1話:ヒロイン転生?それって勝ち確では?
チュンチュンチチチ。
愛らしい小鳥のさえずりに、深淵に沈んでいた意識がゆっくりと引き上げられるのを感じる。
ああもう朝か。起きるっていうのは、もう二十数年と生きていたって嫌気が差す。たいそう居心地のいい布団のぬくもりを手放してまで仕事に行かないといけないなんて。
それでも生きるためには仕方ないのだ。と自身に言い聞かせながら、重いまぶたに抗うよう、ゆっくりと目を開けて――。
「おはよう、エルミアちゃん。今日はよく眠れたかな」
まだ覚めない視界いっぱいに映るのは見慣れた天井ではなく、知らない人間の顔だった。 まるで砂糖菓子を煮詰めたかのように甘く、とろけそうな目線をこちらにくれる青年。彼は私の目覚めを見届けるなり、首をこてんと横倒しにした。
これには流石の眠気も一瞬で吹き飛んでしまう。
「え? ……え??」
「大丈夫? もー、また自堕落な生活を送ってたの? エルミアちゃんは今日から、また学校だよ。早く支度しよう。ね?」
困ったように笑う彼が、私の背中に手を添えながら優しく起き上がらせてくれる。しかしそんな自身の脳内は、たくさんの疑問符で埋め尽くされていた。
学校? 自堕落? ……何を言ってるの?
卒業したのはもう五、六年も前のこと。そしてごくごく普通の社会人となった私にとっては、青春の日々なんて遠い昔のこと出来事なのに。
そもそも目の前の男は一体誰?
非常に残念ながら、朝一番優しい声色で挨拶をくれ、甘やかしつつも時に厳しい言葉をくれるような彼氏はいなかった。なんなら相手すらいなかったし、多分。
多分? ……あれ? 多分って、どういうこと?
己の記憶が曖昧だ。まるで自分が自分ではない、得体の知れないものになってしまったかのような感覚さえ覚える。
そういえばこの青年も何かが変だ。左のつむじを起点にまっすぐ伸びた、桜のように淡い紅色の髪の毛。優しく垂れ下がったその目は、瑞々しい桃を想起させるピンクと白の角膜に彩られていた。
黒か茶色が主な色の国で、コスプレでもない限りこれらは圧倒的な違和感と言うほかない。
部屋の装飾も配置も、私の知っているものとは何もかもが違う。
ゆっくりとベッドから這い出て床に足をつける。
見回す最中に見つけた、部屋の隅に設置された大きな姿見。ふらふらと覚束ない足取りで向かい、立ち、自身の姿を確認して――。
目を疑った。
そこには到底、己とは思えぬほどの美少女が立っていた。
肩甲骨まで滑らかに伸びた、色素の薄い髪の毛。ぱっちり開いた大きな空色の両目に、白く透き通った肌。ほっぺたはもちもちとしていて、実に触り心地がよさそうだ。
これは鏡だ――、光を反射し眼前の景色をそっくりそのまま映し出す器具は、紛れもなく知らない人間をありのまま示していた。
事実、私が指を伸ばせば、目の前の少女も同じように華奢な指先を前へと広げる。肉付きのよい片足を上げてみれば、彼女の片足も浮遊した。
既に見飽きたはずの野暮ったい自分はどこにもいない。だからこそこの事象を理解するのに、受け入れるのにしばしの時間を要したことだって、仕方のないことだと言えよう。
いやこれ、……私!?
乙女には到底似つかわしい悲鳴を上げそうになったが、すんでのところで飲み込み堪えた。
なんで、どういうこと?
「エルミアちゃん? どうしたの!?」
「ごめん、ちょっと立ちくらみがして……。心配ないよ。ところで、そろそろ着替えてもいいかな」
「それなら外で待ってるから、終わったら声をかけてね」
何かあっても、すぐに呼ぶんだよ。
そう言って部屋を後にする背中を見送って、私はその場にずるずるとへたり込んだ。
何度も深呼吸を繰り返しながら自身に「大丈夫」と言い聞かせることで、心を落ち着かせる。
その甲斐あってか、”彼女”に関する情報をいくつか思い出せた。
エルミア=アルネスト。それが少女の名前だった。
正体はSNSでやたらめったら流行っていた乙女ゲームのヒロイン。私自身プレイしたことはないけれど、スクショやファンアートを何度か目にしたことがある。
平民の出自であり、実の両親とは幼い頃に死別しているエルミア。その後は孤児院に引き取られ、慎ましやかな暮らしを続けていた。
そんな彼女に転機が訪れたのは、十五歳となったある日のこと。
彼女には魔法の素質が備わっていたのだ。それも「聖女」と呼ばれるクラスに匹敵する、強大にして最上級の光魔法を扱える能力が。
そこから彼女の生活は一変する。「魔族」と呼ばれる化け物が跋扈するこの世界にとって、「聖女」は必要不可欠な存在であり、丁重に扱うべき人材。
エルミアは一夜にして貴族階級の仲間入りをする。
勉学に励み、聖女としての務めを果たし攻略対象と共に幸せを手に入れるストーリー。
つまり私は、何らかの要因でエルミアとして転生した。
彼女は乙女ゲームのヒロインであり、プレイヤーの分身たる主人公。
ということは……私、この先幸せな生活が約束されているも同然だよね?
思い立ったが吉日、思い出したが吉日。こうしちゃいられない、と即座に準備を整え部屋の外へ飛び出す。
「エルミアちゃん、準備できた? そろそろ行かないと遅刻しちゃうよ?」
「ごめん今日は一人にさせてほしい!」
大人しく部屋の外で待機していた青年に軽く謝罪をして、寮と思われる建物の廊下をパタパタ走る。
ご主人様に見捨てられた子犬のような表情を浮かべた彼に、多少なりとも罪悪感を覚える。しかし、今はそんな細かいことを気にしている場合ではなかった。
シックな螺旋階段を一段飛ばしで駆け降りる。そのたびに、ブカブカと脱げそうになるローファーがわずわらしいと言ったらこの上ない。はち切れそうな胸の鼓動を抑えるように息を吸って、吐いて、学生寮の鉄扉に手をかけた。
ギィイイイ、と古めかしく重い音を立てた先に広がっていた景色は――。
「……!!」
洋風のお城にも似た大きな建造物。巨大な門に囲まれた広大な敷地は鮮やかな緑に彩られ、いくつもの建物や施設が立ち並んでいる。
あれが貴族学校。さながら宮殿のような佇まいで堂々とそびえ立つ建築物には、巨額の富が投じられているに違いない。
向こうの世界ではまず見ることのできないこの光景は、圧巻の一言に尽きる。
学校から学生寮までは、そう遠くない位置にあった。
時間はまだある。例え寄り道をしたところで、迷子になったところでホームルームには余裕で間に合うほどだ。
エルミアはゆったりとした足取りで、周囲の景色を網膜に焼き付けながら学校を目指した。
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先の男性――リアム=ハグリットは、エルミアの幼なじみだという。「私」がエルミアになる前から、毎朝ああやって部屋を訪れては甘いモーニングコールを習慣としていたらしい。
エルミアの身支度が終わるのを待ち、一緒に登校するほどの仲。しかし恋仲かと聞かれたらそうではないらしいので、なんとも度しがたい。
今日は悪いことしちゃったから、明日からはいつも通り一緒に行くことにしよう。
リアムの顔を思い浮かべながら、鼻歌交じりに校門をくぐり抜けたはよかったものの――。
エルミアは違和感を覚えていた。
中庭、昇降口、廊下。どこを通っても向けられるのは賞賛や尊敬からは程遠く、むしろ侮蔑や嘲笑といった負の感情ばかりである。声をかけようものならば、わざとらしく身を翻され無視された。
「あら、あちらをご覧になられて。卑しいドブネズミが歩いていますわよ」
「身分を弁えない平民上がりの分際で。殿下に近寄ろうなんて、一体どういうおつもりなのかしらね」
「そういえば、マーフィー様の件も――」
小声で話す女子生徒たちの方を向けば、まるで無関係です、と言わんばかりに視線をそらされた。
え、なんでこんな酷い仕打ちされてるの?
周囲の反応がおかしい。ヒロインといったら皆に慕われて、それでいて誰にでも愛される子だとばかり思っていたせいだろうか。全く以て想像していなかった世界に、早くも心が打ちのめされそうになってしまう。
エルミアが孤児院育ちの平民上がりだから。そんなやつが何食わぬ顔で自分たちと肩を並べていることが気に障る、とでも言うつもりなのか。
だからといって、こんな腫れ物に触るような扱いをしなくともよいだろう。
あれ、ねぇ……なんか……好感度、おかしくない……?
いやいや、そんなはずない。だって私はヒロインなのだから。幸せも同然の、約束された勝ち確人生が待っているはずで……。
だってそうでなければ、この世界はきっと――。
周囲の視線へ過剰に反応しながらも、なんとかエルミアのクラスへとたどり着いた。
教室へ入るなり、それまで賑やかだった場所が水を打ったように静まりかえる。
「エルミア!」
雰囲気を一転させたのは一人の少女。金髪をサイドテールに結い上げた少女は、エルミアに対し好意的な態度を見せる。
「待ってたよ~。エルミアがいなくて私、ずっと寂しかったんだから!」
チェルシー=ハートランド。男爵令嬢である彼女は、リアム同様エルミアと行動をすることが多かったようだ。
本来ならば一人でも味方がいることに安心するべきなのだろうが。友人との再会を喜ぶ前に、確認することがある。
「ねぇあの、チェルシー。周りの反応が変な気がするんだけど……気のせい、だよね?」
「え? ……あ……それは、ね……」
大きな瞳が素早く逸らされ、自信なさげに揺れ動く。チェルシーにとって、ひいてはエルミアにとって都合の悪いことであることは明白であった。
これはいくらお願いしたところで口を割りそうにない。けれどこの違和感をはっきりさせるには、なんとしてでも彼女から教えてもらう必要があった。
もう一度言い方を変えて聞いてみよう。そうして口を開きかけた瞬間、回答は思わぬ方向から得られた。
「あ~? んだよ、今日から復活するのかよ、そいつ」
「そっか~忘れてた。もう来なくていいのにねぇ」
あえて本人に聞かせているのであろうか、わざとらしいほど大きな声で放たれた嫌味にエルミアは視線を向ける。
教室後方窓側の席、隅の方。鮮やかなレモン色が目を引く小柄の生徒と、燃えさかるような赤い短髪が特徴的なガタイのいい生徒。
彼らは向かい合って座り、談笑しているようだった。二人はこちらを見ていない。けれどエルミアを話題にあげているのは明らかである。
「っエルミア! 気にしなくていいよ!」
心ない嘲笑はチェルシーの耳にもしっかり届いていたらしい。
小さな手がそっとエルミアの肩に触れ、無視を促すけれど、あいにく彼女の気遣いに応えることはできない。
どうしても聞き捨てならなかったので、その手をやんわり押しのけ彼らの元へ歩み寄った。
エルミアの存在に気づいた二人が会話をやめ、こちらを見上げる。
「ねえ、どうしてそんなこと言うの?」
気丈に振る舞うはずが、その声は情けないほどに震えていた。
エルミアの言葉を聞くなり、彼らは顔を見合わせ、次第に歪ませていった。
その様子がどうにも腹立たしく、思わず眉をひそめた。
「……何がおかしいの」
「本気で言ってるのかよ、テメェ」
「ええ。だから教えてちょうだい。聖女である私の身に何が起きているのか」
「お前が聖女様だって? 笑えるよねぇ、アンドリュー!」
「むしろ滅ぼす側なのにな」
「だからどういう――」
「世界を救うはずの聖女様はねぇ~? その世界から嫌われまくっているんだよ~!」
瞬間、頭を鈍器で殴られたような錯覚さえ覚えた。
その場に崩れ落ちそうになるのをなんとかこらえ、顔にも出さないよう口を真一文字に引き結んで耐え忍ぶ。
――ああまずい、と、おぼろげな前世の記憶が警鐘を鳴らし始めた。
乙女ゲームというものは、好感度によってルートが左右されるものだ。好感度が人生の全てを決めると言っても過言ではないほど大事なもの。
それはいい方にも、悪い方にも。
この世界は、攻略対象全員から嫌われると容赦なく殺されるのだ――それが、いくらヒロインといえども。