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第8話

 コン


 鹿威しの軽やかな音が聞こえた。


 茉里乃が視線を横に動かせば、手入れの行き届いた坪庭が見える。夜の帳の下、照明で優しく照らし出され、幻想ささえ感じられた。


 彼女の実家に行った時の別れ際、


『今度、食事に行かないか? あ、実は、取引先への接待で使う料理店の新規開拓に付き合ってほしいんだ』


 ――なぜ、そんなに緊張しているんだろう?


 最後の方の育伸の言葉は早口になっていて、必死さがにじみ出ていた。


 ――ちょっと可愛いかも。


 高級外車に、サングラスはブランド物。腕には高級時計。着ているスーツも、一目見ただけで分かる高級生地を使ったフルオーダー。


 成金趣味みたいな嫌な感じはしなかった。むしろ自然と着こなしている所に。


 ――格好いい。


 そう思うこともあったが、同時に、生きている世界の違いを感じてもいた。


 だから、緊張している育伸に人間くささを感じた。


『もちろん。いいですよ』


 茉里乃が笑顔で答えたら、育伸の顔が耳まで真っ赤になって固まった。


 ただ、固まったのは茉里乃も同じ。顔色は赤ではなく青で。


 後日、育伸から行く店をチャットアプリで告げられて。


 聞き慣れない店名だったから調べたら、


 ――ちょっと待って!

 ――開店したばかりだけど、ここって日本料理の超高級料亭!?

 ――ヤバ! 給料日前だよ。お金が足りない!

 ――給料日の後でも足りない!


 店を変えてもらうように頼むか。そんな選択肢も頭に浮かんだが、


 ――仕方がない。腹をくくるか。

 ――……NISAで積み立てている投資信託を解約しないといけないなあ。


 覚悟を決めた所に、育伸から再び着信。湯野川の家から助けてもらったお礼だから、是非奢らせてほしい、と。


 ――本当に良いのかな?


 迷うが、「お礼」ということだから、ここは素直に奢られることにした。


 次に食べに行くときは割り勘にしましょう、と返信に付け加えて。


 同時に、店の格に見合った新しい高い服を買う決意もして。ネイル、ヘアサロンもろもろ、がっつり気合を入れる覚悟も。


 そして、当日。


 腰が引けそうになるのをこらえて、店の暖簾をくぐった。


 入って直ぐの所には開店を祝う胡蝶蘭の鉢がいくつも並んでいた。


 ただ、緊張でその辺りの記憶はとぎれとぎれ。


 鹿威しの音がするたびに、身体が反応してしまったり、


「とって食べたりはしませんよ。行儀作法などは気にせずに、お料理を楽しんでいただけたら十分です」


 などと仲居に言われたほど。


 でも、秋の旬の素材を使った先付で目を奪われた。


 次の椀物を一口すすったら、キノコの香りたっぷりの出汁の美味さで心が奪われた。


 最後の一口を飲み干すと、思わずため息が出た。美味しさへの賛辞と、もっと食べたいという欲を込めて。


 緊張もほぐれていた。


 それで改めて正面を見たら、笑顔を浮かべた育伸がいた。


 ――自分も緊張していたくせに。

 ――先に回復したから高みの見物ですかー。

 ――……でも、この類の店は慣れているだろうに、どうして緊張していたんだろう?


 後半の疑問は脇に置く。


 今日も、育伸はフルオーダースーツに、腕には高級時計。


 見下ろして自分が今着ている真新しい服と比べると、


 ――……やっぱり、貧相な恰好。

 ――先輩は似合っているって褒めてくれたけど……。


 「別世界」「不釣り合い」。そんな単語が茉里乃の頭に浮かんだから、掻き消して、


「なぜ、私を誘ったんですか?」


 沈黙による居心地の悪さを無くしに行く。


「取引先への接待で使う料理店の新規開拓。その目的は本当だよ。この店の店主とは、知り合いの知り合いの、そのまた、知り合い? かな。修行先から独立してオープンしたから、知り合いから使ってやってくれ、って言われてね」


「そうだったんですね」


「この店のような日本料理店は、海外だけでなく国内のVIPをもてなすにも重宝するから。一人で来てカウンター席もありだったけれど、今回は座敷席を確認したかったんだ」


「それなら先輩の会社の人を誘ったらよかったんじゃないですか」


「この店くらいの高級店に、社員を気安く誘うことは出来ないよ。誘った社員が変な勘違いをしてしまうからね」


「……」


「本当のスタートアップの頃なら、社員全員フラットでそんな気遣いする必要はないし、何なら全員で来てもよかったのだけど。もう、今は規模が大きくなってしまって、社員も多くなって、そういうわけにもいかない。今の会社は、組織のガバナンスを確立していかないといけないステージに入ったんだ。だから、社長としての自分の振る舞いも、周りから、社内だけでなく社外からもシビアに見られるようになっている」


「大変ですね」


「だけど、今の会社は2回目の起業だから結構楽なんだ。1回目は試行錯誤を繰り返して失敗も多かった。早く会社を成長させようと運転資金を借りられるところから借りまくって、自分の財布はいつも空っぽ。メンタルもかなり追い込まれたよ。だからこそ、今回は余裕を持たせているんだ」


 と、ここまで話すと、茶目っ気たっぷりな表情になって、


「もちろん、自分の財布が空っぽになっているなんてことも無いから、今日の支払いは大丈夫だよ」


 ウインクされた。頬が紅くなる。心臓の鼓動も感じられる。


 ――イケメンアイドルにファンサ(ファンサービス)されたファン、ってこんな気持ちになるのかな。

 ――会社の同僚にガチ恋勢の子がいるけど、笑えないなあ


 こんな茉里乃の反応を気にすることなく、もしくは、気づかず、育伸は続けた。


「とはいえ、正直に言えば、料理店の新規開拓は古根さんを誘った理由の30%ほどかな」


 明るい表情になって、


「残り20%は報告。湯野川の家から勝手に結婚したことを怒られた」


 声音も「ざまあみろ」と言わんばかりになる。


「だから、最後の50%はお礼。彼らの鼻を明かすことができた」


 そして、顔が真剣なものに変わる。


 ズキリ。


 茉里乃の心に痛みが走った。この後に続く言葉の予想がついたから。


 ――でも、なぜ?


「本当にありがとう」


 そう言って、育伸が深々と頭を下げた。


 契約結婚を続ける必要性はもう無くなった。だから、別れを告げられる。


 ――ただの契約のはず。

 ――なんで、こんなに心が痛いの?


 育伸の頭が戻り、彼の口から新しい言葉が紡が……。


「失礼します」


 座敷の中と外を隔てる襖の向こうから、男の声が聞こえた。


 スッと襖が開けられた。


「当店の店主、斗々屋黒兵衛でございます。本日は当店をご利用いただき、誠にありがとうございます」


 藍色の調理白衣を着て、床に座り、前で指を点いて挨拶する、ふくよかな姿。


 普通なら、「店主が挨拶に来るなんて、さすがは高級店」などと感嘆しただろう。


 が、普通ではなかった。


 体格は一般男性とあまり変わらない。違うのは……。


 和帽子を持っている手にはモフモフの毛。指先には鋭い爪。


 身体の向こうには一本の細長い尻尾が見える。機嫌良さそうに、ゆらゆら揺れている。


 そして、頭には毛に覆われた三角の耳。


 なにより顔が猫。


 ――え?

 ――は?

 ――どういうこと? 


 茉里乃は驚きで口をあんぐりと開けてしまう。


 育伸を見ると、彼は頭を抱えていた。茉里乃と同じように驚くのではなく。


 ――あ。先輩は知っていたんだ。

 ――店主の行動は想定外だったけれど、店主が人間ではないことを知っていた。


 茉里乃の頭の中でカンスケの姿が浮かび上がってきた。


 ――……人間ではない。

 ――……つまり、妖?

 ――尻尾が二本ではなく一本だから、……化け猫?


 この答え合わせをする前に、


「斗々屋!」


 育伸が厳しい声を出した。店主の尻尾がピンと逆立つ。


「なぜ、表の人間を前にしてその姿で出てくるんだ!」


「へ? 表の人間? え! 本当ですか! いやいや! 育伸の旦那が連れてこられた方ですから。それに、そちらのお嬢さんからは妖の匂いもしましたし」


 店主が目を白黒させながら、言い訳をするが、それが育伸の怒りの火に油を注ぐ。


「そんな言い訳が通るか!」


 育伸の声がますます厳しいものになる。思わず、茉里乃も身を縮めたくなるほどに。


「表の人間として予約したのだから察しろ! 妖の匂いがするからと言って、本人が気がついていないケースもあるだろう。彼女の驚きを見たら、今回がそうであることは簡単に分かるだろう! 表の人間に裏の妖の世界を暴露するなんて、何を考えているんだ!」


 ――あ。本当に妖の世界が存在するんだ。


 育伸の言葉に、これまで自分とカンスケだけだった秘密の狭い世界が大きく広がるのを感じた。


 その感傷が茉里乃を冷静にさせた。


「まあまあ、先輩。そこまで怒らなくてもいいじゃないですか」


 間に入って、仲裁をはかる。


「本当にすみません! お嬢さんも、育伸の旦那も、お許しください!」


 店主も平身低頭で謝罪する。


 それでも、育伸の怒りは収まらず、立ち上がろうとするから、テーブルについた彼の右手を取って、


「まあまあ、先輩」


 と間に入る。


 ――店主さんもわざとじゃなさそうだし、こんなに怒らなくていいと思うけど。

 ――先輩にもここまで怒る理由がありそうだなあ。

 ――「表の人間」「裏の妖の世界」って言うほどだから、知ると何か問題があるのかな。


 チラッと店主の方を見れば、


 ――先輩、怒りすぎだ。

 ――これ以上怒ると、不満を持った店主さんが何かたくらむかもしれない。

 ――人間じゃなくて、妖だから、人間の常識は通じないよね。

 ――とりあえず……。


 ここは自分が引き受けるから下がるように、と目線を送ってみる。


 ――通じるかな?

 ――……あ。通じた。


 店主が茉里乃へ謝意の目線を送ってきた後、顔を伏せて、


「お詫びとして、秘蔵の酒を提供させていただきます。お代は結構でございます。以後、二度とこのようなことは繰り返しませんので、ご寛恕ください」


 言い残して、下がって行った。


 それに合わせて、育伸の手に重ねていた手を引き戻す。


「……っ」


 声にならない声が聞こえたような気がして、育伸の顔を見たら、真っ赤にしていた。


 ただし、怒りではなく……。


 ――照れている? なぜ?

 ――手を触れられるくらい、なんでもないと思うんだけど。

 ――……でも、これを突っ込むと藪蛇かも。


 ほどなくして、猫の仲居が現れて、中身が入った銚子と猪口を持ってきたから、


「はい、先輩。このお酒を飲んで、少し落ち着きましょう」


 茉里乃は育伸と自分の分をそれぞれ猪口に注いだ。注ぐ前に、目立たない程度に鼻で息を吸って、匂いに問題がないか確認して、


 ――妖のお酒だからね。


 一気に飲み干すのではなく、念のためちょっとだけ口に含んだら、


 ――あ、これ、マタタビ酒だ。

 ――流石、高級料亭。母さんが作ってくれたのより美味しい。


 一気に飲み干す。


 そして、育伸に目をやると、


 ――へ?!


 茉里乃は、再び、驚きで口をあんぐりと開けてしまう。


 彼の手には飲み干した猪口。


 頭の上には、ぴくりと動く虎柄の猫の耳。


 茉里乃の視線に気づいたのか。育伸は手に持った猪口をテーブルにおいて、その手を頭の上に持っていく。


 手が耳に触れると、彼の顔から血の気が引いた。


 彼の視線が猪口の方に向き、その瞳が暗い色に染まっていくのが見えた。


 ――……先輩も人間じゃない?


 店主と違うのは、猫耳以外は人間のままであること。


 ――……もしかして、半分人間、半分妖?

 ――でも、猫耳、可愛い。

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