6話:視線
森に彷徨う魔物を退けてから、数日が経過していた。
相変わらずエルミアに対する周囲からの評判は悪い。
そこに立っているだけで避けられる、嗤われる、後ろ指を指されることは日常茶飯事。果たして本当に悪評を改善することなど可能なのだろうか。
ここらで、聖女として実績を上げたことをアピールしてもよいのではと考えた。
しかしテオが「本当にいるとは思わなかった」と発言していた辺り、噂は噂にすぎなかったのであろう。口にしたところで、またエルミアの評判が悪くなる。じゃあ却下。
聖女に虚言癖なんてレッテルが追加されてしまったら、たまったものではない。
けれども一つだけ、確実に変化は起きていた。
あれ以降、テオとアンドリューが絡んでこないのである。
全くと言っていいほど話しかけてこないので、からかわれたり馬鹿にされることもなくなった。
約束通り私を認めてくれたのであろうか。
しかし判断するにはまだ早い。彼らがエルミアを見つめる目線は、まだどこか冷たく鋭利なものであるからだ。
刃物のように鋭く、禍々しさを感じる視線。
それこそが、この頃テオから感じる眼差しの正体であった。
誰かに見られている気がする。
殺気にも似た気配を感じ取り、反射的に振り返る。そうした視線の延長線上には、いつだってテオがこちらを見ている。
小動物のように愛くるしい容姿からは連想できないほどに顔を歪めるものだから、何度見ても驚いてしまうことは許してほしい。その表情と言ったら、まるで般若のそれである。
彼はエルミアを非常に嫌悪する人間のうち一人。恨みつらみを抱くことだって理解できる。
しかし、四六時中殺意を向けられているとなれば話は別だ。初めこそすれ気にしないフリを続けていたけれども、こちらにも限度というものはある。
「グレイシャ様」
いよいよ我慢できなくなったエルミアは、直接テオを問いただしてみることにした。
それも学校の廊下という、あえて公衆の面前で。
本来ならば一対一で行うのが筋であろうが、今のエルミアへ何を仕掛けてくるか予測できない。しかし、こうも他者の目があるようでは、そうそう手を出してくることはないと踏んでいる。
彼が暴力を振るってきたことはないが、念には念を。
授業と授業の合間、音楽室へ向かう移動時間を狙い声をかける。
呼び止められたテオはこちらを振り返る。しかしその顔には、あからさまに不満が浮かび上がっていた。
「この頃、なにかおかしくないですか?」
「そーぉ? だったとしても、お前に心配される筋合いはないけどね」
「私が偉そうに言える立場ではないですが、悩みがあるなら聞くくらいはできますから――」
「は? 黙ってくれない?」
声色の変化に思わず心臓が跳ねた。甘えるような舌っ足らずの声は、突然冷徹にして鋭利なものへと変貌を遂げる。
テオはわざとらしく大きなため息をついた。やれやれ、と言った様子で首を横に振っては鼻で笑う。
「そうやって改心したふりして、どうせお前だってあいつらみたいに僕のこと下に見てるんでしょ?」
「何の話ですか?」
「忘れちゃったのぉ? じゃあ思い出させてあげよっか。お前、ルペシャ様に色々教わり始めたでしょ?」
「……はい」
「それを即刻中止してさ、今までの無能なアルネストに戻ってほしいなぁ」
「お生憎ですが、それは出来かねます」
大きな瞳を潤ませ上目遣いにこちらを見やる姿は、まるで愛玩動物のような訴求力を有している。
愛くるしい表情を向けられた者は思わず心を鷲掴みにされ、例えどんな内容であろうと首を縦に振ってしまうだろう。
しかしエルミアは間髪入れずに、至極丁寧にお断りした。
これは私が生き残る上で必要なこと。誰がなんと言おうが、今更決意を曲げなどしない。
一方で、いまいち会話の意図が読めそうになかった。
何もしない以前の私に戻ることで、彼に一体何の得があるというのだろうか。
エルミアの提案を飲めないことに怒りを覚えたであろう、テオの顔からだんだんと表情が抜け落ちていく。そしてあからさまに舌打ちをした。
「……やっぱりそうだよね。結局そう言ったって、お前はお前のままだ」
地を這うほどに低い声で呟くなり、テオはその場にかがみ込んだ。自身の身体を抱き込むようにして、甲高く周囲にもよく通る声で悲鳴を上げる。
「――やめてください聖女サマっ! 僕、何も悪いことしてませんっ!」
「え!?」
この人は突然何を言い出すのか。
当然のことながらエルミアは何もしていない。そう、何もしていないはずなのだ。
それなのに彼はさも自身が被害者のように振る舞い始めた。両目にはうっすらと涙を浮かべ、小刻みにカタカタと震えながら。
「アルネストぉおっ!」
怒声を上げながら廊下を走り抜けてくるのはアンドリューだった。一番端から一番端まで実によく通る雄叫びは、一言一句余さず聞き取れるよう。
彼はうずくまるテオを庇うように立ち塞がった。憤怒に彩られ、エルミアに明らかな敵意が向けられる。
「またテオをいじめてるのかよ!」
「違います、そっちが勝手に泣き始めただけで……!」
エルミアは必死に弁明を試みる。しかし、いつの間にやら周囲が騒がしいことに気づき、口を噤む。
ひそひそと交わされる密談の中には、明らかにエルミアへの罵声が混じっていた。
見渡せば、向けられるているのは蔑みの目。いつの間にかエルミアは、テオといういたいけな男子生徒を泣かせた人間として見られている。
テオはアンドリューの手をとり、ふらふらと力なく立ち上がる。そんな茶番劇の主犯格は、してやったり、とでも言いたげに口角がつりあがっていた。
「ふふっ、すっかり悪者扱いだね。これしきの手に引っかかるなんて、お前の信用はそれほどってことだよっ」
――やられた。
まさか、衆人環視の条件を逆手に取られるとは。
テオはなおもあくどい笑みを浮かべ、エルミアに追い打ちをかける。
「お前があの時僕になんて言ったのか、絶対に忘れてあげないからね~?」
どうやらエルミアが聞いたことは、彼にとって禁忌だったらしい。
しかしテオのことをよく知らない身としては、疑問を抱かざるを得ない点がいくつもある。その中でも、特に気になったのが――。
……あいつらって、誰のこと?
問おうにも肝心の本人はアンドリューに連れ去られてしまった。このまま追いかけてもいいのだが、きっと厄介な付き人がそれを阻んでくるに違いない。
つまり今の私に出来ることは、何もない。
思わずその場に立ち尽くす。
それでもなお右から左へと抜けていくのは、知らぬ人間から贈られる自身への誹謗中傷に罵詈雑言。
エルミアは唇が切れてしまいそうなほどに、強い力で噛み締めることしかできなかった。
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「”あいつら……”確かに、テオ様はそう仰ったのですね」
「そうなんです」
学校の施設、温室にて。
様々な植物が栽培される緑豊かなこの場所には、テーブルと椅子が併設されていた。
白を基調とした高級感あふれるそれらは、生徒たちがアフタヌーンティーを楽しむ場の一つとしても高い人気を誇っている。
本日の科目はテーブルマナー。その最中、ルペシャに絶賛相談を持ちかけていた。
事前におなじみの二人にも聞いてみたのだが、彼をよく知らないらしく、答えらしい答えは返ってこなかった。
「やはりあのことは、今もテオ様の心に……。事情はよくわかりました」
彼女は優雅な動作でティーカップを口につけるなり、そう言った。
エルミアたちの目の前にはスコーンやマカロン、小さく切り分けられたケーキが色とりどり、さらには薫り高い茶葉から淹れられた紅茶が並んでいる。
今すぐにでも手を伸ばして胃を満たしたい。舌先が歓喜してやまない極上の甘みを堪能したい。周囲の目など気にせず、心ゆくまで味わいたい。
しかしそうも行かないのが貴族社会というもの。
故にエルミアは、「待て」をされた犬のようにお預けを食らっているのだった。
ただお茶菓子を頂くだけでも礼儀が必要だなんて、貴族の世界は生きにくいと言ったらありゃしない。
対するルペシャは甘味にさほど関心がないのか、先ほどから積極的に手をつけようとはしない。
それとも、これもマナーの一環だとでも?
エルミアは脳内を疑問符で埋め尽くしながら、ルペシャを見つめる。彼女は特に気に留める様子もなく、それどころかさらりと衝撃の事実を口にした。
「彼は殿下の親戚ですからね。エルミアに言われた一言が、ずっと忘れられないでいるのでしょう」
「へ? ……ルペシャ様、もう一度よろしいですか」
「あなたの言葉が忘れられないと」
「その前です」
「殿下の親戚、ですか?」
「え? ……え!?」
自分の耳を疑った。
聞き間違い? ……誰が誰の親戚だって?
あの男が、将来この国を背負い率いていく人間と血縁関係にあるだなんて。
そんな、目を閉じると目の前が真っ暗になるよ、みたいな感覚で言うことじゃないと思うけど!?
予想だにしない言葉に、口をあんぐりと開け硬直する。
「はしたないですわよ」
「もも、申し訳ございません」
「まさかとは思いますが、ご存じなかったんですの?」
初耳だ。何せ私はこのゲームを遊んだことがない。
その殿下とも、私が転生してから接点は全くないので、どんな人物かも計り知れない。けれどきっと、尊大でそれ相応の実力を有する人間であることは間違いない。
あのちょこまかと動き回る毒舌家が、そのような人物と親戚だとは世も末ではないか。
「周囲の人間について知っておくことは大事です。特にあなたのように、”聖女”として人の上に立つであろう機会が訪れるならば、なおのこと」
「き、肝に銘じておきます~……」
思わぬ角度から指摘をされたことにより、罰が悪くなり苦笑いを浮かべる。
流石王太子妃として将来を期待されているだけある人だ。さも当然のように言い放った彼女の頭にはきっと、この学校の生徒から先生、そして用務員の方々の顔や名前までもが記憶されていることであろう。
「ちなみに私、グレイシャ様になんて言ったんでしょうかね……?」
「本人の口から聞いてみるのが一番かと思われます」
「それが出来てたら、苦労してないんですけれどね~……」
「あなたなら、きっと出来ると思いますわ。何せ、わたくしに貴族としての礼節を教授するよう乞うた大胆なお方ですから」
「……その節は大変申し訳ないと思い」
「謝罪をする余裕があるならば、集中なさいませ。ティーカップを両手で持つことは、あまり推奨された行為ではありませんわ」
「は、はいっ」
両手で抱え込むようにしていたカップから慌てて片手を離し、細いハンドルをつまむようにして支え持つ。
言われてから気づいたけれど、以前も同じようなことを教わったような記憶がある。
覚えることがたくさんあるせいか、一つ身につけたと思えば、また一つ抜け落ちてしまう。この頃はずっとその繰り返しだった。
それでもルペシャは途中放棄することなく、根気よく付き合ってくれるのだが――。
だからエルミアは、彼女にも気づかれないよう小さくため息をついた。
やっぱり、マナーってめんどくさい。