2話:ヒロインの罪と私の決意
仮病で一限目を欠席し、校舎裏にて頭を悩ませる。
エルミアの記憶によれば、ここはさして人通りの少ないところ。それでいて日当たり良好という最高のスポットなので、彼女も時折ここへ来ていたようだった。
授業中ということもあってか、今は誰もいない。というわけで遠慮なく居座らせてもらうことにした。
ろくに手入れもされていないせいか、雑草が伸びに伸びまくった花壇の縁へと腰掛ける。レンガ造りのひんやりとした感触をスカート越しに感じながら、一人状況を整理するべく頭を回した。
学校へ来て初めに抱いた違和感の正体。エルミアは周囲から嫌われまくっている――それも尋常じゃないほどに。
私自身この乙女ゲームをプレイしたことはない。なんなら乙女ゲーなんてジャンル自体触れたことがないので、持っているのはよく知れた浅い知識程度。
攻略対象と結ばれるハッピーエンドがあって、彼ら全員と親睦を最大限に深めたハーレムエンドがある。恋愛にはあと一歩届かなかったけれど、深い絆で結ばれた友情エンドも存在するって聞いたことがあった。
それ故どうすればいいのか、なんてよくわかっていなかったのが実情。
だからこそ浅く緩く、適当かついい感じに生きていければいいと思っていたんだけれど……。
古傷のようにズキズキと痛むこめかみを押さえながら、最悪のルートについて思い起こす。
このゲームにはバッドエンドが存在した。己の分身たりうる『主人公死亡』という、プレイヤーにとって実に胸くそ悪い終わり方が。
そこに至るまでの詳しい経緯は忘れてしまったけれど、確かに存在した。
この顔が、エルミアが、ヒロインが皆によって殺される姿を。たったの数回だけれども、以前の私はそれを目にしたことがある。
前言撤回。ヒロインに転生したからと言って、幸せが保証されているとは限らない。なんなら、夢ならば早く覚めてほしいとまで思える。
ていうか、一体何やらかしたらこんなにも嫌われることになるの?
よっぽど暴れ回ったとか皆のプライドを傷つけるようなことをしなければ、そうそう嫌われるなんてことはないと思うのだけれども……。
私が”エルミア”として継承された記憶はごくわずか。
人物の名前や日常生活に必要な知識。それ以外の人間関係や世界情勢といった肝心な部分は、まるで誰かの手によって意図的に削除されてしまったかのように思い出せない。
スマホなんて便利な文明はこの世界に存在しない。
その上書き物も手元になかった。
仕方がないので、脳内に攻略対象と思わしき人物をリストアップしてみる。
まず、エルミアの幼なじみであるリアム=ハグリット。
今朝の態度を見るに彼から嫌われていることはなさそうだけども、用心するに越したことはない。人間、心の奥底では何を考えているのか分からないのだから。
今朝やたらと絡んできたレモン色と赤色の彼らも対象なのだろうか。そういえば、二人はよく一緒にいるイラストを見た気がする。
レモン色がテオ=グレイシャ、赤色の方をアンドリュー=マーフィー。彼らは確実にこちらを下に見ていた。嫌われているのは火を見るより明らかである。
それから、将来的にこの国を担う人物である――。
「――未来の聖女ともあろうお方が、白昼堂々遊び呆けるなどと。この国の将来も、暗澹たるものですわね」
灰色の地面を見つめながら、考え込むエルミアの視界に影が差した。
ゆっくり顔を上げれば、銀髪をたなびかせる人形のように容姿端麗な女性がこちらを見下ろしていた。
胸下まで伸びた絹糸のように柔らかい髪の毛は、ふわふわと優雅に波打つ。
つり上がった目尻に鉱石のごとく輝くプラチナの双眸。
制服は校則に従いきっちり着込まれており、彼女の几帳面さがうかがえる。
誰もが見入ってしまいそうなほどに美しい女性は、しかしバラの棘のように鋭く、うっかり触れてしまおうならばこちらが傷つきかねない――。
彼女の名前は確か……ルペシャ。ルペシャ=フォウ=シュナイデン。
公爵令嬢にして王太子殿下の婚約者。つまり未来の王妃様とも言える偉大なる方である。
どうして人がここに?
エルミアの細い腕にはまった腕時計へ目をやれば、時刻はお昼時を指していた。どうやら思考に耽るあまり、時を忘れていたらしい。
「……シュナイデン公爵令嬢」
反射的にこぼれ出た言葉に、彼女の片眉が微かに震えたのを見逃さなかった。一瞬にしてルペシャの放つプレッシャーが大きくなるのを感じ取る。
圧に当てられ悲鳴を上げそうになるものの、唾ごと自分の中へ飲み込んだ。
あれだけ周囲に嫌われているのだから、ルペシャがこのような態度でいることも当然と言える。
だからこそ、私が今ここでやるべきことは……謝罪。
ただの自己満足に過ぎない行為だけれど、何もしないよりは幾分かマシだと思いたい。
エルミアは弾かれたように立ち上がる。それでもまだ少し目線の高い彼女に対し、ゆっくり頭を下げた。身体の角度が九十度になるよう意識した、誠心誠意の平謝りである。
「貴方様に働いてきた非礼の数々、心よりお詫び申し上げます。もう今後一切、このようなことはしないと神に誓います」
「そうですか。あなたの信仰する神とやらは、ずいぶんと安っぽいのですね」
あ、これ、信用されてない。
実に平淡な返事から即座に感じ取った。
ルペシャの汚れ一つないつま先を見つめたままでいれば、彼女は追い打ちと言わんばかりに言葉を重ねる。
「……貴族として最低限の作法も身についていなければ、至る所に現れては問題ばかりを起こし回る。婚約者でもない男性に近づいては、はしたなく取り入る無礼者。それでいて何もしない、”聖女”とは名ばかりの置物のような存在。そのような存在を相手にすることは、時間の無駄だと思いませんか」
――ああ、そういうことだったのか。
きっとこれが答え。私の求めてやまなかった、どうして嫌われているのかに対する、この上ない完璧な模範解答。
”エルミア”はきっと、今までに聖女らしいことを何一つだってしてこなかった。
それでいて問題の起点にはいつだって彼女がいて、皆に迷惑をかけてまわるトラブルメーカー。
生きる上で必要な礼儀も習得していない。既に将来を共にすると約束する相手がいるにも関わらず、だらしなく誘惑して回る。
返す言葉もないとはまさにことのこと。
話の全てを嘘偽りないと判断するのであれば、ルペシャの言い分は正しい。
そのような人間、むしろ周りから嫌われて当然だったのだ。
私だって恐らく、煙たがって相手にしたくないし関わりたくないとさえ思える。
……これが真相。これが、嫌われている理由。
導き出せた解はあまりにも残酷で、既に傷ついた己の心をさらに抉った。
ぱっくり開いた傷口に、塩を塗り込まれているかのような感覚。
じんわりと目頭が熱くなっていくのを知らないふりしながら、指先をわずかにスカートへ食い込ませる。
そして、静かに彼女に同意した。
「……おっしゃる通りです」
「ゆえに、わたくしに謝罪など結構。心を入れ替えたのならば行動に移してはいかがでしょうか。最もわたくしは何度もご忠告差し上げてるので、あなたはこの話も聞き入れないかと思いますが」
小言を耳にした瞬間、頭に閃きが走った。
自身が変わるのに必要なこと。それは態度の変化で示すことに他ならない。
課題が明確になった今、やることはなんとなく浮かんでいる。
「シュナイデン公爵令嬢。折り入ってご相談があります。私を、貴方の手で立派な淑女に育てあげてくださいませんか」
「……ふざけているわけではないのですね?」
エルミアは表情を変えることなく、静かに頷いた。
それは自分でも驚くほどに、口からすらすらと出てきた言葉。
何故自身を嫌う者に教えを乞うたのかはわからないけれど、マナーを学ぶならこの人しかいないと、そう思ったのだ。
断られたら……そこは自分でなんとかするしかない。
「どういう風の吹き回しかはわかりかねますが、ここは学び舎。向上の意思があるならば、学ぶ権利は平等にあるべきですわ。もっとも、わたくしは教師ではございませんけれど」
「え? よろしいんですか!?」
「あくまでも、このままではあなたが学園の恥になるから、と判断したまでですわ。決してあなた個人に特別、思い入れがあるといった話ではございません」
「で、ですよね……」
「ただし、わたくしも暇ではありません。故に条件を提示させていただきます」
ルペシャはすらっとした長い指を二本立て、エルミアの眼前に突きつけてきた。
「二週間。この期間にわたくしの要求するレベルに到達しなければ、二度目はありません」
タダより怖いものはない。前世にもそんな言葉があった。
ルペシャがどれだけの質を求めてくるのか、そもそも貴族社会におけるマナーすら未知数な今、この数字は無理難題という他ないだろう。
これは最後通牒。
エルミアに与えられた、最初で最後のチャンス。
失敗すれば後はない。
故に、どんな内容であろうが受け入れるほかない。
誠意と覚悟を見せるように、エルミアはゆっくりと頭を下げた。
「……ご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願いいたします」
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変わると宣言したからには、午後の授業はしっかり聞いておかなければ。
昼休みが終わるギリギリに教室へ戻れば、チェルシーとリアムが体調を心配して駆け寄ってくれた。
朝までは健康体そのものであったが、今ばかりは胃がキリキリと痛むようだった。
よほどルペシャとの対面が、与えられた真実が堪えたのであろう。ほんの仮病のつもりだったのに。これぞまさしく瓢箪から駒。
二人には大丈夫と誤魔化すことにして、校舎裏での出来事を伝えたところ――。
「……えっ!? ルペシャに弟子入りすることにしたの!?」
「チェルシー、声が大きい。もう少し抑えめに」
「ひゃ、ご、ごめん」
「エルミアちゃんが……? 本当に……?」
「あの……そんなに驚くことかな?」
この有様であった。
質問を投げかけたところ、彼らは揃って首をこくこく縦に振る。
全く以て心外である。二人して私をなんだと思っているのさ。もしかして、全く信用されていないとか?
なんて、あと少しで外側へ零れ出そうな不満をなんとか内側に押しとどめる。
「でも、エルミアには必要ないと思うよ? 今のままでも十分魅力的だし、私は今のエルミアだって大好きだもん!」
「チェルシーの言うとおりだよ。僕たちは、君にこれ以上辛い思いをしてほしくない」
「だってルペシャって、あのルペシャでしょ!? エルミアに付きまとって、ずーっと嫌味ったらしく小言を言ってくるやつ!」
「それにさ、相手はわざわざ”あの”シュナイデン公爵令嬢じゃなくても、いいんじゃないかな」
ルペシャは他人にも、そして己までにも厳しいことは周知の事実であった。
エルミア自身、彼女と話す最中それを身に染みて痛感している。
けれどこのチャンスを逃すわけにはいかない。現状の好感度ではどんなに頭を下げたところで、他の人が教えてくれるとも限らない。
ならば茨の道を行こうとも、孤独に見えた一筋の光明を掴まずにはいられないのである。
エルミアは自身の胸に手を当てる。息を吸って、吐いて、目を閉じて、ゆっくり見開いた。
視界に広がった桜色と金糸雀色をしっかり見据え、この上なく真剣な口調で彼らに語りかける。
「変わりたいんだ。だから、二人には見守ってほしいの。私が立派に成長していくところを」
二人は呆然としていた。瞬きを繰り返したり、何か言おうと口をパクパク動かしていたが、音らしい音になることはない。
エルミアの力強い宣言に思うところがあったのか、彼らはそれ以上何も言おうとしなかった。
ざわざわと周囲が騒がしい。きちんと聞き取れることはないけれど、何かを話していることはわかる。それは他愛ない内容かもしれないし、エルミアの悪口なのかもしれない。
けれどもこの場所だけ、魔法にかけられたかのように静寂が支配している。そんな気がしていた。
リアムもチェルシーも、何も言わない、喋らない。
周りの喧噪が収束したのは、歴史学の講師が入室した頃だった。
耳に馴染まない単語を追いかけるように、大慌てで板書をとる。最中、エルミアは胸の中で誓いを立てていた。
絶対に死にたくない。だからこそ、必ず認めさせる。
これまでの行いを考えたら、何かしらの罰は下されて当然だ。結末が処刑でさえなければ、追放だろうが修道院行きだろうが何だっていい。
断罪されるその瞬間までに、私の悪評なんて根底から覆してやる。
こうして、命をかけた生存戦略が幕を開けたのだった。