第4話
ほろ酔い気分の心地良さに浸りながら、茉里乃は目の前の鏡でチェックする。
――メイクチェック、OK。ヘアチェック、良し。
――服の崩れ、汚れも……無し。
――全部OK。良し!
外に出ると、換気扇の音が消え、静寂に包まれる。
ここは同窓会の会場となっているフロアのふたつ下の階のトイレ。
階段を下って、この階のトイレを使ったのは、会場となっているフロアのトイレでは順番待ちの行列が出来ていたから。同窓会が閉会を迎えて、会場を出る前にトイレを、と言うのは誰もが考えること。ひとつ下の階もすべて埋まっていた。
上を見上げれば、
――あーあ。もう1回、あのローストビーフ、食べたかったなあ。
会場では、ローストビーフの塊を目の前でシェフがカットしてくれるサービスがあった。
このローストビーフがまた美味しかったこと。
適度に柔らかくて、だけど噛み応えもあって、噛むたびに肉の旨味がジュワッと口の中に広がって……。
思い出しただけで、茉里乃の口の中に唾液が溢れ出してくる。
ただ、もれなく、苦々しい記憶も蘇ってしまうことが難点で。
『ねえ、君。この後、時間ある? 良いバーを知っているんだ』
4回目のトライをしようとしたら、若い見知らぬ男にからまれた。
ムカついたけれど、波風立たせずやり過ごそうと最初は考えた。でも、彼の後ろでローストビーフを片付けて去るシェフの姿を見て、
ブチっと来た。
一蹴してやった。
――あのローストビーフ、もう1回食べるために、またこのホテルに来よ……。
「おい! どういうことだ!」
声がした方向に顔を向ければ、廊下の突き当りにある大きなガラスの窓が、茉里乃の目に飛び込んできた。
窓ガラスの向こうは真っ暗。夜だから当然だとしても、灯りが1つも見えない。
よく見れば、ガラスの向こう側が雨で濡れているのが分かった。
つまり、夜の灯りが1つも見えないほど、バケツをひっくり返したような土砂降りの雨が降っている。
――もしかして、この大雨の中、帰らないといけないの?
――嫌だなあ。すぐに止まないかな。
こんな半分現実逃避するように考えるのは、声の主と聞こえてくる内容のせい。
「いい加減にしろ! 今更、俺に結婚しろ?! バカも休み休み言え! ふざけんな!」
大きなガラス窓の前で電話をしているのは、育伸だった。
「お前たちに育てられたことはない! あ! おい! 電話を切るな! ……くそっ!」
電話を切られた育伸が茉里乃の方を向いた。
今度ははっきりと2人の視線が交わった。
彼が茉里乃を見る目は、見知らぬ他人を見るものではなかった。
はっきりと茉里乃を茉里乃と認識している目。
そして、外れた。
――今の電話からすると、先輩に話しかけると絶対に厄介事に巻き込まれるよね。
――かと言って、ここで気づかないふりをして無視することも出来ない。
――もしも、誰かに今の様子を見られたりしたら、冷酷な薄情者とされるし。
――最悪、同窓会の出席者全員に広まって、そこからさらに私の悪い評判が広められることになる。
――私と同じようにトイレを求めて下りてくる人、いるよね。
――上の階に行けばよかった。
――……あーあ。最悪。
ちらっともう一度育伸を見てみる。
――あ。ダメだ。
俯いた顔。だらんと力なく下がった腕。
まるで雨に打たれた捨て猫のように見えた。
初めて出会った時のカンスケのように。
――子猫だったカンスケと違って、大人の人間だけどね。
――……でも、見捨てられない。
一歩踏み出す。その方向は、
「湯野川先輩、お久しぶりです」
「……古根さんか。久しぶり」
育伸はそう言うものの、一瞬だけ目を合わせたら、すぐに明後日の方向を向いた。
彼の言葉の言外に、「放っておいてくれ」「一人にしてくれ」が含まれているのは無視する。
目を合わせた時の、彼のハイライトの消えた目が茉里乃の心に焼き付いた。
「助けてくれ!」と心の奥底では叫んでいるように見えたから。
「どうかされたんですか? かなり荒れた電話をされていたようですが」
「……すまない。ひどい話を聞かせてしまった」
この後に続く言葉は分かった。「でも、大丈夫。すまないが、一人にしておいてくれないか」と言って拒絶されるか、「ちょっと一人になりたいから、夜風にあたってくる」と言って去られるか。
だから、そう言われる前に一歩踏み込む。
「何かあったんですか?」
「……」
育伸は、目を合わせず、何も言わない。
でも、しばらくして、ポツリと零した。「話を聞くまで絶対に逃がさない」と言わんばかりの茉里乃の圧が伝わったのかもしれない。
「……縁を切っていた私の家族によって、無理やり結婚させられそうなんだ」
「無視すればいいですよ、そんなこと。今の時代、そんなことできるわけがない」
先程の電話の声にあった「結婚」から、大体想像できたことだった。それでも、改めて聞かされると、呆れてしまう。
対して、育伸は乾いた笑い声を漏らして、
「高をくくって無視できないところが、旧家である私の家のヤバイ所なんだ。さっきの電話も、家族親戚にはもちろん番号を教えていなかった。私の家のことを知らない限られた友人しか知らないはずなんだ」
それでも電話がかかってきた。
――え? やば! 怖っ!
顔には出さなくても、茉里乃は心の中で叫んでしまう。
「私の家族は、私の幸せを願っているんじゃない。別の旧家出身の結婚相手の血を求めているんだ。そして、できた子供には旧家の旧弊を刷り込んで、自分たちに都合よく操る。そう、操り人形を作るのが目的なんだよ」
「え? やば! 怖っ!」
今度は本当に口から言葉になって出てしまう。ほろ酔い気分が口を緩ませた。
そんな茉里乃に、育伸はようやく彼女の目を見た。でも、乾いた笑みはそのままで、
「しかも、結婚相手だとあいつらが言っているのが、あの赤峯早弥子なんだ。最悪だよ」
(あんたなんか湯野川先輩に相応しくない! あたしと代わりなさい!)
(ふん。ざまあないわね。あんたなんか、地べたに這いつくばっているのがお似合いよ)
(あら? まだいたの。あんたなんかここにいる価値なんかないわ。むしろ生きている価値すらないザコよ)
フラッシュバックした過去の記憶が茉里乃の心に痛みが走らせる。
かさぶたとなった古傷から血が流れ出す。
それでも、育伸に悟られないように、ギュッと右拳を握りしめると、
――私は大丈夫。
――今思い出したのは過去の記憶。今ではない。
――だから、大丈夫。
悟られないように、ふっと息を吐きだす。
そこに、育伸のハイライトの消えた目と乾いた笑みが届く。
――先輩もしがらみに絡み取られている。私とは深刻さが違うけどね。
――赤峯という同じ厄介者にも絡まれている。私は過去、先輩は今。
不思議な連帯感のようなものを心の中で感じた。
握りしめている右拳にさらに力を籠める。痛みが走る。
でも、その痛みが1つのアイディアを生んだ。
珍しく指先がかじかんでいない。それはアルコールのせいか、それとも、浮かんだアイディアのせいか。
――もしも実現したら、15年越しの赤峯の恋心を邪魔できる。
茉里乃の心の中で暗い笑みが浮かぶ。
――もしも実現したら、同窓会で先輩を囲んでいた女の人たちの鼻を明かせる。
茉里乃の心が自尊心で満たされる。
――もしも実現したら、ローストビーフの時のように男に絡まれることも少なくなる。
満たされない食欲に少しだけ侵食される。
――もしも実現したら、母さんから結婚の催促をされることはない。
茉里乃の心が解放感で包まれる。
――いや、さすがに突飛すぎる? 先輩に引かれる? ドン引きされる?
――それでもいっか。
――もう、恋に憧れる歳でもないし。
――結婚した都筑さんも圭那子も、「結婚なんか打算と妥協よ」とかそんなことを言っていたし。
――なら、この選択もアリよね。
普段ならかかるブレーキは、ほろ酔い気分をもたらしているアルコールによって壊される。
「ねえ、先輩?」
「……うん?」
「先輩は、今、お付き合いしている女性はいないんですか」
「いないよ。今も昔もそんな相手はいない。実家のことがあるからね」
「旧家の先輩の家って、法律を上回ることは出来るんですか? 犯罪を犯しても無かったことにしたり、とかです」
「……ケースバイケースかな。交通違反ぐらいなら、所轄の署長や県警本部にクレームを入れて、揉み消すのは普通にやるけど、隣の県では彼らの力は通用しないから普通に逮捕される。というか、逮捕された」
「ふーん。なら、大丈夫かな」
「……? なにが大丈夫なんだい?」
「先輩。私と結婚をしませんか。もちろん、先輩への恋心とか恋愛感情はないので、籍だけ入れるんです」
「……けっこん?」
――なんでそんなに残念そうな顔をするのかな?
育伸の顔に浮かんだ感情に、疑問符を浮かべるが、とりあえず見なかったことにする。
チクリと心に痛みが走ったような気がしたが、気のせいにしてしまう。
もう最後まで止まることは出来ないから。
「そうです。普段は他人の関係を維持すればいいです。結婚して籍を入れたら、もう赤峯と先輩は結婚できませんよ」
「……は?」
「つまり、私と契約結婚をしましょう」