第1話
古根茉里乃は玄関の鍵を閉めると、もう限界だった。
バタン
ワンルームの玄関へつながる廊下に倒れ込む。
今日も終電3本前の電車だった。昨日は終電1本前。
――パンプス、脱がなきゃ。
と思っても、着慣れているスーツが拘束具のように疲労困憊な身体を押さえつける。
秋めいて来たら急に冷たくなった廊下のフローリングが、元々かじかんでいた指先からさらに熱を奪っていく。
トン
軽い足音が近くから聞こえた。
その方向に冷たくて重い腕をもぞもぞと伸ばしていく。
かじかんで鈍い指先が艶やかな毛に触れた。毛並みの奥にあるしなやかな筋肉と体温も伝わってくる。
そのまま捕まえて、抱き寄せ、顔をうずめる。
スー ハー スー ハー
何とも言えない魅惑的な匂いが、疲労困憊の茉里乃を天国へ導くような幸せに浸らせる。
「そろそろ離して欲しいニャー」
「いや。もっとこのまま」
「……茉里乃は今日もお疲れニャー」
そう言われて、茉里乃は顔をうずめていた相手から離れた。
視界に映るのは1匹の猫。ただし、その尻尾は2本。
ただの猫ではない。猫又である。
「うん。疲れたよ。今日もくたくただよ、カンスケ」
名をカンスケ。元は実家で飼っていたメスの三毛猫だった。でも、大学進学にあたって東京で一人暮らしを始めた時、ふらりと姿を消した。実家の両親はもちろん、茉里乃も週末には戻って、懸命にカンスケの姿を探したのだが、見つからなかった。
そして、3か月後。
茉里乃たちが諦めた頃、今、住んでいるマンションの入口に姿を現した。
「人間は大変ニャ。会社なんか辞めて、アタイみたいにのんびり暮らしたらいいのニャ」
尻尾を2本に増やして、人間の言葉も話せる猫又として。
「そうしたら、カンスケに高級猫缶を買ってあげられなくなるよ」
もちろん、普通の猫と同じように、猫又は身近な存在ではない。
むしろ、逆。想像上の生き物。
「ニャ! それは困るニャー」
のはずだったのだが、茉里乃に今、抱かれている。
「そうでしょ。だから、カンスケはずっとこのまま私に抱かれるの」
再び、カンスケの魅惑のボディに顔をうずめる。
スー ハー スー ハー
「ニャ~。それも困るニャ~」
苦情は無視して、愚痴る。
「大体、会社のみんな、危機感無さすぎ。今月も売上目標未達なのよ。だから、役員会の資料の数字が真っ赤。販管費も増えているし。平社員の私が考えることじゃないけど、来期はどうするんだろう」
「大変ニャー」
「なのに、今日だって、営業課の人が出してきた領収書が問題だらけ。しかも、仮払いの精算の期限はもうとっくに過ぎてるの」
経理担当として働いている茉里乃にとって、忌み嫌っていることの1つ。
思い出しただけで腹が立ってきた。
「それなのに、へらへらした顔してさ。これが少しでも申し訳ない顔をするか、疲れはてた顔をしていたなら、こっちも『仕方がない』って少しは思うよ。なのにさ、経理はあんたたち営業の小間使いじゃない!」
「災難だニャー。茉里乃はいつも真面目に仕事に取り組んでいるのニャ」
カンスケの尻尾が茉里乃の腕に触れてくる。慰められているようで、ささくれ立っていた心が少しだけ落ち着く。
ただ、怒りの感情が収まれば、次は別の感情が浮かんでくる。
「おまけに、昼休憩に母さんから電話がかかってくるし」
これが就業時間中なら無視できた。もしくは、同僚と一緒にランチを食べに行っていたら。
残念ながら一人だった。
「仕事が終わってからか、会社が休みの日にかけてくればいいのに」
「嫌な話だったのかニャ」
「次、いつ帰ってくるか、だってさ。そんな先の予定は仕事が忙しくて立てられないのに」
思い出しただけで憂鬱な気持ちに襲われ、そして、苛立ちに変わる。
「なのだニャ」
「それに、恋人はいないのか、結婚はいつになるのか、孫を早く抱きたい、だって。ついこの間も聞いてきたじゃん」
30歳を迎えてからは、話をするたびに聞かれる。これさえなければ、仲は良い。
『風邪みたいなものよ。のらりくらり聞き流していたら、そのうち言われなくなるわ』
――会社の先輩はそう言っていたけれど。
「従姉妹の香乃ちゃんが3人目を妊娠したみたい? 知るか、そんなこと! 香乃ちゃんは香乃ちゃんで、私は私だ! だいたい、男が少なく女が多い、この東京で相手を見つけられるわけがない!」
苛立ちが茉里乃の声を強くさせる。
「本当に人間は大変ニャ」
「向こうに、中学の同級生から結婚式二次会の招待状が届いたんだって。なんで中学卒業後は疎遠になっていたのに、15年? それくらいぶりに、そんな連絡をしてくるんだ!」
「それって、女ニャ? 男ニャ?」
「女に決まっているでしょ! 祝儀目当てに決まっている! 本当にムカつく」
顔をうずめたまま、指はカンスケの前足の肉球を触る。ぷにぷに、と。
「茉里乃も大変ニャ。指が冷たいから、マタタビ酒を飲むニャ。冷え性に効果があるニャ」
肉球の感触が苛立った心を優しく癒してくれる。
なお、マタタビ酒は茉里乃の母が作った自家製のもの。茉里乃の冷え性を心配して作ってくれた。
「先月は大学の同じゼミで学んだ莉華子の結婚式で祝儀を包み、ドレスも新しいのを買わなければならなかったわ。再来月には、出産予定日を控えている都筑さんに出産祝いを送らないとならない。なんで、こんなに財布からお金が出ていくの」
――人間関係を維持するための必要経費、と割り切らなくちゃ。
諦めが声を弱くさせる。
「茉里乃は頑張っているニャ」
「でもね、圭那子の話を久しぶりに聞いたの。2年まえに結婚したんだけど。最近、離婚したって。なんか、もう、本当にざまあって感じ」
「ざまあ」と優越感がある言葉の割には、その声には後ろめたさを感じさせる弱さがあった。
結婚、妊娠、出産。茉里乃も女性として憧れが無いと言ったらウソになる。
去年は、縁結びで有名な出雲大社へお参りに行ったほど。もっとも、行った時期が神在月だったのは、日本中にいる八百万の神々が集まって、人々の縁を取り持つ故事を意識したわけではない。一緒に行った親友と同じ休みを取れるタイミングが、たまたま、この時だけだったから。
「……人間って本当に大変ニャー。でも、茉里乃は自分のことより周りを気遣える優しい子ニャ」
ペロペロ、と慰めるようにカンスケが舐めてくれる。
「おまけに、母さんから電話を切ったら、今日食べようと思っていたお店の限定ランチメニューが売り切れていて、本当にがっかり」
「……仕方ないニャ。もうしばらく、アタイを抱きしめるのを許可するニャ。そのかわり、マタタビ酒と一緒に高級猫缶を食べさせるニャ」
「! もちろん!」
カンスケの身体に、今度は本当に遠慮なく顔を押し当てて、
スー ハー スー ハー
猫吸いを堪能する。
――この瞬間が私の生きる幸せ。
――でも、カンスケの味覚が肥えてきたなあ。
頭の中では、最近とみに増えている高級猫缶の購入費がちらつく。
――仕方ないか。
――これで得られる回復効果と比べれば、安い投資。
――猫又になる前のカンスケは、こんなに簡単に猫吸いをさせてくれなかったもの。
――人の言葉を話せるようになった猫又になったおかげ。
――猫の妖様、バンザイ!
――カンスケに貢ぎ続けるため、明日も頑張るか!
――……と、そう言えば、高校の同窓会の案内状も来ていたんだっけ。
――欠席で返信を出しておかないと。
ふと、週末に見かけた若い夫婦の姿を思い出してしまう。ベビーカーを押しながら明るい笑い声をあげていた彼らの姿に、チクリと心に痛みが走った。
――それにしても結婚かぁ。
――私にそんな未来あるのかな……。