第6話 side.YA
同窓会から帰宅した育伸は、ズルズルと玄関扉にもたれかかるように座り込んでしまった。
玄関につながる廊下の奥、カーテンも開けっ放しの部屋の窓からは月が見えた。
12階建ての高級マンションの最上階のこの部屋で、一人暮らしをしている。
かすかな月明かりが差し込み、育伸の影を作る。
「どうしたんだ、育伸。こんなところに座り込んだりして」
一人暮らしであるから誰もいないはずなのに、男の声がした。
でも、長い付き合いの聞き知った声であるゆえに、育伸は素直に本音を明かす。
「心の中がグチャグチャだ」
声は揺らめく影から。
「なんだ? どうしたんだ? 古根嬢へのお前の初恋が成就したんだから、喜べばいいじゃないか」
茉里乃と初めて出会った時の記憶が優しく引き出される。心の奥底に、大切に大切にしまっておいたもの。
育伸が会長を務めていた生徒会から、次の世代の生徒会へ引き継ぎの顔合わせの時。新入生の1年生も書記もしくは会計として生徒会に名を連ねるのが慣例だった。その中に茉里乃もいた。
真新しい制服に、肩口まで伸びた艶やかな黒髪と整った容姿。その中でも、育伸が一番心奪われたのは茉里乃の目。涼やか、でも力強い眼差しをそなえた目に。
グチャグチャな心に一筋の柔らかな光が優しく照らす。
「もしも、古根嬢が結婚を申し出てくれていなかったら、お前は言われるがまま赤峯の女と結婚していただろう。あれは言霊による呪縛だな。育伸、お前らしくない。油断したな」
「……そうだな。突然の電話で油断した」
「それにしても、古根嬢はつくづく育伸にとって人生の恩人だな。人生の節目に現れて助けてくれる」
「高校の時のことか?」
「そうだ。あの一件が無ければ、俺たちはこうやって話すこともままならなかっただろう」
育伸の影が伸びる。伸びた先から、その存在は現れた。
艶やかな虎柄の毛並みに覆われ、尻尾をくねらせる。頭には三角の耳を生やす。見た目こそ猫だが、二本の足で立つ背丈の高さは人間の成人男性ほど。
妖事情に詳しい者なら、その存在をこう呼ぶ。
化け猫、と。
名をトラモリと言う。
「確かにな。だが、きっかけとなったことは古根さんにとって悪夢だ」
「きっかけこそ、そうかもしれないが、終わり良ければ全て良しだ。古根嬢が赤峯の女にイジメられていたことを知ったお前が、自分自身と封印されていた俺に向き合うことになったのだから」
「封印? すでに綻んでいて、いつでも外に出られただろう」
「ふん。そんな無道なことをするわけがないだろう。そんなことをしたらお前の命は潰えていた。幼子の魂を消し飛ばすような非道なことも、消えた魂を埋めるために無理やり妖を埋め込む外道なことも、そんな己たちの仕出かした所業にもかかわらず、幼子を半妖と蔑む不道なこともせぬ。あの湯野川の者たちのようなことはな」
トラモリの言葉によって、過去の悪夢が蘇る。
妖退治に連れ出された幼いあの日、傲慢な伯父が愚かな失敗を犯した。結果、育伸は魂の半分を犬の妖に奪われ、死の淵をさまようことに。伯父たちは、育伸の失われた魂を補うため、近くにいたトラモリを無理やり育伸の中に封印した。
湯野川を始めとする退魔師の中では禁忌とされる反魂の術。だが、失敗の不名誉を隠すことが優先された。
以来、育伸は人間と妖の魂が混ざる「半妖」として生きていくしかなかった。退魔師の間では「半端者」と蔑まれる存在として。
普段は人の姿と全く変わらない。ただ、ある飲み物を口に含むと、その本性が露になってしまう。
それでも、蘇った悪夢は踏みつぶして、前を向く。
「……そうだな。トラモリは誇り高い妖だ」
「そうだろう。そうだろう。俺は誇り高い妖だ」
胸を張って賛辞を正面から受け取ったトラモリは、次いで育伸の顔を覗き込んでくる。
「そして、育伸。お前は誇り高い妖である俺が認めた男だ。悪夢を乗り越え踏みつぶした真の武士だ」
「何が言いたい?」
「だからこそ、お前も幸せになるべきだ、と言いたいのだ」
その言葉に、育伸ははっきりとトラモリを見返す。
「私は今、十分幸せだ。トラモリのおかげで、私は湯野川の呪縛から抜け出すことができた。起業した会社の経営も上手くいっている。同世代の中ではかなり成功した人間だ」
「だったらなぜ、古根嬢との結婚を素直に喜ばない? 今でこそ、古根嬢はお前のことを何も知らないだろう。だが、絶好の機会ではないか。お前の初恋、過去も今も唯一の恋心を成就させる絶好の機会だ」
「……そう簡単に言ってられない」
絡んでいたトラモリとの視線を外す。
「なぜだ? 確かに、お前が高校生の時は力が足りなかった。俺の力も使って、湯野川の力が届かない東京で赤峯の女が警察に捕まるように仕向けたことで満足した。そして、湯野川に巻き込まないように想いを封印して、距離を取った。あの時はそれが最善の選択肢だったのは、俺も理解している。だが、今は違うだろう」
「……」
「同窓会の時、古根嬢を見つけた時のお前の心も知っている。俺とお前は一心同体だからな」
あの時、感情が表に出ないよう、必死に抑えた。それは今も同じ。
15年の月日を経ても、一目で分かった。同時に、心の奥底に仕舞い込んでいたかつての想いも蘇った。
茉里乃の左手薬指に指輪がはめられていないことを見て取った時の歓喜の喜びも。
彼女が若い男と会話をしていた時の嫉妬も。
会場の下のフロアで、直接言葉を交わした時のドキドキも。
大人になって美しくなった彼女の姿に、心臓は強く鼓動した。15年前と変わらない目の輝きに、再び、心が撃ち抜かれた。
「こういうことを人間は『運命』と呼ぶらしいな。妖の俺なら、神在月の出雲に集まった八百万の神様たちがやらかしたな、と考えるがな」
だが、育伸は己の想いを再び心の奥底に封じ込める。
そして、1つの決意とともに、再びトラモリの目を見据える。
「それでも、私は、頃合いを見計らって、古根さんと別れなければならない」
「どうしてだ? 湯野川の家のことなら、今のお前が本気になったら、簡単に叩き潰せるだろう」
「それもあるな。湯野川との結婚は彼女を旧家のしがらみに絡み取る。私が湯野川の家を叩き潰しても、どうしても表の人の世界では残ってしまう」
トラモリが鼻で笑った。
「はん! それこそ、お前が守ればいいだろう。待てよ。今、『それも』と言ったな。他に何がある?」
「彼女に裏の妖の世界を知られてはならない」
「はん! それこそ、今更な話だ! 古根嬢からは妖の匂いがした。彼女の近くには必ず妖がいる」
「近くに妖がいることと、妖を知っていることは別の話だ。その妖は隠れているのかもしれない」
「別に、古根嬢が裏の妖の世界を知ったって構わないだろう。俺たち妖は人間と違って暴力をふるったりしない」
「確かに、トラモリの言う通り、妖たちは暴力を忌み嫌う。だが、同時に、妖は刹那的で享楽的で、なおかつ悪戯好きだ。トラモリ、お前が昔、言っただろう。お前のような誇り高く分別がある妖は少ない、と」
この言葉に、トラモリは軽く顔をしかめて、
「ムッ。確かに言ったな。その通り、妖たちは皆悪戯好きだ」
「そんな妖たちから誰が彼女を守る?」
同窓会で目にした茉里乃の姿が育伸の脳裏に浮かんでくる。
シャンパンを口にして頬を紅くする姿。ローストビーフを幸せそうに頬張る姿。
思い出しただけで、心が温かくなる。
永遠に、彼女の幸せそうな笑顔を一番近くで見ていたい。そんな欲も浮かんでくる。
決意は揺らぐが、
――彼女の笑顔を守らなければならない。
この想いがさらに決意を固くする。
「裏の妖の世界を知った人間に、妖たちは容赦しない。容赦なく、悪戯を仕掛ける。私の魂を奪った妖は例外だろうが、あの時あの場にいたお前も悪戯するためにいたのだろう?」
「……ムウ。確かにそうだ」
「妖たちの悪戯に悪意はない。悪意はないが、彼らは人を裏の妖の世界に引き込み、表の人の世界に戻れなくする」
「考えすぎだ。そんなことをする妖は、今の時代、数少ない」
「少ないが、ゼロではない。彼女の近くにいる妖が裏の妖の世界に引き込まない分別がある妖だ、と断言できるか?」
今度ははっきりと顔をしかめて、トラモリはうなる。
「……ムウ」
「そうでなくても、妖はトラブルをまき散らす。人間にとって、裏の妖の世界は知らない方がいい世界だ」
対して、育伸の表情は変わらない。その意志の強さを示すように。
「私は古根さんによって湯野川の家のしがらみから抜け出すことができた。だからこそ、裏の妖の世界と旧家のしがらみ、この2つの新しいしがらみに、彼女をからめとることは出来ない」
「……はぁー。お前って本当に自分が幸せになるのが下手糞だな」
トラモリが大きな溜息をひとつ吐くと、憐れむような顔になった。
「とりあえず、お前の考えには賛成しておいてやろう。その上で、今は素直に喜べ。一時かもしれないが、15年越しに古根嬢と触れ合えるんだ。15年前の忘れ物を取り戻しに来たと思って、今を楽しめ」
励ますように言うトラモリの顔を、育伸は見る。
トラモリの言葉を受けて、今、自分がどんな顔をしているか、もう分からなくなっていた。
ただ、心が痛んだ。
対して、トラモリは意味深な笑みを浮かべると、
「もっとも、お前の考え通りに行くとは限らないぞ。お前たちの縁が、もしも本当に神在月の出雲に集まった神様たちによるものなら、彼らを甘く見ない方がいいからな」
再び育伸の影の中に消えていった。
最後にひとつ言葉を言い残して。
「あ、それとマタタビ酒には気を付けろよ」