第一話 『奇妙な出会い』
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七柄業。それが僕の名前だ。
僕は生まれつきひ弱で、体は同年代の女の子より細く、体調を崩して学校を休むことも頻繁にあった。
五年生に進級してから習う漢字も増えて、自分の名前に珍しい漢字が使われていることを知った。
軽く調べても名前に向いている漢字は他にあるのにどうしてこの字をつけたのか気になり、母に聞いたこともある。
母はただお父さんが付けた名前、とだけ教えてくれた。
剛の字でも使ってくれたらもっと強い体になれていたかもしれない。子供心にバカげていると思いつつ、そんなことを考えたこともあった。
僕は物心ついたときから母と二人暮らしだった。母に父のことを尋ねても曖昧なことしか教えてくれなかったが、やがて聞かない方がいいことなのだと察してからは聞かなくなった。
母は優しくて芯の強い女性だった。
僕が学校で体を壊す度に仕事の途中であっても迎えにきてくれたし、甲斐甲斐しく看病してくれた。いつも母に迷惑をかける自分自身が嫌だったが、体質だけはどうすることもできなかった。
母はけして僕に強くなれという類の言葉を言わなかった。
ただ優しくあればいい、優しくあり続けるのは強くいるよりもっと難しいことだから――それが母の口癖だった。
だが僕はそれすらできずにいた。
自分の女々しい見た目や貧弱な体がコンプレックスになり、学校でもクラスメートと打ち解けることができなかった。母は僕のそうした部分をなんとか改善しようと努めてくれたが、それらが実を結ぶことはなかった。
大好きな母に応えることのできない自分が嫌で、結局のところ僕がいきついたのは単純な強さへの憧れだった。
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体育館の隣は用具入れの他にはなにもなく、雑草も伸び放題になっている。当然人が来ることはあまりなくて、ろくでもないことをしでかす奴らにとっては絶好の場所だった。
「ほら七柄もっと打ってこいよ。かすりもしてないぞ」
渾身の力をこめたパンチが空を切り、大きくバランスを崩して地面に手をついた。パンチといえるほど上等なものではなく、ただ単に腕を振り回しただけの行為。周りの奴らが馬鹿笑いするのも無理のない、本当にカッコ悪い有様だったのだろう。
「早く立てよヘナチョコ」
斉藤がグローブをバンバン鳴らしながら笑った。学年に必ず何人かはいるワルぶった奴らのリーダー気取りで、古臭い言い方をすればガキ大将だ。
「くそ――!」
心臓が激しく鼓動し、呼吸が間に合わなくなるほどに息があがっていた。本気で女子以下の体力しかない自分に腹が立つ。
「せっかく兄貴から昔使ってたグローブ借りてきてやったんだぞ? だから今日だけでもお前にボクシング教えてやるんだからありがたく思えよな」
お前がボクシングやってるわけじゃないだろ――言ってやりたかったが殴られるだけなので黙っていた。
サイズの合わないグローブは重く、腕を上げるのもつらい。まっすぐ腕を伸ばせないので自然と上から振り下ろすような不格好なパンチになる。そのたびに周りから笑い声があがった。
「ガード下がってんぞほら」
斉藤のパンチが腹にめり込む。まるで力のこもっていないパンチだが、グローブの重さもあってかなりの衝撃を受ける。
「ぐえっ!」
腹を押さえてうずくまる。体の中身が波うつ感覚におそわれ、吐き気がこみ上げた。
「ほんっと貧弱だなぁお前って。せめて一発でも当ててみろよ。盛りあがらねーな」
悔しさに震え、奥歯を噛みしめる。その時校舎のある方向から大きな声が響いた。
「お前ら、そこでなにをしとる!」
その場にいた全員が声の方を振り向くと、メガネをかけた教師が険しい顔で立っていた。
それまでニヤニヤ笑っていた連中の顔に焦りが浮かぶ。斉藤は舌打ちしながらグローブを外した。
「チェッ――誰かチクりやがったな」
「こら斉藤、またお前か。きみ、大丈夫か?」
教師が差し伸べてくれた手を掴んで立ち上がる。
「ちょっとみんなで遊んでただけです。かわりばんこでグローブ回して」
斉藤が笑いながら気安く肩を叩いてきた。言うまでもなく嘘だ。
「本当か? いじめられてたなら正直に言いなさい」
教師が顔をのぞき込んできたが、そう言われていじめられていたなどと正直に言える奴がいるとは思えない。遊びの延長――そう自分に言い聞かせた方が安い自尊心も傷つかない。
「ちがいます。ただの遊び――です」
ゆっくりと首を横に振った。教師は釈然としない様子で周りの連中に視線を巡らせたが、どいつもそらっとぼけた顔で目をそらした。
「――それならいい。もう下校時間は過ぎてるんだ、みんなさっさと帰りなさい」
「わかりましたー。おい皆、帰ろうぜ」
斉藤は僕の手からグローブをひったくるように取り上げると、教師の後に続くようにして周りの連中を連れてさっさと帰っていった。
大きく息をつき、ズボンについた埃を手で払っていると誰かの気配を感じた。顔を上げると少し離れた場所に女子が一人立っていた。
「七柄くん、大丈夫――?」
長い髪をサイドテールに結った女の子の名前は美作亜矢。
幼なじみだが、正直なところ今一番会いたくない人間だった。
「先生呼んだのお前か」
「ごめんね。七柄くんが斉藤くんたちに連れてかれたって聞いて、心配になって――」
「余計なことするな。もう何回も言ってるだろ!」
怒りのこもった声は自然と大きくなる。亜矢が悲しそうにうつむくのを見て胸が痛んだが、そのまま逃げるようにその場を後にした。
*
冷たい風が吹く帰り道をうつむきながら下校した。
いじめられたことより何より、亜矢に対してしか感情をぶつけられない自分が情けなかった。
胸の中で悔しさがどんどん膨れ上がっていく。目頭が熱くなり、涙があふれだしそうになるのを必死に我慢しながら歩いた。
帰り道の途中にある橋を渡りきってからひびだらけのタイルで舗装された土手を降りる。そこは小さな河川敷になっていて、人は滅多にやってこない。
橋の真下でランドセルを叩きつけるように降ろし、膝を抱えてうずくまるように腰を落とした。それまで押さえ込んでいた涙が頬をつたう。
「ちくしょう――クソ、馬鹿野郎――!!」
橋の上まで声が届かない程度に抑え、それでもできる限り声をあげた。負け犬の遠吠えのようでまったく気分は晴れない。それでも叫ばずにはいられなかった。
言葉にすらならない罵声を吐き出していると、流れるままにしていた涙が徐々に尽きてくる。いじめられた後はこうして気分を落ち着けるのが恒例だった。
あまり綺麗とはいえない川を時折空き缶やペットボトルの容器が流れていく。しばらく眺めていると、急に寒さで体が冷え切っていることに気づいた。空も赤くなり始めている。
そろそろ帰ろう――そう思ってのろのろと立ち上がった。
「もう気は晴れたのか?」
不意に背後からしゃがれた声が聞こえたので飛び上がりそうになった。 振り向くと橋と土手を斜めに支える鉄骨に挟まれた平らなスペースで、鉄骨にもたれ掛かるようにして男が寝そべっていた。右腕を枕がわりに頭の後ろに回し、左手には週刊誌を広げていた。
言葉が出せずに立ちすくむ。知らない大人と話してはいけない――子供なら誰でも教え込まれることだ。恐怖をおぼえたが、同時に男の奇妙ないでたちに目を引きつけられた。
着古された茶色のコートに紺色のハイネックセーター、グレーのジーンズに色落ちした革製のブーツ。手足が異常に長く、立ち上がれば相当の長身であると一目でわかる。
灰色のまっすぐな髪は腰のあたりまで伸びていて、顔は長い髭でほとんど隠れている。そこから鳥のくちばしのように高い鼻だけがにゅっと突き出ていた。
まるで指輪物語に出てくる魔法使いを思わせる老人だ。
逃げた方がいいか迷ったが、男がまったく動かずに雑誌を読んだままであることと、先ほどまでの行いを見られていたことに対する恥ずかしさに引き留められた。
「――おじさん、誰?」
「ただのプーじゃ。ここはお前の場所だったか。悪いことをした――ん?」
そこで初めて男が顔をこちらに向けた。落ちくぼんだ目は鏡のようなレンズをはめた丸いサングラスで隠れている。
「やはり小僧じゃな。一瞬女の子かと思ったぞ」
いきなり気にしていることを突かれ、頭に血が昇る。最初に感じた恐怖も忘れて声をあげた。
「うるさい! 大体こんなところでなにしてるんだよ! 知らない人と話しちゃいけないんだ! 警察呼ぶぞ!」
男を指さし、早口でまくし立てるように言った。
「屋根のある場所探しとったらここを見つけて、今の今までダラダラしとった。警察は勘弁してほしいのう」
男はあわてた素振りさえ見せず、落ち着いた口調でそう言うと再び雑誌に目を落とした。律儀にこちらの質問に答えているあたりが腹立たしい。
「本当は声をかける気などなかったがお前が中々立ち去らんでな。見事な泣きっぷりだったが、学校でいじめられでもしたか?」
やっぱり聞かれていたらしい。慌てて目元をこすりながら顔を横に大きく振った。
「泣いてなんかない! いじめられたんじゃなくてケンカで負けたんだ」
「ほうか。そりゃ難儀じゃったな」
男はいかにも興味なさそうにあくび混じりに返した。悔しくて言い返してやりたかったがそれ以上なにも言えなかった。
ふと男の足元を見ると、大きなボストンバッグがあった。使い込まれたフェルトハットが上に乗っていて、それらについているマークに見覚えがあった。テレビのCMで見たことがあるし、母さんとデパートに行ったときに見たことがある。とても高いものだと教えられた。
男が言ったプーとは多分浮浪者のことだろう。お金がないからそうなるものではないのだろうか――。
「変な奴だと思っとるだろうが、わざわざプーの格好そろえてなる奴はおらん。着の身着のまま、手元にあるものがたまたま良いもんだっただけじゃ」
「べ――別にそんなこと思ってないよ!」
慌てて首を横に振った。おそらく自分の視線と表情から察したのだろうが、まるで心を読まれたような気分だ。
だが言われてみるとそういうものかもしれない――とも思う。
「ところで知らない人と話してはイカンのじゃろう? もう帰ったらどうじゃ。じきに日も暮れるぞ」
言われて顔を上げると、橋に半分切り取られた空がすっかり赤くなっていた。
「――おじさん、明日もここにいるの?」
どういう意図で聞いたのか自分でもわからない。男は雑誌を腹に置いて軽く左手を振った。
「心配せんでも明日にはおらんわ。はよ帰れ」
言われるまま足下のランドセルを拾い、肩に担ぐ。歩きだそうとしたところで男が再び口を開いた。
「最後じゃが、小僧。お前なにか患っとりゃせんか? その――病気とか」
「病気? 別にないよ。少しだけ風邪とかにはかかりやすいけど」
「そうか。それならいい」
男がなぜそんなことを聞いてきたのかわからず首を傾げた。だがしばらく待っても男はそれっきりなにも言わず、眠ったように動かなかった。
駆け足気味にその場を離れ、土手を登り切ってから振り向いた。知らない大人と一人で話したのは初めてで、今になって心臓が少し早く脈を打つ。
自宅である二階建てアパートの階段を駆け上がり、突き当たりの部屋のドアノブを回した。鍵はかかっておらず、ドアは簡単に開いた。
「あら業、おかえり。今日は遅かったのね」
母がエプロンを掛けながら振り向いた。自分と同じく今帰ったばかりのようだ。
「ただいま。母さんもおかえりなさい」
「うん、ただいま。――業、なにかいいことでもあったの?」
母はそう言って頭をなでてきた。母からはいつも花の香りがする。
「別に。どうして?」
いいことなどない。むしろ最悪と言っていい日だった。
「うーん、なんだか嬉しそうに見えたから」
そんなふうに見えただろうか。自分では意識していなかった。
「さ、うがいと手洗いすませてきなさい。おやつは夕飯の後で出してあげるから」
河原での出来事を話そうと思ったが、変に心配させるのも嫌だったので曖昧にうなずき、言われるまま洗面所に向かった。
次の日、学校の帰りに橋の下をそっと覗くと男の姿は消えていた。
男が寝ていた場所まで登って探したが、昨日のことがまるで夢ででもあったかのように何一つ残されてはいなかった。