9話:期末テストに向けて
テオとの和解を果たした翌日から、彼は真面目に授業へ出席するようになった。
本人曰く、ブランクが多いこともあって、内容を理解するだけでも精一杯とのことらしい。
エルミアは自身の知識の定着も兼ね、チェルシーとリアムを誘い四人で勉強会を開くことになった。
放課後に自習室へ集まり、皆でわからないところを教え合う。
もしかしたら、私は前世でもこんなことをしていたのかな、なんて、一人郷愁に浸る。
どうやらテオは地頭がいいらしく、基礎であれば容易に飲み込んだ。試しに解いてみた問題集も八割得点という好成績っぷり。
彼曰く、授業に追いついていなかったのも、応用が利かなかったとのことらしい。
それから、『グレイシャ様』ではなく『テオ』と呼ぶようにと……呼び捨ては恐れ多いので、『テオくん』で勘弁してもらうことにした。
対してエルミアの成績は酷いものである。下から数えた方が圧倒的に早く、好感度どころか内申すらも最底辺。
向こうの世界であれば留年、もしくは退学に相当するレベル。しかし聖女という手前、学校側も無下に扱うことが出来なかったのであろう。
この学校における試験は、大きく分けて実技と筆記の二種類。
実技試験は仮想敵に対して、どの程度の殲滅能力を有しているかを測定するもの。
無限湧きしつつ、だんだん強さを増していく敵を時間内にどれだけ倒せるかで点数が変わる。
筆記試験はおなじみのペーパーテスト。普段授業で聞いていることを、どれだけ理解しているかを問うものである。
魔法、剣、体術。なんでもありの実技試験。
前回の魔物騒動で発覚した、エルミアの突出した魔力の高さ。これを駆使すれば、満点は容易いであろう。
しかし――。
「えぇと、この戦争に勝利したのはメイガスって人。その後偉くなって……」
「エルミアちゃん。王位に就いたのはローレンス二世の方だよ。メイガス三世の方は病気で亡くなったから、皇帝として名を残せていないんだ」
「あぁああもうっ」
もう何度目とも数え切れない間違いへの指摘に、エルミアは文字通り頭を抱える。う~う~と獣のような唸り声を上げるエルミアを見て、隣に座るリアムが小さく笑みをこぼす。
私の学生時代は常に平均の周囲をうろちょろしていた記憶。つまり、頭はよくもなければ悪くもなく、といったところ。
そうでなくとも、社会人となっては全く勉強などする時間もなかった。こうしてテキストと向き合うことだって、それはそれは大層久々の出来事である。
特にエルミアを苦しめているのは歴史学だった。この乙女ゲームの舞台となる国で起きた出来事は、向こうの世界とは全く違うそれ。かの有名な戦国武将や革命家の名前や事象なんて、これっぽっちも役に立たなかった。
期末テストが目前に迫っている今、エルミアは一層努力をしなければならない。
これも己が変わったとアピールするための一手だ。利用できるものは、利用せねば。
集中力も切れてきたところで、お手洗いと称して席を立つ。放課後の短い時間とはいえ、ずっと教科書とにらめっこしているのは骨が折れるというもの。
洗面台に備え付けられた鏡を見ながら、ぼんやりと考える。
このゲームのことちゃんと知っていたら、余裕のヌルゲーだったのかな。
誰が攻略対象で、何がこの人の地雷で、嫌われている理由はこうだから、こうすることで好感度を上げていく。
生きることだって、テストの点だって苦労することなくやっていける。
……いいや、きっと違う。そんな好感度のためだけに相手にゴマをすり自分を殺す生き方なんて、きっと間違ってる。なによりも、私自身が嫌だ。
だからこれでよかったのだ、と自分に言い聞かせ、皆の待つ場所へと戻る。
「あ」
「あ゛?」
「すみません間違えました」
「おいおい待てや待てよゴルァ!」
なんて、余計なことを考えていたせいだろうか。
自習室の扉を開いた先にいたのは、炎のような赤髪が特徴的な男子生徒だった。彼は大人しく席に着き、参考書とノートを広げている。そのすぐ側に、どういうわけか大量のリンゴらしき赤い果実がかごの中に積まれていた。
やばいどうしよう部屋間違えた。
面倒ごとに巻き込まれる前に退散しようと思ったのだが、相手はそれを許さない。
「テメェ、また俺を笑いに来たのかよ!?」
たまたま部屋を間違えただけで、ここまで怒られるのは正直納得がいかない。しかしここで反論をすれば面倒なことになるのは目に見えていたので、何も言わなかったが。
それにしてもアンドリューの物言いが引っかかる。
”また”とはどういう意味だろうか。私の記憶が正しければ、アンドリューを嘲笑った覚えはない。鬱陶しいと思ったことはあるけれど。
「そんなつもりは……あ、ここ間違ってますね」
「は?」
「私もさっき間違えました。どうにも引っかけらしいですよ」
「……テメェ、勉強なんて出来たのか?」
「残念ながら、これっぽっちも」
彼の訝しげな視線に対しエルミアは首を横に振る。
たまたまさっきまで解いていた問題だったから、偶然答えられただけだ。そうでなければ何も言わずに退散している。こちらとて、余計なことに首を突っ込み自分から火種を巻くだなんて馬鹿な真似はしたくない。
しかしアンドリューはそれすら不満の材料とし、青筋を立てながらエルミアを指さし怒鳴り散らした。
「そうやって俺のこと見下すようなこと言いやがって――」
「エルミア~! 遅いよー、なにやってるの……って、ええっ!?」
野太い怒声を遮るように響いたのは、それとは到底真反対の音。
鈴を転がしたような愛らしい声と共に姿を現す金糸雀色の少女。ふわふわのサイドテールを髪を揺らしながら、チェルシーが自習室へと飛び込んできた。
彼女はエルミアとアンドリューの間を視線で往復させるなり、顔色を変えていく。驚き、喜び、疑念を混ぜ込んだ表情を浮かべ、やがて俯く。
「――が一人で……? こんな展開は……いや」
「チェルシー?」
「アンドリュー様! よかったら、その……私たちとお勉強しませんか?」
「チェルシー何言ってるの!?」
一人でぼそぼそ喋り始めたかと思えば、顔を上げるなりとんでもない爆弾を落としていった親友。
思わず突っ込みを入れるも、彼女は目を輝かせたままアンドリューから視線をそらさない。恐らく、この状態ではエルミアの話ですら聞く耳も持たないであろう。
アンドリューはあからさまに迷惑そうな顔をしている。誰が見ても嫌そうな顔をしている。
これ以上機嫌を損ねたらまずい。適当に謝り、チェルシーに撤退を促そうとした。頭を下げさせようとして彼女の後頭部に手を伸ばしたところで、突如エルミアは閃きを得る。
……もしかしたら、これはまたとないチャンスかもしれない。
「マーフィー様。どうか私からもお願いいたします。リアムもテオくんもいるので、わからないところは教え合いましょう」
恐らくアンドリューは勉強ができない。だからこうして、一人で自習室にこもっていたのではなかろうか。
転生して少々経てば、彼が怒りっぽい性格であることは理解していた。だからこそこの不機嫌な態度は、エルミアだけでなく問題が分からないことに対しても腹を立てているのだと察しがつく。
つまりアンドリューも成績が危うい側の人間なのだ。だからこそ、この提案は彼にとっても悪いものではないと言える。
それにエルミア自身、先ほど彼の間違いを訂正できたのが嬉しかった。何かあれば力になれるかもしれない。
そして何より、私自身の好感度のためにも。
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カリカリカリカリ、グルグルグルグル。……ペケ。
静かな自習室に、紙とペン先の擦れる音だけが響き渡る。最後のは誰かが間違えたのだろう。
それにしても、なんとも不思議な舞台設定だ。
時代は中世ヨーロッパ辺りを想定しているのだろうが、ここにあるのは羽根ペンや羊皮紙ではなく、紙とボールペン。こちらの方が使い慣れているから、私としては大変ありがたいけれども。
あの後、アンドリューは渋々といった様子でついてきてくれた。教え合うとは言ったものの、彼が来てから何故か誰一人として一言も発しない。
皆で黙々と問題集を解き進め、答え合わせをする。
そんな奇妙な空気を打ち破ったのは、一人の男だった。
「――ふざけんなよ、テオっ!」
突如としてアンドリューが激しく机を叩き立ち上がる。彼の怒りの矛先は、親友であるテオに向けられていた。
「どうしちまったんだよ? こいつが戻ってからおかしいぞ、あれだけ散々馬鹿にしてたくせによ!」
「それは……」
「テメェは忘れたわけじゃねぇだろ? この女がなにをしたのか!」
「……うん。覚えてるよ、はっきりとね。けれど、人間やり直しの機会はあってもいいと思わないの?」
「ああもういい!」
初めこそすれ豆鉄砲を食らったような顔をしていたテオであったが、その表情は徐々に変化していった。狼狽え、けれど最後には決意を固めた顔で。
憤怒に燃える烈火の瞳を真正面から見つめ、きっぱりと己の意見を口にする。
対するアンドリューはさらに目つきを鋭くすると、口角を歪な形に吊り上げる。
恐らく当てが外れたのだろう。長い時間を共有し、同じことをしてきた親友ならば自身の意見に賛同してくれると。しかし現実はそう上手くはいかなかった。
「俺は帰る、んで放っておけ。後は好きにやってろよ!」
アンドリューは素早く荷物をまとめるなり、地面を揺らしながら自習室を後にする。ビシャン、と乱暴な音を立て引き戸を開閉する様子を、リアムとチェルシーは呆然と見つめていた。
誰もが萎縮する空気の中でも一人冷静だったテオ。彼はさも何もありませんでした、といった様子で勉強を続けている。
「テオくん、追いかけなくていいの?」
「アンドリューは結構頑固なところあるから、ああなったら放っておくのが正解だよ」
エルミアは彼の発言の真意を見抜いていた。
テオは自身が変わりたいと打ち明けてくれた。そうこぼした手前、保守を貫くアンドリューの姿勢に賛同しなかったのだろう。
彼が不満を抱いたのはエルミアの存在。やはりそう思わせるだけの、何かをしてしまったのだろう。
だから私には聞く義務がある。アンドリューが、エルミアの何に怒っているのかを。
「ごめん。私ちょっと抜けるね」
誰かが何かを言う前に席を立ち、アンドリューの後を追いかける。
幸いにもまだ背中の見える距離にいた。エルミアは小走りで駆け寄ると、大声で彼の名前を呼ぶ。
「マーフィー様!」
「……何しに来やがった」
アンドリューは静かに足を止めると、小さいながらも怒気をはらんだ声色で返答した。
「さっきの言葉、どういう意味ですか?」
彼は質問に答えない。
代わりに返ってきたのは、耳をつんざくような怒鳴り声だった。
「テメェは何がしたいんだよ!? テオだって別人に変えちまった!」
「私は」
「俺はテメェが変わろうが認めない! テメェがあの噂を広めた犯人のくせに、どうしてそうもお気楽でいられるんだよ!」
「え……?」
「なんだよ、忘れちまったのかよ?」
アンドリューが鼻で笑う。
エルミアに向けられているのは侮蔑の眼差し。自分より下の身分の者を見るような、非常識極まりない人間を見るような、嫌悪と悪意にまみれた視線が注がれる。
「他でもないテメェが広めたんだろう? 俺が『暴力で、ある生徒を退学にした』ってな!」
「マーフィー様が暴力を? そんなの、何かの間違いでは」
「……やっぱり忘れちまってるんだな。その態度、ムカつくったらありゃしねぇ」
舌打ちと共に吐き出された言葉は右から左へと抜けていく。
事態が飲み込めないエルミアは、ただ呆然とその場に立ち尽くした。
人形のように反応を失ったエルミアに、もう用はないのだろう。アンドリューは何を言うこともなく立ち去った。
一人の残された己の内部を反芻するのは、到底信じがたい事実。
『アンドリューが暴力を振るい、生徒を退学に追い込んだ』という噂を広めた。
私が……エルミアが?
仲良くなったので、テオにもタメ口となったエルミア氏