第一話 甘い予感の裏側 ~幼馴染彼女の微かな変化と、予知の影~
蒼弥は、いつものように大学の講義室の窓際の席に座っていた。午後の陽光が斜めに差し込み、ノートパソコンの画面に淡い影を落としていた。彼は理工学部の三年生で、AIプログラミングの授業を受けていたが、今日は集中力が散漫だった。頭の片隅で、何かがざわついていた。それは、幼い頃から時折訪れる、あの奇妙な感覚。予知直感と呼ぶべきものだ。
蒼弥の予知直感は、夢やふとした瞬間の閃きとして現れる。未来の断片が、ぼんやりとした映像や感情の波として押し寄せてくるのだ。幼少期の交通事故がきっかけだった。あの時、病院のベッドで目覚めた瞬間から、世界が少し変わった。最初はただの幻覚だと思っていたが、何度も的中するようになり、蒼弥はそれを秘密の力として受け入れていた。だが、最近はその直感が、恋人である凛音に関するものばかりになっていた。
凛音は蒼弥の幼馴染で、同じ二十一歳。文学部の大学生だ。二人は高校時代から付き合い始め、大学進学を機に小さなアパートで同棲を始めた。ありふれた恋人関係だが、蒼弥にとってはかけがえのないものだった。凛音の笑顔は、予知直感の影さえも払拭してくれるはずだったのに。
授業が終わると、蒼弥はスマホをチェックした。凛音からメッセージが来ていた。「今日も遅くなるかも。勉強会が長引いちゃうかもね。ごめんね、蒼弥。」
蒼弥はため息をつき、返信を打った。「了解。夕飯は俺が作っておくよ。」
アパートに戻ると、蒼弥はキッチンで簡単なパスタを作り始めた。凛音の好きなトマトソースを多めに。二人で暮らすこの部屋は、狭いが居心地が良かった。壁には幼馴染時代の写真が飾られ、凛音の笑顔が蒼弥を包み込むように並んでいた。あの頃の凛音は、無邪気で、いつも蒼弥の隣にいた。予知直感がなかったら、こんな平穏な日々が永遠に続くと思っていたかもしれない。
夜八時頃、凛音が帰ってきた。ドアが開く音がして、彼女の声が響いた。
「ただいまー。蒼弥、待たせちゃった?」
蒼弥はリビングから顔を出し、微笑んだ。
「おかえり。パスタ作ったよ。温め直そうか。」
凛音はバッグを置くと、蒼弥に軽く抱きついた。彼女の髪から、いつものシャンプーの香りがした。でも、今日は少し違う。微かな、甘い匂いが混じっている。蒼弥の予知直感が、かすかに疼いた。まるで、遠くの雷鳴のような予感。
夕食を食べながら、凛音は大学での出来事を話した。
「今日の勉強会、面白かったよ。文学部の先輩が来てて、みんなで小説の解釈について議論したの。」
「へえ、どんな先輩?」
蒼弥は自然に尋ねた。凛音の目が一瞬、泳いだ気がした。
「えっと、迅さんっていう人。広告代理店で働いてる二十三歳の社会人だけど、時々大学に来てアドバイスくれるの。カッコよくて、みんな憧れちゃうんだよね。」
迅。蒼弥はその名前を心に留めた。予知直感が、ぼんやりとした映像を浮かべさせた。凛音が誰かと笑っている姿。だが、まだぼやけていて、確信には至らない。蒼弥はそれを無視することにした。泳がせる。直感がそう囁いていた。
「あ、そういえば、蒼弥の予知の話、最近どう? なんか面白い夢見た?」
凛音が唐突に聞いてきた。蒼弥は彼女にだけ、この能力のことを話していた。幼馴染だからこそ、秘密を共有できた。
「いや、最近は静かだよ。君に関する夢ばっかりだけど、全部いい夢さ。」
蒼弥は冗談めかして言ったが、心の中では違う。昨夜の夢は、凛音が泣いている姿だった。絶望に満ちた表情で、何かを後悔している。予知直感は、未来の断片を示す。だが、それは避けられない運命ではない。蒼弥はそう信じていた。いや、信じようとしていた。
数日後、蒼弥の予知直感はより鮮明になった。朝、目覚めると、頭の中に映像が残っていた。凛音が、迅という男とカフェで手を握っている。笑顔で、蒼弥の存在を忘れたように。現実か夢か、区別がつかないほどリアルだった。
大学で、蒼弥は友人である蓮司に相談した。蓮司は同じ理工学部の二十一歳で、蒼弥の数少ない理解者だった。二人はキャンパスのベンチに座り、缶コーヒーを飲んでいた。
「蒼弥、なんか顔色悪いぞ。予知のやつか?」
蓮司が心配そうに聞いた。蒼弥は頷いた。
「ああ、凛音に関する夢を見た。彼女が他の男と……親しげに。」
蓮司は目を丸くした。
「マジかよ。お前らの関係、鉄板だと思ってたのに。泳がせてみるのか?」
「そうだ。予知は断片だ。確かめるまでは、動かない。」
蓮司はため息をついた。
「相変わらず冷静だな。お前みたいな能力、俺だったらパニックだよ。」
蒼弥は苦笑した。冷静なのは、予知直感がもたらす諦めから来ていたのかもしれない。未来の影が、感情を抑え込むのだ。
その夜、凛音はまた遅くなった。蒼弥はアパートで一人、ノートパソコンを開いていた。AIのプログラミング課題を進めながら、スマホを横目で見た。凛音の位置情報アプリは共有されていたが、今日はオフになっていた。予知直感が疼く。蒼弥は立ち上がり、外套を羽織った。直感が導くままに、外へ出た。
街のネオンが蒼弥を照らした。彼は予知の映像を頼りに、大学近くのカフェに向かった。夜の風が冷たく、胸に刺さる。カフェの窓から、中を覗くと、そこにいた。凛音と、迅という男。
迅は二十三歳の社会人で、広告代理店の社員らしい。凛音の話から想像していた通り、自信たっぷりの笑顔で彼女に話しかけていた。二人はテーブルを挟んで座り、迅の手が凛音の手に触れていた。予知の映像通りだ。蒼弥は息を潜め、窓の外から見つめた。心臓が激しく鼓動した。
凛音の声が、かすかに聞こえてきた。カフェのドアが少し開いていたせいだ。
「迅さん、こんなところで会っちゃって、蒼弥にバレたらどうしよう……。」
迅の声が低く響いた。
「大丈夫だよ、凛音。君の彼氏は忙しい大学生だろ? 俺たちはただ、刺激を求め合ってるだけさ。日常のマンネリから逃げるんだ。」
凛音は頰を赤らめ、迅の手に自分の手を重ねた。
「うん……蒼弥は優しいけど、最近なんか退屈で。迅さんみたいに冒険心のある人、憧れちゃう。」
蒼弥の胸が締め付けられた。裏切り。幼馴染の絆が、こんな形で崩れるなんて。予知直感が警告していたのに、信じたくなかった。だが、今は動かない。泳がせる。復讐の種を植えるためだ。
蒼弥はカフェを離れ、アパートに戻った。凛音が帰ってくるのを待った。夜十一時頃、ドアが開いた。
「ただいま、蒼弥。遅くなっちゃった。」
凛音の声はいつも通りだったが、蒼弥の目には、彼女の頰の微かな赤みが映った。迅との余韻か。
「おかえり。勉強会、どうだった?」
蒼弥は平静を装って聞いた。凛音はバッグを置き、ソファに座った。
「うん、面白かったよ。迅さんがまた来てて、みんなで熱く議論したの。」
迅の名前が出てきた。蒼弥の予知直感が、再び閃いた。未来の断片。凛音が迅とベッドで絡み合う姿。吐き気がした。
「迅さんか。君、最近その人の話ばっかりだね。」
蒼弥は軽く言った。凛音の表情が一瞬、固まった。
「え、そう? ただの先輩だよ。蒼弥、嫉妬しちゃうの?」
彼女は笑って誤魔化した。蒼弥は微笑み返した。
「いや、別に。君が楽しそうでいいよ。」
その夜、二人はベッドに入った。凛音は蒼弥の胸に寄り添ってきたが、蒼弥の心は冷えていた。予知直感が、次なる映像を示した。迅が凛音を抱き、彼女が喘ぐ姿。現実が近づいている。蒼弥は目を閉じ、計画を練った。復讐は、直接的なものではない。予知を活かし、彼女たちの心を蝕む。凛音の罪悪感を増幅させ、迅の人生を崩壊させる。すべて、因果応報として。
翌朝、蒼弥は大学で蓮司に会った。キャンパスの芝生で、二人は座った。
「昨夜、凛音の浮気現場を見たよ。迅って男と。」
蒼弥の言葉に、蓮司は驚いた。
「本当か? お前、どうするんだ?」
「泳がせる。予知直感が、復讐の道を示してる。彼女が自ら絶望するように。」
蓮司は頷いた。
「手伝うよ。俺のプログラミングスキルで、何かできるかもな。」
蒼弥は感謝した。蓮司は、蒼弥の能力を信じていた。予知直感は、ただの夢ではない。未来を変える力だ。
その週末、凛音はまた「勉強会」で出かけた。蒼弥は予知の導きに従い、尾行した。迅のマンション近くのホテル。凛音が入っていくのを、蒼弥は遠くから見た。胸が痛んだが、怒りは冷たい炎に変わっていた。スマホで、証拠写真を撮った。復讐の第一歩。
アパートに戻り、蒼弥は一人で考えた。凛音との幼馴染の日々を思い出した。小学校の頃、凛音はいつも蒼弥をからかっていた。
あの頃の記憶がフラッシュバックした。夏祭りの夜、凛音が言った言葉。
「蒼弥、ずっと一緒にいようね。予知の夢で、私の未来見てよ。」
蒼弥は笑っていた。あの頃の予知は、楽しいものばかりだったのに。今は、裏切りの影。
凛音が帰ってきたのは、深夜だった。彼女の髪は乱れ、目が少し腫れていた。迅との情事の後か。
「蒼弥、起きてたの? ごめん、遅くなっちゃった。」
「大丈夫だよ。楽しかった?」
蒼弥の声は穏やかだった。凛音は頷き、蒼弥にキスをした。だが、その唇は迅の痕跡を残しているようだった。
数日後、予知直感は最大の警告を発した。夢の中で、凛音が迅に別れを告げられる姿。迅が彼女を捨て、凛音が絶望する。だが、それは蒼弥の介入後の未来。蒼弥は目覚め、決意した。復讐を開始する時だ。
大学で、蒼弥は凛音の友人である澪に会った。澪は二十一歳の文学部生で、凛音の親友だった。カフェで、二人は話した。
「澪、凛音の様子、最近変じゃないか?」
蒼弥が尋ねると、澪はためらった。
「うん……なんか、迅さんと仲良さげだよね。勉強会って言ってるけど、怪しいかも。」
蒼弥は頷いた。澪に、予知のことを少し話した。彼女は信じなかったが、疑念を植え付けた。これが、凛音の孤立の始まり。
夕方、アパートで凛音と向き合った。蒼弥は穏やかに言った。
「凛音、最近スマホばっかり見てるね。何か隠し事?」
凛音の顔が青ざめた。
「え、ないよ。そんなこと。」
だが、彼女の声は震えていた。予知直感が、彼女の心の揺らぎを捉えた。罪悪感が芽生え始めている。
その夜、蒼弥はベッドで凛音を抱きながら、囁いた。
「愛してるよ、凛音。ずっと。」
凛音は涙ぐんだ。
「私も……蒼弥。」
だが、それは嘘。予知がそう告げていた。蒼弥の復讐は、静かに動き出していた。彼女の微かな変化は、予知の影に飲み込まれていく。すべては、因果応報のために。




