舶来通り裏海潮堂の午後
煌都は古くから栄えた港街である。舶来通りと呼び慣わされた大通りには木造だが意匠を凝らした商家や風格を漂わせる役場などの建物が軒を連ね、その名のとおりに到来物があふれる往来は人通りが絶えない。
さて轍と人々の往還によって磨かれた石畳をひとつ折れ裏通りを少し行くと、書肆の看板を下げた小洒落た小さな、だが背の高い建物を見ることができるだろう。それが本稿の舞台、海潮堂である。
海潮堂はこの街では名の知れた貸本屋であり、また版元でもあった。刻は午、日輪が正中を少し回った頃である。今、海潮堂を訪なう人々の掌によって磨き込まれたドアを押す、ひとりの紳士があった。縁に取り付けられた真鍮のベルがちりりん、と鳴る。
数日前に初めて姿を見せたのち毎日午後の明るいうちに顔を出すようになったこの客を、店主は、おそらく寄港した船の乗客だろう、と考えていた。煌都はまぎれもなく美しく、立派な商都でもあったので、観光にも休養にも、そして情報の収集や物資の調達、船の補強や修理にも適した街だった。そんなわけで、港に停泊する船は客船だろうが商船だろうが数日から数週間、すなわち長く留まるのが常だったのである。
件の客はまず異国の風情を漂わせ、いささか古めかしいきっちりとした仕立ての外套を羽織り、黒い山高帽を被っていた。痩躯であったが動きはしっかりと若々しく、ごく薄い水色の瞳は冷たくも温かくも感じられる。帽子の鍔から覗く緩やかに波打つ銀色の髪も艶やかで、深く皺をたたんだ肌は乾いて見えて肌理が整い血色も良い。ひと言でいえば不詳の紳士であった。
紳士はいつものように興味深げに本棚を見渡した。海潮堂は外観のとおりに店内も狭かったが実際は三階屋であって、真ん中が吹き抜けになり上階の床は回廊となっていたので、一階からは壁一面にしつらえられた本棚が天井までそびえて見えた。
再び今いる一階のフロアに目を移せば、日当たりの良い窓の下の小さな木机と、それを挟んで置かれた二脚の椅子が目に入るだろう。机の天板はよく拭き込まれて艶やかに光っており、深緑の別珍を張った椅子も座り心地が良さそうだ。
だが紳士はこの魅力的な一角には近寄りもせず、店の奥の帳場の店主の前にまっすぐにやってきた。
「面白かったよ、これ」
そう言いながら懐から本を取り出し、帳場台に置く。店主は商売人らしいやわらかな笑顔で
「それはよろしゅうございました」
と、応じた。
年の頃は三十半ばから四十に手が届こうかという辺りだろうか。短めに刈り込んだ暗色の髪。二重のまぶたに縁取られた海松茶色の瞳。広い肩幅も差し出された本をあらためるしっかりした手も大人のものだが、ゆるく持ち上がった唇が親しみを感じさせるその風貌は、少年の面差しをどこかに留めていた。
「いかがですか、お客様の来し方や思い出など、あちらのお席でゆっくりお聞かせいただけませんか」
新たに借りる本を物色している紳士に向かい、窓辺を指し示して店主が言った。
「心を込めて本に仕立てさせていただきますよ」
親しげな笑顔でそう続けるのに、紳士はあっさりと
「私は自分の取るに足りない人生のひとコマなど、他人様に知っていただきたいとは思わんよ」
と、かわした。
そう、ここ海潮堂が提供する貸本とは訪問客の語る思い出──記憶──を書き留めた記録であり、海潮堂の本を読めば、あたかもその「記憶」を自分自身の物語のように感じることができる、というのがこの店の評判であり、人気の理由である。海潮堂とは、すなわち人々の記憶の保管庫であった。
「そうだねえ、店主の物語が読みたいね。ここにはないのかな」
「私の、でございますか?」
店主の顔に、わずかに怪訝な表情が浮かぶ。だがそれも一瞬のこと。
「どなたさまも私のそれのような、ありふれた物語には興味をお持ちになりません」
笑ってそう応えると、紳士も笑い、
「ここにいるだろう、興味を持った客が」
と、返した。
「仕事熱心はけっこうなことだが、たまには休みを取って街をぶらついてみるのもどうかね。そうだ、よければ明日にでも。ここは本当に素晴らしい街だよ」
むろん、きみのこの店も含めてね、と、紳士はいたずらっぽく付け加えた。
妙な客だ、と、通りの向こうに消えてゆく紳士を窓ガラス越しに見送りながら店主は思った。
一体に人はおのれの物語を語りたがるものだ。一見その気のなさそうな客であっても、水を向ければやがて語り出す。
語らせるのが海潮堂の商売の手管であり真骨頂でもあったが、件の紳士はそれをさせない、たいそう珍しい客であった。
翌日、店主は海潮堂を継いでから初めて店を休んだ。
昨日の紳士の「たまには休みを取って街をぶらついてみては?」という言葉に動かされたつもりもなかったが、物心ついて以来、おまえは海潮堂の二代目だといわれ続けて育ったゆえか、考えてみれば確かに自分は店の中の書物とおのが仕事以外のことに、あまりに関心を持たなすぎたかもしれない……そう思ったのである。
長年住みなれた街ながら、のんびりと特段の目的も持たずにぶらぶらと往来を歩くのも初めての経験で、見慣れているはずの景色もいっそう鮮やかに映る。新鮮な気持ちで通りの店頭を冷やかしつつ歩いていた店主は、突然起こった騒ぎに振り返った。
見ると数人の男たちが馬車馬の手綱を取り、必死で落ち着かせようとしている。その向こうにはすでに人だかりができていて、子細は不明ながら、どうやら人が馬車にはねられたのは確かであった。
駆けだした往来の人々に促されるように、店主も人だかりに向かった。
物見高い人々をかき分け輪の中へと入っていくと、果たしてそこには少女が倒れていた。額から流れ出た血がどす黒く石畳を汚している。引きずられたのか服も破れあちこちに血が滲み、腕も妙なかたちに捻れていた。
骨が折れている……。それは一目でわかった。
これまでに、何人もの医者から話を聞いたことがある。たまたま行きあった道端の怪我人を、ありあわせの道具で治療した話。獣に噛まれたのを放っておいたせいで腐ってしまった手足を切り離し、なんとか命を救った話……。店主はそれらを心の内に思い浮かべた。
すべきことはわかっていた。
「担架を持ってきてくれ。あと、何か副木になるものを」
人だかりのうちの誰かが板切れを差し出した。店主はハンカチで少女の額の傷をぬぐった。べったりと血がつき、一瞬見えた傷口もまた血にまみれて見えなくなってしまう。ばっくりと割れた傷は存外に大きく、流れ出た大量の血や捻れた腕にも心が怯む。
店主はまず止血を試みた。傷口を強く押さえれば血は止まる。本当は傷自体ではないとある箇所を押さえればより良いのだ、とは記憶の隅にあったが、その箇所がどこかを店主は知らなかった。
それで店主は肩にかけていたストールを半分に裂くとハンカチを折りたたみ、傷に強く押し当ててその半裂れを強く巻きつけた。みるみるうちに血が滲んできたが、これで少しは良いはずだ。
それから捻れた腕に副木を当て、もう片方の半裂れでそれを固定しようとしたが、ぐったりとして弱々しく呻くだけだった少女が暴れて悲鳴を上げたので、手が止まってしまった。
「どいてくれ、通してくれ」
その時。荒々しい声がして人だかりが割れ、ひとりの男が現れた。その後に大きな革の鞄を抱えた若い男が続く。
四十がらみの、太り肉の男である。店主を押しのけるようにして少女の傍らにしゃがみ込み、その様子をのぞきこんだ。若い男も心得たように傍らに跪き鞄を開ける。
「さあもう大丈夫だ、びっくりしたろうがたいした怪我じゃない。ちょっと痛いのを我慢すれば、すぐによくなるからな」
男は大きな声で少女にそう言い、それから、担架を……、と続けるのへ、店主が応えた。
「今取りにいかせてます。おっつけ戻ってくる頃でしょう」
ほう、という風に、男が初めて店主を見た。
「担架と、副木も用意させたのはあんたかね。額の止血といい、心得てるな」
「いえ……、とんでもございません」
店主は心から言った。
すべきことを知っていることと実際にそれが出来ることは、天と地ほども違う。それは経験と研鑽の有無であり、それなくしては知識もたいした役には立たないのだ。
少女を励まし宥めつつてきぱきと手当を進める男の仕事ぶりを、店主は食い入るように見つめていた。
「昨日、往来でなにやら騒ぎがあったようだね」
翌日。いつものように海潮堂に顔を出した紳士が言った。
「子供が馬車にはねられたのです」
紳士が眉を上げた。
「それはお気の毒なことだ。きみも見たのかね」
「はい」
やって来た医者らしき男の手際が見事で、きっとあの子もすぐに良くなるに違いない、と店主は続けた。
「私は多くのお客様のお話を子細に伺うことで、自分も何者かになったかのように感じておりましたが、それは気のせいでした。私は一介の代筆者にすぎなかった……自分の本分を知りました」
おやおや、と紳士が笑った。
「自分もこれから色々と学び、確かな何者かになりたい、とは思わなかったかね?」
「私がすべきはお客様のお話を聞き取り、本を作ることです。本の主役になることではありません。昨日、その思いを新たにしたのです。巷でなにがしかの経験を積むよりも、机に向かい自分のすべきことに邁進せねばと……」
顔を上げ、晴れ晴れと語る店主の表情は明るかった。
「ぜひお客様の『物語』も、本にいたしたく存じます。いつでもお待ちしています。私はいつもここにおりますから」
ははは、と紳士は機嫌の良い声で笑うと
「生真面目なことだ」
と言った。店主も笑って
「ありがとうございます。お褒めの言葉と受け取らせていただきます」
と、応えた。
若いね、店主。
海潮堂を辞した紳士は、往来でふっ、と小さなため息を漏らすと胸の中でごちた。だがその目の色は暖かい。
悟った風なことをいうのが、まだまだ青いあかしだ。だがきみにもわかる時がくる。
誰もおのが人生から主役を降りることはできない。
ひとの一生はささやかで退屈な一幕の舞台であるという。その舞台をただ道すがらに覗き込んでいくだけの観客にはその通りだろう。しかし当の主役にとっては、悩み、苦しみ、感動し、魂を揺すぶられる……そうして時には語らずにはいられない出来事に出会うほどには、その舞台は長く波乱に満ちたものなのだ。
紳士は往来に目をやった。栄え盛る煌都の大通り、そしてどん突きの路地裏にも、無数の物語が生まれ消えていく。そのあまたの物語こそが、ここ煌都のきらめきだ。
そう、私こそがこの人の世の過客でありそのきらめきを愛でる者である。
おのが物語を得たのちのきみが記す『物語』を、再び読むことを楽しみに、私もまた旅を続けるとしよう──。
煌都を訪れる機会があれば、ぜひ舶来通り裏の海潮堂を訪ねてみたまえ。時刻は店が開く午下がりがよろしかろう。主は愛想良くきみを迎え、明るい窓辺の、座り心地の良さそうな椅子を勧めてくれるはずだ。きみはゆったりとそこに座り、とっておきの思い出を語ればよい。それは一幅の物語となり、立派な本となって、多くの人を楽しませることだろう。
了