青い空のように
心電図の音が聞こえる。
もう何度も何度も、それこそ常日頃から耳にしている聞きなれた音だ。恐らく生まれたその瞬間から現在にいたるまで、生活と共に在った音、もういい加減うんざりしてくる。
これは私の命の音。
これは私の心の音。
聞く度にいつまでこの音が続くのかと憂鬱になり、聞く度に今日もこの音が続いていると安堵する、それは私に矛盾した二つの感情を与える。
目が覚めて、先ず耳に飛び込んでくる音。今日は一体何月何日の何時なんだろう? 今度は一体どれくらい眠っていたんだろう?
これも馴染みの自問、答えは直ぐに出た。目の前の白い壁にかけてある日めくりカレンダーは、六月の二十九日を示していた。
カーテンの間から差し込んでくる光は明るく、少なくとも今が夜でないことを教えてくれる。
幸いなのか何なのか、自分が眠りに就いてからまだ一日しか経過していなかった様だ。この間なんか、一週間も眠り通しになった。それに比べれば幾分かのようにマシではあるが、それに一体何の意味があるというのだろうか?
私の世界は、この白い壁に囲まれた潔癖な病室だけだ。
満足に外出もできずに、ただ、このベッドの上で残りが幾ばくかも知れない時間を浪費している。
窓から見える、四角く切り取られた空は、確かに綺麗ではあったが、実際その下に滅多なことでもなければ出ることができない私にとっては何処か白々しく、作り物めいた虚しさがあるように思えた。
それはただのひがみなのかもしれない。本物の空に触れる機会の少ない私が、ただ、外の世界に抱いた叶わぬ憧憬、それを諦めるために自分自身が知らず知らずの内に空のこの美しさを否定しているのかもしれない。
我ながら悲しい事だ。折角都会の大病院から、こんな片田舎の病院に移ったと言うのに、外に出られなければ何の意味もない。自分はこのまま、この白い部屋から出ることもままならぬまま死んでしまうのだろうか? それはいやな考えではあったが、とっくの昔に覚悟はできている。
結局のところ、私は籠の中でしか生きていけないひ弱な、翼を折られた鳥でしかないと言うことだろう。
「相変わらず・・・何もないトコロだよなぁ」
後ろで友人の、気だるげな声が聞こえる。それは無理からぬことだろう。
僕らの住んでいる市は、人口わずか一万人弱の山間にある田舎町である。
唯一の繁華街には、大して客の入らない土産物屋や、寂れた、一昔も二昔も前のレトロなゲーム筐体が辛うじて稼動している小さなゲーセンがある程度、学校に至っては、中高大が辛うじて一校ずつあるだけだった。
要するにド田舎と言うことだ。とりえと言えば、開発が全く進んでいない今時珍しい山々と、元大病院の名医だった医師が開いている中規模の病院くらいのものである。
無論、僕らの様な若い世代が暇を潰せるものなど皆無に等しく、若い世代は年々減少の一途を辿っているのが現状ではある。僕、高瀬光一と、その友、皆川俊哉もはそんな田舎町の暮らしに若い情熱を奪われ続けていた若者の一人である。
日がな一日中将棋や碁をを打つ生活とおさらばすべく、僕らは今、全く整備されていない獣道を、薮蚊に刺されながらひた走っている。目的はと言うと、上月病院の特別診療棟である。
この町は、何もない田舎町ではあるが、この上月病院が出来てからは、ちょっとした療養地としては、そこそこの知名度を手に入れた。曰く、『自然の中での療養は、病気を治すにはいい』らしい。とはいえ、訪れるのは余命幾ばくもない金持ちのじーさんばーさんばかりであった。そう、昨日までは・・・。
上月病院に、女の子が入院したと聞いたのは、昨日の夜のことだった。その日は、一週間に一度の賭け麻雀の日で僕は俊哉の家に集まって、ジャンパイを打ち鳴らしていた。
そこに駆け込んできたのは、町の乾物屋の息子の鈴木だった。
「おい、大変だぞー!」
鈴木は入ってくるなりそう叫んだ。
彼は、何故だか院内で人気のある鈴木商店の乾物の配達のため、上月病院によく出入りしている。昨日もいつもの通り発注された乾物を持って病院に向かったらしい。そしてその帰り道、窓から外を眺める彼女を目撃したらしい。
かなりの美人だったようだ。長い髪に白い肌、円らな瞳に物憂げで儚げな雰囲気、彼女の話を、彼は熱に浮かされたようにしていた。
そして、今のこの状況である。
それならばと、町一番の行動派である僕と俊哉は、早速院内に忍び込むことにした。計画等なく、ただ単に裏山から回り込めば誰にも遭遇することなく敷地内に忍び込めるというただそれだけの情報で決行まで持っていった。
「しっかしどの位の美人なんだろうな」
傍らで汗だくになりながら、俊哉が尋ねてきた。
軽薄そうな笑顔を貼り付けた顔、だがこの男ほど、いざと言うときに頼りになる男も居ない。口がうまく、運動神経も抜群である。これで遊び好きの性格が少しでも治れば、相当の好青年になるはずなのだが、人をからかって遊ぶのが趣味という性格の悪さだけはいただけない。
「さぁね」
僕は曖昧に答えた。実のところ、僕はその女の子なんかにはそんなに興味を持ってはいなかった。
ただ、退屈な田舎の暮らしの中にちょっとした刺激が欲しかったという、それだけの理由でここに居る。
実際女目当てで病院に忍び込むというのは、かなりのスリルがる。
道ともいえないような獣道を駆け上がり、汗だくになりながらも林の中を進んで二キロ弱、やっと少し開けた病院の敷地に到着した。
院内は相変わらずしんとした静寂に包まれていた。
町も同じように閑散とした静寂があるものの、ここのそれにはどこか悲痛でもの悲しい雰囲気があるような錯覚を僕にもたらす。死を目の前にした人々がここには少なからず居るという事実が、僕をほんの少し萎縮させた。
「おい・・・行こうぜ」
俊哉が言っているのが聞こえる。
「ああ・・・・」僕はやはり曖昧な返事を返した。
何故だか心の奥のほうで、何か得たいの知れない不安の様なものが渦巻いているのが分かった。
からからと、寝台に付いた車輪が回っている。
その周りには、白衣を着込んだ女性や男性が、忙しそうに、そして必死に何かをやっている。
僕もそれに付き添っていた。寝台に寝かされた少女は動かない、ただひたすら弱弱しい眼差しを、僕の方に向けている。
強い不安を宿した瞳で、僕の方を見ている。
怖いよと、助けてと、僕に訴えている。
僕は居たたまれなくなった。何故ならば、僕には何も出来ないからだ。
年下だけど、とてもよく笑う可愛い女の子、僕が大好きな女の子が、僕に助けを求めているのに、僕は何もしてやることが出来なかった。
何かを言おうとした。
何かを言わなければいけない気がした。
焦燥感と、どうしようもない無力感の中で、喉がひりひりするほど渇いていた。
不安で汗が滴った。
必死に考えたけれども、言うべき言葉が見つからなかった。
何を言えばいいのか分からなかった。
自分はどうしようも無く弱いのだと言うことを思い知った。
少女はというと、弱弱しい眼差しに、不安の光を一層強めていた。
「何で・・・?」
少女の声が聞こえた。弱々しくて、今にも消え入りそうな声は何処か避難と、そして絶望の色が篭っていた。
「何で何も言ってくれないの? お兄ちゃん」
弱々しくつぶやく。
ここで何かいってやれば、優しく大丈夫だと声を掛けてやれれば、この小さな女の子はどんなに安心しただろうか? だけど僕には、そんな嘘すらつく勇気も無く、ただ、黙って涙を流しているしかなかった。
結局僕は居た堪れなくなって、その場から逃げ出してしまった。 そして、次に会ったその女の子は、黒い額の中で、静かにわらっていた。
静かな院内を僕ら物音を立てないように進んでいた。
閑散とした雰囲気の清潔な建物に、汗と泥で薄汚れた僕たちは確実に場違いだろう。誰かに見つかれば、こっぴどく叱られて、つまみ出されることは間違いない。
俊哉はというと、相変わらずニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべている。
「いやー、楽しみだねぇ」
どんな状況にあってもこのペースを崩さない彼を、僕は時々尊敬する。今現在も、彼には緊張感と言うものが全く無いからだ。
「まぁ、鈴木が美人っていうからには美人なんじゃないの」
僕は興味無さ気に答えた。
実際病院に来て見て、僕の中のスリルを追い求める感情は、とっくの昔に萎えていた。
病院の、特にこの上月病院の雰囲気は、何処と無く沈んだ重苦しいものに感じられた。
そこでは、日常的に死が繰り返されている。
そこには誰のものとも知れない悲しみが漂っている。
それには、以前、この病院で死んでしまったあの少女の悲しみも含まれているのかもしれない。そう思うと、僕はとたんに帰りたくなった。何もしてあげられなかったあの子の事を、一刻も早く頭から消し去りたくなった。
それでも、前を行く俊哉は止まらず、僕はなし崩し的に俊哉について歩いていた。
どの位歩いただろうか、いつの間にやら、そこは鈴木の言っていた、特別診療棟の裏だった。
より一層清潔感を増したその建物は、何処か物悲しい雰囲気を醸し出している。「おい、ひょっとして・・・」
俊哉が何か言って、その建物の一角を指差した。僕はというと、ただ、ぼうっとしながら、何も考えずに俊哉の指し示す方向に目を向けた。
その瞬間、僕の心臓は大きくはねた。
「恵那・・・・!?」
病棟の三階の一番端、そこで窓越しに空を眺めていた少女は、以前僕が大好きで、よく一緒に遊んでいた女の子だった。
僕が何もしてやれずに何もしてやれない内に死んでしまった、あの女の子だった。
僕は反射的に走り出した。
もう何がなんだか自分にも分からなくなっていた。
後ろの方で俊哉が何か言っていたが、気にもならなかった。
そのまま手近な入り口に向かい、そこから院内は転がり込む。階段を駆け上がり、彼女のいた病室まで、走った。
幸いなことに、その途中誰にも出くわさなかった。
病室の前に立って、無我夢中で扉を開けた。
「恵那っ!」
そう叫んで室内に踏み込むと、そこには呆気に取れれたような顔をした綺麗な女の子がいた。
「な・・・」
余程驚いたのか、ただくちをぱくぱくさせている。
当然ながら、『恵那』ではなかった。
彼女はもう五年も前に亡くなっている。ここに居よう筈も無い。
「あ・・・・えーっと」
僕はと言うと自分の愚かな、後先考えない行動を心から呪った。だが、呪ったところでどうしようもない。
途方にくれていると、最初の驚愕から回復したのか、少女が半眼で僕を見つめてきた。
「な、なによあんた? 変質者?」
綺麗な声だった。が、そこに紡がれた言葉の意味は、僕を慌てさせるには十分だった。
「い、いや・・・ちが、違うんだよ」
僕は言った。言ってから自分の情けなさに涙が出そうになった。何処の世界に自分は犯罪者ですと名乗る奴が居ようか?
「ホントにぃ?」
案の定、彼女は信じていなかった。
「いや、その、ただ、君が知り合いに似ていたもので・・・つい」
我ながら厳しい言い訳だった。下手なナンパじゃあるまいし、今時こんなことを信じる奴は居ないだろう。
だが、これは本当のことだった。この少女は、見れば見るほど『恵那』に似ていた。彼女が生きていれば、きっとこんな風になっていたに違いない。
「あのさ・・・」
僕がなんとなく彼女に見とれていると、女の子はダルそうに声を掛けてきた。
「あなたが変質者ににしろそうでないにしろ、早くここから出て行った方が良いわよ」
彼女がそういった瞬間。
コンコン、と扉を叩く音。
それと共に、
「高林さーん、検温の時間ですよ」
という女性の声。
僕は一気にパニックに陥った。
「――――――?!」
どうして良いか分からずに僕がおろおろしている。
「ったくあんたはー」
女の子は呆れたように呟くと、僕にベッドの下に隠れるように指示した。
僕が隠れ終わると、彼女はさっきとは明らかに違う声音で「はーい」と返事をした。
それからの数分間は本当に心臓が飛び出るのではないかというくらい緊張した。いつ見つかるかもしれないという恐怖が、冷や汗となって僕の身体を濡らした。
僕の目の前を看護婦の足が行ったり来りしている。
「はい、平熱ですね。じゃぁまた来ますから。」
看護婦が出て行くと、女の子は僕をベッドの下から引きずりだした。
「で、変質者さん?」
僕を睨む女の子。
「いや、僕は変質者じゃないんだけど…」
とりあえず僕は弁明してみる。
「ふーん」
女の子の瞳には、相も変わらず疑いの光が宿っている。
「見ず知らずの女の子の部屋に知らない女の名前を叫びながら乱入してきておいて変質者じゃないなんて言うんだ?」
全く尤もな意見だった。これでは変質者を通り越してキ●●イだ。
「まぁ、ここで悲鳴を上げてあげてもいいんだけどね、それじゃつまらないしなー」
女の子は意地悪く笑いながら考える素振りを見せる。僕はというと、冷や汗が背中を濡らすのが判るほど激しく狼狽し、緊張している。
先刻、彼女が『恵那』に似ていると思ったが、どうやらそれは外見だけのことらしい。何より彼女は、こんな邪悪な笑い方はしなかった。
「まぁ、自分の身が可愛ければ私のいう事には逆らわない事ね」
さっきかばってもらった恩も有り、僕は頷くしかなった。
「じゃぁ、あなた。たまにここに来て私の話し相手になりなさい」
女の子はぴっと僕を指差してえらそうにそう言った。
「え…?」
僕は少し呆気にとられた。てっきり裸踊りとか、その窓からダイブしなさいとか、恥かしかったり、無茶だったりする注文をされると思っていたのだ。
「こ病院ってお爺さんお婆さんばっかりで私と同年代の人が居ないのよね…。だから一日中空を見るしかする事が無かったの。」
女の子は笑っていた。さっきのような意地の悪い笑い方ではなく、何処かうきうきした感じの、嬉しそうな笑顔だった。
「あなたって見てると面白そうだし、まぁ、見たところ女を襲うような甲斐性がある様にも見えないしね」
微妙に誉めていない。っというか完全に馬鹿にされてる。そう思いながらも僕は従うしかなかった。病室に乱入した件もあるが、その笑顔が、何だかまぶしかったからだ。
結局その日はそれっきり、僕は病院を後にした。
明後日また来る様にと約束をさせられて…。
「で…」
俊哉が悪戯っぽい笑みを漏らす。
「その女の子と御近づきになったわけだ」
その日の夜中、僕は俊哉の家で将棋を打っていた。無論金銭を賭けて。
「まぁね…」
僕は銀で歩兵を取りながら答えた。
傍らでは鈴木が、音楽を聴くともなしに聴きながら僕らの話に耳を傾けている。
「お前もやる様になったじゃんか。あんな美人と友達になるなんてよう」
俊哉が軽口を叩きながら歩兵を前に進めた。
どちらかと言うと『友達』ではなく『下僕』なような気がするが、そこはかとなく無視する。
正直こんな展開になるとは思いもしなかった。当初はただ単なる好奇心から、一体どんな女の子か見に行く事が目的だった筈なのに、僕はあろうことかその女の子と話をしてしまった。それどころかまた会う約束までしている。
まぁ、性格に問題があるような気がするのだが、悪い奴ではないのだろう。見ず知らずの僕を匿ってくれたことからも判る。
それに、彼女は『恵那』に似ていた。だからこそ、僕は彼女の事がこんなにも気になるのかもしれない。
「それでさ、彼女なんて言う名前なんだよ」
俊哉は持ち駒を適当に弄びながら興味津々といった感じで訊いてきた。相変わらずその顔には軽薄な笑みが張り付いている。
余程友人の色恋沙汰が楽しいらしい。まぁ、こんな娯楽の少ない田舎町ではその手の話は格好の娯楽である。彼のこの様子も無理からぬことだ。
「高林春奈というらしい。十六歳だと」
僕は飛車で桂馬を取った。これで成りだ。
「ほー……」
俊哉はそっけなく応えた。流石に将棋の方に意識を向けてきたようだ。彼は暫く考え込むと、にやりと笑いながら僕の王将の前に金を置いた。
「王手だ……ってか積みだ」
しまった、と思った。彼女、春奈のことを考えていて、こっちのほうは上の空だった僕は守りをおろそかにしていたらしい。そこをつけこまれた。
「ははは・・・千円はもらった。まぁ、女っけのない俺に神様が金を恵んでくれたのかもなー」
俊哉は心底嬉しそうに笑っている。僕は何となく憂鬱になりながら、それでも頭の隅のほうでは何処かで春奈の事を考えていた。
彼女は、一体何でこの病院に居るのだろうか?
明後日、僕は上月病院の外来受付の前に立っていた。
今度はきちんと見舞いとして来いと春奈に言われていたからだ。
病室に行くと、彼女は一昨日と同じようにベッドに腰掛けて外を眺めていた。
「おー来た来た」
僕を見つけると春奈は意地悪そうな笑顔を浮かべて僕を手招きした。顔は恵那に似ているくせに、こういう表情は全然似ていない。僕は曖昧に微笑みながら、ベッドの脇のパイプ椅子に座った。
「今日は日が暮れるまで私に付き合って貰うわよー」
今現在は朝の九時、彼女の言う『日が暮れるまで』と言うのは恐らく面会終了時間だろうから、これから約十時間程彼女に付き合わされる羽目になるわけだ。僕は更に鬱になりながらも何処か喜んでいる自分に気が付いていた。
彼女は外見こそ恵那に似ていたが、その性格は全く違う者だった。
恵那は、何処かおどおどしていて、気が弱い女のこだったが、春奈はというと、言いたいことはずけずけ言うし、しゃべりながら大笑いはするし、仮にも僕と言う異性がいると言うのに恥じらいと言うものが全くなかった。
まぁ、流石に検温とかの時は病室から叩き出されたが。
僕と彼女の会話は、基本的に春奈が話して僕が聞くというものだった。正直言って僕は、女の子にどんな話をしていいのか分からなかったし、何より春奈が話したがった。たまに、『この町はどんな町なの』とか、『あなたはどんな友達と付き合ってるの』とか、その手の質問をされた。そういう時は、何にも無い田舎町だとか、俊哉という面白い奴がいるとか、そう言った話しをしてやった。まぁ、始終彼女が話して、僕から話を切り出す事は全く無かった。
「あんたってホントつまんない奴ねー」
もうお昼を回った頃に、彼女はしみじみとそう言った。
「こーんな可愛い女の子が居るんだから、もっと面白い話とかしなさいよ。ほんとにもー」
何か理不尽な怒りをぶつけてくる。
「いや、そんなこと言われても……」
僕は困った。
自分で言うのもなんだが、僕はつまらない奴である。恵那以外の女の子とはまともに話したことも数えるほどしかない。そんな僕がいきなり女の子の話し相手など勤まる筈が無い。俊哉とかなら上手くやれそうだが、僕にはとてもじゃないが無理だ。
まぁ、これで僕に飽きてくれくれるのならばそれに越した事は無い。僕は彼女から解放されるわけだ。
だが、彼女は僕の期待をすぐに裏切ってくれた。彼女は爽やかな笑顔で、言い放った。
「明後日までにきちんと話題仕入れてきてね」
僕は明らかにげんなりした顔をしたらしく、言った直後に彼女はふくれっつらになった。
「なによー嫌ならいいのよー別に。ただ、一昨日私の部屋に乱入してきた事言いふらすからね? 勿論、尾ひれをつけて……」
にんまりと笑う。例の意地悪な、邪悪な笑みだ。
もう僕に、逆らう権利は無かった。
確かに春奈は可愛い。
それは、恵那に似ているということを抜きにしてもそうだと思う。僕もこんな形でなければ喜んで春奈の話し相手になっただろう。だが、今現在の状況は頂けない。何しろ僕は例の乱入の件をネタに脅されて、ほとんどパシリ状態である。
あれを買って来いとか、これを持って来いとか、一日置きにこき使われまくる毎日だ。
その事を俊哉に話しても、『青春してるねぇ』とまるで相手にしてくれない。ただ、ニヤニヤと軽薄な笑みを浮かべながら僕をからかう様な眼差しを向けてくるのみだ。
ただ、僕はあくまでも『一日置き』に彼女にこき使われているだけである。
看護婦さんに聞いてみた限りでは、どうやら僕が行かない時には家族が会いに来ているらしい。
彼女も一応女の子だ。やはり家族と離れて暮らすのは心細いだろうし、折角の家族の団欒を僕に乱して欲しくは無いのだろう。彼女は別れ際に、必ず『明日は来ないでね』と何度も念を押してくる。
僕もそんな野暮なことはする気は無いし、一日置きでもきつい彼女の使いッパシリを二日連続でやる気も起きない。
そんなこんなで僕と彼女の関係はあくまでも『一日置き』で続いた。
彼女は、いつも明るかったが、たまに暗い顔をする事があった。窓の外を眺めている彼女は、何時も僕をパシリに使っている彼女とは違って、物憂げで儚げな、何処かもの悲しい表情をしていた。
どうしてそんな顔をするのか、僕には詳しい事は分からない。だが、彼女もこの上月病院に入院している患者の一人だ。普段は明るく振舞っているが、恐らく他の患者と同じように、慢性的な病気に侵されているのだろう。もしかしたら、その病気と言うのは命にかかわる病気なのかも知れない。
僕は、気になってはいたが、何となくその話をするのが怖かった。 訊いてしまったら、彼女は何処か遠くに行ってしまうような、そんな予感がした。
恵那と同じように、春奈が僕の手の届かない存在になってしまうのが怖かった。
訊いても訊かなくても、結果は何も変わらないことは分かっているそれでも僕は知る事を恐れていた。
知ってしまって、希望が無くなってしまうのが、どうしようもなく怖かった。
僕は恵那が死んだとき、強くなりたいと思った。だが五年たって見ても結局はその当時のまま変われずにいる。
結局僕は、いつまでたっても弱い僕のままだ。
そんなことを考えながらも、僕は何も変えることができずに日々の生活を何となく過ごしていた。
「私はね…飛べない鳥なんだよ」
彼女と出会って何週間か経ったある時、不意に彼女が切り出した。
いつものからかうような意地悪な笑顔ではなく、優しい、でも何処か自嘲のようなものが混ざった笑顔だった。
いつものよな軽い口調でもない。何処か独白めいた響きを含んだ口調に、僕は少し緊張するのを自覚した。
「本来与えられる筈だった義務も権利も与えられずに、ただ、籠の中で飼われている鳥なの」
彼女の独白は続く。
「でも、逃げ出す事もできないの。だって、鳥なのに飛べないんだもん。地を這ってるだけの鳥は、餌も取れずに死んで行くしかない。
生きる為には誰かに餌を貰わなきゃいけないの」
すぐに耳を塞ぎたくなった。v そんな話は聞きたくなかった。
だが、聞かないわけにはいかなかった。
春奈だってきっと勇気を出して言っているんだ。なら、僕はきちんと聞くべきだと思った。
「私ってさ、小さい頃から身体が弱くて、一人で外出した事ないんだ。
いつも誰かと一緒で…ううん、外出したことなんてほとんどないんだけどね。いつも病室の中で、空を見てたの。それが私の唯一の趣味見たいなものかな?」
ははは、と彼女は軽く笑った。
僕は無言で聞いていた。何を話したらいいのか解らなかった。
「ねぇ……」
不意に彼女の顔から自嘲の色が消えた。
「恵那さんって、どんな人?」
問い掛ける瞳、その中の輝きは、いつものように有無を言わせないようなモノではなく、真摯に教えをこうている子供のそれだった。
「私に似てんるんでしょ?」
彼女の真摯は声音と眼差しに、僕は吸い込まれそうになっていた。
女の子にこんな風に見つめられる事なんか無かった僕は、それだけでかなりの緊張に見舞われる事になる。
「似てるっていってもそれは外見だけの事だよ」
僕はやっとの事でそれだけ言った。
「やっぱり、私よりその人の方が可愛いの?」
彼女が何処か不安げに訊いてきた。
僕はというと、そんな彼女の様子に少し苦笑が漏れた。
「いや、彼女も可愛かったけど、君もそれに負けないくらい可愛いと思うよ」
それは、僕の正直な思いだった。恵那の事は大好きだったが、今は春奈のことも気になっている。初め春奈は僕の中で確かに『恵那に似た女の子』だった。
でもそれはこの病院に通い始めて、彼女と話をし始めて、彼女に使いパシリをさせられて、間違いだと言うことに気がついた。
春奈は春奈であって、ほかの誰でもない。恵那がこの世に一人しか居なかった様に、春奈にだって代りは居ない。
いつのまにか春奈の存在は、僕の中で『恵那に似た女の子』ではなく、『春奈という女の子』に変わっていた。そしてそれと同時に、彼女を、彼女と過ごすこの時間を失いたくないと考えている自分に気がついた。
いつの間にか、春奈と過ごすこの時間は僕にとって、決して失いたくないものになっていたのだ。
「……。」
ふと僕は、目の前で紅くなっている春奈に気がついた。耳まで紅くして、照れ臭そうに視線を宙に彷徨わせている。
「どうしたの? 春奈?」
すると春奈は顔を真っ赤にしたまま、溜息を吐いた。
「まったく、普段はつまらない男のくせに、そういう台詞はさらりと言っちゃうのね」
春奈に言われて、僕は初めてさっき言った事の意味に気がついた。確かにあれは、我ながら恥ずかしい台詞である。まるで何処かのナンパな男みたいだ。
「…いや……その…ごめん」
どうして良いか分からずに、僕は取り合えず謝った。
すると、春奈は噴出した様に笑った。
「馬鹿ね、あんたは。可愛いって言われて気分を害する女の子が何処に居るって言うのよ」
その笑顔は本当に眩しくて、とても病弱な少女ののものにはみえなかった。
「でも私にそんな事言うと、恵那さんに怒られるでしょ? それとももう振られて何年も会ってないとか?」
彼女は少し悪戯っぽく笑いながら言った。
その質問は、僕が五年間、ずっと恐れていた質問だった。何処かで恵那が死んだことを認めていない自分が居て、その僕が、この質問の正答を必死で否定しようとするのだ。
近頃は、僕の中でけじめがついたのか何なのか、少し質問の持つ意味が軽くなった様な気がしていた。
「彼女は…もう居ないよ」
それでもやはり辛いものがある。それが表に出てしまったのか、春奈の表情が曇った。
「あ……その、ごめん」
何か触れてはいけないものに触れてしまったと言う罪悪感のようなものが、彼女の顔に浮かぶ。
「大丈夫さ…彼女が死んだのは、もう五年も前だし…いつまでもくよくよしていられないよ」
僕は曖昧にはは、と笑った。
恐らく、彼女は僕よりもずっと近くで『死』と言うものを体験してきたのだろう。だから、大切な人の『死』に遭遇した人の悲しみがよく分かっている。分かっているからこそ、そういった傷に触れる事に大きな抵抗があるのだ。
彼女もやはり曖昧にはは、と笑った。
「ずっと、一緒に居てあげようか?」
不意に、春奈が言った。僕の耳元で囁くように紡がれた言葉は、僕の心臓を大きく跳ねさせた。
「え…?」
思わず間抜けな声を出してしまう。
「だからさ、私がずっと一緒に居てあげようか? 恵那さんのこと忘れちゃうのは可哀相だけど、せめて恵那さんにあんたが『自分は幸せだから心配スンナ』って胸を張っていえるように、私がずっとあなたの側にいてあげるって言ってるの」
そういう彼女の顔は悪戯っぽく、でも優しさも含まれた、そんな柔らな笑顔に彩られていた。
「いや……ずっとこき使われるのは、ちょっとやだなぁ」
僕はと言うと、照れ隠しに軽口を叩いていた。
本当は相当嬉しかった。
例えそれが、僕らの様な子供が、一時限りで結ぶ約束であったとしても、少なくともこの時この瞬間だけは、この言葉は真実なのだから。
「なっ…なによー! 人が折角ぅ」
真っ赤な顔をして暴れ始めた彼女をなだめる意味もこめて、僕は彼女に囁いた。
「ありがとう 春奈」
彼女の顔は、ますます赤くなった。
「おまえさ・・・なんかキャラかわったなぁ」
俊哉が何か言っていたが、僕の耳には殆ど届いていなかった。
今日病室での春奈とのやり取りが、頭の中でグルグルと渦巻いている。
「いやぁ、良かった良かった。これでコウも晴れて彼女持ちになったわけだな?」
相変わらず部屋の隅で音楽を聞いていた鈴木が、ほのぼのとした口調で僕をからかうのも何処か遠くに聞こえる。
「うーむ」
「これは相当の重症ですな」
鈴木と俊哉が顔を見合わせながら何かを話し合っているのも全く気にならない。
考えるのは春奈のことばかりだ。浮かれていると自分でも思う。だが、嬉しいものは仕方が無い。しかし、同時に、不安がすこしずつ、僕の心底辺を犯し始めていた。
彼女は上月病院に入院している。
それは、少なからず死の危険を孕んだ患者である可能性が、決して低くないと言う事だ。僕はその事実を必死に頭から追い出しながら、その夜を過ごした。
あいつは、『ありがとう』と言ってくれた。
嬉しかった。何でこんなに嬉しいのか、私自身にもわkらないけれど……。
私はあいつのことが好きなのだろうか?
答えはわからない。
ただ、あいつは私を必要としてくれている。
私も、あいつといるととても楽しい。
情けなくて、つまらなくて、特にぱっとする所の無いあいつだけど、何故だか安心する事が出来る。
自分の身体のことも、病気の事も、全てを忘れることができる。
本当に、普通の女の子みたいに、あいつとは話が出来る。
私はあいつに『ずっと側にいてあげる』と言った。だけど、あれは違う。あいつの手前、強がって見せただけだ。
本当は、私の方が、ずっとあいつと一緒にいたい。
離れたくない。
あいつと別れたら、私はまた一人ぼっちで空を見ているしかなくなる。そんなのは絶対嫌だ。
私にも、あいつが必要だ。
ずっと一緒にいたい。
私に残された時間の少しでも多くを、あいつと一緒に過ごしたい。
あいつと別れるのは…あいつと過ごす時間を失うのは、絶対にいやだった。
「何ですって?」
僕が上月病院の廊下を歩いていると、不意に女の人の声が聞こえた。
今日は、春奈と約束がある日ではなかった。だが、昨日病院の小さな売店に財布を忘れたことに気がついて取りに来たのだ。そのついでに、彼女の所に顔でも出しておくかと思って、僕はいつもの病室に向かっていた。
そんな時である。幾つもある部屋の一つから、話し声が聞こえてきたのは。
「それじゃぁ、あの子はアメリカに行くことを拒否したと言うのですか?」
興奮した女性の声だった。だが、その声音よりも、僕はその話の内容の方が気になった。
あの子? アメリカ?
この病院には『あの子』と呼ばれるような年齢の患者は、春奈しかいない筈である。それが、アメリカ行き? しかも断っただって。
僕はその部屋の前まで来て、なるべく目立たないように部屋の中の会話を盗み聞いた。
「そんな……折角上月先生に、手術のための準備を整えてもらいましたのに」
女性の声には、興奮による激情の他にも、どうしようもない疲労や、絶望感等が漂っていた。
「ええ、ですが娘さんが此処を離れたくないという以上は此処から動かすのもあまり良いとは言えません」
こちらは冷静沈着な落ち着いた男性の声だった。
「先生・・・娘は…春奈はこのままでは一体どれくらい生きる事が出来るのでしょうか?」
女性の声は、どうしようもない悲壮感を抱えながら、尋ねるような口調で切り出す。恐らくはある程度の覚悟は出来ているのだろう。医者に尋ねるのは、唯の確認に過ぎなかった様だ。
僕の心臓は、早鐘のように打ち続けている。
女性は確かに『春奈』と言った。そして、『どの位生きられるのか』とも。
一番恐れていた事態の答えが、いま正に出ようとしていた。それも最悪な形で。
「恐らく、保って二、三年ぐらいでしょう」
上月医師は厳かに告げた。それはまるで、死神の声のように、もしくは、死刑執行人の宣誓の言葉の様に、僕の心の中に響き渡った。
「どうにか、どうにかならないんですか?! 上月先生」
女性は以外に落ち着いた、しかしその実は絶望にまみれているだろう声音で医師を問い詰めた、だが、医師は落ち着いた声音で言った。
「日本の医療機関では法的な規定があるために、国内で娘さんの手術を行うのは無理ですね」
何か薄いものを卓に置くような音がした直後、女性が泣き崩れるのが聞こえた。
「私達からも春奈さんを説得してみますので、奥さん気を落とさないで」
男性、医師にの声が聞こえたが、僕はもうそれどころではなかった。
春名が後二年くらいしか生きられない。その事実は僕に重くのしかかった。
僕は思わず其処から駆け出していた。途中何度も看護婦さんに怒られたが、そんな事は気にならなかった。
信じられない、事は無かった。認めたくないだけで、本当は薄々感じていた事だ。ただ、それを認めたくなくて、必死に自分をごまかしてきた。今もそうだ。気休めにもならないと分かっていつつ、春奈本人から『そんなの嘘だよ』という言葉が聞きたいと思っている。
僕はやっぱり弱いのだと、はっきりと認識できた。
何処をどう走ったのか、僕はいつの間にか春奈の病室の前に立っていた。
足はガクガクと震え、全身は汗でびっしょりだった。
この扉を開けて彼女に問い質せば全てがはっきりする。僕は思いきって彼女の病室のドアを開けた。
いつも通りの白い潔癖な病室には、やはりいつも通り彼女がいた。
彼女は僕の姿を見とめると、意外そうな顔をした。
「あれぇ、どうしたの? 今日は確か約束してないよね?」
彼女はあまりにも普通で、僕は思わず何を言っていいのか解らなくなった。
「ひょっとして、私の顔が見たくなったとか」
その軽口も、悪戯っぽい微笑みも、全てがいつも通りの、僕の知っている彼女だった。でも、だからこそ、僕は今ここに居る彼女の全てが幻なんじゃないかという不安を抱かずにはいられなかった。
僕の様子がおかしい事に気が付いたのか、春奈は眉をひそめた。
「ねぇ、コウイチ? どうしたの?」
心配そうに僕の顔を下から覗き込む彼女の瞳もやはりいつも通りだった…。
「ねぇ、春奈……」
僕は思いきって切り出した。内心の動揺を悟られない様にできるだけ平静を装いながら。
「君は…このままじゃ、長くは」
どうやらそれだけで充分だったらしい。春奈は、少し驚いた様に目を見開くと、ふっと自嘲気味に笑った。
「そっか。ばれちゃったんだ」
その一言は、僕に大きな衝撃を与えた。出そうになる涙をなんとかこらえる。
「誰に聞いたの?」
春奈は相変わらず笑う。いつもの彼女らしからぬ絵笑顔は僕の心の中に暗い影を落とした。
止めて欲しかった。そんな彼女の顔は見たくない。
「上月先生と女の人が話しているのが聞こえたんだ」
それでも、僕の一部の何処か冷めた部分が会話を続行させた。
「そっかぁ」
彼女は相変わらず笑みを崩さない。だがそれは無理に笑顔を作っているような、危うい感じのする笑みだった。
「でも大丈夫だから、約束通り、私はあなたの傍にいるよ」
自分の死が迫っているのに、彼女は何でこうまで平静でいられるのだろうか? 僕には解らなかった。
「アメリカに行けば…君は助かるんじゃないのか?」
僕はふと、思い出して聞いてみた。確か、上月先生と女の人は、彼女がアメリカ行きを拒否していると言っていたと思う。
僕が訊くと不意に、彼女の表情から笑顔が消えた。
「アメリカになんかいかないから」
押し殺したような声音に、僕はギョッとした。春奈は泣きそうな顔で僕を見つめている。
「アメリカに行ったって必ず助かるわけじゃないんだよ!? それこそそのまま向こうで死んじゃうかもしれない。私はそんなの嫌!」
彼女は小さい声で、しかし感情を吐き出す様に強い口調で言い捨てた。
「でも…」
僕は思わず言い返す。
彼女には、生きることを諦めて欲しくは無かったからだ。
「このままここに居たって死ぬんだよ? だったら生き続けられる可能性に賭けてみてもいいじゃないか」
僕の言ったことはは、本当にありふれた綺麗事だ。実際に死の恐怖と対面している彼女にしてみれば、そんなお題目はなんの意味もなさないだろう。
案の定、彼女は怒った様に僕を睨みつけた。目じりには、微かに涙を浮かべている。
「私はあなたと離れたくないの」
だが、その口から紡がれた言葉は、意外なモノだった。
「私はあなたの知らないところで、一人で死んでしまうのが嫌なだけなの!」
さっきよりも尚強い口調で、彼女は吐き捨てた。
「あなたは、私が居なくなっても平気なの?」
今度は不安げに僕の顔を見ながら訊いて来る。
平気なわけが無い。彼女に生きて欲しいから、僕は今ここに居るのだ。だが、彼女いっていることも何となく解る気がする。
僕はなんと言って良いのか解らなくなって、言葉に詰まった。
長い一瞬が過ぎて行く。
「平気なわけ……無いじゃないか」
やっと、それだけ言う事ができた。
彼女には生きていて欲しかった。だが、彼女の意思を変える程の力を、僕は持ってはいない。
『死』を前にしてまでの決意を変える程の力など、僕には無い。
だからこそ、僕は恵那に何も言ってやれなかったのだから。
勇気を与える言葉さえ、掛けてやることがやる事ができなかったのだから。
結局その日は、何だか互いに気まずくなって、それっきり別れてしまった。
翌日、僕は昼頃になっても何もする気が起こらなかった。
ただ、自室に篭ってずっとごろごろしていた。
「ありゃ、今日は春奈ちゃんとこには行かないのか?」
不意にベランダから俊哉が乱入してきた。こいつが僕の家を訪ねる時に玄関を使った事など一度も無い。いつもこうやって僕の部屋のベランダから入ってくる。
「別に」
僕は気の無い返事をしてみた。
実際はこ彼女にどんな顔をして会えば良いのか、どんな話をすれば良いのか、僕は分からなくなっていた。本当ならば、今すぐにでも彼女の所に行きたいにだが、昨日のやり取りがどうしても頭から離れないのだ。
「何か悩み事か? だったら俺に話してみろよ」
俊哉は得意げに自分を示す。
相談するのがこいつと言うのはどうかと思うが、一人で思い悩むよりは幾らかマシだろう。そう思って、僕は俊哉に昨日の事を話してみた。
すると俊哉は急にまじめな顔になった。
「お前は、また五年前みたいに後悔するのか?」
彼が五年前の話、要するに恵那の話をする事は珍しい。普段は僕に気を遣ってか、その事には一切振れないのだ。
「いいか? 確かにお前は『死』直面した奴の気持ちは解らんかもしれんが、『残される』側の気持ちは誰よりも解ってるだろう? それに、彼女が誰よりもお前と居る事を望んでいるんだったら、そんな彼女を動かせるのは他でもない、お前だけだよ」
びっと、僕を指差す。
「お前は彼女と一緒に生きたいんだろ? だったらそのことを言えばいいんだよ」
にやりと俊哉は笑う。
僕は確かに馬鹿だったのかもしれない。
僕には彼女を変える力なんて無い。決断するのはあくまでも彼女自身だ。だが、僕にだって望みはあるし、彼女だって本当は死にたくなんてない筈だ。
ならば、僕のやる事は一つだ。
「俊哉」
僕は俊哉に向かって一礼した。
「サンキュな」
俊哉は親指を立てる。顔には既に軽薄な笑みが戻って、いつもの俊哉らしくなっている。
「うまくやれよ」
僕は俊哉の声を背中に受けながら、彼女の待つ上月病院に向かった。
院内は、相変わらず静かだった。
僕はその廊下を彼女の病室に急いだ。
果たして、彼女は病室に居た。やはりベッドに腰掛けて、空を見上げている。だが、その表情はいつもより悲しげだった。
見ていると、今にも消えてしまいそうで、僕は思わず手を伸ばした。
「春奈」
呼びかけに振り向いた彼女は、一瞬とても嬉しそうな顔をした。それから、ぽろぽろと涙を流した。
「もう……来てくれないかと思った」
嗚咽交じりに言う。心底安心したようだった。
「春奈……」
僕は春奈が泣き止むまで待ってから、なるべく優しい口調で切り出した。
「君は、『自分は籠の中の鳥だ』って言ってたよね」
彼女は頷いた。
「僕も、きっとそうなんだよ」
僕はできるだけ訥々と話した。その間だ彼女は、黙って聞いていた。
「僕はさ、恵那が死んだとき、何もしてやれなかったんだ。これから生死を賭けた手術に臨むって時にも、優しい言葉すらかけてやらなかった。なんだか『死』って言うのがどうしようもなく怖くてさ、だから、僕はずっと後悔してて、自分の殻に閉じこもってた。僕なんかにできるわけないってね」
春奈は尚も黙って聞く。その表情は真剣そのものだった。
「でもさ、だからこそ、僕はもう後悔したくないんだ。だから言うよ?」
僕は一呼吸置いた、彼女は僕の目をまっすぐ見詰めながら頷いた。
「僕は、君と一緒に生きていたい。十年たっても二十年たっても、ずっと一緒に居たい。僕は君に。生きることを諦めて欲しくない。
ずっと籠の中に居て欲しくないんだ」
僕はちょっと照れながら言った。こう言う事を言うのは恥かしいものだ。
「でもさ、決めるのは君だよ。もし君が、アメリカに行くなら、僕は君を信じて、君が帰ってくるまでずっと待ってる。もし、ここに残るのなら、最期の瞬間まで、僕は君の傍に居るよ」
そこまで言うと、春奈はうつむいてしまった。
「ごめんね…」
弱弱しい声で、それだけ言う。
「私、あなたを逃げる為のだしに使ってた。あなたには私がいなきゃ駄目なんだって」
嗚咽しながら、彼女は話す。
「でもさ、確かにこのままじゃ、私はずっと籠の中だね。翼は治るかもしれないのに、その事に気が付かないふりをして…それじゃぁ駄目だね」
そう言うと、彼女は涙をぬぐって顔を上げた。その顔は、とても晴れやかなモノだった。
「あなたは私を、普通の女の子として見てくれけど、私はやっぱり普通の女の子として、あなたと一緒に居たい。
映画みにいったり、散歩したり、買い物であなたに色々買ってもらったり…」
彼女は悪戯っぽく笑った。
「私、アメリカに行く。それで、治ったら真っ先にあなたに会いに行くからまってなさいよ」
僕も笑った。
「御手柔らかに頼みます」
それから僕らは一日中話していた。
これからは始まる互いの時間の埋め合わせをする様に。
それから数日後、彼女は日本を経った。
春奈が居なくなってから二年が過ぎた。
僕は相も変わらず、俊哉や鈴木と馬鹿をやっている。
春奈の居た病室には、未だ誰も入っていない。
彼女が居た時と同じ、潔癖で殺風景なまま、ずっとそこに有り続けている。
暇な時には、僕はここに来て彼女の見ていた空見ることにしてた。
僕は今でも彼女を待ちつづけている。春奈の事だから、きっとそのうち何も無かった様に帰ってくるだろう。無論元気になって。
ここから見える空は本当に綺麗で思わず見とれてしまう。
彼女はここで一体何を思っていたんだろう。そんなことを考えながら、日がない一日中時間を潰すが最近の休日の過ごし方だ。
今日もずっとここで過ごしていると、不意にノックが聞こえた。
扉が開く音に振りかえると、そこには……
「よ、元気にしてた? コウイチ」
そこには、まるで当たり前のような気軽さで、春奈が立っていた。
「ただいま」
彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべて行った。
「お帰り」
僕は苦笑しながら言った。
「これからいっぱい遊んでもらうわよ、コ・ウ・イ・チ」
二年たっても彼女は相変わらずだった。
やれやれ、大変な事になりそうだ。でも、ま、それと同じくらい楽しい毎日になりそうだな。
これから、僕と彼女の生活が始まる。
おしまい
どうもわたぴーです。
この度は長々とお付き合いいただいて誠にありがとうございます。
いろいろ至らないところもあったでしょうが、まぁ軽い気持ちで楽しんでくだされば作者としても非常に嬉しいですはい。
少しでも言いたいことなどあったら遠慮なく評価などしてくださると明日への活力になったりしますので、気が向いた方は是非に。