8話:私と一緒に、変わっていきましょう
「色々あってアンドリューと意気投合して、お前を下に見ることで自分の心を保ってた。僕は悪くない、僕は悪くない、って。出来損ないなんかじゃない、僕は……僕は……」
「だから私に教育をやめるよう依頼してきたのですね。劣等感の捌け口として使っていた相手が、自分の上を行こうとしているのだから」
ようやく合点がいった。
聖女としての務めを果たさないエルミア。遊びほうけ、各所で問題を起こすエルミア。その存在は、テオにとって都合がよかったのだろう。
自分より下の人間だっている。自分より下の人間だって、ああやって生きている。
思い込むことで得られる優越感は、過去のテオに対する自身への救済のようなものにも似ていた。
だからこそ、彼はエルミアの変化を誰よりも恐れていたのだ。
エルミアが変わってしまえば、自身はまた後ろ指を指されながら生きる人生に、あの頃の惨めな気持ちへ逆戻りしてしまうのだから。
「お前が僕より優秀でいたら、僕は――、僕、は……」
テオが両手で顔を覆う。その下、つぶらな新緑色の瞳が既に涙で揺らめいているのを見逃さなかった。
それを見た自身の腹の底から、どす黒い何かが湧き上がってくるのを感じる。
怒り。これは憤慨だ。
私が貶められた時よりも、真実を知らないまま魔物を撃退しろと言われた時の不快感とはまた違う。
幼いテオへ心ない言葉を浴びせ続けてきた大人たちへの、理不尽から来るやるせなさだ。
エルミアがテオより優秀でいたら、それが何だというのか。
存在価値がなくなってしまうとでも、生きていること自体意味がなくなってしまうとでも言うのか?
間違ってる。そんなのは、絶対に間違っている。
エルミアは荒々しい音と共に立ち上がり、しっかりとテオを見据えた。
「先に謝罪をさせていただけませんか。――大変、申し訳ございませんでした」
腰を曲げ、頭を水平に下げる。
かつてルペシャへそうしたように。誠心誠意の平謝りで、心からの謝罪を態度に込める。
十秒ほど姿勢を保ち、ゆっくりと姿勢を戻す。
顔を上げた先、彼は困惑の色を浮かべていた。まだ気持ちが安定しないのか、目尻からは尚も雫が流れ落ちている。
「その上で、恐れながら申し上げます。グレイシャ様。他人は所詮他人です。彼らは常に安全圏からヤジを飛ばすだけで、発言やその後の貴方に責任なんか負ってくれません」
「……だろうね」
「幼い貴方には十分だったでしょう。でも、それも今日で終わりです。心ない言葉のせいで、自分で自分を傷つけるなんてこと、絶対にあってはなりません」
「だったら何だっていうの。昔からついた思考の癖は、そう易々と抜けてくれるものじゃない」
「重々承知の上です。しかしグレイシャ様はまだお若いんですから、今からだってやり直せます。今は自身の非に気づけただけでも、素晴らしいって思いましょう」
必要以上に自分を卑下する必要なんてない。
過去の呪縛に囚われる必要だってない。
たとえ本当に、出来損ないだったとしても構わない。
だからこそ――。
エルミアは大きく息を吸い込んだ。今最も彼に言いたいことを、ゆっくりと己の呼吸に乗せ口にする。
「貴方は、貴方のままでいいんですよ」
真っ直ぐな思いを伝えるエルミアに、テオは怪訝そうな顔を向ける。
相手からすれば綺麗事だと、ただの美辞麗句だと、そんなことは百も承知だ。
それでも伝えなければならない。口にしなければ、わからないことだってあるのだから。
案の定テオは笑い飛ばした。ほんのちょっとの嘲りを含みながら、肩をすくめ若葉色に懐疑を混ぜる。
「……なぁにそれ。僕がお前に何をしたかとかさ、全部忘れちゃったの?」
「痛いくらいに覚えていますよ。けれど、いがみ合っていたら、先には進めません」
「机上の空論だね。口先だけでなら、何とでも言える」
「もしかして不安ですか。ならば、私と一緒に変わっていきませんか」
「…………は?」
提案するにあたって、エルミアは己の内情を打ち明けることにした。
そういえばどうして私が変わろうとしたのか、内容はリアムとチェルシーにしか伝えていない。
彼は知らないのだ。何故エルミアが突然別人のようになったのかを。
「ルペシャ様に懇願したのも、その一環なのですが。どうやらこのままでは、私は数ヶ月後に命を落とすようなのです」
「は、はぁ……!? 死ぬってそんなの、冗談にしたって言っていいことと悪いことがあるんだけど!?」
「こればかりは未来のことなので、なんとも言えませんが。これが私の理由ですよ」
詳細は省くが、このまま何もしなかった場合の未来を口にする。
さらりと言ってのけたエルミアに対し、テオは信じられないといった様子で動揺の色を浮かべた。
この反応、もしかして、私に死んでほしいとまでは思っていないと自惚れてもいいのだろうか。
「だから大丈夫です。――グレイシャ様なら、きっとやり遂げられます!」
力強く断言すると共に、エルミアはテオに向かって手を伸ばす。
「それに、グレイシャ様は絶対に出来損ないなんかじゃありません。人には得手不得手がありますから。今はまだ、貴方の得意なことが見つかっていないだけなのかもしれません。これから先、そんな出来事が見つかったら、是非とも周囲の鼻開かしてやりましょうよっ!」
それは共に歩んでいくことへの誘いかけであり、呪いという底なし沼から引き上げるための、救済の一手であった。彼の心を縛り付け、蝕んでやまない鎖を壊すための。新しい一歩をここから踏み出すための道標。
テオはしばらく呆気にとられたような顔をしていた。ぽかんと口を大きく開けては、何度も瞬きを繰り返す。
初めこそすれ不評だったご高説はどうやら彼の心に届いたようで、強ばっていた表情は次第に緩んでいった。
「ふ……、はは。何それ。若いしって、お前今何歳なの? 僕と同い年だよね、あはは、おかしい!」
笑われ、指摘されてからはっと気づく。
そういえば、今はただの学生だった。向こうの世界にいたときは彼らよりもほんの少し年上だったから、ついつい説教じみたことを言ってしまったけれど。
しばらくクスクスと笑っていたテオは、やがて表情を消し自身の膝をぎゅっと握る。床に視線を移した彼から発せられたのは、不安の気持ち。
「ねぇ、僕、本当にやり直せるかな。今からでも……頑張って、ディランに追いつける、かな……?」
「グレイシャ様ならきっと、肩を並べるくらいには成長できると思いますよ」
これはお世辞でも何でもない、エルミアの本心だ。
周囲の呪いで歩みを止めざるを得なかったが、自分に合うものを見つけたとき――、テオはきっと、何にも負けることはない存在になると。
根拠はない。しかしそんな確信があった。
だからこそ、彼はこんなところで腐っているべきではない。
「そっか……うん、そうか」
テオはどこか納得したように呟いた。まるで己に大丈夫、と暗示をかけるように。
「そう言われて思ったんだけどさ。もしかしたら、僕はずっと誰かに言ってほしかったのかもしれない。僕は僕でいいんだよって、真っ直ぐな言葉で、僕自身を肯定してほしかった」
鎖の壊れる音がする。彼にまとわりついていた呪縛が、少しずつ霧散していく。
「お前の理想論、信じてみるのも悪くはないかもね」
顔をあげる。
そこにはもう、迷いなんてなかった。
「……うん。エルミアがついているなら、きっと大丈夫かな」
野良猫のように警戒の色を露わにしていた目は、今や穏やかなものへと変化していた。
テオはふにゃり、と子供のようにとろけた笑顔をこちらに向け、エルミアの手を取る。
エルミアは彼の変化に気づいていた。
――あ。呼び方が変わった。
それまでぶっきらぼうに呼ばれていた名前はファーストネームで、親しみを込め暖かい声色で語りかけられる。
不意に、開け放たれていた窓から優しい風が吹き付けた。ベージュ色の薄いカーテンが膨れ上がり、二人の間をふわふわと舞い上がる。
ぼんやりと差し込む夕日の赤は灯籠のようで、テオの身体を淡く照らす。陶磁器のような白い肌に、黄昏の金色はよく映えた。
エルミアが手に少し力を込めてみれば、テオからも反応があった。しかし決して握り潰さんとするものではなく、柔らかくふんわりと包み込むような程よい力加減。
敵対する者と寄り添いたい者。傷つけられた者と傷つけた者。いつか殺す者と、殺される者。
この日二人は、確かに心を通わせたのであった。