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第十三話 『風が運ぶ憧憬』




 「そうか。来るなりそんな格好しだした理由がわかったわ」


 土下座の姿勢をとっていた俺の頭上で師匠がため息混じりの声をあげた。俺は眼球だけを動かしてチラリと見上げる。師匠は灰皿代わりにしている空き缶にタバコを落とし込み、ふうと口髭を揺らした。


「それでお前はどう思っておる? やはり手を出さなければ良かったと後悔しておるか?」


 師匠にいわれて少し悩んだが、正直に首を横に振った。


「――思わない。あの時なにもしていなければ俺はもっと後悔してた」

「ならいい。次の修練を始めるから、さっさと頭を上げんか」

「へぇ?」


 最悪の事態すら考えていたので、俺は思わず気の抜けた声をあげてしまった。こんなにあっさり許されるとは思っていなかったのだ。


「でも暴力は振るうなって最初にいったじゃないか。だから俺、ひょっとしたらもう教えてもらえなくなるんじゃないかって昨日から不安だったんだけど――」

「無意味な暴力は振るうなといっただけじゃ。むしろ儂にいわれたからという理由でその子を見捨てておったなら、それこそどやしつけておったわい」


 師匠は無意味という言葉を強調していうと、新しいタバコに火をつけて口にくわえた。


「本当の強者は弱者にすがるもの。弱者なくして強者はない。いうなれば強者とは夜明けにけぶる朝霧のようにおぼろげな――」


 師匠がなにか呟くようにいったが、まったく意味がわからない。


「もう少しわかりやすく」


 俺がいうと、師匠は頭をかいて苦笑した。自分でも難しすぎたと思ったのだろう。


「要は力が強いからといって弱いものいじめをしてはいかんということじゃ。自分より弱いものがいつか自分の助けになるかもしれんからな」

「――どういうことだ? 弱かったら誰かを助けることなんてできないじゃないか」


 首をかしげると、師匠はゆっくりと煙を吐き出してタバコの吸い殻を空き缶にねじ込んだ。


「いずれわかる。それより今日からはもう少し実戦に近いことを教えてやろう」

「やった! またテストでいい点取れとかいわれるんじゃないかって思ってたんだ」

「――それでも良かったが、少し事情が変わったからな」


 師匠が声の調子を落としていった。


「事情って?」

「あー、お前は思ってた以上に覚えが悪そうなんでな。チンタラしとったらいつまで経ってもモノにはならんと、こう思ったわけじゃ」

「うぐ――」


 あまりにもはっきりといわれたために言葉を失ってしまった。師匠はいつものようにふわりと斜面を飛び降りて俺の前に立つ。


「さて、お前この間ビルの中であの化け物と直に接してどうじゃった? 力の差は感じたか?」


 化け物――そう聞いて全身を寒気が襲う。実際あの夜のことは今でも現実感が湧いてこない。それでも自分が得体の知れない怪物に触れたことは紛れもない事実だった。


「あの時は無我夢中だったからよくわからない。でも、どうにもならないほどではなかった――と思う」

「ふむ。だが儂が割って入らなんだらば? お前あいつを跳ねのけることが出来ていたか?」


 少し考えたが、押さえつけられたときの絶望感が思い出される。俺は首を横に振った。


「――実際お前が持つ力の程は計れんが、仮にあの化け物と同じ腕力を持っていたとして、お前は力で勝つことはできん。なぜかわかるか?」

「どうして?」

「簡単なこと――体格差じゃ。力は上から下に向かうのがもっともたやすい。押さえつけるのと持ち上げるのではどちらが難儀かくらいは理解できよう。ましてお前の短い手足ではいかなる状況においても相手に上手を取られる。仮に力において大きく劣る儂であっても、真上からお前を押さえつければ跳ねのけるのは容易ではない」


 師匠は顔のあたりまで手のひらを持ち上げ、そこから押し下げるような仕草を見せた。


「じゃあどうすればいいんだ?」

「前にもいったが、受け止めきれないものは真正面から受け止める必要はない。逸らせばいい」


 師匠はそういうと右腕を持ち上げ、肘を曲げて手の甲を俺に向けた。左半身を下げると、俺からは師匠の右半身のみが映る形になる。


「この構えはあまり気にせんでいい。あくまで力を逸らすことの理合いを伝えやすくするためのもの。どうじゃ? ただこれだけで攻撃を打ち込む隙が減ったのではないか?」

「あぁ――」


 俺は師匠の頭からつま先までを見下ろした。体のほとんどが右腕で隠れているため正面からは手が出しづらい。攻撃したとして、かざした右手によって防がれてしまう気がする。


「正中線はわかるか? 人間の体の中央――額から股間にかけてのラインをこう呼ぶ。人間に限らず、生物の急所はこの線上に集約されている。生物もまたそのことを本能的に知っているがゆえ、正中線を隠されると攻め手に欠ける印象を受けるのだ」

「へぇ」


 俺は無意識に喉から胸にかけて指を這わせていた。いわれてみれば一本の線上に大切な機関が並んでいる。


「それゆえ、そこを攻められぬよう攻撃の選択肢を狭めてやればおのずと敵の動きは読みやすくなる。そうなれば攻撃を捌くこともさほど難しくはない」


 師匠の腕が肘を支点にして円を描くように動いた。虚空をなでるような腕の動きは俺にわかりやすくするためかひどく緩慢なものだったが、それが逆に神秘的なもののように感じた。以前に社会科見学の授業で見た、腕がいくつもついた仏像が思い起こされる。


「あとは攻撃してきた相手の勢いに合わせ――」


 師匠の左半身が突如として現れ、ついで俺の顔から三十センチほど離れた距離に左肘が突き出される。ボーッと腕の動きを見ていた俺は反応すら出来ずに立ち尽くしていた。


「攻撃を叩き込むことができればいうことはない。ま、そんなにうまくはいかんがな」


 ゆっくりと姿勢を戻し、師匠がカラカラと笑った。俺は今しがた見せられた師匠の構えを真似て、肘を支点にして右腕を左右に動かす。しかしどうもぎこちなく動いてしまう。


「別に今の動きを真似んでもよい。途中で教えた攻撃の選択肢を狭めることに重点を置いて動け。あとは――」


 師匠の右足が軽く地面を蹴った。その行動の意味を考える間もなく、眼前に小さな石ころが迫っているのに気付く。


「うわ!」


 反射的に顔をそらしてかわす。小指の先にも満たない小さな石ころはそのまま水音すらたてずに川へと落ちた。


「お前の体が勝手に動いてくれるじゃろう」

「なにするんだよ! 危ないじゃないか」

「なに、真剣勝負においては手足だけが攻撃方法ではないということも教えておこうと思ってな。すまんすまん」


 口では謝っているが、まったく悪びれた様子はない。俺が口を尖らせていると、師匠は笑いながら土手の斜面に腰を下ろした。


「そう怒るな。この間教えた突きのほうも見てやるから」

「あぁ、そうだ。あのさ――」


 俺は師匠に公園のブロック塀をパンチして壊したこと、その際に薬指のあたりで打ち込んでしまったことを話した。師匠はポカンと口を開け、やがて呆れたようにいった。


「無茶なことをするなアホ。拳は痛めておらんか?」

「うん――擦りむいただけだった」

「普通それだけでは済まんぞ。――まぁいい、突きとは非常に精密な技術を要するもの。ただ拳を突き出すだけに見えるが、動きの一つが乱れれば狂いが生じる。そうなれば自分の拳を痛めることに繋がるし、なにより威力が削がれる」


 師匠は右手を握り、拳を前方に突き出した。


「お前は打つ際に拳を内側に傾けたんじゃろう。突くことになれていない者は打撃の瞬間に力んでしまい、拳に角度をつけてしまうことはよくある」

「どうすれば直せる?」

「うーむ。こればかりは数をこなすしかないが、とはいえサンドバッグもここらにはないしな――」


 師匠は腕を組んで考え込んでいたが、やがて顔を上げていった。


「出来るとしたらこれくらいか。――少しキツいがやるか?」


 俺は迷うことなく頷いた。



 「今度は手首が下がっておる。やり直せ」


 頭上から師匠の鋭い声が飛ぶ。口調とは裏腹に左肘を立てて頭を乗せ、空いた右手で雑誌をめくりながら寝そべっているという気の抜けた姿勢である。


「ま、また? っていうか本当にこんなのが練習になるのかよぉ――」


 俺は肩で息をつきながら両手をだらりと下ろす。先程から繰り返しているのは以前教えてもらった突きの型だが、変わっているのは構えてから突き、そして最初の構えに戻すという一連の動作を終えるのに五分もの時間をかけるという点だった。


 動作の途中で師匠が悪いところを指摘し、二度目の指摘を受けたら最初から同じことを繰り返させられる。最初は簡単だと思ったが、実際にやってみると非常に辛い。すでに三十分以上経っているにもかかわらず、まだ一度として終えることができずにいた。


「嫌ならいつでもやめろ――何度も同じことをいわす気か?」


 サングラスの奥で師匠の目が厳しい光を放った気がする。俺は流れ落ちる汗をぬぐってから慌てて首を横に振った。


「イヤじゃない――やります」


 師匠は口ひげをため息で揺らし、再び雑誌のページをめくり始めた。とても俺の動きを見ているようには思えないのに、型を崩した瞬間に声が飛んでくる。


 俺は何度目かもわからない構えを取り直し、ゆっくりと全身を動かす。最初に比べると指摘されるまでの時間も伸びて、腕を伸ばしきるところまではいけるようになった。だがそれでも師匠の目は厳しく、動作を終えるまでには二回目の指摘を受けてしまう。結局一時間が経っても一度として成功しなかった。


「ここらで一度休憩しろ。あまり煮詰めても体に負担をかけるだけじゃ」


 師匠にそういわれて俺はどさりと尻餅をついた。退院して以来、こんなに疲れたのは初めてのことだった。


 あらかじめ用意しておいた水筒の水を喉に流し込み、斜面を背にして両足を投げ出す。俺の息が整うのを待っていたように、師匠が口を開いた。


「辛かろう? 意識して遅く動くのは」

「うん――師匠もこれやったのか?」

「ずうっと昔にな。あの時はなんの役に立つのかと思ってやっとった。今でも役に立ったかどうかよくわからんなぁ」


 だったらなんでやらすんだよ――といいかけた口を閉ざす。イヤならやめろと返ってくるのがオチだ。


 休憩を挟み、再び同じことを繰り返す。ようやく一動作を終えることが出来たのは、すでに日が沈み夜の帳が下りかけた頃だった。


「やれやれ、これだけ時間をかけてやっとか。本当に筋が悪いのう」


 師匠が大きく伸びをする傍らで、俺は盛大に息を切らしていた。師匠の言葉に落胆する気力もない。


「今日はここまでじゃ。帰ったらしっかり飯食って寝ろよ」

「ハァ、ハァ――あ、ありがとうございましたぁ――」


 フラフラになりながらも師匠に頭を下げる。呼吸が落ち着き、ランドセルを拾い上げて帰ろうとしたとき、後ろから師匠が声をかけてきた。


「業、すまんがこれ捨てといてくれるか」


 そういって投げ渡されたのは師匠が灰皿がわりに使っていた空き缶だった。中には吸い殻や灰がこれでもかと詰まっている。


「まったく――子供にタバコの始末たのむなよ。大人のくせに」

「ハハハ、すまんの。もう火の気は失せておるが、火事にだけは気をつけてな」


 師匠が笑うと、なぜか俺もつられて笑っていた。もしも父親がいればこんな感じだろうか――そんな思いが胸の奥をくすぐった。



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