脳科学でみる子どもの性差&男女共同参画社会
はじめに
『勉強会企画』を長くやっていなかったから、なにか書こうと思ったのだけれど。私の専門は物理ではないし、正直な話、力学は苦手だ――ラグランジュの運動方程式に苦しめられた記憶は新しい――まるっきり学んでない人たちよりかはできるかもしれないけど、ツマラナイと思ってるものにはツマラナイ説明しかできないしね。
では専攻の話を、と思っても、あまりに独自概念が多いゆえに、一般の方にゼロから説明するのは骨が折れる。馬鹿にするな、と怒らないでほしい。そういうものなのだ。ネット上には、きっと現役プログラマやSEの悲痛な叫びが溢れているだろうから、機会があれば探してみるといい。きっと彼らが「なにに苦しんでいるのかすら理解できない」ことを理解していただけるだろう(悲しいことに、それすらご理解いただけないかもしれないが)。……IT業界の闇は深い。
そこで今回は、私自身の研究分野から、すこし脇に逸れた話をしてみたいと思う。一般の方でも、「心理学」や「脳科学」といったワードには比較的興味を持っていただけるようだから。私自身にとっても付け焼き刃な知識を含むため、あまり不用意に噛みくだかないよう話していきたい。どちらかといえば、大人の方向けの内容となるだろう。しかし、特別な前提知識は求めぬよう留意するつもりでもあるから、中高校生にもご理解いただける……かもしれない。
目次
1.introduction
2.つくりのちがい
3.得意なこと 苦手なこと
4.子どもの男女差
5.勇者になりたがる男性 賢者をみならう女性
6.リスクを学ぶ
余談 とあるリケジョの独白
1.introduction
脳科学的な「男女差」というものについて、正しく理解している人がどれだけいるだろうか。
近頃、「ジェンダーフリー」という言葉をよく聞くし、もうどれだけ叫ばれているかわからない「男女共同参画社会の実現」なんて言葉もある。はたまた(空恐ろしいことに)産業界は盛んに「リケジョ」ブームを盛り立てようとしている。理系女性こそが経済再生の切り札だと言わんばかりの様相だ。私自身その一人として、不気味な担ぎ上げられ方を肌で感じている。
まずはじめに、私の立場をはっきりさせておこう。私は理系の人間だ。理系でありながら、心理学にも片足をつっこんでいる。複合分野と言えば、おわかりいただけるだろうか。脳波解析という工学的な側面からヒトの感情知覚を探っている――研究者の卵、あるいは生まれたての雛のような学生だ。
そう、私の専攻は工学である。講義で学ぶ内容と研究であつかう内容のほとんどは一致しない。この段階からすでに異端ではあるのだが、私が奇異の目でみられるのには、さらにもうひとつ別の要因がある。
ここまで読んだ方には、もうおわかりだろう。文章だ。言葉の選び方・組み方が、非常に「文系的」なのである。――より細分化するならば「文学的」であって、ニュアンスや行間の扱いについて、しばしば哲学者と反りがあわない。
そもそも、私は「国語」が得意である。もっとも安定して高得点をたたきだせるもの、理解に苦を感じないもの、という定義をするのなら、私にとっての得意科目は、まぎれもなく「国語」である。
しかしその一方で、私は「国語」という科目に欠片の興味も抱けなかった。身も蓋もなく言ってしまえば、嫌いだった。それはもう昔から、嫌いだった。
当時の言い分を借りるなら、「答えがひとつに定まらない」ことに不満があった。察するに、形にはまった解釈を強制されることが不服だったのであろう。数学だろうと物理だろうと「一意に定まる答えなど限定された条件下にしか存在しない」と悟った今となっては、ただの笑い話である。(そのくせ当時の私は四則演算が嫌いで、パズルのような文章題を解くことを好んでいたのだから始末に負えない)
しかし、こんなところに顔を出しているくらいだから、文章を読むという行為そのものは好きなのである。ただ、系統的に学ぶ対象として関心を抱けなかっただけのこと。文学部の方、不快に感じられたら申し訳ない。個人の所感として聞き流してほしい。
とにかくそういった経緯で、畑違いもはなはだしい学部に籍を置いた私のことを、学生、教授、さらには学会で顔を合わせた外部の人間までもが、口を揃えて言うのである。――お前は文系の人間だ、と。いつからか文学少女の名を返上し、文系少女と呼ばれて久しい。冗談のような本当の話だ。学生に限らず、複数の教授までもが私をそう呼ぶ。
閑話休題。
さて、自己紹介はほどほどにして、冒頭に述べた論旨に戻ろう。私自身が女性であるゆえに、この文に女性蔑視の意図がないことは、すでにご理解いただけていることだろう。もちろん男性蔑視の意図もない。
男女差について語るとき、かならずと言ってよいほどついてまわるプロトタイプがある。男尊女卑。あるいはその逆。どちらが優れている、劣っている、という議論につながってしまうから、どうも、この手の話題は長らくタブーとされていたらしい。近年になってようやく、さかんに論じられるようになったのだ。
――ところが蓋を開けてみれば、両者の脳には、比較しようもないほどの差異があったのである。
話はホモサピエンスに限ったものではない。生育環境に由来しない脳の男女差は、霊長類全体にみられる。遺伝子的に我々の「いとこ」であると称されるチンパンジーにも、もちろん男女差は存在していた。
ひとつずつ順に追っていこう。
2.つくりのちがい
体格差を考慮しても尚、女性の脳の方が男性の脳よりも「小さい」ということは、広く知られた事実である。
小さいがゆえに能力が低い。そう考えられていた時代もある。生物的に男性のほうが優れているのだ、と論じる際の根拠としても、積極的に用いられてきた。はたして、本当にそうだろうか?
先に結論を述べよう。――否である。
たしかに女性の脳は小さく、比して男性の脳は大きい。発達した部位が肥大化することから考えて、容積が大きければ大きいほど知能が高いという俗説にも一定の説得力がある。――ただし、それが男性であったならば。
女性の脳に関して言えば、その容積は処理能力に比例しない。というのも、男女では、課題に応じて活性化する神経細胞の分布がまるで異なっていたからだ。
男性であれば、ひとつの機能に関係して活性化する部位は、どこかしらに集中している。ところが女性の脳では、これが分散しているらしいのである。もうすこし正確に言うのなら、女性は、大脳皮質――脳のなかでもより発達した中枢にちかい部位を積極的に用いて、多くの処理を行っていた。
じっさいに、複数の女性の脳を比べてみても、思考能力が高い女性の脳ほど大きいという相関はみられない、という研究結果が出ている。
さらに言うなら、男性の脳に比べて女性の脳の方が血流が早いこともまた、明らかになっている。このように女性の脳には、容積の小ささをカバーし、効率良く処理を行うための仕組みが備わっているのである。
では、逆に女性の脳の方が優れているのだろうか? ――これもまた否である。
どのような課題が与えられるかによって、男女の優位性は簡単に逆転するだろう。そもそも、男女では、得意とする領域がまるで異なるのだ。
3.得意なこと 苦手なこと
「地図の読めない女性」「話を聞かない男性」――書籍のタイトルとして、あるいは男女差を端的に表すフレーズとして、小耳に挟んだことがないだろうか。
先行研究で明らかにされてきた「男女差」というものは、多岐に渡る。なかでも、よく知られているのが、冒頭に挙げたものだろう。
どうも世間では「話を聞く」能力よりも「地図を読む」能力の方が有用であると考えられがちのようだから、今回は、やや女性擁護側に立ってみようかと思う。(個人的には、真に重要視されるべきは前者であると思うのだが)
ここでまず勘違いされがちなのは、「どのような地図においても女性が男性に劣るわけではない」ということだ。一般的に地図というものは、女性の特性よりも男性の特性にあった作りをしている、というだけの話なのである。
こんな実験結果がある。二種類の特性の異なる地図を用意して、それぞれ男性と女性で目的地にたどりつくまでにかかる時間を比較したものだ。
距離や方角を表した地図を渡せば、男性の方が平均的に短時間で目的地に到達した。
しかし、数字の代わりにランドマークを記した地図を与えると、この結果は逆転したのである。
北へ300m進んだ交差点を南へ曲がって、さらに500m進み――……といった指示の代わりに、赤い屋根の家を目印に郵便局のある方向へ曲がる、という視覚的な情報を与える。
すると、男性の多くは混乱し、女性の多くは苦もなく目的地にたどり着く。もちろん、すべての被験者がそうであるわけではないが、平均を取るとその差は明らかだった。
そもそも女性は、主観的な情報をあつかう能力が高く、男性の何倍もの色数を識別する。多くの男性にとっては、まったく同じ色にしか思えない微妙な色調の差を、女性たちは明確に感じ分け、すべて異なる色として捉えているのである。
であればこそ、色にこだわる女性に対して、男性が「そんなの全部おなじじゃないか」と思うのも仕方がない。しかし、多くの女性にとっては、そのちがいは明らかなものだ。いくら男性が口を揃えて「だれにも分からないよ」と言ったところで、自分自身はもちろん、他の女性にだって分かるのだから、彼女たちにとって無視できる差異では決してないのである。
「話を聞かない男性」についても同様で、彼らは悪気があって話を聞かないのではなく、女性に比べて「聞くことが苦手」なだけなのである。相手の声を聞く能力も、相手の表情を読む能力も、おしなべて女性の方が高い。「女の勘は鋭い」などという慣用句も、あながち笑えたものではないのである。男性からしてみれば、たまったものではないのやもしれないが。
つまり多くの場合、あなた自身よりも、あなたの彼女――あるいは奥様――は、相手の感情を読み取る能力が高い。ときとして不必要な深読みをしてしまうケースもあるが……探られて痛い腹を持つ方は、頭の片隅にとどめておくべきかもしれない。
4.こどもの男女差
前節では、成人男女における性差について語ってきた。では、発達過程の子供たちの場合、性差はどのように現れるのだろうか。
多くの研究者たちは、子供たちの性差は大人よりも小さく、成長にともなって徐々に広がっていくものと考えていた。
ところが、じっさいには、幼児期における性差は、成人よりも顕著に現れることが判明した。脳の男女差は、発達過程にまで及んでいたのである。
驚くべきことに、成人女性と女児、成人男性と男児のちがいよりもずっと、女児と男児の性差は大きい。
これが意味することは、つまり、男女差というものは、育った環境や性ホルモンの影響によって生じるのではなく、生来備わった構造からちがっているということだ。
それゆえに、子どもの特質に沿わない教育は悲劇を生みやすい。
皮肉なことに、ジェンダーフリーの理想を実現する――女性的な分野に男性、男性的な分野に女性が進出する――ためには、男性は男性的にある方が、女性は女性的にある方がいいという。
共学校よりも女子校や男子校の方が、男性的な科目――物理や数学、コンピュータサイエンス等――に興味を持つ女子生徒や、女性的な科目――音楽や家庭科、美術等――に興味を持つ男子生徒が二倍近く多いというのだから驚きである。
もちろん、個人差を忘れてはならない。たとえば、男性的な特質を生まれもった女児を「女性らしく」育てることが正しいとは限らない、ということだ。
男性的あるいは女性的な特質は、先述のとおり、生育環境よりも先天的な脳の構造に由来していると思われる。後天的に――たとえば女児を「男の子らしく」育てるように――誘導したとして、その子の特質が変化するものではない。無理な誘導や押しつけは、子供の能力を限定し、いたずらに苦しめ、追いつめるだけのものとなってしまう。幼少期の教育は、子供ひとりひとりに沿ったものであることが望ましい。
理系の分野に女性が少ないのは、「数学」や「物理」について――その指導者の多くが男性であるがゆえに――女児にとって適切な(無味乾燥な数字ではなく現実世界と密接に結びついた)指導が得られにくいからだ、という説がある。
逆に、文系――とくに文学や芸術系――の分野に男性が少ないのは、「国語」などについて適切な(感性的ではなく具体性を持ち男児の興味関心をかきたてるような)指導が得られにくいからとも考えられる。
すなわち、女児と男児では、適切な指導方法が異なる。得意な領域もちがえば、興味を持つ対象、取り組み方もまるで異なるのだから。
――そもそも、色や音の認識にすら差があるのだと、ご存知だろうか。
女性は、人の表情を知覚する能力に優れている。相手の声を聴く能力にも優れている。これらの特徴は、女児にも備わっている――そして発達過程の男女差は大人の男女差よりも顕著にあらわれる。
もしあなたが父親で、幼い娘におびえられた経験があるのなら、すこし声に気をつけてあげるといい。あなたの声は、少女の耳には十倍ほど大きく聞こえるのだ。あなたにとってなにげない言葉が、少女には怒鳴られたかのような脅威に変わってしまう。
そしてこの特徴は、大人の女性になっても幾分か影響する。女性の声はなぜ小さいのかと疑問に思ったことはないだろうか。本人にとって聞きごこちのよい声量で話せば、自然と男性にとっては小さくなってしまうのである。逆もしかり。男性の声は、女性にとってしばしば喧しい。当然ながら、本人に自覚はまるでないのである。怒鳴られるのが苦手な女性が多いことも、ここに由来しているのだろうか。
5.勇者になりたがる男性 賢者をみならう女性
一般に男性はリスクを好み、女性は敬遠する傾向があるという。危険を冒した勇者のことを男性は讃え、女性は愚かしいと呆れるだろう。危険を回避した賢者のことを女性は讃え、男性は臆病者と笑う。――覚えがないだろうか?
凶悪犯罪者に女性がすくないことも、このあたりに起因しているのかもしれない。女性の場合、「そうせざるを得ない」状況下に追い込まれないかぎり、そうそうリスクを侵したがらないのである。
たしかに、リスクに挑まなければ最良の結果は得られない。しかし、不必要なリスクに身を晒すことは最悪の結果を招きかねない。
最良を追い求める男性は――しばしば散々な目に遭うものの――高い評価を引き出す。
一方、最悪を回避したがる女性は――どうにもならない惨事を回避するものの――可もなく不可もなし、といった評価に落ちつく。
同世代・同程度の能力を持つと仮定した男女には、こうして評価の差が生まれるのである。
そもそも、男性には自身の能力を過大評価しがちな傾向があり、女性には自身の能力を過小評価しがちな傾向がある。
つまり、自身を(ときに現実よりも)高く見積もる男性は、現状の不遇を訴え、その結果としてより高い賃金を得る(こともある)。
一方、自身を低く見積もりがちな女性は、そもそも賃上げ要求をすることが少ないという。リスクを回避したがる傾向も、その要因のひとつだと考えられる。
アメリカのデータだったかな。実際に検証したものもある。賃金の値上げ要求をするかしないかは、年収の額に直結するらしい。実のところ私も詳しくはないから、日本ではどうなのか、ぜひ調べてみて欲しい。パート勤務が多い少ないという次元を超えるほどに、男女の収入に格差があるのか否か。……なんとなく、もっと顕著に現れてきそうな予感がしている。
6.リスクを学ぶ
女児と男児には、それぞれちがったアプローチから、『正しいリスクの冒し方』を学ばせていく必要がある。
男児には、無謀さを抑えるため。
女児には、殻を破らせるため。
もともとリスクを好む男児の場合、成功と失敗をくりかえしながら、『自分の限界』を学んでいく。幼少期に積んだ失敗経験は、成長してからの無茶を抑止する。
どのような結果がもたらされるかの予測がつくからこそ、無謀な挑戦を避け、危険を侵さなくなるのである。
また女児の場合も、子供のうちにさまざまな成功体験を積むことで、過剰にリスクを忌避することなく本来の能力を発揮できるようになるだろう。
――むしろ、『まったく危険を知らない』ことこそが、非常にリスキーだ。
デジタル社会の現代。親の過保護とあいまって、男女問わず『リスクの冒し方』を学ばずに育った子供は増加している。だいたい、狂気的な犯罪を突発的に起こすようなタイプは、幼少期に危険から遠ざけられて育ったケースが多いのだという。
危険から子供を遠ざけることは、かえって将来的に子供を危険に晒すことにつながりかねないのである。
いっさいの危険をとりあげるのではなく、大人の目が届く範囲で『安全に危険を学ばせる』ことこそが、子供の将来にとって重要となることを覚えておきたい。
参考文献:
・研究室にあった本
『男の子の脳、女の子の脳――こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方』草思社 (2006)
※本稿は、読み終わって時間が経ってから、記憶を頼りに書いた「感想文」ですので、あやまっている点もあるかもしれません。割愛したりアレンジした部分も多くあります。興味のある方は、一度手に取ってみられてはいかがでしょう。――英語力に自信のある方は、ぜひ原書を。
さて、ここまでは、活動報告に乗せた自分用の覚書を、ほんのすこし手直ししたものです。ありがたいことにエッセイ化の要望をいただき、こうして場を改めて披露することとなりました。
作品として投稿するにあたって、もうすこしだけ、私の実体験にもとづく私見を添えさせていただこうと思います。――以下は、科学的な裏づけのない個人の所感であることを断っておきます。
余談 とあるリケジョの独白
先日、将来の「女性技術者」として、男女共同参画社会に関連したフォーラムに参加させていただく機会がありました。
実際に、女性の少ない企業で技術職として働き、チームリーダーを務めている方にお話を伺うなかで、私自身の体験と共通したものを感じ、社会に出ていない学生の身ではありますが、このような蛇足を記さずにはいられなくなったのです。
女性の特徴とは、なんだろうか。
先進国のなかで、女性管理職の割合が群を抜いて低い日本。政府の主導もあって、育休等の制度も徐々に見直され、積極登用の姿勢を見せている企業も多い。
理系の――とくに、ものづくりの現場において、女性がいることによる強みとはなんだろうか。
私が、冒頭で『リケジョとして持ち上げられることに違和感を覚えることがある』と述べたのは、女性でなければならない、女性であることによるメリットを発信しないまま、ただ数値を増やすことを目的とされているような不自然さを感じるからに他ならない。
多様性という言葉をよく耳にする。多様性に富んだ社会。多様性に富んだ企業。ところが、女性が加わることによって、具体的に、どのような変化が生じるのか。どのような刺激となるのか。考えたことのない方も多いのではないだろうか。
女性の社会進出を推し進め、「女性の能力を磨かせて、男性と同等に働けるようにする」――という考え方には、女性を尊重しながら見下げているような違和感を覚えるのだ。
「女性だから」認められて、「女性だから」同等でも高く評価する? 「女性目線」の意見が欲しいから? じゃあ女性目線ってなにがちがうの? 対象者が女性だから当事者の意見を反映して、なんてのは、対象者が高齢者なので高齢者に意見を聞きましょう、とおんなじようなもんじゃないの。もっと一般的なメリットは?
なんだか妙ではありませんか。
――私は、気持ち悪いと思います。
中身がない。
いったい『何』を評価しているのか、伝わってこない。
だからこそ、「そんなもん逆差別だ」という声も生まれてくる。
実情は代わり映えしないまま、建前に惑わされて、男女がお互いに「差別だ!」と叫びあう不毛な構図ができてしまう。あるいは不満を抱えたまま黙りこんでしまう。
評価されるべき点がないと言うのではないのです。ただ、見当違いな評価があふれているように思える。それが気持ち悪い。
たとえば、女性はリスクを好まない。
言い換えれば、女性には堅実で保守的な傾向がある。
女性がリーダーを努めた場合、キッチリとした丁寧な仕事をする。男性が主導する場合に比べて、細かい計画を立てて問題の発生を抑止する。そうして、自然と無茶な挑戦を避け、無難に工程を進めていく傾向があるように思います。
リーダーでなくとも、チームに女性が一人いるかいないかで、大きな差が出てくる。これは、私も企業生や学生とチームを組んで開発を行う際に、よく感じていることです。その代わり、「ダイナミックにぶっとんだ発想」は生まれにくくなる。
理想を追えば、どちらに傾きすぎてもいけない。開発において革新的な挑戦は重要であるが、一方で仕事である以上、確実な成果につなげることも重要である。そのバランスが難しい、――とお会いした技術者の方は話しておられました。その通りだと思います。そして現状では、女性の割合は低いので、もっと積極的に登用していくべきだ。これなら納得できる。
たとえば、女性は「話を聞く」能力に長けている。
相手の意図を柔軟に察して、細やかな気配りができる。顧客とコミュニケーションをとることの重要性を考えれば、これは評価されるべき資質です。
女性が一人いることで、空気が変わる。なごやかに話し合いが進められることもある。円滑な人間関係を保ち、積極的な意見交換が行える話しやすい空間をつくることも、重要な能力でしょう。
――だけど、そんなこと、メディアはひとことも言ってくれない。
私は、ここまで考えて、ようやく求められている「多様性」に頷けたというのに。理由なんてそっちのけで、女性だから、という一点だけで担ぎあげられてしまう。
なにも考えずに乗せられてしまうのは、怖いことですよ。なにが評価されているのか、なにを求められているのか、自分が誇れる能力、自分に不足した能力、そこまで把握してから、ようやく、つぎに自分がなすべきことが見えてくるはずでしょう?
そういう違和感が拭えないので、私はリケジョブームなんてものが好きになれないのです。
きちんと能力を発揮し、証明できれば、正当に評価してもらえる。挑戦の機会が与えられる。それは純粋に喜ばしい風潮。
結婚や出産など、女性ならではの生活環境の激変もある。家庭をもてば、それまでとおなじようには働けない。女性が産後復帰し、共働きで生計を立てていくには、職場の理解が不可欠。そういう意味で「女性にやさしい」企業が増えていくことも、働く意思のある女性にとって喜ばしい風潮。
すべてがおなじといかないのは当たり前のこと。
ただ、まちがえてほしくない。
整備されるべきは、ハンデを考慮して対等に立つための『補助』であって、理由のない『優遇』になってはいけないのだと、思う。
だから、過剰な持ち上げられ方は嬉しくないし、ときとして侮辱にすら感じられる。そういう人にかぎって、――ほんとうはなにもわかってないんじゃないの? と、疑いたくもなってしまうのである。
もちろん個人差というものはとても大きくて、私自身、女性のなかでは男性的な傾向をもっている方ではないかとも感じている。いわゆる『リケジョ』全般に、そういうタイプは少なくなさそうだ。
それでも、男性的な女性は、平均的な男性よりも、やはり女性的なのである。多少なりと、女性らしい特質を持っていることだろう。
重要なのは、バランス感覚。人や場にあわせて柔軟に対応できる考えの幅を、身につけていきたい。
おわりに
大人になってから自分を変えることは、子どものうちに変えることよりも、はるかに難しい。根本的な思考を改めることは、不可能に近いだろう。
自分の殻を破ることができるのは、幼い頃だけだ。あるいは、大枠の方向性は、生まれたときから定まっているとも言える。たしかに、6節(リスクを学ぶ)で述べたように、幼少期の教育は重要だ。しかし、大人になってしまった子どもたちだって、変化の余地をなくしたわけではない。
偽りをまとってでも、変わろうとすることに意味がある。核を変えられなくても、広げていくことはできる。むきだしの棘をしまい、他者の棘を受け止められる柔らかな層をまとい、だましだまし寄り添うことを許していく――それが、『大人になる』ということなのではないか。あるがままぶつかることしか知らなかった子供時代とは、距離感が変わっていく。そこに、変化の余地ができる。
どうか、そういうものだから、と諦めてしまわないで、認めるところからはじめてほしい。いまの自分を、そして他者を。一歩引いて自分を見つめ、相手を受け止められる心の余裕を身につけていくことで、世界は変えられる。見かけだおしで構わないのだ。ごまかすように重ねた仮面すらも含めて、自分自身だと胸を張ってしまえばいい。それを咎める『大人』はいないだろう。
散々、脳のつくりは生まれつきのものだ、と語ってきて、こんなことを言うのは矛盾じみているかもしれない。ただ、私は、身につけた知識を言い訳にしてほしくないのだ。このエッセイが、自己保身や論争の種ではなく、相互理解の足がかりになることを祈っている。