7話:テオの身の上話
「あ」
「げ」
今日分の講習を終了したエルミアは、教室に忘れ物をしてきたことに気がついた。
温室から教室まではやや距離がある。面倒に思えど、必要なものだからと自身に言い聞かせしぶしぶ重い腰を上げた。
その最中テオと遭遇したのであった。
なんの因果か再び廊下にて。しかし先ほどとは打って変わって、野次馬の類いは見受けられない。それどころか気配も感じない――つまり、この場には本当にエルミアとテオの二人きりなのであった。
何を思ったのかテオが素早く踵を返す。その顔にはややバツの悪そうな表情が浮かんでいたが、恐らく反省はしていないだろう。
周囲には誰もいない。つまり、彼とまともに話せるチャンスは今しかない。
エルミアは一瞬にして距離を詰めると、男性にしては細く堅い腕を掴み声をかけた。
「グレイシャ様、お待ちください!」
「何するの? 離せよ!」
「離さない!」
とても細身の身体からは想像できそうにないほど強い力で抵抗されるが、エルミアは諦めなかった。散歩に嫌がる犬を引っ張り動かすがごとく、一生懸命に踏ん張っては彼を逃がさない。
不毛な攻防の末、先に音を上げたのはテオの方だった。
「あぁあああもう何お前ッしつこいんだけどぉ!?」
「私、グレイシャ様に非礼を働いたと聞きました。どのようなことをしでかしたのか、教えてくださいませんか」
「なにそれ。そういうのって、お前が自分で思い出すものでしょう?」
ここぞとばかりに詰め寄るも、彼はなおも冷笑しながらはぐらかす。
やはりただで教えてくれそうにはない……か。
ならば核心を突くしかない。
エルミアは大きく息を吸って、肺いっぱいに空気を取り込んだ。そしてよく通る声で、ルペシャから聞いたあの言葉を告げる。
「では質問を変えますね。貴方の血筋に、何か関係がございますか?」
「ッ!」
テオの瞳孔が開き、そらされた目線の一瞬を見逃さない。
この反応、恐らく当たりだ。”エルミア”は、彼の血縁関係に関する何らかの地雷を踏み、そして嫌われた。
しかしここまで条件が出揃っておきながらも、その内容に全く見当がつかなかった。
秘密にしておきたかったテオの血筋。貴族学校に身を置くが、実は平民出身だとか。不義の相手との間に設けられた子供だったとか。はたまた、魔族との混血である、だとか。
思い当たる節がない、と考える合間に、テオの目尻にじんわりと涙が溜まっていく。
同時に抵抗力も弱まっていき、痕がつきそうな程に腕を握りしめているこちらが罪悪感を覚えそうになる。
「僕はっ……何も……」
「グレイシャ様。嘘泣きで逃げようとするのはおやめください」
「はぁっ!? 僕は逃げようとしてなんか」
「では、教えてくださいますよね?」
しかしエルミアは引き下がらなかった。
衆人環視の前で行われたあの出来事。彼は嘘泣きという卑劣なやり方で、あたかもエルミアを敵に仕立て上げてみせた。大方、今回も同じ手段で逃げおおせようとしていたのだろう。
実際のところほんの少し追求してみただけで、テオは激しく動揺した。甘えるような口調は攻撃的な激しいものへと変化し、涙は既に跡形もなく引っ込んでいる。立つ瀬がないのか、彼は徐々に視線をリノリウムの床へと下げた。
化けの皮は剥がされた。
さて、この先彼はどう出てくる?
「~ッえ、は……」
発せられた言葉にエルミアの片眉がかすかに跳ねた。しかし肝心の内容は小さく、聞き取ることができない。
無言で次なる動きを待っていれば、テオが突如として顔を上げた。首がちぎれんばかりの勢いで上げられたそこには、鬼のような形相が浮かんでいた。
こちらを鋭く睨み付ける目は血走り乾ききっている。白い肌は熱を持って興奮しているのかタコのように赤く茹で上がり、心なしか息遣いも荒い。
「お前は常に、僕より下でなきゃいけないんだよっ……!!」
「えっ?」
私が、グレイシャ様より下?
予想だにしない言葉に困惑していれば、彼はさらに口調を荒げエルミアを糾弾する。
「お前だって思ってるんだろなぁっ、僕がなにも出来ないって、ただの出来損ないだって、何やったってやらなくたって、すぅぐあいつと比べてさぁっ!」
「出来損ないって、何を仰ってるのですか? まるで意味がわかりません」
「嘘つけよっ! だってあの時、確かにお前はそう言っただろ!? 忘れたなんて――忘れたなんて絶対に言わせてやらない!!」
テオは既に半狂乱だ。彼はまるで親の仇を相手にしているかのごとく、怒り狂い暴れ散らす。
少なくとも私は彼のことを出来損ないと思ったことはない。自分より下だとか上だとか、何を以て比較しているのかはわからない。
けれど心が、我を失った男に届くはずがない。
「だからその目をやめろよ! そんな顔で見るなよ! お前が、お前ごときがっ、僕の上を行こうとするな!!」
「……グレイシャ様、失礼します」
「あぐっ」
エルミアは唐突に手刀を繰り出した。
目にも止まらぬ速さで背後を取り首元めがけて軽めに叩く。抵抗するまもなく、まともに食らったテオは白目を向き意識を失った。そのまま前方へと倒れこむ身体へ左腕を伸ばし、寸でのところで受け止めに成功する。
これ以上は聞いていられない、埒が明かないと踏んだ結果、一度大人しくしてもらうことにした。
手刀ごときで人は気絶しない。あれは演出上の話だと聞いたことがあったけれど、運良く上手くいったようだ。
次に目覚めたときは、少しでも落ち着いて対話が出来ることを願うほかない。
「……ぁ」
テオの口から小さな声が漏れる。
まずい、やっぱり失敗してるかもしれない。
その時はもう一度気絶してもらおう、と構えたところで、呻き声にも似た何かが耳に届く。
「僕だって――、好きで、ディランの従兄弟に産まれたわけじゃないのに……」
悪夢にうなされるかのような声色で、彼は確かにそう呟いた。
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「……ここは」
「お目覚めですか」
気絶したテオが目を覚ましたのは、あれから五分後のことだった。ゆっくりと上体を起こした彼は、ぼんやりとした眼で辺りを見渡す。
すぐ側で椅子に座りテオを見守っていたエルミアは、くりっとした大きな目が開かれるのを確認するなり声をかけた。
「本当は保健室まで連れて行きたかったのですが、私の力ではどうにもこうにも。ご容赦ください」
エルミアたちがいるのはすぐ近くの教室。テオが気絶した場所からそう遠くない。
ふかふかの柔らかいベッドの上で彼の目覚めを待つのが理想だったが、如何せんエルミアの華奢な身体では引きずることですら多大なる体力を必要とした。
これでは下の階にある保健室まで連れて行けない。そんなわけで、テオは堅い椅子を並べた上に転がしておく他なかったのである。
本当は光魔法を使えば移動すら容易かったと思うけれど。あれだけ酷いことをされたから、別にいいかとか私怨が勝ったわけではない。決して。
「退路は断たれた、ってわけかな」
ため息と共に吐き出されたその言葉に、彼は首をゆるゆると横に振った。それはまるで、自身の負けを認める動作にも見えた。
「……ねぇ。お前は両親がいなくて、兄弟姉妹もいないって聞いたけど」
しばしの沈黙が続いた後、テオは絞り出すように口にする。
「両親とは死別しています。孤児院の皆が兄弟のような存在、とも言えますけれど。血縁関係にある者は、既に」
とはいえ、”私”自身に孤児院で育った記憶はないに等しいのだが。
私はエルミアとして覚醒する前の、つまり前世の意識も持ち合わせていた。
けれどたったそれだけ。ごく普通の一般的な社会人として生きていたこと以外、ほとんど覚えていなかった。
両親は、兄弟は、祖父母はいたのか。大切な人はいたのか。彼らが今どうしているのか、そもそも本来の”私”はどうなったのか。こちらに来てから考えている余裕などなかった上、気にとめる必要もないと思っていた。
今でさえ彼らを気にかける言葉や思いが浮かばない辺り、私は存外薄情だったらしい。
「じゃあ、その兄弟と常に比較されていた経験は?」
「ございません」
「……普通はそうだよね」
テオの喉奥から、ふふ、と自嘲的な笑みが漏れ出す。
その態度から、口調から、テオの言わんとしていることをなんとなく察してしまった。
彼はずっと誰かと比較され育ってきたのだろう。幼い頃から今に至るまでの生涯を。自分より、遙かに優秀な存在と己で何もかもを。
結果、テオは壊れてしまった。
自分は何をしてもダメだ、価値がない、出来損ないである、と刷り込まれ続けて。
「身内が……それも完全無欠な存在が側にいるっていうのもね、結構辛いんだよ……」
「その身内というのが、殿下というわけですね」
「ディラン。ディラン=スコット。お前もしつこくつきまとっていたから、知らないわけないよね」
返事はしなかった。エルミアにそんな記憶や知識はないために、確定できない事項はできるだけ曖昧にしておきたかった。
ルペシャから聞いていた”殿下”の存在。彼女の婚約者にして、将来国を治めていくであろう男の名はディランというらしい。
先の呟きから推察するに、テオとディランは従兄弟の関係。
目の前で全てを諦めたように虚空を見つめるには、確かに王族の血が流れている。
ということはテオにだってあるはずだ。ゆくゆくは誰が頂点に立つのか、それを決めるための順番が。
「失礼ですが、王位継承権は?」
「まだあるんじゃないかな。けれど実質、放棄しているようなものだよ。元々要らなかったし」
テオの継承権は、万が一ディランが失脚した際にと保留になっているらしい。他の兄弟たちが幼いが故に、第二位とエルミアが考えているよりもずっと上位にあった。
「お母さんもそこまで権威に執着する人じゃなかったしね。……僕が嫌だって言ったら、そうなのね、って笑った。……ただ、それだけ」
陛下了承の下彼は王族を抜け、伯爵としての地位を授かった。そこからは母と二人、ひっそり暮らしていたのだという。
新しくスタートさせた人生において己の出自を知る者と出会うことはなかった。故にディランと比較されることもなく、テオはどこにでもいる普通の男の子として生きてきた。
この学校でも彼の正体を知る者は三名のみ。ディランと彼の従者、そしてルペシャ。
「ずっと隠してきた、僕とディランのこと。”グレイシャ”なんてありふれた家名。伯爵家だし、バレるなんてことはそうそうないと思っていた。そう、思っていたのに……」
テオの手足が大げさなくらい震える。
自らの奥底に眠るトラウマを引きずり出すように。腹の底から絞り出すように、彼は言った。
「アルネスト、お前が僕に会うなり言ったんだ――」
『まさか貴方が”あの”殿下の血縁ですってね? こんな出来損ないに王族の血が流れているなんて、ありえないわ!』
「ってね……。どうだよ、人のトラウマを抉った感想はさ?」
「……う」
そ。
言葉は音にならなかった。
でなければ、何故エルミアがここまで嫌われているかに説明がつかない。
異様と言えるほどの殺意を向けられていたことも、皆の前で悪役に仕立てあげられたのも。ひそひそと陰口を叩かれることだって、何故ここまでの仕打ちをされなければならない、と思っていた。
それは全て、”エルミア”が悪魔のような所業を彼に対し行ってきたから――。
「やっと地獄みたいな場所から抜け出せたって思ったのに。お前が……お前が、余計なことを言うから、僕は……!」
今にも本当に泣き出してしまいそうな、悲痛な叫びを――、エルミアはただ黙って聞いていることしかできなかった。