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想連思  作者: 雪村 澪
第ニ章:秘密
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深夜の戦い

その夜、もう一人の“影”が、都のはずれの石橋に降り立っていた。


着流しの僧衣に、粗末な木札を下げた初老の男。だがその背筋はまっすぐで、気配はまるで霧のように読めない。


橋の下に、小さな紙燈籠がひとつ浮かんでいる。


「……あの方より、御伝言を。しばらくは白泉門に身を潜める、と」


囁くような声が闇に溶けた。


橋の影から現れた若い男が、軽快に目を走らせながら僅かに頷く。

白泉門とは、その昔、六皇子が暗殺された後、その残党が寄り集まり結成された新参の門派で、その後各地の不芸者を取り込み現在ではその数1500名を超える、一大門派となっていたが、本拠地や門主の出生などの情報は秘匿されていた。


「“鷹の眼”は東へ飛びました。目標の女は都に入りましたが……“あの方”と行動を共にされています」


初老の男は静かに目を細めた。


「そうか……では若が知るのも時間の問題だな」


男の声には、懐かしさと同時に、深い決意があった。


「ならば、我らも備えねばならぬ。目的が世に知られる前に──」


---


翌日、霜華は一人、都の外れにある小さな古寺を訪れていた。


かつて、父と訪れた場所。まだ彼女が十にも満たなかった頃、父がこの寺の住職と親しく話す姿が蘇る。


石畳の上に立ち尽くし、霜華は手を合わせる。


(父様……私、間違っていない?)


父を失ってから十年。その空白を埋めるように剣を振り、強くあろうとした。けれど、心のどこかにずっと残る影がある。


「真相なんて、本当は……知るのが怖いのかもしれない」


自ら呟いた言葉が、あまりにも静かで、胸に刺さる。


そのとき、本堂の奥から静かに現れた老僧が、手を合わせる。


「忘れたいものほど、刃は深く刻まれる。だが、刻まれたからこそ、人は前を向けるのです」


老僧はそう言って、本を霜華に手渡した。


「これを。あなたが行く道の標になるでしょう。ただし、誰にも見せてはいけない。そして、覚えたら必ず燃やしてしまいなさい。」


霜華は老僧から受け取った古い本を両手で恭しく抱えた。表紙には文字はなく、ただ風化した皮革の上に幾何学的な模様が刻まれているだけだった。


「寺の奥の小部屋をお使いください。誰にも邪魔されません」


霜華は頷き、案内された小部屋へと足を進めた。部屋には古い座布団と小さな机、一つの行灯があるだけだった。


霜華は渡された書物を、静かに開く。古い竹簡を綴じたようなそれは、どこか血の匂いすら感じさせる異様な気配を帯びていた。


頁を繰ると、そこには剣の技ではない、不思議な文字列が並んでいた。

気の流れ、呼吸、意識のあり方、そして「内なる力」の扱い方――それらが、まるで語りかけるように記されている。

読めば読むほど、霜華の意識は澄み、周囲の空気が震えるのがわかった。


「……これは――」


無意識に呼吸が深くなり、丹田に集まる気が膨れ上がる。

剣を学んだ時には決して得られなかった、まるで天地と一体化したかのような感覚が、霜華の内側を満たしていく。

全身が熱く、同時に澄み切っていく。意識せずとも、動くだけで周囲の気配を読み、制することすらできそうだった。


「すごい……。」


驚愕と畏怖が入り混じる中、霜華は顔を上げた。

もしかすると、これを習得出来れば、失った内功を取り戻せるかもしれない、そう思った時だった。


奥に佇む老僧――先程、本を手渡したその人物が、既に霜華のすぐ傍に立っていた。


その掌には、いつの間にか霜華が読んでいた本がある。

老僧は迷いなく、それを燭台の火に翳した。


「なっ……!」


霜華が制止する間もなく、乾いた紙片は一瞬で燃え上がる。

炎は淡く青く、まるで魂でも焼くかのように静かに、しかし確実に全てを灰に変えていった。


「どうして……!」


霜華は思わず声を荒げる。

老僧は、微笑とも悲しみともつかぬ表情で、静かに答えた。


「力は時として、人を惑わせる。あなたは聡く、善き心を持っている。だが、復讐の念と共にそれを用いれば、己もまた破滅するだろう。」


霜華は息を呑んだ。


――たしかに。

父の死の真相を探る目的は、父の仇を討つためだった。そのためなら、死さえ恐れぬ覚悟がある。


老僧はそっと目を閉じた。


「この世には、知ってはならぬ道がある。

それを伝えたのは、あなたが歩く道に平安はないため。全ては決まっている。今あなたが歩むべき道も、また然り。」


「……決まっている?」


霜華は思わず聞き返した。

老僧は、それ以上何も語らず、ただ合掌し、背を向けた。

それは、もうこれ以上は問うなという、静かな拒絶でもあった。


取り残された霜華は、燃え尽きた灰を見つめ、拳を強く握る。


(……私は、どう歩むべきなのか。)


その瞳には、迷いの奥に微かな決意が宿っていた。

父の面影と、無弦の姿が、交錯するように脳裏に浮かんでいた。


そして、霜華は静かにその場を後にする。


---


同じ頃、蒼文霓の居館の奥、灯もない広間に、一人の男が座していた。


上半身を露わにした体には、幾筋もの古傷。目を閉じたまま、呼吸すら静かだった。


やがて、蒼文霓が姿を現す。


「“血桜ちざくら”を起こせ」


「...仮面は関わるなと申しておりましたが」


「あやつは慎重すぎる。力量を測るためにも、血桜は良い試金石となろう」


「...承知」


男はゆっくりと立ち上がり、消える。


「久方ぶりに──」


蒼文霓は一歩引き、静かに扇を開いた。


「面白くなりそうだ──」


---


無弦は、再び湯屋の屋根の上に立っていた。

月が昇る。

その白い光が、彼の瞳に淡く差し込む。


(仮面が動いた。蒼文霓も、ただでは済ますまい。)


「来るか」


その言葉は、夜の静けさに溶けていった。

やがて遠くで、風の中に金属が交わる音が響くのが聞こえ、無弦の耳に、風を切り裂く音が届いた。月明かりの下、彼の鋭い目は遠くの屋根の上で繰り広げられる影の舞を捉えていた。

部下たちと覆面の集団—血桜ちざくらの刺客たちだ。

無弦は一瞬で状況を読み取った。部下2名が8名の敵と交戦している。刃と刃がぶつかる音、足音、息遣い—すべてが彼の耳に届く。不利な状況だった。


ふとその場で足を蹴ると、無弦は風のように身を躍らせた。屋根から屋根へ、軽やかに着地し跳躍を繰り返す。その動きは月の光さえ追いつけないと思えるほどだった。

戦場に近づくにつれ、苦戦する部下たちの姿が見えた。最も若い部下の遊鷹が片膝をついている。彼の右腕から血が滴り落ちていた。


「門主!罠です!」


声を上げたのは、無弦の腹心の鉄守だったーーが、彼の警告は遅すぎた。

無弦の前に二人の刺客が立ちはだかる。月の光に照らされた仮面は、血の色に染まっていた。

覆面の男の眼は、薄氷のように冷たく無弦を見ていた。


「殺手か」


無弦はそう言うと剣を抜かず、両手を広げた。彼の姿勢は防御ではなく、挑発だった。

刺客たちは即座に動いた。一人が前から、もう一人が後ろから。息の合った連携攻撃。

無弦はわずかに体を傾けただけで、前方からの刃を避けた。同時に、背後からの攻撃を感じ取り、左手で相手の手首を掴んだ。その動きは、まるで風が葉を撫でるように自然だった。


「遅い」


彼は左手に掴んだ刺客を、前方の敵に向かって投げ飛ばした。二人の体が空中で激しくぶつかり、屋根の瓦を砕いて落下していく。

戦場を見渡すと、遊鷹が二人の刺客に囲まれていた。無弦は地面を蹴り、風切り音も立てずに彼らの間に着地した。


「門主!」


遊鷹の目が驚きで見開かれた。

無弦の手が閃いた。彼の掌が一人の刺客の胸に触れ、相手は叫び声一つ上げずに吹き飛んだ。もう一人の刺客が背後から接近してきたが、無弦はすでに気配を感じ取っていた。


回転しながら、彼は初めて木鞘から剣を引き抜いた。しかし刃を向けるのではなく、鞘のままの剣で相手の首筋を打った。刺客は息を詰まらせ、意識を失って崩れ落ちた。


「大丈夫か」


無弦は遊鷹に手を差し伸べた。


「はい、軽傷です」


別の場所では、鉄守が三人の敵と対峙していた。彼の動きは力強く、重厚だったが、数に押されつつある。無弦はその方向に目をやると、静かに歩き出した。

無弦が纏う異質な空気に、戦いが一瞬止まる。

敵も味方も、その存在感に息を呑む。無弦の体から漏れる気が、空気を震わせていた。


「強い…」


血桜の首領らしき男が前に出た。他の者より一回り大きな体躯に、赤い模様の覆面。


「これが貴方の力量ならば、主もご満足のはず」


無弦の目が冷たく光った。


「蒼家の手駒ではないな?何のために来た」


「試すため」


男は両手を広げ、隠し持っていた二振りの短刀を構えた。


「...どこまで届くか」


一瞬の間があり、そして光が閃いた。

無弦と首領の姿が交差する。二人の速度は、普通の目では捉えられないほど速かった。彼らの動きは、まるで風と風がぶつかるように激しく、それを見ていた鉄守は、首領が今まで本気ではなかったことを悟った。


剣と短刀が何度も交わり、火花が散る。


「速い」


首領の声に、わずかな驚きが混じっていた。

無弦は答えず、一歩踏み込んだ。剣を振るう手は、まるで幻のように複数に分かれたように見えた。


「幻影剣法…!」


首領が叫んだ時には遅すぎた。無弦の剣が相手の防御を破り、覆面を真っ二つに切り裂いた。

顔を露わにした首領の顔に、驚きが広がる。しかし無弦は致命傷を避け、ただ剣の峰で相手の肩を打った。


「帰れ」


無弦の声に、絶対的な威厳があった。


「誰の手のものか知らないが、次はない。」

「これは始まりにすぎないぞ」


血桜の残りの刺客たちは、負傷した仲間を担ぎ上げると、闇に消えていった。

月光が、無弦の穏やかな表情を照らした。


多勢に無勢で傷だらけになっていた鉄守が、屋根の上から降りると口を開いた。


「何モンですか?」


「さぁな。見たことのない技だったが。」


無弦は刀を鞘に収めながら答えた。

遊鷹が右腕を押さえて足を引きずりながら歩いてくる。


「いてて...。」


「大丈夫か?」


鉄守が遊鷹を見て半分呆れたように声を掛ける。


「かすり傷ですよ。でもあいつら、多勢で来やがって...」


無弦はそんな遊鷹を見て口の端を上げる。


「...いい訓練になっただろ。最近稽古をサボってたんじゃないか?」


「うわ、酷いなぁ。もう。」


遊鷹は、三人が親密な仲なのが分かる口調でそう言うと、引き摺っていた刀を鞘に収めた。

鉄守が自分の肩から腕布を破りとると、遊鷹の右腕、出血部の上に巻いてきつく血止めをする。

そして真剣な眼差しで無弦を振り返った。


「懐かしい顔に会うのも、そう遠くはないな」


無弦の目は遠くを見ていた。まるで過去と未来の両方を見つめるように。


「準備しろ。また来るぞ」


夜風が強くなり、彼の言葉を遠くへ運んでいった。

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