10話:真相を問う
「おかえり。二人なら先に帰ったよ――って、どうしたの!?」
何を考えていたのかを思い出せない。どうやってここまで戻ったのかもわからない。
アンドリューから話を聞いた場所から自習室までは、そう遠くないはずなのに。
まるで魂の抜けた人形のように虚ろな視線を彷徨わせるエルミアを見て、テオはひどく動揺した。
彼はしばらくあわあわと行き場のない両手をせわしなく動かしていた。しかし突如として動きを止めると、咳払いを一つ。エルミアのすぐ近くにあった椅子を引いて、座席をポンポンと優しく叩いた。
「ここ座って、落ち着いて。紅茶は飲める? ダメなら他のを買ってくるよ」
テオの指示通り緩やかに腰掛ける。
わざわざ他のを買ってきてもらうのも悪いので、肯定の意を示すべくエルミアは小さく頷いた。
手渡されたボトルを受け取り口内へ流し込む。ひんやりと冷たいアイスティーが、砂漠のごとくカラカラに乾き張り付いた喉を潤していく。
テオが隣の椅子に座ると、こちらをのぞき込むようにエルミアへ視線を合わせた。
不思議だ、ついこの間までは殺意にも似た感情を向けられていたのに。今やこちらを見る目は慈愛に満ちていて、落ち込む子供を心配する母のような温かみに溢れている。
「あの後アンドリューに何かされた? よければ、教えてくれないかな」
黙っていても仕方ない。テオだって、こうして耳を傾けてくれているのだから。
エルミアはゆっくりゆっくり、全てを打ち明けた。アンドリューとのやりとりを、何一つとして隠すことはせず。
次第にじんわりと目頭の奥が熱くなって、鼻の奥がツンとする感覚を覚えたけれど、決して表に出すことはしなかった。
テオは時折相づちを打ちながら聞いてくれた。途中途中言葉に詰まるも急かすことなく、自分のペースでいいのだと――、エルミアの小さな背中をさすりながら。
「――こんな感じ。その上でテオくんの思ってること、知っていること。全部教えてほしい」
「あ~、ん~……、確かにあの時のエルミアは最悪だったね」
しばらく唸り声を上げた後、テオが苦い顔でそう言った。その中には恐らく、はっきりと伝えていいものなのか、といった逡巡が含まれているのだろう。
エルミアはわずかに潤んできた目元を拭うと、テオの瞳を直視した。
遠慮することはない、包み隠さず伝えてほしい。そう念を込め、揺れ動く薄緑を捉えた。
こちらの意図を正確に汲んでくれた彼は、やがて観念したように話し始める。
「あれってね、本当は違うんだ。まず、退学になった生徒はいじめの加害者だったの。アンドリューは人助けをしようと現場へ乗り込んだ。けれど……」
曰く。
アンドリューは、常日頃から暴力や使いっ走りといった不当な扱いを受けていた生徒を助けた、とのこと。
校内を歩いていたところ、悲鳴のような声が聞こえた。誘われるようにたどり着いた場所では、いじめっ子が地面へ小さく丸まっていたという。
いじめのことは全く知らなかった。けれど、アンドリューの前に展開された凄惨な現場を目撃しただけで、彼はその場で何が起こっていたのかを一瞬にして察知したという。
アンドリューが割って入るまでは早かった。声を荒げいじめっ子と被害者の間に立ち、睨みを効かせれば、いじめっ子は一目散に逃げていったとのこと。
事件が起こったのは、その後のこと。
いじめっ子である加害生徒が、アンドリューから暴力を振るわれたと証言したのだ。
確かに考えるよりも先に手が出る彼のことだが、そのようなことは断じてしていない。
親友であるテオや、被害者周囲の生徒へ慎重に取り調べが行われた結果、アンドリューの潔白が証明される。そして、いじめっ子には即退学処分が下された。
本来はいじめから一人の生徒を救った立派な行為であるが、経緯が経緯であっただけに、この出来事自体が『なかったこと』にされた。
証言を行った関係者には、決して口外しないよう命令が下される。
それもディランの、王太子殿下の名の下に。
しかし――。
「ディランが敷いたはずの箝口令は、誰かが破ったことで急速に広まっていった。その人物こそが……」
「……私、というわけね」
神妙な顔持ちで、テオがゆっくりと頷く。
「ただ不思議なことに、エルミアはあの現場にいなかったはずなの。実は陰からこっそり見ていたのか、はたまた噂を流した真犯人がエルミアに罪をなすりつけたのか。真相は分からない」
「そうなのね……。けれど、問題はそこじゃない。私はどうしてあそこまでの仕打ちを受けないといけないのかが、理解できないわ」
エルミアを嫌悪する理由は大方把握した。
しかし、あれは単純な好き嫌いというよりは、憎悪にも近い感情と言える。テオが殺気を向けていたように、深い執念が元で生まれる行動であろう。
自身の評価を下げたからと言って、たったそれだけであれだけの思いをぶつけてくるとは考えにくい。アンドリューが周囲の評価に一喜一憂するような人間であれば、話は変わってくるのだが。
悩んでいれば、テオが くいくいと小さく手招きをした。顔を傾けると、エルミアの耳元へ彼の小ぶりな口が寄せられる。
「アンドリューには内緒にしてね。彼、実は裏ルートで王族騎士団への推薦が決まっていたんだ」
ゴニョゴニョ、くぐもった声で話すテオの吐息が耳にかかって、少しくすぐったい。
この部屋にはエルミアとテオの二人しかいないのに、それでも内緒話を始めた彼が少しばかり愛らしい。
そして肝心の内容を聞いたエルミアは、彼が言わんとしていることを即座に理解した。
「あ。……えっともしかして、それが例の噂によって取り消しになった……?」
「大正解。あーあ、アンドリューにもこれくらいの察しのよさがあればなぁ」
「うーん、でも、それってほとんどコネだよね。マーフィー様は、それでいいと?」
「そこは僕といえども、深入りできなくてね……。どんな手段であろうが、とりあえず入団できればそれでよかったのかも」
意外だ。てっきりアンドリューは不正を許さないタイプだと思っていたのに。
それとも、そこまでして入団しなければならない理由があったのだろうか。
「で、でも、僕は、あの時のエルミアに何かしらの事情があったんじゃないかなって思うよ!? それに、アンドリューにも言ったけれど、人間変わるチャンスがあってもいいと思うのは、本当だから……」
考え込むエルミアに、いきなりテオが慌てた様子で弁明を始めた。そんな当人は思い当たる節がなく、一瞬なんのことかと疑問が頭をよぎる。
だが恐らく、彼は申し訳ないと思っているのであろう。過去のこととはいえ、エルミアを悪く言ったのだから。
しかし、そこにテオが負い目を感じる必要はない。
「あまり気に病むなとは、言えないけれど……」
「ありがとう、テオくん」
「……アンドリューさ、あれでも頑張って勉強していたんだよ」
しばしの沈黙が続いた後、テオは重い口を開いた。彼はどこか遠くへと視線を移し、懐かしむようにして語り始める。
「元々は真面目な性格で、授業だってちゃんと聞いていた。それでも成績は振るわなかったけれど、目標に向かって努力ができる人だった。でも僕に出会ってから、変わっちゃった。僕に合わせてくれたのかな、一緒にサボるようになって、気づいたら……」
しみじみと話す彼のことを、どうにも信じられずにいた。
あの素行不良な男が真面目な人間だったとは。エルミアの知る今の姿からは全く想像もつかない。
どうやらアンドリューは、こちらが思っている以上に王族騎士団への思い入れが強いらしい。
「でも、剣の腕は素晴らしいからね。彼は確かに、僕にはない素敵なものを持っている。だからこそ、僕がエルミアを下に見て安心しきっていたわけなんだけれども……」
「テオくん、その話はもうおしまいだよ」
エルミアの目的は和解であり、来たる死を回避すること。テオとわかり合えた以上、昔のことを持ち出し糾弾するつもりは更々ない。もしこれが逆の立場なら、甘んじて受け入れるが。
湿っぽい話は終わりだ、と。こちら側の制止により、テオはごくりと唾を飲み込んだ。恐らく、言いたかった言葉ごと。
「ねえ。前に話してくれた、エルミアが死んじゃうかもって話はさ。アンドリューはその件に関わっていたりとか、しないよね……?」
「……大丈夫だよ」
しばし返答に迷った後、エルミアは嘘をついた。
周囲の好感度と今後の己の動き次第だから、なんとも言えない部分が大きい不確定要素。
そんなことより、テオに余計な心配をかけたくなかったのだ。
問いただす彼の声が、あのトラウマを打ち明けてくれた日のように震えていたから。
「そっか。ならいいんだ」
納得と共に、それまで浮かない顔していた彼の表情に日が差した。
これで、テオから知りたいことは全部聞き出せた。
しかし、これはあくまで彼の主観を交えた話でしかない。視野を広げるためにも、もう少し情報が欲しい。
ルペシャは前回お世話になったから、今回も泣きつくような真似はしたくない……となると、この事情を知るリアムとチェルシーに聞くのがいいだろうか。
なんて考えていれば、視界の隅でテオが口角を吊り上げた気がした。
「ねぇねぇ、次のテストでいい成績とれたらさ、何かご褒美ちょーだい?」
「え? ……例えば?」
「僕が喜ぶこととか、してほしいなーって思うこと。なんなら今ここで、情報料として要求してもいいんだよ~?」
「なっ!? 対価ががあるなら事前に言ってよっ!?」
慌てふためくエルミアを見て、テオがケラケラと笑い声をあげた。
この感じ……廊下で起こったあの一連の事件を思い出してしまい、あまりいい気がしない。
「ちょっと、何がそんなにおかしいの」
「よかった。いつもの元気なエルミアに戻ったねって」
そこで気がついた。今の言葉は彼なりの冗談だったのだ。
変わる機会があってもいい、と言いはしたけれど、人間根っこはそうそう変わらないのだと、一瞬本気にした自分を恥じる。
テオの白い人差し指がエルミアの頬をつついた。弾力に富んだ柔肌に触れながら、彼はいたずらっ子のような表情を浮かべ口を開く。
「エルミアには笑っててほしいって思うからさ。人間落ち込むこともあるけれど、お前はやっぱり笑顔が似合うよ」
これはテオなりの気遣い。その親切さに、幾分か心が軽くなっていくのを感じるのだった。




