れない。
俺が立ち上がると同時に女がズルリと壁から落ちる。接地する直前で猫のように体を翻し、両手足を地面について静止した。
「他の人たちはそうやって殺したのか? この化け物め――」
女は答えず、出来の悪い人形のようにぎこちない動きで立ち上がった。上半身はやや前屈みで、鉤状に曲げた指先を小刻みに震わせている。
そもそもこいつは喋れるのか? 俺の中でそんな疑問がわいた。
廃ビルで見た怪物は見た目から既に人間離れしていたが、目の前にいるのは動きの奇怪さを別にすれば普通の人間に見える。にもかかわらずここに来てもいまだに叫びや、うめき声ですら一切発していない。
ホラー映画のワンシーンに立ち会っているかのような非現実感。だが女の全身から発せられる殺意が俺の細胞を刺激した。自分は死地に立っているのだと実感する。
構えるために左足を浮かせ、後方に下げる。構えるために必然の動作を行おうとした刹那、女が俺の眼前に迫っていた。
油断していたつもりはない。ただ、心のどこかで構えてから戦いは始まるものだという思いこみがあった。女がそれを狙ったのか、それとも偶然に機が重なったのかはわからない。
即座に左足を下ろして覆い被さるように突き出された女の両手を掴み止める。プロレスの立ち会いでよく見る手四つの形で女と間近で向き合った。
「うくっ――!」
危うく押し切られそうになるのを必死で踏みとどまる。幸い足場の金網の目は細かく、足を踏み外すことはない。背筋と両足に力を込めて前方へと一気に押し返した。
途端に妙な手応えが腕から伝わってきた。それと同時に両手に込められていた万力のような力が抜ける。どうやら女の両腕の骨が折れたらしい。
だが女は一切の反応を見せず、なおも詰め寄ろうとしてきた。
「――このぉ!」
右足を振り上げて女の胸を靴底で蹴り飛ばした。肋骨の砕ける感触を足裏に感じる。女の体は地面から浮き、背中から壁へと激突して全身を投げ出すように仰向けに倒れ伏した。
乱れた呼吸を整えながら二、三歩後ずさる。あまりの脆さ――手応えのなさに強烈なまでの違和感があった。
ずっと昔、子供の頃に遊んだ起き上がり小法師を思い出す。ソフトビニール製の柔らかなそれは、非力な自分がいくら殴りつけても平然として立ち上がってきた。今それと似た空虚な思いを味わっている。楽しくないという点だけがただ一つ違っていた。
予想に反せず女が起きあがる。支えにしている右腕はたった今破壊したはずだが、まるで何事もなかったかのように伸びきっている。だが左腕はいまだに不自然な角度に折れ曲がっていた。
今度は足を浮かさないよう、金網に爪先を擦るように左足を下げて構える。だが立ち上がった女が着ているロングコートの前が蹴り飛ばした衝撃ではだけているのに気づき、別の意味で目をそらしたくなった。女はコートの下にはなんの着衣もつけておらず、青白い肌が闇になれた目に嫌でも映る。
こんな時になにを馬鹿な――自嘲しかけたとき、女の体に奇妙なものを見つけた。
はだけて露わになった右乳房の上部がドス黒く変色し、小刻みに脈打っている。それがまるで紙に墨を垂らしたかのようにじわりと広がり、女の左肩のあたりまでを黒く染めていく。
するりと女の肩からロングコートがずり落ちる。それが足下の金網に落ちるのと、女が再び動くのが同時だった。
一瞬で肉薄してきた女の赤黒い右腕がまっすぐに突き出される。俺は前方にかざしていた右腕でその一撃をそらしたが、予想外の衝撃に全身が痺れる。女の右腕は肩口から手首にかけてむき出しになった黒光りする筋肉で構成され、それが今の膂力を生み出したのだと理解した。
お互いが硬直した刹那、初めて女の顔を間近に見る。その顔には見覚えがあった。廃ビルで怪物に貪られていた名も知らぬ女性――哀れな犠牲者であったはずの女の顔だった。
なぜ手応えがないのかわかった気がする。俺の敵は最初から彼女ではなかった。
女が左腕を振るおうとするより早く伸びきった右腕を掴み、体ごと女を振り回して手近な壁へと叩きつける。右手を細く引き絞り、指先に渾身の力を込めて振りかぶった。
「動かしてたのは――お前か」
呟きながら女の右肩のあたり、赤黒い肉が盛り上がっている部分に右手を突き立てる。確かな手応えを感じると共に指先に触れたものを掴み、力任せに引き抜くと同時に後ろへ大きく跳びすさった。
まるで柔らかな土に根ざした雑草を引き抜いたかのように女から赤黒い物体が引き剥がされていく。それらは元の形を取り戻そうとするかの如く俺の右手に握られた肉塊へと収束していき、やがてハンドボールほどの大きさに膨れ上がった。
俺は左手も広げてその肉塊を挟み込み、胸の前で無造作に押しつぶした。真っ黒な液体が飛散し、合わせた手のひらの隙間から肉片が海藻のように垂れ下がる。
奇妙な感覚を覚える。飛散したはずの液体が中空で螺旋状に渦を巻き、俺の両腕に絡みついた。まるで乾いた砂が水を吸い取るかのように、両腕の皮膚から染み込んでいくのを感じる。手の中にあった肉片もまた皮膚と一体化するように取り込まれていった。
恐怖も嫌悪感もなく、俺はただその現象を冷静に受け入れていた。まるでそうあるのがごく自然なことのように。
かつてない充足感に気分が昂揚していく。肉体に異変が起きて以来常に感じていた乾きが満たされていく。自分が欲していたものはこれなのだと確信した。
「ア ハ ハ ハ ハ――」
気付いたときには声をあげて笑っていた。目の前で動かなくなった女のことなど既に頭から消え去っていた。きっと生まれて初めて獲物を仕留めた獣はこんな気分に違いない。
「業――」
名前を呼ばれた気がして背後を振り向く。通路を背にして師匠が立っていた。通路の天井はかなり低い。背の高い師匠がここにくるには身を屈めて歩かなければならないはずで、その様を想像してさらに笑いがこみ上げてくる。
「ハハ――師匠、来てくれたのか? これ、これを見てくれよ。俺がやった――倒したんだ! 俺はこんな怪物だって倒せるくらい強くなった。もう誰にも――あいつにだって負けやしない!」
師匠は壁により掛かった女の死体を一瞥してから俺の側まで歩いてきた。
「業、もういい。落ち着け」
「落ち着け? 俺は落ち着いてるよ。師匠が教えてくれたとおりに俺はやれた。師匠のおかげで俺は――」
パン、と高い音が耳元で響く。少し遅れて左頬に鈍い痛みと熱が伝わる。平手打ちで殴られたと理解するのに少し時間を要した。
「目が覚めたか? 落ち着いて儂の話を聞け。いいな?」
師匠が片膝をついて目線を合わせてくる。熱に浮かされていた頭が急速に冷めていくのを感じ、俺はぼんやりとうなずいた。
「お前は今すぐ誰にも見られないよう家に帰り、体に付いた血を洗い流せ。衣服も血の跡が残らないよう洗濯するか、黒い袋にでも詰めて捨ててしまえ――わかったか?」
俺は声を出さずに再びうなずく。師匠はポケットから取り出した布で俺の顔と手を拭いてくれた。
「それと、この女を殺したのはお前ではない。この女はあの夜に死んでいた。お前はただ解き放ってやっただけなのだ。――さぁ行け!」
師匠はそういって俺の背中を押した。足がもつれて転びそうになるのを踏みとどまり、師匠を振り返る。
「だけどここは――その人はどうしたらいい?」
「あとは儂がなんとかする。この遺体は警察に見つかりやすい場所に移しておこう。一緒に行ってやりたいが、儂はこのとおり目立つ上にお前の足にもついてはいけん」
師匠はそういうと落ちていたコートを拾い上げ、女の遺体をそれで包み始めた。話は終わりだといわんばかりの背中を見て、俺はもと来た道を引き返すことにした。
誰にも見られるなと師匠にいわれたが、俺はただぼんやりと家路をたどった。血の残り香と勝利の余韻がいまだに頭の奥を痺れさせていた。




