第7話
茉里乃は玄関の鍵を閉めると、倒れ込むのを我慢する。
高級チョコが入った紙袋をそっと床において、それから、
バタン
廊下に倒れ込んだ。
「疲れたぁ~」
この日は早朝に出発して、日帰りで茉里乃の実家に行って戻ってきた。
廊下の冷たいフローリングが、かじかんでいた指先から熱を奪っていく。
トン
軽い足音が近くから聞こえた。
その方向に腕をもぞもぞと伸ばしていく。
指先が馴染みの艶やかな毛に触れたら、そのまま捕まえて、抱き寄せ、顔をうずめた。
スー ハー スー ハー
何とも言えない魅惑的な匂いが茉里乃から疲労を奪っていく。
「離して欲しいニャー」
「いや。もっとこのまま」
「……茉里乃の家に帰っただけニャのに、そんなに今日は疲れたのニャ?」
茉里乃と育伸の婚姻届は、結局、無事に何事もなく受理された。
『湯野川の人間は、私がこんなに早く動くとは考えもしていないんだろうな』
婚姻届が受理された後、育伸がこぼすのを横で聞いていた。「ざまあみろ」と言わんばかりの暗い笑みを見ながら。
――大変だなあ。
茉里乃は、そのまま育伸と赤の他人の距離を取るつもりだった。
――契約結婚だからね。
でも、
『契約と言えども、籍を入れさせてもらうからには、古根さんのご両親には挨拶をする必要がある』
育伸が言い出してしまったから、プランは狂ってしまった。
『もちろん、君のご両親には契約結婚であることは伏せる。結婚した後同居をしない理由は、私が立ち上げた会社の経営が次のステージへ進むために忙しくなるから、としよう。忙しくなる前に、私のわがままで結婚させてもらった。そんなふうに説明する。私の両親との顔合わせは、家庭の事情から控えてほしい、と私が頭を下げてお願いする。もちろん、古根さんが私の両親なんかに挨拶する必要はない』
――ええっ! それは勘弁してほしいなあ。
結婚と孫を催促された先日の母からの電話を思い出してしまう。
――先輩を連れていったら、絶対に「なぜ交際を内緒にしていたの」と問い詰められる。
孫の催促もセットで。
――しかも、先輩がイケメンだから、絶対に母さんがエスカレートする。
――憂鬱。回避したい。
そんな内心がにじみ出てしまったのか。
『もしかして、古根さんもなにか複雑な家庭の事情を抱えているのか?』
心配そうに育伸が聞いてきたから、笑顔をとりつくろう。
『いいえ。そんなことないです』
――仕方がない。
――自分の両親へけじめをつけることは必要か。
考え直して、今日、育伸と二人で茉里乃の実家へ行って帰ってきたわけだ。
別れ際には、彼の札幌出張のお土産の紙袋をもらって。倒れる前、床に置いた紙袋。中身は、札幌で店を構える有名ショコラティエのチョコレート。さらに、
――近いうちに先輩と食事をする約束をしたけど、何を着ていけばいいかな?
――日時だけ確認して、レストランは予約できてから連絡すると言っていたけれど。
――新しい服を買わないといけないかな?
彼と交わした約束を思い返していたら、堪能している毛皮の主によって現実に引き戻された。
「そんなに湯野川氏の車の運転が荒かったのニャ? それで疲れたのニャ?」
往路復路ともに、育伸が運転する車だった。用意されたのは高級外車。初めて体験するラグジュアリーな空間に、最初は腰が引けてしまったほど。
「ううん。それとは真逆」
サングラスをかけて運転する育伸の横顔は、
――格好良かったな。
「とても丁寧で、帰りはつい助手席で寝てしまったほど」
車が走っているとは思えないほど、車内は静かで揺れも無かった。
まるで揺り籠のよう。
眠りから覚めた後は、すぐに寝てしまったことを育伸に謝罪したのだが、
『眠れるのは安心して乗ってくれている証。運転手として、とても光栄なことだよ』
笑顔で返された。
――誰に対しても、先輩は優しく接しているんだろうな。
――将来、先輩の本当の奥さんになる人は幸せ者だなあ。
チクリ、と心にトゲが刺さるような痛みが走った。
――……なんで、痛いんだろ?
――契約結婚のはずなのに。赤の他人を維持する関係のはずなのに。
――将来の先輩の本当の奥さんへの後ろめたさ?
またチクリと心に痛みが走る。今度のトゲは深く太い。
でも、この痛みの答えはカンスケによって遮られた。
「なら、なんで疲れたのニャ? 出かける前に予想していた通り、向こうでグチグチ言われたのニャ?」
答えの出ない痛みに、実家で受けた仕打ちの記憶が加わって、
「その通り。ネチネチグチグチ」
愚痴ってしまう。
「もうたっぷり。父さんは素直に祝福してくれたんだ。薄々だけど、先輩の家の事情も知っていたらしくて、心配もしてくれて。契約結婚が後ろめたく感じるほど」
「なら、やっぱり、母さんニャ?」
「その通り! 百歩譲って、先輩を見て気に入ったのは許す。でも、完全にテンションが振り切れちゃって。間近で見る親のキャーキャー言う黄色い声ほど恥ずかしいものは無い、とつくづく思った」
「それはまた想像できるニャ」
「しかも、私の昔の写真を出して来てさ。中学とか高校の頃のやつ。先輩も『すでに卒業して、いなかったので、とても新鮮です』とか言って、食い入るように見ちゃって。もう恥ずかしくて恥ずかしくて。いっそ、ひとおもいに殺してくれ、って叫びたくなったほどよ」
「赤ん坊の頃じゃニャいだけマシ、ニャ」
「うわっ! そうしたら本当に恥ずかしさで悶え死んでた」
想像するだけで身体が震える。でも、それだけではない。
「かと思えば、陰に私だけを引っ張り出して、交際を内緒にしていたことを詰ってきてさ」
「そこは茉里乃の出かける前の予想通りニャ」
「契約結婚のことは伏せるにしても、交際ゼロ日婚だと心配させちゃう、と考えたのが失敗だったかも。半年前に再会して、同窓会の時にプロポーズを受けた、ってことにしたからなあ」
「予想を上回る反応だったのニャ?」
「先輩が『子供はしばらくしてから』って言っているのに、『孫はいつだ』『孫を早く抱かせろ』とうるさい、うるさい。年齢を重ねるほど妊娠が難しくなる、とも言っていたけど。そんなこと知っているわ! こっちにも事情があるんだ!」
「親の心子知らず、とは言うけれど、子の心も親知らずニャ」
「その通りだよ、カンスケェ」
嘆きはまだ続く。一番ショックだったことがあった。
「ムカついたのは、私が男を作らないから、近いうちに親が進める婚活の場に行こうかと考えていた、なんて言ったの。そんなことしてたら最悪だよ。ガチで縁を切った。私の人生は私のものだ!」
「……災難だったニャ。今日も指が冷たいニャ。マタタビ酒を飲むニャ」
「……向こうで飲んだから、今日はもういいかな」
――そう言えば、先輩ってマタタビ酒に興味があるのかな?
向こうで母に勧められた際は、車の運転を理由に断っていた。けれど、
――先輩、チラチラって見ていたけど、私の胸じゃなかったな。
――確実に、私が持ったマタタビ酒のグラスに視線が行っていたよね。
――興味があるなら、今度、お裾分けした方がいいかな?
カンスケの抗議で意識が引き戻される。
「ニャ! アタイは飲んでないニャ!」
「分かっているわ。カンスケの分はちゃんと用意するから」
「高級猫缶も一緒ニャ!」
「分か……うん? 待った。猫缶はいつものやつだよ」
「……ニャ~。引っかからなかったニャ~」
「甘いなー、カンスケ。そう簡単には引っかからないよ」
「ニャ~。ダメニャ?」
カンスケが小首をかしげて、右前足を招くように動かす。潤んだ瞳が見つめてくる。
心が揺らぐが、ここは心を鬼にして、
「あざとカワイイ仕草をしてもダメだよ」
「素直に抱かれているニャ。吸われるだけでなくて、肉球も揉まれ放題ニャ。段々エスカレートしてるニャ。抗議するニャ!」
気づかないうちに、無意識でカンスケの右前足の肉球を揉んでいた。ついでに、左足も。ぷにぷに。
「それに……」
カンスケがするりと腕の中から抜け出した。
「茉里乃から他の猫の匂いがするニャ」
「え? カンスケ以外の猫とは触れ合っていないよ」
茉里乃の抗議を受けて、再確認するように、カンスケが鼻を近づけてくるが、
「フン。やっぱり他の猫の匂いがするニャ」
部屋の奥に消えていってしまった。
「え? カンスケが知らない猫の匂いって、全然心当たりないよ! 昼食も配達を家で食べたし。それこそ、今日はカンスケ、父さん、母さん、先輩以外、猫はもちろん、人とも触れ合っていないんだけどぉ!」
結局、高級猫缶でご機嫌伺いをする羽目になった。