18話:わたくし-ルペシャ②
それからもルペシャは姑のごとくエルミアへと絡み続けた。以前と違うのは、ルペシャなりに激励の言葉をかけていたことだろう。
”彼女”の言いなりばかりでなく、きちんと自身の気持ちや意見を伝えるように、と。
その最中、ずっと一人で悩みに悩んでいた。
応援するだけならば、心配するだけならば誰にでもできる。口先だけの言葉ほど軽く無責任なものはない。
彼女の手を取り、引き上げることが助けることが『貴族としての責務』だろうか。これが己の信ずる正しい道なのだろうか。しかし、それで彼女の立場が今以上に悪くなってしまえば元も子もない。
ルペシャからの要求はただ一つ。聖女としての役目を全うしてもらうこと。
それだけならば、わたくしが手を差し伸べる必要もないのでは……?
モヤモヤと燻る気持ちを抱え葛藤する日々を、無情な歳月は待ってなどくれない。
そうした心境を周囲の誰にも理解されぬまま、ルペシャたちは三年生へと進級した。
そんなある日のことだった。
エルミア=アルネストが、まるで別人のようになったのは。
それ以前にも度重なる問題行動により厳重注意を受けていたエルミアは、アンドリューの事件を皮切りに『二週間にわたる停学』を命じられた。
様子がおかしくなったのは、停学措置が開けてすぐのことだった。
あれだけお灸を据えられたのだから、何かしら変化があって然るべきであろう。わずかな期待と恐怖を胸に、ルペシャは人気のない場所で授業を放棄していた彼女に声をかける。
そうして、返ってきた答えが――。
「というわけでですね、本日はルペシャ様に日頃の感謝をお伝えいたします!」
「……はあ……」
現実から逃げるようにあの頃を回顧していたルペシャは、明るく活気に満ちあふれた声で意識を引き戻される。
目の前に立つのは渦中の人物。確かにルペシャは、彼女に『変わってほしい』と常々願っていた。
だからといって、これはあまりにも変わりすぎな気もするが。
夏期休暇の最中、どうしても一緒にやってほしいことがある、とのことで彼女から連絡を受けた。多忙な日々の連続であるルペシャは、最終日ならば時間がとれるとエルミアの提案を了承した。
集合場所として指定されたのは例の温室だった。
自身のプライベート空間がどんどん他者の手によって浸食されていくのは心底気に食わないが、受けた以上断ることは失礼に値する行為。
約束の日、ルペシャは逃げも隠れもせず温室に姿を現した。
椅子にかけてお待ちください、という指示のもと、ルペシャは白い椅子に着席し主催者を待ちわびる。
遅れてやってきたエルミアは、なんとも珍妙な物を引っさげ会場へやってきた。
「なんですの、これは……」
「お初にお目にかかりますか。こちらですね、ハニートースト、という食べ物になります。あれ、でもメープルシロップだから、メープルトーストかも……」
様々な料理を食してきたルペシャだが、このような代物を目にするのは初めてのことだった。
ベッドのようにふかふかの四角い食パン一斤を、丸々贅沢に使用した一品。上面には綺麗な丸形のバニラアイスや輪切りのバナナ、胸焼けしそうなほどにたっぷり絞られたホイップクリームに可愛い動物を象ったリンゴが飾られていた。
とどめと言わんばかりにかけられているのが、黄金色の輝きを放つメープルシロップである。受け皿にまで垂れるほど惜しみなく注がれた液体は、一体どれほどかかっているのかなんてまるで想像がつかない。
こんがりと麦の焼けた香りと、楓の樹液から採取される甘い匂いが鼻孔をくすぐった。
未知への好奇で食欲が刺激され、思わず喉が鳴る。
「私が丹精込めてお作りいたしました。勿論、毒は入っておりません」
「……お生憎ですが、一口だけいただきます。後はあなたが召し上がってください」
彼女の言葉に嘘はないだろう。変わりたいと泣きついてきた手前、このような策を講じるとは考えにくい。それに、公爵令嬢を暗殺しようものならばどのような末路を辿るかだなんて、幼子が考えてもわかること。
食べ物を無駄にすることはルペシャの理念に反するが、こればかりは仕方ない。何せ――。
「甘いものの食べ過ぎは、よくないからですか?」
「!?」
思わぬ方向から指摘を受けたルペシャは目を見開いた。しかし一瞬にして鉄の仮面を被ると、エルミアへ冷ややかな眼差しを向ける。
「わたくしはあなたに一言も告げていないはずですが」
「申し訳ありません。テーブルマナーを教わっている際に気づいてしまいました」
バツが悪そうに――しかし舌を覗かせ謝るなんとも中途半端な態度に、ルペシャは頭痛がするようだった。
エルミアの言うとおり、甘味は大好きだ。けれど積極的に摂取しない理由があった。
言わずもがな、体型維持のためである。
ルペシャはどうにも太りやすい体質のようで、気を抜くと下腹部の贅肉が増えている。
将来国母となり、象徴となり、民を率いる者が丸々と肥えた人間などでは周囲に示しがつかない。ろくに自制も出来ぬ愚か者と思われることなど言語道断。
また、糖分の過剰摂取は健康にも害を及ぼしかねない。ルペシャがまだ幼い頃、こっそりおやつを与えてくれた宰相のおじさんは、甘いものの食べ過ぎで大変な病気になっていた。
その衝撃たるや凄まじく、禁断症状で暴れ回る成人男性の姿が今でも脳裏へ鮮明に焼き付いているほどである。
幸せに溺れすぎた結果あのような目に遭うのでしたら、初めから避ければよろしいのよ……!
だからこそ、目の前に広がる魅惑的な輝きにも耐え忍ぶしかない。
これを全て平らげてしまった日には、一体どうなってしまうと言うのでしょう。
しかしそんな思いを揺るがすように、エルミアが悪魔の囁きを口にする。
「ルペシャ様、今は私と二人きりです。今くらいは己の素を曝け出してもよろしいかと思いますよ!」
「とはいえ……」
「では、今日は特別な日、ってことにしちゃいましょう。ダイエットも、一日くらいは自由な日を設けるものですから」
「う……ま、まぁ、食べ物を粗末にするのは、よくありませんものね」
確実に論点はそこではないのだが。
ルペシャはそっぽを向き鼻を鳴らすと、エルミアの主張に賛同した。
決して誘惑に負けたわけではない。あくまで、食べ物を無駄にするのが許せないだけだ。
ナイフとフォークを手に取り、端の方から丁寧に刃を入れる。一口サイズに切り取ったトーストを、何の迷いもなく口へ放り込んだ。
「これは……」
きつね色に焼き上がった耳は歯ごたえ抜群、けれど内側はふわふわでしっとり。遅れてやってくる、メープルの甘さは相性抜群でほっぺたがとろけ落ちてしまいそう。
瑞々しい食感と共にシャリシャリと小気味よい音を立てる果実は、アンドリューの領地から収穫されたものに間違いないだろう。かの土地で育ったリンゴの品質は誰もが認めるほどで、ルペシャ自身も何度か口にしたことがある。
エルミアがバニラアイスを掬いあげながら、ルペシャに伺いを立てる。
「お口に合いましたか? 私の故郷にある料理のうちの一つなんです」
「ええ、まあ」
素っ気ない返事とは裏腹に、ナイフで小さく切ってはフォークで口へ運ぶ一連の動作が止まらない。
たった一回きりというには実に勿体ない代物。後でそれとなくレシピを聞き出して、後日シェフに再現させましょう。
決して気に入ったとか、そういったわけではございませんわ。ええ、決して。
真正面にエルミアがいることも、我すらも忘れて食べ進める。そんな彼女がどんな顔をしてこちらを見つめていたかなんて、忘我のルペシャが気づくわけもない。
「……ルペシャ様。いつもありがとうございます」
エルミアがカラトリーをおもむろに卓上へ置いた。そして、どこか寂しさを含んだ笑みと共に感謝を口にした。
その言葉に、ルペシャは手を止め口元をナプキンで拭った。エルミアの顔をしっかりと見据え真意を探る。
哀切を称えるアクアマリンの瞳は、あの時を想起させるようで虫唾が走る。何を言っても響かない、ただただ空虚な作り笑いを浮かべていたあの頃を。
しかし、ルペシャはあの時とは確実に違うものを感じ取っていた。
「私、ルペシャ様にはとても感謝しているんです。言葉では言い表せないくらいには、大きなほどに」
「わたくしは貴族としての責務、つまり己のやるべきことを果たしたまでです。お礼を言われる筋合いはございません」
「けれど、ルペシャ様だけが私に向き合ってくれました」
曰く、リアムやチェルシーといった初めから彼女の味方であった人物を除けば、対等に接してくれるのはルペシャだけであったという。それが彼女にとってどんなに心強く、それでいてありがたかったことか。
策謀も奸計も一切感じさせぬ、ただ純粋な気持ちで気持ちを伝えてくるエルミア。
そんな彼女の話を聞きながら、ルペシャは次第に自分の顔から火が出ていることに気がついた。
「……そう、ですか」
ここまで面向かってお礼を言われたことはあっただろうか。誰かに感謝されたくて、誰かに褒められたくて行動を起こしてきたわけではない。
けれど、自身の信じ歩んできた道は正しいのだと肯定してくれるだけで、こんなにも心が躍るものなのか。
――大丈夫。わたくしのしてきたことは間違いではなかった。
例えそれが、結果論といえども。
それからエルミアは、自身が夏期休暇中に体験したことを語ってくれた。あのお店が美味しくて、あそこの屋台は店主が変わった人で、行列で入れなかった場所が気になる、等々。
小さな子供のようにキラキラと目を輝かせる様は、いかに街巡りが楽しいものであったかをありありと感じられる。
一度たりとも閉口することなく紹介される物語は、聞き手をも部隊に誘う。次第にルペシャは、彼女の追体験をしているような感覚に陥った。
もちろん遊んでばかりではなく、勉学に取り組むことへの苦労も口にしていた。
すっかりお皿の上を空にしたルペシャは、紅茶を嗜みながらゆっくり頷く。一言一句を逃さぬようにして、相づちを打つことも忘れて耳を傾ける。
確かに、あの頃に比べたら彼女は変化した。それはまるで生まれ変わったと言っても差し支えないほどに、別人と魂が入れ替わったのではないかと追求してもいいほどに。
しかし、ルペシャは完全にエルミアへ気を許してはいなかった。
そうさせるだけの決定的なピースは、まだ足りていない。
一体何が欠けているのか。自分はこれ以上、努力を惜しまない今の彼女に何を求めているのか。
不足した欠片の正体を上手く言葉にすることは出来ないが――、これだけは予感している。
”それ”が見つかったとき、ルペシャは本当の意味で彼女を気に入るだろう、と。




