境界線
無弦の背中が闇に消えたのを見届けてから、霜華は静かに扉を閉じた。
小さな庵の中は、ひどく静かだった。
胸の奥で、何かが崩れ落ちる音がした気がする。
(……どうして、あんなに冷たかったの)
霜華は自問した。
無弦の声は、いつもより低く、冷たかった。
まるで、自分を拒絶しているかのようだった。
——無弦は、距離を取ろうとしている。
それも、ただ単に危険から遠ざけるためではない。
もっと根本的な、決定的な理由があるのだと。
(何か……隠している)
「何を隠しているの」
既にそこにいない無弦に向けて、霜華はつぶやいた。
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都の外れ、静まり返った小径を、無弦はひとり歩いていた。
(……離れなければ)
そう、霜華を、守るために。
霜華を、傷つけぬために。
いや、本当は自分が、傷つかないためだ。
怖いからだ。
無弦は拳を強く握った。
その手のひらには、爪が食い込み、滲む血がにじんでいることすら、彼は気に留めなかった。
ほんのわずかな時だった。
あの夜、霜華が身を挺して自分を助けてくれたときから、彼女は無弦の胸の奥に、小さな灯をともしてしまった。
無弦がとうに諦めたはずのもの——「温かさ」という感情を、霜華は呼び覚ましてしまったのだ。
(だが……)
(俺は……あの娘の父を殺した)
(俺は、あの娘にとって……最も憎むべき存在だ)
何度も、何度も、心の中で呟いた。
だが、呟けば呟くほど、胸の奥が千々に引き裂かれるように痛んだ。
(近くにいれば、いずれ必ず……)
(すべてが露見する)
そのとき、霜華の眼差しは、どう変わるのか。
温かく、優しかったあの瞳は、きっと——
憎しみと、絶望に染まるだろう。
ぶるっと震える身体を、無弦は押しとどめる。
きっと、耐えられない。
無弦は暗がりの中に立ち尽くし、頭を垂れた。
背後から吹く夜風が、彼の黒髪を乱す。
(だから……)
(今、離れなければならない。これ以上、想いが深くなる前に)
彼女には、平穏な道を歩んでほしい。
自由に、強く、美しく生きてほしい。
そして、決して、自分という悪夢に縛られてほしくない。
(……すぐに忘れられる)
無弦は、目を閉じた。
脳裏に浮かぶのは、笑う霜華、剣を振るう霜華、
そして、ふいに見せた、寂しげな微笑み。
——すべてが、無弦にとって、かけがえのないものになりつつあったが。
無弦は静かに顔を上げた。
夜空に散る無数の星々が、何も知らぬまま、彼を見下ろしていた。
やがて、無弦はゆっくりと踵を返し、歩き出した。
その背は、ひどく寂しく、痛ましかった。
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無弦は夜の帳を抜け、尚書令・蘇安源の邸に向かっていた。
静かに、影のように——
「無弦か。」
待ち受けていたかのように、蘇安源は書斎で彼を迎えた。
老練な目は、夜更けにもかかわらず鋭く光っていた。
「わざわざ、こんな時刻に……何用だ?」
無弦は蘇安源の後ろから忍び寄ると、口を開いた。
「一つ、頼みたい。」
その声音に、蘇安源は眉をひそめた。
「ほう……何だ?」
蘇安源は振り返って無弦を見る。
その双眸には、ただ一つの願いだけが宿っていた。
「ある女を、都から遠ざけたい。南楚への手はずを整えてほしい。」
「……」
蘇安源の表情に、わずかな警戒が走る。
「理由は?」
「……」
無弦は一瞬、言葉に詰まった。
本当の理由など、口にできるはずもない。
——その娘こそ、自らの手で父を殺した、仇の娘なのだと。
——それでも、彼女を愛してしまったと。
言えるはずもなかった。
「危険なのだ。蒼文霓が、彼女に目をつけている。」
「蒼文霓……」
蘇安源の目が細くなった。
「確かに、あの男に睨まれた女が、無事で済む保証はないな。」
「あぁ。」
無弦は低く答えた。
胸の奥で、苦いものが込み上げる。
蘇安源は無弦をじっと見つめたまま、しばらく沈黙していた。
やがて、重々しく言葉を紡ぐ。
「分かった」
「……感謝する」
「だが、一つ条件がある。」
「……何だ?」
無弦は静かに問い返した。
「——その娘が、都を出た後は、二度と彼女に会わぬことだ。」
その言葉に、無弦の心臓が凍りついた。
(二度と……?)
だが、それこそが、無弦が望んだ結末だったはずだ。
彼女を守り、自由に生かすためには、自分が存在してはならない。
無弦は目を閉じ、短く答えた。
「……そうしよう。」
蘇安源は静かに頷くと、文机の上に一枚の書状を置いた。
「これは、隣国・黎州の密使への紹介状だ。
名を偽り、平民として暮らす手はずを整えておく。」
「助かる。」
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無弦は宿の小さな中庭で、霜華に向かい合っていた。朝露がまだ草の葉に宿り、陽の光が庭を照らし始めている。
「これは紹介状だ。黎州へ入りしばらくすると、単渓、という男が尋ねてくる。そいつに渡せ。仮の名と当面、身を隠せる場所を提供してくれるはずだ」
無弦が差し出した書状を、霜華は静かに受け取る。
「気を付けていけ」
無弦はそう言うと、彼女に背を向けた。
「無弦...」
霜華の声に、彼はわずかに立ち止まった。
「あなた本当は...何者なの?」
風が止み、静寂だけが残る。
無弦は何も答える事なく、その場を後にした。
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霜華は、隣国行きを控えて、最後に都の喧騒を味わっていた。
無弦と初めて歩いた道、美味しそうな匂い...。
どれもが最近のことなのに懐かしく思える。
その時、数人の若い男たちが道端の老婆の前に立ちはだかった。華美な衣装に身を包み、態度からは金のある家の子息と見える。
「ほら婆さん、ここでは商売の邪魔だ。さっさと失せろ」
一人の男が、足で老婆の椀を蹴った。コインが地面に散らばる。
霜華は思わず駆け寄った。
「やめて!」
彼女の声に、男たちは振り返った。霜華の美しさに、一瞬言葉を失う。
「おや、美人さんじゃないか」
男の一人が、にやりと笑った。
「こんな汚い婆さんより、俺たちが相手してやろうか?」
霜華は老婆の前に立ちはだかった。
「この方に手を出すなら、私が相手です」
「へえ、いいじゃないか。お前みたいな美人なら、連れて帰りたいね」
男たちが取り囲む。霜華は剣に手をかけた。争いは避けたいが、このままでは...
「やめたほうがいい」
静かな声が響いた。
男たちの間を、一人の青年が通り抜けてきた。整った顔立ちに上質な服。だが、華美さはなく、落ち着いた風格がある。
「あんたは誰だ?口出しするな」
「段景だ」
その名前に、男たちの態度が一変した。
「段...段家の?」
「そうだ。この老婆をいじめるのは、都の治安を乱す行為。父上に聞こえたら、お前たちの家にも迷惑がかかるだろう」
段景は穏やかに言ったが、その目には厳しさがあった。
「わ、悪かった。冗談だったんだ」
男たちは慌てて謝り、すぐに立ち去った。
段景は微笑んで霜華に会釈し、それから老婆に向き合った。
「大丈夫ですか?」
彼は優しく老婆を助け起こし、散らばったコインを集めて椀に戻した。
「商店の軒先に座るといいでしょう。わたしから伝えておきます」
老婆は頭を何度も下げ、段景の手を借りて移動した。
彼が戻ってくると、霜華に向かって微笑んだ。
「災難でしたね」
「いえ...助けていただいて感謝します」
段景は霜華をしげしげと見つめた。その視線に悪意はなく、純粋な興味と優しさが滲んでいた。
「お名前を...」
「霜華と申します」
「霜華さん。美しいお名前ですね」
段景の笑顔は、まっすぐで誠実だった。
「段景と申します。父は段家の当主で、都の商業を取り仕切っています」
彼の言葉は謙虚で、傲慢さが感じられない。
「こんな市場で何をしているのですか?」
「ちょっとした用事で...」
霜華は答えながら、この男の善良さを感じ取った。彼の目は、嘘をつく人間のものではない。
「差し支えなければ、お茶でもいかがですか?」
段景の誘いは自然で、押し付けがましさがなかった。
霜華は一瞬迷った。本来なら警戒すべきだが、この男からは敵意を感じない。それに、商隊の出発まではまだ少し時間があった。
「...では、言葉に甘えます」
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市場からほど近い「翠鳳茶館」は、段家が経営する高級茶館だった。入口には立派な衛兵が立ち、内部は優雅な調度品で飾られている。霜華はこのような場所に入るのは初めてで、少し緊張していた。
「こちらへどうぞ」
段景は霜華を二階の窓際の席へと案内した。そこからは市場の喧騒が遠く聞こえ、心地よい風が入ってきた。
「お好みのお茶は?」
「私は...何でも」
「では、西山の白牡丹はいかがですか。春摘みの新茶です」
段景は丁寧に茶を注ぎ、霜華に差し出した。香りが立ち上る。
「美味しい...」
霜華は思わず声を漏らした。
「そうでしょう?父が西域から取り寄せたものです」
段景は自分も一口飲み、満足げに微笑んだ。
「霜華さんは都に来られて間もないのですか?」
「はい...どうして分かったのですか?」
「都の人間特有の疲れた表情がないからです」
段景は穏やかに笑った。
「それに、あなたのような方が都にいれば、噂になっているはずですから」
霜華は居心地悪そうに少し頬を赤らめた。
「お世辞が上手ですね」
「いいえ、事実を申し上げただけです」
二人の会話は自然に弾んだ。段景は商人の家に生まれながらも、学問にも武芸にも通じていた。霜華は彼の知識の深さに感心し、無弦のことがなければ、時間が経つのを忘れるほどだった。
「霜華さんは今、どちらに滞在されているのですか?」
「小さな湯屋に」
段景は一瞬考え込み、それから決意したように言った。
「もしよろしければ、私の屋敷に滞在されてはいかがですか?」
霜華は驚いて目を見開いた。
「え?」
「段家の別邸なら十分な部屋があります。費用もかからず、都の中心にあるので便利ですよ」
段景の提案は友好的だったが、その目には別の感情も浮かんでいた。
「もちろん、何も強制するつもりはありません」
「感謝します。でも、もう都を出るつもりなんです..。気持ちは嬉しいですが、やはり遠慮させてください」
「そうですか...」
段景は少し残念そうな表情を見せたが、すぐに微笑んだ。
「無理に勧めるつもりはありませんでしたが、もう都を去るとは。折角お知り合いになれたのに」
困った顔の霜華を見て、段景は話題を変えると、都の様子や、最近の政治情勢について語り始めた。霜華は耳を傾けながら、彼の情報量に感心していた。
茶館を出る頃には、太陽は真上に差し掛かっていた。
商隊の出発も近い。
「そろそろ行きます」
「急いでいるのですか?」
段景は残念そうに言った。
「もう出発の時間なので」
「そうですか...」
段景はしばらく考え、「では、お送りします」と言った。
「いいえ、そこまでして...」
「いいえ、構いません。女性の独り歩きは危険ですから」
段景の懸念は、霜華を本当に気遣っているように見える。
「それに」
段景は霜華の目をまっすぐ見つめた。
「もしまた都を訪れたときには、ぜひうちにお泊りください。別邸には女性の使用人もいますし。安全に都滞在を楽しめるはずですので」
彼の優しさに、これ以上頑なにするのも申し訳なく思い、そんな機会もないだろうと思ったので、やんわりと答えた。
「...考えてみます」
「本当ですか?」
段景の顔が明るくなった。
「では、出発場所まで一緒に行きましょう」
二人が市場の南門にある馬邸に近づいたとき、霜華は段景の親切に心を打たれていた。しかし、ふと無弦を思い出し、悲しみを紛らわす。
「ここでお別れします。本当にありがとうございました」
「こちらこそ、楽しい時間でした」
段景は丁寧に一礼した。
「もし困ったことがあれば、いつでも翠鳳茶館に伝言を残してください」
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その頃、無弦は都の北、皇宮の高い城壁の前に立っていた。
(父上...十年ぶりか)
彼は夜の闇に身を隠しながら、城壁を見上げた。警備の目を掻い潜り、侵入するのは難しくない。だが、今夜はそれをするつもりだった。
無弦──いや、かつての第六皇子・弦禕は静かに動き出した。
夜風の中で、彼の剣がわずかに鳴った。
それは再会の予兆。 そして、新たな戦いの始まりでもあった。