20話:何も知らない分際で
魔王よりも魔王。それでいて悪魔のような男、ディランとの対面を果たした日の放課後。
「平民上がりのドブネズミのこと。最近どうにも、マーフィー伯爵令息方と仲がよろしいともっぱらの噂ですが、ご存じで?」
「ええ、それはそれはとてもよく。一体どういう風の吹き回しなのかしらね」
エルミアは中庭で自分の陰口を耳にしていた。
知らぬ男子生徒に絡まれたかと思えば、ディランと腹の底を読ませぬ探り合いを展開する。
教室に戻り、リアムとチェルシーの顔を見るなり緊張の糸がほぐれ机に突っ伏した。どっと疲労が押し寄せる中受けた午後の授業。おかげさまで、先生のありがたい言葉が何一つとして頭に入らなかったものだ。
とにもかくも気持ちを切り替えて、ルペシャの授業に臨もうとしたところでこの仕打ちである。
ねえもしかして、今日は厄日なんじゃないのこれ。
エルミアは細い木の陰からこっそり顔を出し、不愉快なノイズの発信源を探った。
声からして、話しているのは二人の女子生徒らしい。エルミアはその不愉快な面を拝んでやろうと、目を凝らしその正体を暴かんとする。
彼女らの顔を認識したとき、思わず声を上げそうになった。
忘れもしない。あの二人は、停学明けの朝こちらを指さし笑っていた人たちだ。
あのとき浴びせられた暴言たちはあまりにも強烈で、今でも一言一句記憶しているほどである。
彼女たちは渦中の人物がすぐ側にいることすら気づかずに、大きな声で悪評を連ねていく。
口調こそお上品なものの、内容は信じられないほどに下品で醜悪なものであった。
あたかもカラスに漁られた後散らばったゴミのように汚く、聞くに堪えない言葉たち。
それらは見えない凶器となって、エルミアの心に鋭く刃を突き立てていく。
一言一言、そしてまた一言。
脳を通り抜けていくたび全身から血の気が引き、背筋が凍り付き、心臓が見えない何かに握り潰されるような感覚さえ覚える。
……今更悪口に傷つくだなんて、とうに慣れきってしまったはずだと思ったんだけどな。
これ以上耳に入れるのは精神衛生上よろしくない。すべて聞かなかったことにして、忘れて、一刻も早くルペシャの元へ向かおう。
意思に反してガタガタと震える足で、エルミアはなんとか一歩を踏み出し温室を目指そうとした。
「シュナイデン公爵令嬢も物好きですわ。あんなのを相手にされるだなんて」
「相手にされると言えば、聞きました? ディラン王太子殿下との仲もよろしくないんですって」
しかし次なる悪口の標的に、エルミアは自分の耳を疑った。目を大きく見開いて、逃げだそうとしていた両足も自然と歩みを止める。
……何故ここで、彼女の話になったのか。
「それはそうでしょう。公爵令嬢といえど、真に尊敬されているのは彼女のお父様ですから。あんな名声だけの女、誰にも見向きはされないでしょう」
「性格もアレですしね……。高慢ちきで上から目線、自分に厳しいのは結構ですが、それを私たちに押しつけるのはやめていただきたいものですわ~」
私の悪評を連ねるのはまだ理解できる。
事実、転生前のエルミアはそれだけのことをしでかしていた。こうして噂されている以上、好感度上昇にはまだまだ長い道のりであることを嫌でも痛感させられる。
しかし、ルペシャの名前が出るのはお門違いも甚だしい。彼女は、路頭に迷っていたエルミアを救い上げてくれた女神とも言える存在である。感謝してもしきれず、頭を上げることはおろか足を向けて寝ることすらできないというのに。
そんなエルミアの心中など露知らず、女子生徒たちはルペシャに対し事実無根の罵詈雑言ばかりを並べていく。
悲嘆に暮れていた心は、いつの間にか燃えさかるような怒りに包まれていた。
奥歯を強く食いしばり、強く拳を握る。皮膚に爪が食い込んで、血が滲み出そうなほどの勢いであるにも関わらず不思議と痛みは感じない。それほどまでに、エルミアは義憤に駆られていた。
なにもしないつもりだった。余計なことはしないと決めていた。
けれど――ルペシャの悪口を言うのはどうにも我慢ならない。
「失礼を承知で申し上げますわ、お嬢様方」
「エルミア=アルネスト……!?」
木の葉を揺らし、わざとらしく大きな音を立てエルミアは姿を現した。
彼女たちは大げさなくらい身体を震わせると、揃って信じられないようなものを見るような視線を向ける。
まさか本人がこんなにも近くにいるだなんて、微塵も思っていなかったのであろう。
この光景前にもどこかで見たことあるな、と、エルミアは脳裏にレモン色と赤色の男たちを思い浮かべた。
目の前の令嬢たちは慌てふためいたものの、相手がエルミアと分かるや否や臨戦態勢へ入った。泳いでいた視線は一瞬にして鋭いものへと変化し、あからさまにこちらを見下すような卑しさを含んだ目線になる。
「貴方、あのシュナイデン公爵令嬢から一体何を学んでらっしゃいますの? 貴方のような下賊の者から私に話しかけてはいけないのよ。まして、私は子爵令嬢。平民上がりのドブネズミとは格が違うの!」
「ええ。ですが、こればっかりはどうにも我慢なりませんので」
エルミアも負けじと彼女らを睨み返す。あくまで冷静に対話を試みようと、できるだけ落ち着いた声で自身の主張を並べ立てた。
「貴方がたはルペシャ様の何をご存じですの。厳しすぎるがゆえ、心ない発言に思えるかもしれません。けれど、きちんと他者のことを考えた上で発言をしております」
「……ッ知らないわよ。だって彼女、いつだってお高くまとまって、近寄ることすらままならないじゃない?」
「そうでしょうね。貴方たちは遠巻きに見ているだけ、外面だけでルペシャ様のあれこれと騒ぎ立てている。一度お話をされてはいかがですか。内面は、普通の女の子と大差ないことがお分かりいただけるでしょう」
「けれども、ディラン王太子殿下との関係が冷え切っているのは事実ではありませんか。そこに関しては、どう説明するおつもりで?」
「例えそれが事実だとしても、これから変わればいいだけのことです。今の私のように」
「できるのですかぁ? あのプライドの高い女に?」
「未来のことに関しては、誰も予測は不可能ですから」
「エルミア=アルネスト! 大人しく聞いていれば、平民ごときが偉そうな口を――」
「じゃあ! ルペシャ様のこと、知りもしないくせに適当なこと言わないでくださいよ!」
いよいよ我慢ならなかったエルミアは、ついぞ声を荒げる。
ルペシャは言動こそ厳しいものの、それは相手を思ってのこと。ゆえに彼女の口から口汚く罵るような言葉は、一切聞いたことがない。
責任感が強く、真面目で自身に課せられた任務は必ずやり通す。親の威光に甘んじることなく、己にできることを成し功績を重ねる。本当は甘いものが好きだけど、とある理由から自制をしている。
笑って、照れて、喜んで――。
公爵家令嬢、王太子殿下の正式な婚約者にして未来の王妃。
肩書きこそ重苦しいものの、内面はどこにでもいる普通の女の子なのだ。
そんな彼女を碌に知ろうともせず、ぎゃあぎゃあ騒ぎ立てるだなんて絶対に許せない。あまつさえ、エルミアの話を『平民』の一言で片付け聞こうともしないだなんて。
「知る気概もないくせに……、罵倒だけは一丁前の貴方たちに何がわかるんですか!」
「……なにも暴言を吐かなくとも。はしたないですわ」
「もういいですわ。行きましょう」
息を荒げ抗議を続けるエルミアに対し、二人は揃って冷ややかな目線を向けた。彼女たちは興醒め、と言った様子で吐き捨てその場を後にする。
彼女たちの消えゆく背中を見つめながら、エルミアは下まぶたを軽く引っ張り、舌を突き出した。俗に言う「あっかんべー」である。
「はしたないのはどっちよ!」
届くことがないと分かっていたからこそ、大きな声でそっくりそのままお返しした。ついでにベロベロベロ、と舌を左右に動かし煽りを加速させる。
彼女たちのことは早々に諦めることにした。あんな人たちに、ルペシャの魅力など一生理解できまい。
ならば無理に分からずとも結構。将来的に彼女が王妃となったとき、自身の見る目のなさや浅ましさを歯ぎしりと共に後悔すればよいのだ。
「……あなた」
彼女らへの呪詛を頭で唱えるエルミアの耳へ、呆けたような声が届く。それは誰からも見捨てられ腐りきった場所に、たった一輪咲いた可憐な花のような美しい音色だった。
エルミアは声のする方向を振り返ると、驚きのあまり大きく飛び上がった。
「あ、えっ、る、ルペシャ様!?」
「そんなに驚くことですの?」
素っ頓狂な叫びと共に彼女の名前を口にする。
そこに立っていたのは今まさに話題となっていた人物、ルペシャその人であった。
エルミアは姿勢を正し、彼女の目を直視する……が、すぐにそらしてしまう。銀鉱石のように一点の曇りもなく正義に輝く瞳を射貫くには、今のエルミアはあまりにやましいことが多すぎる。
「エルミア。どうしてわたくしを庇い立てる真似を致しましたの」
そんな態度へ深く追求することはせず、ルペシャは真っ直ぐに質問をぶつけてきた。どうやら女子生徒たちとの一連のやりとりを、余すことなく見られていたらしい。
誠意には誠意を。エルミアは深く考えることはせず、己の気持ちをストレートに伝える。
「ルペシャ様に飛び火したのが許せなかったのです。お言葉ですが、彼女たちが貴方と会話をしている場面を一度たりとも目撃したことがありません。きっと憶測でものを言ってるのでしょう。であれば、あのようないわれは到底納得できません」
「……そう。腑抜け聖女ごときが、わたくしに意見するとは」
「申し訳ございません。出過ぎた真似とは重々承知の上です。如何様な罰もお受けいたします……あっでも、あんまり厳しいのはちょっと……」
「いいえ。あなたも成長したのですね」
「…………えっ?」
「以前は己の意見一つとして言えないあなたに、腹を立てていましたの」
「腹を、……え?」
「あくまで一例であり、挙げ始めたらキリがありませんが。けれど見直しましたわ。あなた、本当に変わろうとしているのですね」
「……そ、れは」
「しかしエルミア、本当にわたくしの教育が行き届いておりますの? わたくしがいないところでは、随分と違う態度になりますのね」
「そ……っそれは、メリハリってやつですよ! ずっと肩肘張ってるのも、あまりよくないので、あは、あははははは……」
「言い訳無用ですわ」
「あぴゃっ」
ルペシャの細く白い指が、エルミアの額で小さく弾けた。容赦のないデコピンは存外威力が強く、じんわりとした痛みが広がった。
なんて無慈悲な、と悲しみながらエルミアは患部をゆっくりさする。そんな姿を見て、ルペシャは腕を組みながら鼻を鳴らした。夕日に当てられ優しい煌めきを放つ銀髪がふわりと揺れ、麗しい相貌は悪巧みをするかのように歪められる。
「全く。あれだけ教え込んだというのに、また一からやり直す必要がありそうですわね? わたくしとて、暇ではないことは初めにお伝えしましたのに」
「え……っじょ、冗談ですよね!?」
「さあ、どうでしょうかね」
クスクスと柔らかな笑い声を含みながら放たれた言葉。しかしルペシャが言うと、冗談に聞こえないのである。
エルミアはあの地獄のような日々を思い出し、文字通り頭を抱えその場にうずくまった。
昔に比べたらずいぶん上達した自覚はある。きっと当初に彼女が提示してきた目標は優に達成できるであろう。
それでも……それだとしても、過酷な毎日に逆戻りするのだけはどうにか勘弁願いたい。
「……あのような言い方になってしまいましたが、あなたをずっと目にかけていたこと、間違いではなかったようですわね」
「ルペシャ様、何かおっしゃいましたか?」
「いえ、何も。早く行きましょう。わたくしに用事だったのでしょう? であれば、一分一秒が惜しいです」
ルペシャが何かを呟いたような気がして、エルミアは素早く顔を上げた。しかし彼女はいつもの鉄仮面を被り直すと、優雅な足取りで先を急ぐ。
しばらく呆けていたエルミアだったが、慌てて立ち上がると、置いていかれないようにと必死にその後を追いかける。
その最中、エルミアはずっと考えていた。
気のせいだろうか。ルペシャの表情がいつもより穏やかなのは。
そして、普段よりぐっと距離が近づいたような気がするのは。
そうだったらいいな、と願いを込めて、今日も放課後の授業に打ち込んだ。
パソコンの故障と私の体調不良が重なって、更新が大分遅くなってしまいました。
次回以降も無理のないペースで投稿いたします。
どうぞ、よろしくお願いいたします。




