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第十話 『小さな救い手』



 どうするべきか――朝からずっとそればかり考えていた。


 一人で母の墓を訪ねるのが怖かった。もちろん墓地に行くのが怖いのではなく、母の墓を目の当たりにしたとき冷静でいられるかどうかの自信がなかった。逆に誰かが一緒にいてくれたらもしかして取り乱すことはないのではないかと、根拠もなにもないがそう考えた。


 最初は亜矢に頼もうかと思ったが、ついこの間助けてもらったばかりだったので流石に気が引けた。理由もなんだか情けなく感じたのだ。


 授業中も身が入らなかったが、師匠から手を抜くなともいわれているので黒板だけは一字一句逃さぬようしっかりと書き写した。不思議なもので、一度テストでうまくいくと苦手と思っていた科目もなんとかなりそうな気がしてきた。


 結局この日は学校が終わるまでずっとこの状態だった。亜矢とは顔を合わせるのがなんとなく気まずくて、友達の女子と話している間に素早く教室を抜け出した。


「おい七柄、ちょっと待てよ」


 校舎を出ようとした時に背後から声をかけられる。声からして斉藤であることはすぐにわかった。めんどくさいと思いつつも振り返ると、斉藤の他に三人の取り巻きが立っていた。


「なんだよ」


 短く答えて軽く睨みつける。この間の騒ぎで懲りたのか、斎藤が怯えた表情を浮かべる。だが他の連中の手前情けないところを見せたくないのだろう。口から泡を飛ばしながら声を荒らげてがなりたてる。


「ちょっと顔貸せ! 俺の兄貴がお前に話あるっていってんだよ!」

「話――?」


 すぐにピンと来た。この間の仕返しを兄に頼んだということだろう。こいつにはボクシングをやっているという中学生の兄がいて、事あるごとにそれを匂わせる事をいって周りを怖がらせている。


 正直相手にしたくはなかったが、断ったところで引き下がりはしないだろう。溜め息をつきながらゆっくり頷いた。


「わかった。ついてくよ」


 あっさり引き受けたのが意外だったのか、斉藤は戸惑ったように周りの連中と顔を見合わせた。だがすぐに調子を戻すように鼻を鳴らし、俺の先を行くようにして歩き出した。


 斉藤とその取り巻きのあとをついていく間も特に恐怖は感じなかった。ただこういった絡まれ方を続けられるとたまったものではない。どうするべきなのか、それだけを考えていた。


 連中が足を止めたのは学校のちょうど裏手にある空き地だった。工事用のブロックや資材が置き去りにされている場所で、広さ的には大きめの一軒家が建てられる程度のものだ。


「おう、遅ェぞひろし」


 積み上げられたブロックに腰掛けていた男が斉藤に向かって右手を上げる。中学校の制服をだらしなく着崩し、短く刈り上げた頭を茶色く染めた目つきの悪い奴だった。多分誰が見ても頭が悪そうな印象を受けるだろう。


「兄貴、こいつだよ。こないだ話した奴」

「おう」


 短く答えて男――斉藤兄は立ち上がった。噛んでいたガムを足下に吐き捨て、鼻を鳴らす。


「なぁチビ、なんで呼ばれたかわかってっか? 兄貴としてはよ、弟が恥かかされたら黙ってられないわけよ。わかるか?」


 斉藤兄が眉を八の字に曲げていった。凄んでいるつもりらしいが、マヌケ面を強調しているようにしか見えない。もちろん口には出さず、俺はただ小さく頷いた。


「あっそ。ならちょっとこっちゃ来い」


 斉藤兄は俺に手招きしながら広場の中央に歩いていく。俺は斉藤の横を通り抜けて近づいていった。


 俺に背を向けた状態で立っていた斉藤兄の体が動くのが見えた。同時に何を狙っているかも理解する。振り向くと同時に右足で蹴り飛ばすつもりだろう。筋肉の流れや体重移動が容易にそれを悟らせた。


 服が汚れるのが嫌だったので左手側に一歩体をよける。予想したとおり、体重を乗せた不格好な前蹴りが目の前を通り過ぎた。


「んな――?」


 斉藤兄が無様に体をよろけさせた。体勢を立て直してから俺をにらみつけ、怒りに目を血走らせてわめく。


「よけてんじゃねえよこのクソガキ!」


 思い切り振りかぶった右手を握り、俺に振り下ろす。呆れるほどに無駄だらけで遅い。先日師匠が見せてくれた動きとは比べるべくもない。――本当にこいつはボクシングをやっているのか? そんな考えがよぎるが、かわすべきかどうか悩む。これをよけてしまうとこいつはさらに怒って同じ事を繰り返すだろう。


 観念して歯を食いしばり、左頬を差し出すように首を傾ける。拳が当たった瞬間少しだけ身を引いて後ろに飛んだ。はたから見ると殴られて吹っ飛んだように見えるだろう。


 斉藤兄は手応えの軽さに一瞬いぶかしんだようだったが、すぐに満足げに笑った。自分のパンチが綺麗に入ったのだと気をよくしたのだろう。


「ざまぁみろ。調子乗ってんじゃねえぞこのガキが」


 斉藤兄はそのまま俺の胸ぐらを掴んでもう一発殴りつけてきた。今度は避けようがなかったのでそのまま食らうしかない。左頬に鈍い痛みが走った。


 それからしばらく一方的に殴られることになった。体が頑丈になっていたおかげで大して痛みはないが、徐々に怒りがつのってくる。斉藤兄が殴るときのモーションをしばらく観察もしていたが、拳の握りも腕の振り方もまるでデタラメだ。こいつから学ぶべき事はなにもない。


「な、なぁ兄貴。もうそれくらいでいいって。やばいよそれ以上――」

「うるっせえ! お前はそんなんだからこんなチビに舐められんだよ。こういう奴は一回ボコボコにしてやらなきゃわからねーんだよ!」

 斉藤兄が息を荒げながら叫ぶ。どうやらまだやめる気はないようだ。


 いっそ返り討ちにでもしてやろうかという考えが沸きそうになったが、むやみに暴力は振るうなという師匠の言葉が思い出された。諦めて目を閉じたとき、通りの方から大きな声がした。


「おまわりさーん、こっちでだれかケンカしてるぞー! 早く来てー!!」


 その言葉に動揺したのは斉藤とその取り巻き共だった。一様に浮き足立ち、慌ただしく顔を見合わせる。


「兄貴、やばいよ! 早く逃げようぜ」

「クッソ――誰だ今の?」


 斉藤兄が俺の襟元を掴んでいた手を離し、ブロックの側に置いていた鞄を拾い上げる。脱力して尻餅をついた俺を振り返り、吐き捨てるように叫んだ。


「今度調子コいたらぶっ殺すぞ。わかったな」


 それだけいって斉藤たちと共に駆け去っていく。俺はしばらくボーッとその様子を見ていた。


「おーい、だいじょうぶか?」


 振り返ると帽子を逆に被った子供が立っていた。その顔には見覚えがある。


「お前隣の――誰だっけ?」

「昭だよあ・き・ら! ちゃんと覚えろチビ!」


 チビにチビといわれる筋合いはないが、どうやらさっきの声はこいつだったようだ。ため息をつき、服に付いた土埃を払いながら立ち上がる。


「なんだ、意外に平気そうだな。せっかく助けてやったのに」

「別に頼んでない。警察呼ぶなんて大げさなことしやがって」

「あんなのウソだよ。ああいえばビビって逃げるだろって思ったんだ」


 昭が得意げに鼻の穴を膨らました。そういえば他にだれもここへ来る気配がない。どうやら思っていたより頭のいい奴らしい。


「っていうかお前何でこんなところにいるんだよ。家とは逆方向だろ」

「お前がゲタ箱であいつらにからまれてたの見たからついてきてやったんだぞ。かんしゃしろよ」

「大きなお世話だ。――まぁ、助かった。サンキュ」


 一応礼はいっておく。なんにせよ早く済んだのが昭のおかげであるのは間違いなかった。


 空き地を出て家に向かって歩く。そのあとを昭がついてくるのに気づいて振り返った。


「なんでついてくるんだよ」

「帰り道がおなじなんだよ」


 いわれてみればその通りだったが、なんとなく気になる。昭は両腕を頭の後ろに回して呟くようにいった。


「それにしても卑怯なやつらだよなー。お前みたいに小さくて弱っちいやつ一人にあんな大きい奴まで呼んでさ」

「小さくて弱っちいは余計だ。それにお前お前って呼ぶな、年下のくせに」

「名前なんだっけ? ――ウソだよ。ゴウだろ。弱っちそうなのに強そうな名前だからおぼえてるんだ」


 本当に一言多い奴だ。昭は俺が不満げな視線を向けても気にした様子もなく続けた。


「まぁこれからもなんかあったらおれに頼っていいぞ。お隣だから仲良くしろってお母さんにもいわれてるし気にすんな」


 昭はそういって胸を張った。これではどちらが年上かわからない。いい返そうとしたが、今いわれた言葉を思い返してふと考える。


「ん、どした?」

「あぁ――うーん、そうだな――」

 少し悩んだが、思い切って昭に振り返る。昭は不思議そうに首を傾げた。


「昭、お前明日の土曜日ヒマか?」





 四月も中旬だというのに空気はまだ冷たい。いつもより遅く咲いた桜も既に散り始めていた。


 東坂にある公営墓地は住宅街から少し離れた道路沿いに作られていて、市立病院とは目と鼻の先、駅前の繁華街を少し遠くに見通せるという場所にある。場所は知っていたが、来ることはないと思っていた。


 昨日の帰り道で意を決して昭に墓参りの道連れを頼んだわけだが、予想に反して昭は二つ返事で引き受けてくれた。


「明日お母さんもいないし、俺一人で瑠花の面倒見てやらなきゃダメだったんだ。ラッキー!」

 むしろそういって喜んだほどだ。


 そんなわけで俺と昭、それから昭の妹の瑠花で正午過ぎに家を出て墓地へとやってきた。瑠花はまだ四歳なので留守番をさせるわけにもいかない。墓地になど行きたくないだろうが、一緒に連れてくるしかなかった。


「うっわー! お墓ばっかだなほんと。夜にきたらぜったい出るぞここ!」


 隣を歩く昭がキョロキョロと辺りを見回しながらいった。不謹慎だとは思うが、気持ちもわかる。人の名前が刻まれた石の立方体が規則的に立ち並んでいるのはやはり気味が悪い。これらすべてが死んだ人たちの変わり身だと思うと尚更だ。


「あんまり騒ぐなよ。えーっと――」


 桐生から教えてもらった場所を探して辺りを見回す。どうやらもっと端の方にあるらしい。俺は桐生から言われたとおり桶に水を入れ、舗装された道を静かに歩いた。なぜかここでは真面目にしなくてはいけないような、そんな気がした。昭も空気を読んだのか静かに後を付いてくる。瑠花は家を出てから一言も喋らず、昭の手をずっと握り締めていた。


 母さんのお墓は墓地の奥側、一番端の列にあった。他の石に比べて真新しいその墓は建立されて間もないことを物語っていた。覚悟はしていたが、実際に目の当たりにすると胸の奥が苦しくなる。


「ここが――おばさんのお墓か?」


 昭が緊張した面持ちで尋ねてくる。俺は小さく頷いた。


「――母さん、会いに来たよ」


 呟きながら持っていた桶を置き、ここへ来る途中で買った仏花を包装紙から取り出した。


 ふとお墓の前を見ると、水差しに一輪だけ白い花が挿されていた。しおれたりしていないところを見るとつい最近供えられたもののようだ。俺は直感的に誰が置いてくれた花か理解した。


 花を散らさないように、そっと持ってきた仏花を一緒に挿した。それから桶の水をひしゃくですくってお墓にかける。本当は墓石のてっぺんからかけるものなのだろうが、背伸びしても届きそうにない。すべてが済んでからそっと両手を合わせ、目を閉じた。


「今まで一人にさせて本当にごめん。だけど俺、怖かったんだ。――ここに来てしまったらもう本当に、二度と母さんが帰ってこない気がした。どこかでまだ、母さんがいつか帰ってくるんじゃあないかって、そんな風に思ってた。だけど――」


 俺は目を開けてお墓を見上げた。長方形の艷やかな石に『七柄家之墓』と掘られている。母さんの名前はないが、傍らに立てられている木の板――卒塔婆というやつだろうか? それに難しい漢字が書かれている。きっとこれがそうなのだろう。人はお墓に入ると生前とは別の、難しい漢字の名前を与えられるのだと学校の授業で習った覚えがある。


「そんなのやっぱり違うんだよな。もっと早くに来るべきだった。俺――俺は――」


 声が震える。目の奥が熱い。


 ――淋しい。

 ――母さんがいないと家がすごく広い。

 ――会いたい。


 様々な感情が押し寄せる。もうこれ以上耐えることができそうになかった。やはり一人で来ても、誰かが一緒にいても同じだった。


「うわあああああああああん!!!」


 静謐な空気を切り裂くような泣き声が墓地に響き渡る。驚いて振り返ると昭が大きな口を開けて泣いていた。


「な、なんでお前が泣くんだよ!?」

「だって、俺もおばさんのこと知ってるもん! 何度も会ってるし、すごい優しかったし――」

「なんだって? お前、母さんと会ったことあるのか」

「ひぐっ――最後に会ったのは去年だけど、覚えてるよ。お母さんとは昔から友達なんだって――うわーん!」


 昭はさらに声を大きくした。予想外の出来事にどうしていいかわからずいると、昭を見上げていた瑠花の顔に動揺の色が浮かんでいるのに気づいた。まずい――そう思ったときには既に瑠花の大きな瞳からも涙が溢れだした。


「ふええええん――」


 鳴き声が二人分に増えたせいで静かな墓地の空気はすっかり消えてしまった。なんとかふたりを泣き止まそうとしていると、自分の頬にも涙が伝っているのに気づく。だがこの涙は悲しみによるものではない。おそらく昭が母のために泣いてくれたからだろう。


 自分以外に母のために泣いてくれる誰かがいる――そのことがとても嬉しかった。



 帰り道に駅前を通ると、ターミナルにクレープやアイスを売っている移動販売車が止まっていた。別にねだられたわけではないが、二人にソフトクリームを買ってやる。今日一緒に来てくれたことに対する礼のつもりだった。


 ベンチに座ってソフトクリームを舐めていると、昭が口の周りにアイスをつけて見上げてきた。


「今度お参りするときもついてってやるからな。まぁ気軽に声かけろよ」

「――ほんとナマイキだなお前。いっとくけど毎回は買ってやらないぞ」


 そっぽを向いてそう答えたが、本当はありがたかった。そうしていると目の前を通りがかった五、六人の子供が立ち止まってこちらを向いた。


「あ、あきらじゃん。ここでなにしてんの?」


 先頭にいた子供が昭に声をかける。どうやら昭の友達らしい。


「オッス。お墓参りいっててさ、今帰るとこだよ」

「昨日いってた用事ってそれか? もう済んだなら一緒にサッカーやろうぜ」


 少し太りぎみな男の子がサッカーボールを掲げていった。


「お、やるやる! ゴウ、悪いけど瑠花連れて先帰っててくれよ。そんじゃな」

「は? おい、ちょっと――!」


 呼び止めようとしたが、昭は口に食べかけのコーンを押し込むとさっさと立ち上がり、そのまま振り返りもせず友達と走り去ってしまった。


「あいつ――どうしろっていうんだよ」


 ため息をつき、瑠花をそっと振り返る。瑠花はたいして驚いた様子もなくソフトクリームを舐めていた。いつものことなのかもしれない。俺は瑠花の隣に少し離れて座った。


 瑠花とはここまで一言も喋っていない。最初に会ったときも怯えた目を向けてきたので、怖がられているかもしれない。


 とはいえこのまま喋らずにいると瑠花の方も不安にさせてしまうだろう。とにかくなにか話さなければと思い、恐る恐る瑠花の方へ顔を向けた。


「ゴウ兄ちゃんはおいくつですか?」


 不意に瑠花が話しかけてきたのでギョッとさせられる。瑠花もまた口の周りを真っ白にさせていた。


「え――えーっと、十二歳だよ。六年生」

「じゃあ昭兄ちゃんよりお兄ちゃんだね。お兄ちゃんナマイキだけどゆるしてあげてね」


 思っていたよりハキハキ喋る子だった。もっと内気そうな印象があったので意外な気がした。


「別に気にしてないよ。瑠花も今日一緒に来てくれてありがとうな」

「ううん。つれてきてくれてありがと」


 瑠花はそういって笑顔を見せた。どうやら嫌われているわけではないと知ってホッとする。


「瑠花はその、俺の母さんのこと覚えてるのか?」

「あんまりよくおぼえてないけど、お母さんがたまにおはなししてくれた。ゴウ兄ちゃんもお名前だけはきいてたよ。さいしょに会った時はちょっと怖い人かなっておもった」

「――そうだよな。いきなり昭ともケンカしちゃったし」

「でもおばさんのお墓においのりしてたゴウ兄ちゃんすごくやさしい顔してた。だからやっぱりいい人なんだっておもいました」


 いわれて少し恥ずかしくなる。墓地ではきっと情けない顔になっていただろうなと思っていたから。とはいえ、そのおかげで瑠花が心を開いてくれたのならよかったといえるのだろうか。


 瑠花の手元を見ると、溶けかけたソフトクリームがこぼれているのに気づいた。店でもらったおしぼりを開けてアイスを拭き取る。ついでに真っ白にしていた口元も綺麗にしてやった。


「えへへへ――」


 瑠花は照れたように笑い、再びソフトクリームを舐め出す。その様子を見て俺は思わず頬を緩めたが、母さんの墓参りの帰りであることを思い出して表情を引き締めた。


 今日は師匠にいわれた通りに出来たのだろうかという不安がこみ上げる。結局一人では母の墓に向かい合うことができなかったし、あげくに帰り道でこうして笑っている。


 自分は冷たい人間なのだろうか――そんな気持ちが胸の奥にこみ上げてきた。



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