別れ
都には春の陽気が満ちていた。だが、その柔らかな光の裏に、剣よりも鋭い影が潜んでいることを、知る者は少ない。
無弦と霜華は、市の外れにある古書店を訪れていた。瓦葺きの屋根と色褪せた暖簾。そこにはかつて嶺南剣門に恩のある書生が隠れ住んでいるという話を、霜華が耳にしたのだ。
「妙に視線を感じるわ」
霜華が小声で言う。無弦は、気づいていた。だが、それを表には出さない。
「都ではよくあることだ。君のような目立つ顔なら、なおさらな」
「……言ってくれるわね」
霜華は笑って返したが、その瞳の奥には警戒が浮かんでいた。彼女の剣が、鞘の中でわずかに揺れる。
無弦はそれを見ながら、自分の左腰にある剣の柄を、そっと撫でた。
「それにしても、都の空気が変わったな」
「……うん。少し、冷たい」
二人は肩を並べて歩き、次の情報源があるという小さな寺院へ向かう。
「ねぇ」
唐突な声に、無弦は足を止めた。
視線を向けると、霜華が彼の服の端を掴んでいる。
「おい、どうした」
思わず身体を引かれた無弦は、バランスを崩しかけてつんのめる。
だが霜華は、何も言わず、通りの右側にある店先を顎で指し示した。
無弦は一瞬、首をかしげた。意味が読めず、視線を霜華に戻す。
「……お腹、すかない?」
霜華が鼻をくんくんしながら、無弦の服を引っ張る。
無弦は思わず苦笑した。こんな一面を見るたび、なぜだか胸の奥が静かに温かくなる。
「そうだな。ちょうど俺も腹が減ってきたところだ。食っていこうか」
霜華の顔が、ぱっと明るくなった。
店先の机に二人並んで腰を下ろし、無弦が店主に声をかけて麺を二人分頼む。
ほどなくして湯気を立てる器が二つ、目の前に置かれた。
箸を取ろうとしたとき、不意に無弦が口を開いた。
「ところで。……なぜ沈剣門の残党を探している?」
今まで、面倒事は避けたいと聞かずにいたが、自分と関わりがある女だと皇太子側が気づいてしまった以上、自分に関わる危険から彼女を守る義務があるし、知っておくべきことは知っておこうと思った。
霜華は箸を止め、しばしの沈黙ののち、懐から小さな手帳と玉で作られたような令佩を取り出した。
それを見つめる目は、どこか懐かしさと哀しみに濡れていた。
「父が、殺された原因を知りたいの」
無弦の目が、刹那に見開かれた。
その令佩――見覚えがあった。絶対に見間違えるはずがない。
彼の手にしていた湯呑みが、思わず握りしめられ――。
バリンッ。
甲高い破裂音とともに、陶器が砕けた。
「っ、無弦……?」
霜華が驚いて顔を向ける。
だが、彼の表情はすでに落ち着きを取り戻していた。
「悪い。驚かせたな。ヒビでも入ってたんだろう」
「怪我は? 手、見せて」
「平気だ」
霜華は店主に頼んで手拭いを借りると、濡れた机を丁寧に拭き始めた。
その横顔を見ながら、無弦は内心で冷や汗をかいていた。
(……あれは間違いない。師――李安慶のものだった。白夕令。なぜ、彼女が……)
「その手帳と令佩は、亡くなった父上の遺品か?」
できる限り自然な声で尋ねる。
霜華は頷いた。
「手帳は、父の書斎の机の奥にしまってあったもの。
この令佩は……幼い頃に、ずっと身につけていなさいって、父がくれたの」
霜華はそう言って、紐を通した令佩を首にかける。
無弦の頭に警鐘が鳴る。
なぜそれが、あの腕輪なのか。なぜ彼女の父がそれを持っていたのか。
「……父上のお名前は?」
「景霜遠。……景霜遠という名よ」
その瞬間、無弦の全身から血の気が引いた。
手が、わずかに震えるのを抑えるため、力いっぱい拳を握る。
――景霜遠。
忘れもしない。
それは、無弦の師である李安慶に仕えていた護衛武官の名。
二十年前の夜、無弦の命が狙われ、義父が殺された――あの夜、裏切った男。
そして、数年後。白泉門の門徒に命じた。
「景霜遠を捕まえろ」と。
その過程で、誤って殺してしまったと報告を受けたが、所詮裏切り者と思い諦めた。
まさか。
この女は、その景霜遠の娘――。
つまり、自分は彼女の仇。
そして彼女は、自分の仇の娘。
なんという皮肉、なんという縁の悪戯か。
「……父上は、殺されたのか」
ようやく絞り出すように問うと、霜華はわずかに目を伏せた。
「ええ。十二年前。山の中で――」
(……やはり)
無弦は、少しでも早くこの場から立ち去りたい衝動にかられていた。
この、一目見て苦労したと分かるひび割れた手と、首に残る傷跡。
この、儚げで美しい女に似合わない、悲しみを宿した瞳。
そのすべてが、自分の罪の証のように感じられ、無弦は体の震えを必死に堪えていた。
心臓が軋む。
だが、彼女の視線を正面から受けたとき――
無弦は、ただ黙ってそれを受け止めるしかなかった。
沈黙の中、二人の間を、冷たい風が通り過ぎていった。
その時、遠くの通りで、一台の馬車がすれ違った。
中にいたのは、尚書令・李安源である。彼は無弦と霜華の姿を一瞥し、目を細めた。
「……」
---
一方、都の西門。
仮面の男は、城壁の影から都を見下ろしていた。街道を進む黒衣の姿。姿勢、歩幅、そして剣気の流れ――
「“舞桜”、か」
右目を覆った深紅の面布。静かな怒気。十年前、白虎との死闘で右目を負傷した復讐者。かつて沈剣門の一部として無弦と共にあった舞桜は、今、血桜の一員となっていた。そして復讐のためにその足を都に踏み入れた。
「忠告は無駄か...」
仮面は静かに姿を消した。
---
その日の午後、霜華はひとり、細い裏通りを歩いていた。
(無弦、急にいなくなるなんて。....先ほど、明らかにおかしな様子だったけれど。)
「寺院は……こちらで合ってるかしら」
思案に沈みながら角を曲がった瞬間、空気が変わった。
ピタリ、と。
一切の音が止んだ。
「……誰?」
霜華が静かに問いかける。だが返答はなかった。
代わりに、微かな風――
それが空間を裂いた瞬間、目の前に黒衣の影が現れた。
女だ。漆黒の装束に身を包み、右目を血のような赤布で覆っている。
手には、月光すら吸い込むような細身の刃。
空気が、一気に凍りつく。
霜華は即座に刀に手をかけ、鞘を鳴らすことなく抜き放つ。
構えながら、女の足取りをじっと見つめる。
その動きは静かで、けれど不気味なほど滑らかだった。
踏み出すたびに、まるで血の香りが風に乗るような錯覚すらある。
「白泉門の門主に守られて、のうのうと生きているとはな……滑稽なものだ」
女は、冷ややかに言い放つ。
「……白泉門の門主?」
霜華の眉が僅かに動く。手は腰の刀を強く握り直した。
女は、ゆっくりと赤布に覆われた右目に手を添えた。
「この目が分かるか? 十年前、あの男に斬られた。私の右目は、奴――白泉門の門主の刃で潰されたのだ」
その言葉が、霜華の胸に突き刺さる。
(無弦が……白泉門主……?)
瞬間、信頼の影が、揺らいだ。
無弦が自分に近づいたのには、何か裏がある? 霜華は一瞬、疑念を抱いた。
一瞬の迷い。
その隙を、女――舞桜は逃さなかった。
刃が、風のように音を断ち、霜華の喉元へと迫る。
咄嗟に霜華は剣を掲げ、鋼と鋼がぶつかる火花が宙を散らした。
「無弦をおびき寄せる餌になってもらおう」
舞桜の声とともに、怒涛の斬撃が霜華を押し込む。
霜華は舞桜の剣を受けながら、話しかける。
「私は守ってもらっていた覚えはないのだけど!」
一撃ごとに、間合いは狭まり、霜華の防御はわずかずつ削り取られていく。
刃の一振りが袖を裂き、次の一閃が髪先をかすめる。
あと一寸、ずれていれば、命を落としていた――
それほどの剣筋。容赦のない殺意が、その刃に宿っていた。
だが、霜華を苛んでいるのは、それだけではなかった。
霜華の体内では、先日古寺で学んだ秘奥の内功が、まるで目覚めた獣のように暴れ出していた。
舞桜の剣圧と殺気が霜華の気を刺激し、制御しきれなかった内力が勝手に活性化してしまったのだ。
「……っ!」
喉の奥から熱が込み上げ、霜華は思わず膝を折りそうになる。
喉が熱を帯び、声にならぬ呻きが漏れる。
気は、まるで滝のように血脈を逆流し、四肢を焼くように駆け巡っていく。
制御が、効かない。
(だめ……このままじゃ……)
暴発する――!
霜華は咄嗟に意識を丹田に集中し、呼吸を整えようとする。
だが、ただでさえ戦闘中。半身で気を抑えるだけでも精一杯だ。
意識のほとんどを内力の制御に取られた霜華の剣は、目に見えて鈍くなっていく。
そこを、舞桜は見逃さなかった。
殺意を滲ませた剣閃が、風を裂いて霜華の喉元へと迫る。
「──!」
反射的に霜華は身を翻し、間一髪で致命を避けた。
だが、肩口が深く裂け、鮮血が宙を舞う。
呼吸は乱れ、視界は霞む。
それでも霜華は、決して倒れなかった。
体内の熱と暴れる気を必死に押し殺し、歯を食いしばる。
(落ち着け……)
しかし、状況は確実に悪化していた。
舞桜の剣は、刻一刻と霜華の命を刈り取るために研ぎ澄まされ、霜華の内では、もう一つの危機――秘めた力の暴走が刻々と迫っていた。
二重の追い詰め。
霜華は、まさに絶体絶命の淵に立たされていた。
だが、舞桜もまた、違和感に苛まれていた。
(――なぜ、倒れない?)
刃を振るうたび、確かな手応えがあった。
霜華の剣は明らかに鈍っている。
それなのに。
「……ッ!」
舞桜の剣閃を霜華は必死に受け止め、あるいは身を削り、寸前で致命を避け続けていた。
傷は深まり、呼吸は荒く、足元も覚束ないはずなのに――その技は鋭さを増していく。
(おかしい……)
舞桜は、苛立ちを覚え始めていた。
これまでの戦いで、彼女は数多の敵を斬り伏せてきた。
無駄な足掻きは、いずれ刃に屈する。それが常だった。
なのに、女の内より、さらに鋭く、さらに純粋な「剣気」が、溢れ出す。
(何者だ、この女……!?)
驚きは、恐れに。
恐れは、理屈を超えた直感的な危機感へと変貌しつつあった。
目の前にいるのは、ただ白泉門の門主に守られた女などではない。
刃を交えるたび、舞桜の心に、そうした認識が深く刻まれていく。
(このままではまずい!)
そう感じた舞桜は、内功を出し尽くす勢いで霜華の剣を追った。
舞桜の刃が迫る。
その瞬間。
「やめろ」
低く鋭い声が、二人だけに聞こえる。
風が走ったかと思うと、霜華と舞桜の間に、ひとつの影が割り込んだ。
無弦だった。
その手には、すでに鞘から抜かれた剣。舞桜の刃と交差した一瞬、その殺気のすべてを切り裂いた。
「……無弦」
舞桜の声が震える。
無弦は何も言わず、霜華を背にかばうように立った。
「...大丈夫か」
霜華は、目の前の男を見つめながら、震える声で口を開いた。
「あなた……」
無弦は霜華の声色から、聞こえなかった問いを感じ取ったが、沈黙した。
舞桜は一歩引いた。その目には、十年前の幻影が重なっていた。
「……やはり、貴様か。あのときと変わらぬ、いや……さらに鋭く、深くなったな」
「お前が変わっていないだけだ」
無弦の声は低く静かだった。
「未だに“過去”に縛られた剣では、俺には届かない」
「ほざけ──!」
舞桜が踏み込む。風が巻き上がる。
二人の剣が交差するたび、空気が震え、通りの瓦が揺れた。霜華は後方に退きながら、目を見開いて二人の技を見つめた。
二人の武威に目を奪われる。
舞桜の剣は鋭く、殺気を帯びていた。だが、無弦の剣はそれを受け止めるだけでなく、導くように流し、削り、無に返してゆく。
十合。二十合。
舞桜の額に汗が浮かび、呼吸が荒くなる。
「貴様……なぜ、あのとき、私を殺さなかった」
「殺す理由がなかった。お前はただ……俺と同じように、“誰かに命じられた剣”だったからだ」
その言葉に、舞桜の動きが止まった。
無弦は、静かに剣を納めた。
沈黙が流れる。
やがて、舞桜は刀を下げふらりと後ずさり、壁に背を預けた。
「……貴様には、勝てぬ」
「なら、退け」
「...また来る。貴様も、いずれ過去に呑まれるぞ」
そう呟いて、舞桜はその場から去った。影のように通りに溶け、風のように姿を消した。
---
しばらくして。
無弦は霜華のほうを向く。彼女の表情は硬いままだった。
「あなた……白泉門の門主なの?」
「……言う必要があったか?」
無弦は冷たいと思えるほどの声色でそっけなく答える。
「本当に……白泉門主なのね?」
「……ああ」
短く頷く。霜華のまなざしは、揺れていた。
「じゃあ、あなたが私に近づいたのは、なぜ?」
その問いに、無弦はすぐには答えなかった。だがやがて、視線を地に落としながら言った。
「成り行きだろ?」
「……成り行き....」
「偶然会って、都まで来た。その後はお前も知る通りだ」
無弦は興味もなさそうな視線を霜華に向けながら言葉を重ねる。
霜華は無弦の様子に、不安を覚える。明らかに急に冷たくなっている。
心の中に渦巻く感情。信頼と疑念、安堵と怒り、理解と迷い。だが、確信もあった。
(この人は、私に危害は加えない)
それだけは信じていた。
霜華は小さく息をつき、顔を上げた。
「……いいえ。とにかく、助けてくれてありがとう」
「狙いは俺だったからな、迷惑をかけた」
ふたりは静かに並んで歩き出した。
都の空に、夜風が吹く。
その風は、まだ冷たかった。
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翌る日、日差しが玉座の上に柔らかく差し込む中、朝廷の大広間では重臣たちが居並んでいる。静寂のなかに重々しい空気が流れていた。
「陛下、后位が空いてすでに三年。このままでは内廷の均衡を欠き、朝廷の威信にも関わります。そろそろご決断を――」
声を上げたのは、丞相・蒼文霓。
無弦の母親である先代皇后が二十年前に暗殺されてから、二人の皇后が立ったが、いずれも短命で命を落としていた。
衣の袖をたたみ、堂々たる態度で皇帝に進言する蒼文霓には、威厳と策略が同居していた。
「……誰を后に据えると申す」
皇帝の声は低く、どこか興味を欠いた響きだった。
「ひとつ案がございます。家門の出も、品性も、政に通ずる才も持ち合わせた、淑妃が最適かと」
その言葉に、空気がわずかに揺れた。
すかさず、侍中・干瓢が進み出る。
「陛下、拙速な決定は政に禍を招きましょう。淑妃は蘇家の出。丞相家門とあまりにも近しく、内廷に偏りを生じます。慎重なる御決断を」
蒼文霓の眉が、かすかに動いた。
「侍中、まさか陛下の后をお決めするのに、“家門が近い”などというくだらぬ理由で反対をするつもりか?」
「我が国の后は、天下に姿を示す存在。血縁よりも、民に範を示す徳こそが必要と存じます」
二人の間に火花が走った。
だが、その間で皇帝は微動だにせず、ただ静かに臣下のやりとりを眺めていた。
やがて、玉座の上で皇帝が目を閉じたまま口を開く。
「后位については見合わせよう。進言は受けた。ゆえに、今は静観が良い」
その声は、まるで興味も感情もないようだった。
「……陛下」
蒼文霓が一歩前に出ようとしたが、皇帝はすでに席を立ち、背を向けていた。
皇族の権威を保つには、臣下同士を争わせておく。それが、彼の“帝王の術”であった。
---
その日の夕刻、蒼邸。
静寂の中、書斎に響くのは陶器が砕ける音。
蒼文霓は机を叩き、投げた茶器が床に激突して粉々に砕け散った。
「……あの若造が!」
若造、侍中のことである。
背後で控えていた従者が、おそるおそる声をかける。
「……左様にお怒りを召されずとも、陛下はまたお考えをお変えになることも……」
「黙れ」
蒼文霓の目には怒りの火が宿っていた。
「后位は、我が蒼家が手に入れる。誰にも、渡さぬ」
仮面のように冷たいその表情の裏に、欲望と策謀の影がひしめいていた。
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同じ頃
夜風が吹き抜ける高台に、無弦は独り立っていた。
遥か下に広がる都の灯りが、揺らめく海のように見える。
その海の中に、彼女——霜華もいるのだと思うと、胸の内に言葉にできぬ痛みが広がった。
(……まさか霜遠の娘とは)
無弦は目を閉じた。
あの瞬間、刺客の刃から霜華を守ったとき、自分でも驚くほど自然に身体が動いていた。
誰よりも速く、誰よりも鋭く。
彼女を救うために、隠していた力の一端を解き放った。
それは、彼がこれまで誰にも見せたことのない、本当の姿だった。
そして、あのとき確信した。
心の奥深くに、わずかだが彼女を想う感情が芽生えていることに。
(だが……)
無弦は拳を握りしめた。
自らが、その父を殺めたという、消しようのない過去。霜華にとって自分は、憎しみの対象であること。
その事実が、無弦を冷静にさせた。
(……悪縁、だな)
彼女といれば、いずれ真実は避けられなくなる。
そして、そのとき霜華はきっと、自分を憎むだろう。
それは当然のことだ。
それが当然であるほど、無弦の心は引き裂かれそうだった。
(……遠ざけねば。俺から遠く、二度と会えぬように)
冷たく、非情に。
彼女を、都から遠くへ。
沈剣門の残された手掛かりが隣国にある——たとえ偽りでも、そう告げてでも。
一緒にいることに安らぎを感じ始めていた。
誰かと寄り添い、共に歩む未来を、初めて夢想した。
だがそれは、許されない。
無弦は夜空を仰ぎ、唇を強く噛んだ。
心に滲む苦さは、かつてどんな戦いよりも、どんな絶望よりも、耐え難かった。
無弦は、夜明け前の静寂を突き破るように、歩き始めた。
彼女はまだ気づいていないだろう——これから、自分がどれほど冷酷な嘘をつこうとしているかを。
霜華の部屋の扉に立つと、無弦はそっと戸を叩いた
「……無弦?」
中から聞こえた声は、少し眠たげで、それでもどこか安堵を含んでいた。
扉が開かれ、薄明かりの中、霜華が姿を現す。
「こんな時間に……どうしたの?」
無弦は答えず、ただ静かに霜華を見つめた。
彼女の長い髪はまだ少し乱れ、寝間着の袖を押さえながら、戸口に佇んでいる。
その無防備な姿に、胸が締めつけられる。
無弦は目を伏せた。
そして、できる限り冷たく、無感情な声を絞り出した。
「……沈剣門に関する情報が、見つかった」
霜華は目を見開いた。
「え……」
「隣国・南楚に、沈剣門の残党が集まっているらしい。そちらに向かうべきだ」
「え……でも…」
「あの夜の沈剣門の残党も、散り散りに南楚に向かったそうだ」
無弦は霜華の言葉を遮って、言葉を発しながら顔を背ける。
その瞳を見れば、心が揺らいでしまうと分かっていたから。
「それに、都には、俺のせいでお前を狙う者たちがいる。これ以上、無用な危険に身を晒すべきではない」
霜華は、無弦の感情のない声に、言い訳じみた色を感じ取っていた。
(....私が、邪魔なのね)
霜華は唇を噛んだ。
言葉を返そうとしたが、無弦の冷たい態度に、俯いて言葉を紡ぐのが精一杯だった。
「……私が足手纏いってこと...」
絞り出すような声だった。
無弦はその震えを聞いてしまったが、顔には一切出さなかった。
「早い方がいい。南楚への商隊が、数日後に発つ。手筈は整える」
「……」
霜華は拳を握りしめて震えていた。
その姿を見て、無弦は胸の奥を切り裂かれる思いだった。
(許してくれ、霜華)
(お前の未来に、俺はいてはならない)
霜華は無理に微笑み、声を整えて言った。
「そ、……わかったわ」
無弦は何も言わなかった。
言えば、全てが崩れてしまう気がした。
霜華はふと、じっと彼を見上げた。
無弦の瞳には、どこか拭いきれない不安と——わずかな期待が宿っていた。
(どうか……)
(どうか、俺の罪を知らずに、生きてくれ)
無弦は、僅かに頭を下げた。
「……休め。明日から、道は長い」
それだけを言い残し、無弦は背を向けた。
霜華の小さな手が、今にも自分を引き止めそうな気がしたが、振り返らなかった。
宿から離れるにつれ、無弦の背に重くのしかかるものが増していく。
その歩みは、まるで鎖で縛られたかのように、鈍く重かった。
(…これでいい…)
月は静かに高く昇り、無弦の孤独な影を地に長く引き伸ばしていた。