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想連思  作者: 雪村 澪
第ニ章:秘密
5/15

小さな灯

二人は夜の通りを歩いていた。

沈黙の中、霜華がふいに立ち止まり、夜空を見上げながら口を開く。


「……祠には、あなたは来なくていい」

言い切る声は静かだが、強い意志がこもっていた。


無弦は歩みを止め、霜華を横目に見た。

「一人で行く気か」


「当然でしょ」


霜華はきっぱりと言う。

その目はまっすぐで、揺らぎがない。


無弦は一瞬、口を閉ざした。

だが、すぐにかすかに息を吐き、低く答える。


「……危険だぞ」


その声音には、いつも以上に感情が滲んでいた。

霜華が眉をひそめる。


「今までも一人だったし、私、強いのよ」


そう言い切る霜華を、無弦はまっすぐ見た。

そして、あくまで落ち着いた声で言う。


「沈剣門の残党が相手だ。何が待っているか分からないぞ」


霜華は口を開きかけたが、無弦はそれを制するように、軽く右手を上げた。

そして、淡々と告げる。


「俺も行く」


それは命令でも、押しつけでもなかった。ただ、ごく自然な決意だった。


霜華は苦笑した。


「付き合いがいいんだか、面倒くさいんだか……」


霜華は、無弦の真剣な目を見て、諦めたようにため息をつくと、ぽつりと呟く。


「……勝手にすれば」


無弦はそれを聞くと、霜華の気持ちを知ってか知らずか、ふっと小さく笑った。

二人は並んで歩き出す。

夜の空気の中、寄り添うでも、離れるでもなく、ただ自然に。


----


西の外れにある朽ちた祠は、月のない闇に沈んでいた。

無弦と霜華は、その外れた木立の中、深い影に身を潜め、祠を遠巻きに見張っていた。


静寂の中、霜華が低く囁く。


「……誰もいないように見えるけど」


無弦は視線を鋭く光らせたまま、首を横に振る。


「待て」


じっと木陰に潜み続けるうちに、夜の闇の中から、黒い影が一つ、また一つと現れ始めた。

無言のまま、祠へと吸い込まれていく。


やがて、それは一人、二人では済まなくなった。

数え切れないほどの人影が現れ、祠の周囲に集まり始める。


「……五十、いや、もっといるか」


無弦は低く息を呑んだ。


想像していたよりも、遥かに大人数だった。

沈剣門の残党が、これほどまでに生き延びていたとは――。


木陰の中で、無弦は無言のまま耳を澄ませた。

やがて、祠の中から、男の声が響いてくる。


「……主の命はただ一つ。西の国境、崖涵城を襲え。血と火で城を包み、隣国・北楚の仕業に見せかけろ。混乱が広がれば、朝廷もまた揺らぐ。――それが我らに課せられた役目だ」


ざわめく気配の中で、命令を受けた者たちは膝をつき、頭を垂れていた。

無弦はその光景を、木立の影から目を凝らして見つめる。


(――大逆だ)


無弦の胸中に、冷たい戦慄が走った。


沈剣門の亡霊たちが、ただ生き延びているだけではない。

彼らは今、誰かの命を受け、国を揺るがす陰謀を実行しようとしている。


(……主とは誰だ)


無弦は眉をひそめる。

これだけの人数を束ね、国境の城を攻めさせるほどの影響力を持つ者――。

朝廷内部か、あるいは――。


思考を巡らせたそのとき。

カサリ、と音がした。


無弦は即座に身を強ばらせた。


音がした方向ー上を見ると、木に巻きついた蛇が乾いた枯葉を粉砕していた。

霜華はわずかに顔をしかめ、警戒対象方向を睨みつける。


「誰だ!」


祠の前に立つ男が鋭く声を張り上げた。

周囲の影が、一斉にこちらを振り返る。

無弦は咄嗟に、霜華の腕を引き寄せ、低く囁いた。


「走れ」


そして、夜の森を駆け出した――。


----


夜の森を、風のように駆けた。

枝が顔をかすめ、足元の下草が音を立ててはじける。

背後から、怒声と足音が次々に追いすがってくる。


「そっちだ! 逃がすな!」


「生かして返すな!」


怒鳴り声が夜闇を切り裂いた。


無弦のすぐ前を走りながら、息を殺して林の中をすり抜けた。

足場の悪い斜面も、濡れた苔も、気にしている余裕はない。


「数が多すぎる……!」


霜華が低く呟く。


「振り切るしかない」


無弦は短く答え、さらに速度を上げた。

彼の動きは獣のようにしなやかで、迷いがない。


だが追っ手もまた、獲物を逃がすまいと必死だった。

夜目に慣れた者たちが、音もなく木立をすり抜け、着実に距離を詰めてくる。


霜華は歯を食いしばった。

このままでは、やがて囲まれる――。


その時。


「こっちだ」


無弦が短く声をかけ、進路を急に右へと変えた。

霜華も迷わずついていく。


無弦は、細い獣道のような抜け道を見つけていた。

そこは木々が鬱蒼と茂り、追手が多人数で踏み込める場所ではない。


案の定、後ろの怒声がいくらか遠のいた。


「……行った?」


霜華が息を整えながら尋ねる。

だが無弦は、首を横に振った。


「まだだ。」


すぐそばで、足音が再び聞こえ始めた。

相手も手慣れた者たちだ。

完全に巻くには、さらなる時間が必要だった。


無弦は素早く周囲を見渡し、ひとつの判断を下す。


「――先に行け」


「は?」


霜華が振り向く間もなく、無弦は霜華の手を取った。

手が触れたことに、霜華は驚くが、

無弦は手を強く握りながら、低く、短く告げる。


「いいか。北へ向かって川を渡れ。そして川伝いに更に北へ五里ほど行ったところに、白峰庵という庵がある……そこで合流しよう」


「冗談でしょう」


霜華は即座に食ってかかる。


「こんなときに一人で残るなんて!?」


だが無弦は、微笑すら浮かべず、ただ静かに霜華を見た。


「二人とも生き残るためだ。いいか、北だぞ」


そして、霜華の手を離す。


霜華は一瞬躊躇したが、無弦の目を見つめると、北へ向かって走り出した。


霜華が北へ走るのを見届けると、無弦は東方面の森の中へ駆けていく。

闇の中で、二人の足音が、別々に消えていった。


無弦は、暗い森を駆け抜けながら、背後に散る殺気を感じ取っていた。

数が多い。想像以上だ。


(五十人どころじゃない。……百はいるな)


木々の間を縫いながら、無弦は手早く地形を頭に叩き込む。

霜華を北に走らせたのは、あの抜け道が安全圏に繋がっていたからだ。

そして、自分は――囮。


後方から飛び込んでくる気配を一つ、二つ、三つ。

無弦は足を止めず、腰の佩刀に手をかけた。


(余裕はないな)


霜華がいない。見られる心配も、もうない。

ならば、抑える理由もない。


静かに呼吸を整えると同時に、脚を止め、身体の向きを滑らかに返す。


木々の間から飛び出してきた三人が、闇に溶けたように動いた。


「……っ!」


一人目の剣が、無弦の頭を狙って振り下ろされる。


だが――無弦の姿は、その一瞬前にはもうそこにはいなかった。


「――斬っ!」


声にもならぬ呻きが漏れる。


無弦の剣が、細い月影のように一閃し、三人の喉元をほぼ同時に裂いた。

誰も声をあげることすら許されず、地面に崩れ落ちる。


無弦は、どこか冷めた目で倒れた者たちを見下ろし、次の気配にすぐ意識を向けた。


右手から四人、左の茂みからさらに三人。

続々と集まり、囲むつもりで動いている。


「囲め!」


「白装束の男だ!」


夜の森に声が響いた瞬間、無弦は一歩踏み込んだ。


剣が地を切り裂くように走る。

次の瞬間には、左右に展開していた七人が、目にもとまらぬ速さで切り伏せられていた。


無弦の動きは流れる水のように淀みなく、無駄の一切を削ぎ落としていた。

それはもはや剣技という域を超え、ひとつの「術」と呼ぶべきものだった。


無弦の繰り出す技を見て、沈剣門の残党のひとりが、震える声で呟く。


「……はっ……!白泉門の!」


「なに!? 白泉門だと……!」


名を聞いた途端、周囲の者たちは息を呑み、足を止めた。

警戒が一斉に広がる。彼らの前に立つ男は、まさしく白泉門の門主としての実力を明らかにしていた。


ひとり、またひとり。

無弦に向かう者は、例外なくその刃に沈められていく。

振るわれる剣は闇の中で淡く輝き、どこか神域に近い気配すら漂わせていた。


やがて、森に血の匂いが充満する。


「十……三」


無弦が小さく呟いた。

剣を振るいながらも、敵の数を正確に数えている余裕がある。


だが――。


(キリがないな)


倒しても、倒しても、湧いてくる。


彼は静かに剣を返し、周囲を一瞬見渡した。

右前方、倒木の影に、隙間――抜け道になるわずかな裂け目。


無弦は一息に駆けた。

追撃の気配があちこちから殺到する。


「止めろ!」


「逃がすな――!」


闇の中を、鋭い殺気と鋼が交差する。


無弦は刃を一閃させ、すれ違いざまに二人の敵の胴を裂き、血飛沫を浴びることなく駆け抜けた。

すべてが一瞬の判断、一撃の勝負。


その裂け目をすり抜けた瞬間、背後で怒声と足音が一斉に乱れた。


無弦は剣を納め、息を整えずに走り続ける。


(――白峰庵)


川に沿って北へ五里。

合流地点まではまだ距離がある。


霜華がそこへ向かっている。

なるべく多く敵を排除しておかなければならない。


夜の風が、無弦の頬を掠めていく。

森の木々を越え、彼はただ静かに、速く、闇の中を駆けた。


森を駆ける無弦の耳に、風を切る足音が重なった。

すぐ隣を、同じ速度で、一つの影が並走している。


無弦は横目でちらりと見る。

無言で走るその男は、鍛え抜かれた身体と、隙のない気配を纏っていた。


(……あれは)


一目で分かった。

この気配、この動き――昔、暗部にいた頃、自分と並び称された者たちと同じ空気。


余力を残しながら走っているとはいえ、遅れない。いや、むしろ、まったく並んでいる。


無弦は足を止めた。

同時に、その影も止まる。

互いに距離を取りながら、静かに向き合った。


森を吹き抜ける風が、二人の間を過ぎる。

無弦が構えると、男もまた、迷いなく剣を抜いた。


一閃。


空気が裂ける音とともに、互いの剣が交錯する。

重たく、鋭く、迷いのない一撃。


(……懐かしい)


無弦は、剣を受けながら奇妙な感覚を覚えた。

この太刀筋、この癖。

忘れるはずがない。


もう一度剣を交わした瞬間、無弦は口を開いた。


「……素慧兄さん」


剣が重なる。

互いに一歩も譲らず、鍔迫り合いの中、素慧の目が細められた。


「……無弦か」


低い、押し殺した声。


次の瞬間、素慧は無弦を突き飛ばすように剣を振るい、距離を取った。


二人の間に、再び静寂が落ちる。


素慧――かつて同じ沈剣門に属し、兄弟子として無弦を導いてくれた存在。

だが今、彼の目にあるのは、憎しみと痛みだけだった。


「お前が……お前がいなければ、沈剣門は……!」


素慧の叫びが、夜を震わせた。


無弦は、静かに剣を下げた。

素慧の怒りは痛いほど分かる。

無弦が出奔したあと、沈剣門は事実上壊滅した。

人々は無弦を裏切り者と罵った。

門主を殺して出ていった――そう思われていた。


(……だが、違う)


本当は、門主を殺したのは源董。

無弦は、その罪を着せられただけだ。


だが、そんなことを言ったところで、今の素慧に届くはずもない。


「兄さん……」


無弦は静かに言葉を紡いだ。


「まだ、あいつらの嘘に縛られているのか」


「黙れ!」


素慧が吠えた。


その剣には、ただの怒りだけでなく、苦しみも滲んでいた。

かつて可愛がった弟弟子を、今は殺さねばならない。

その矛盾に、素慧自身も押し潰されそうになっているのが、無弦には分かった。


(哀れだ)


無弦は心の奥で、そう思った。

素慧も、他の門人たちも――皆、源董の嘘に、騙されたまま。


「兄さん」


無弦は剣を構えながら、低く言った。


「俺は、あんたと戦いたくない」


素慧は目を細めた。


「掌門を殺しておいて、綺麗事を! 俺はお前を殺さねばならない。……俺たちを裏切った報いを、受けてもらう」


無弦は小さく目を伏せた。

この場で力を振るえば、素慧を倒すことはできる。

だが、素慧を斬れば、すべてが本当に終わってしまう。

誤解を解く希望も、赦しの未来もなくなる。


無弦は剣を一閃し、素慧の攻撃を受け流すと、瞬時に反転した。


「……すまない、兄さん」


低く呟きながら、森の奥へと走り出す。


素慧が怒声を上げて追ってくる気配があったが、無弦はそれを振り切るように、風のように駆けた。


(いつか、誤解が解ける日が来るなら……)


その一縷の希望だけを、胸に抱いて。

白峰庵へ向かう無弦の背を、冷たい夜風が押していた。


-----


一方、霜華は歯を食いしばりながら、ひたすら北へ向かって走っていた。

森を駆け抜ける冷たい風が、頬を叩く。


無弦の言葉――「川を渡れ」「北へ五里」――。


足元はぬかるみ、枝が腕を打った。

けれど、振り返る暇も、立ち止まる余裕もない。


背後には、かすかに追っ手の気配があった。

完全には撒ききれていない。

それでも、無弦が引きつけてくれた分、数は減っているはずだった。


(無弦……)


脳裏に、森の中で背を向けて走り去った男の姿が浮かぶ。


(……無事でいて)


霜華は心の中で、短くそう呟いた。

そしてまた、川のせせらぎを探して耳を澄ませる。


しばらくして――。


かすかに、水音が聞こえた。

その方向へ、迷わず駆ける。


やがて、月明かりも届かない森の中に、銀色の川筋が見えた。


冷たい水に足を踏み入れた瞬間、霜華は一瞬、躊躇いそうになった。

流れは速く、足元を取られそうだ。


けれど、振り返ったその一瞬の隙を、追っ手は見逃してはくれない。


「いたぞ!」


怒声が闇を裂いた。


霜華は迷わなかった。

短く息を吐き、全身の力を込めて川を渡り始める。


水は膝上まで上がり、冷たさに体温を奪われていく。

それでも、足を止めない。

無弦との約束、そして自分自身の誇りを胸に、ただ前へ進む。


川を渡りきったとき、背後の気配がいくつか、流れに足を取られて足止めされるのを感じた。


(今だ……!)


霜華は再び走り出す。

北へ、北へ――。


五里。

簡単な距離ではない。

だが、無弦を信じたのだ。

たどり着かなければ、無弦にも、何より自分自身にも顔向けできない。


息は上がり、足も限界に近づいていた。

それでも、折れることはなかった。


やがて、森が切れ、わずかに開けた丘の上に、朽ちた庵が見えた。


白峰庵――。


霜華は最後の力を振り絞り、その扉へと駆け寄った。

木の扉を押し開け、中へ飛び込む。


湿った木の匂いと、ひんやりした空気が、肩にまとわりついた。


ひとまず追っ手の気配はない。

霜華は背を扉に預け、静かに息を吐いた。


心臓が痛いほど打ち鳴っている。

それでも、目は閉じなかった。


(無弦……)


闇の中、ただ静かに耳を澄ませながら、霜華はじっと庵の中で待った。


----


静まり返った庵の中、霜華は身を潜めながら、じっと耳を澄ませていた。

吹き抜ける風の音、かすかな梢のざわめき――。

その一つ一つに、無意識に肩が強張る。


霜華は手の中で、刀の柄を握りしめた。

冷たく、乾いた空気が指先にまとわりつく。


どれほど待っただろうか。

時間の感覚はとっくに失われていた。


その時――。


庵の外で、かすかな気配が動いた。

息を呑み、霜華は身構える。


足音。

だが、それは追手たちの荒々しい踏み込みではなかった。

静かで、鋭く研ぎ澄まされた気配。


霜華は刀に手をかけたまま、扉のほうへと視線を向ける。


やがて、軋むような音を立てて、扉がわずかに開いた。


「……霜華」


低く、落ち着いた声が、闇の中から呼びかけた。


霜華は、ようやく力を抜いた。

刀から手を離し、扉へと駆け寄る。


そこにいたのは、血の匂いを纏い、衣を汚しながらも、まぎれもなく無弦だった。


「無弦……!」


思わず声が震える。

それを悟られまいと、霜華は慌てて言葉を継いだ。


「遅い、バカ」


無弦は、かすかに目を細めて笑った。

その顔に、無事を確認できた安堵が滲んでいた。


「悪い」


たった一言。

それでも、その声音にこもった感情は、十分すぎるほどだった。


霜華は無弦を庵の中に引き入れ、扉をそっと閉めた。


「追手は?」


「あらかた撒いた」


無弦は壁にもたれかかりながら答える。

しかしその身体は、どこか不自然に力が抜けていた。


霜華はすぐに気づく。

無弦の袖口に、滲む血の色。


「……怪我、してるじゃない」


(兄さんの剣を交わした時か)


無弦は「かすり傷だ」とでも言いたげに肩をすくめたが、霜華は許さなかった。


「見せて。今すぐ」


その語気に、無弦も観念したらしい。

静かに腰を下ろし、破れた袖を捲った。


そこには、深くはないものの、鋭い刀傷が走っていた。

そして、着ている服は殺したのであろう敵の血で赤黒く染まっていた。


霜華は無言で腰の袋から布と薬草を取り出すと、手際よく手当てを始めた。

無弦はされるがまま、黙って傷に薬を塗られていた。


「無茶しないでよ」


霜華は手を動かしながら、ぽつりと呟いた。


無弦は答えなかった。

けれど、その横顔に浮かんだわずかな笑みが、すべてを物語っていた。


霜華も、それ以上は何も言わなかった。

代わりに、丁寧に傷を包帯で巻き終えると、無弦の隣に腰を下ろした。


庵の中は、再び静寂に包まれる。

外では、まだ夜が続いている。

だが、この小さな庵の中だけは、かろうじて安らぎがあった。


霜華は壁にもたれ、天井を仰いだ。

そして、小さく呟く。


「……疲れた」


無弦は、その言葉に小さく頷いた。


「あぁ、少し寝ろ」


二人は、それ以上言葉を交わさなかった。

ただ、確かに互いの無事を感じながら、夜の静けさに身を任せた。


----


庵の中に、静かな夜が流れていた。

朽ちた壁の隙間から吹き込む風が、かすかに湿った冷気を運んでくる。


無弦は壁にもたれ、目を閉じたまま、静かに思考を巡らせていた。


(崖涵城が襲撃されれば、ただの国境の小競り合いじゃ済まない。北楚との間に、戦の火種が撒かれる)


それを企む「主」が誰なのか――まだ見えない。

だが、このまま放置すれば、国そのものが揺らぎかねない。


(……干瓢に伝えるしかないな)


干瓢。

今や朝廷で「侍中」の地位にあり、皇帝に直接言葉を届けられる数少ない存在。

白泉門を作り、無弦を門主に据えた男でもある。

誰よりも無弦を信じ、誰よりも無弦に期待している男。


彼にこの情報を渡し、即座に崖涵城の防衛を固めるよう動いてもらう。


だが、行動を起こすにはまだ情報が足りない。


沈剣門の残党――五十以上も集め、崖涵城襲撃という大それた計画を命じる「主」。

その正体を、必ず突き止めなければならない。が、どこから情報が漏れるか分からない。


(白泉門のものは動かせない。自力で探るか)


無弦は指先で膝を叩きながら、さらに思考を進める。


源董――。


師伯。

かつての沈剣門の長老。

そして、門主を謀殺し、沈剣門を崩壊させた張本人。


いずれ決着をつけねばならない。

沈剣門の真実を白日の下にさらすためにも、源董を放置するわけにはいかない。


(だが、今は……)


今はまず、崖涵城を救わねば。

それが最優先だ。


無弦は、頭の中で策を練り続けた。

考えなければならないことは山ほどある。


ふと、隣に目をやった。


霜華が、膝を抱えるようにして小さく身体を縮めていた。

吐く息が白く、肩を震わせている。


無弦は無言で立ち上がり、自分の外套を脱いだ。

そっと、霜華の肩にかける。

霜華はわずかに身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。


無弦は、しゃがみ込み、乱れた彼女の髪を指先でそっと整えてやる。

その額にかかる髪を、丁寧に耳にかけながら、ふと気付く。


(……落ち着く)


不思議だった。

霜華とこうしていると、妙に心が静かになる。

この危機の中でさえ、彼女の隣では、焦りや怒りが、すっと遠ざかっていく。


(……困ったものだ)


無弦は小さく苦笑した。


今は、こんな感情に浸っている場合ではない。

策を練り、動き出さなければならない。

なのに――。


指先に触れた霜華の髪の感触が、やけに温かかった。

無弦はそっと手を引き、再び壁に寄りかかる。


夜はまだ深い。

霜華が上着にくるまって、小さく息を吐く音が、静かに夜を満たしていた。


やがて、黒い空の端が、わずかに色づき始める。


(夜が明ける――)


無弦は静かに目を閉じ、もう一度、心を研ぎ澄ました。


庵の中には、弱いながらも確かな光が、じわりと差し込み始めていた。



夜明け。

白峰庵の中に、かすかな朝の光が差し込んでいた。


霜華は、かけられた上着の温もりに気づいて目を覚ました。

無弦の匂いがほのかに染みついていることに、気づいて、思わず頬を染める。


そっと目を開けると、庵の隅に、静かに壁にもたれた無弦の姿があった。


彼は目を閉じている。

だが、その表情は妙に柔らかかった。

いつもの、張り詰めたような気配が薄らいでいる。


霜華はそっと上着を抱きしめるようにしながら、小さく息を吐いた。


数刻後。


無弦と霜華は、都へ戻る道すがら、身なりを整え、目立たぬようにしていた。


無弦は白泉門に手配させていた密偵を通じて、干瓢への接触を取り付けた。

人目を避けるため、都の外れにある古びた茶屋で待ち合わせることになっていた。


茶屋に入ると、既に干瓢は席に着いていた。


若くがっしりとした体格と鋭い目つきは、老年の官僚をも圧倒する気迫を持っていた。


無弦が近づくと、干瓢は軽く顎を引いて合図する。


「――よく無事で来たな」


「こちらも命懸けだった」


無弦は低く答え、隣に腰を下ろす。


霜華は無弦の少し後ろに控えた。

干瓢の鋭い視線が一瞬、霜華を値踏みするように走ったが、すぐに興味を引っ込めた。


無弦はすぐに本題に入る。


「沈剣門の残党が動いている。数は五十を超える。集会とやらに参加していた五十ほどは始末しておいたが、まだ同数以上はいるだろう。狙いは、崖涵城だ」


干瓢の顔に、一瞬だけ緊張の色が浮かぶ。


「……北楚の仕業に見せかけるつもりか」


無弦は頷いた。


「その通りだ。連中の主がそう命じたらしい。実際に動くのがいつかは不明だが」


干瓢は目を細め、低く唸った。


「北楚の仕業に見せかけ、国境を騒がせる……」


茶碗を指先で回しながら、独り言のように呟く。


「……いや、国境を騒がせるだけでは済まんか」


無弦も小さく頷いた。


「崖涵城を襲撃すれば、都は軍を動かさざるを得ない。西の守りが薄くなれば、都の防衛も手薄になる」


干瓢の目が鋭く光る。


「つまり、崖涵城は囮だ」


無弦は木札を干瓢に渡しながら、さらに言葉を継ぐ。


「崖涵城を守る名目で、軍を率いる必要がある。……その志願者――軍を出したがる者が、黒幕の可能性が高い」


干瓢は木札を受け取り、しばらく黙考した後、低く呟いた。


「軍権を得るための口実か……」


「そうだ」


無弦は短く答える。


「表向きは北楚への対処を謳いながら、裏では都をがら空きにする。朝廷内の権力を握るための布石かもしれない」


霜華は、二人のやり取りを黙って聞いていた。

その内容の重さに、拳を強く握りしめる。

都を、国を揺るがす陰謀。

しかも、その陰で動いているのは、父を殺した疑いのある、沈剣門の残党たち――。


干瓢はしばらく考え込んでいたが、顔を上げると低く言った。


「無弦、お前は目立つな。……それから、目星のつく者を洗う」


「分かった」


無弦はすぐに応じた。


干瓢は立ち上がり、最後に霜華をちらりと見て、茶屋を後にした。


----


茶屋を出てから、霜華は無弦の横顔を何度もちらりと盗み見た。


(……何者なんだ)


あの干瓢――服装からして、高位の役人に見える。

そんな男と、対等どころか、ほとんどタメ口で話していた。


ただの江湖人じゃない。

少なくとも、普通の侠客ではないのは確かだ。


(沈剣門のことも色々知ってそうだし……)


ますます無弦への疑念は深まる一方だった。

それでも、霜華は無弦と行動を共にすることを決めていた。


(沈剣門のことを突き止めるまでは――)


「……無弦」


霜華は歩きながら呼びかけた。

無弦はちらりと視線を向けたが、何も言わない。


「どこに行くか知らないが……私も一緒に動く。ダメと言われても、着いていくから」


無弦は霜華を見た。

その目には、何の驚きもなかった。

むしろ、最初からそうなると分かっていたような、静かな受け止め方だった。


「勝手にしろ」


無弦はそう言い捨て、また歩き出す。

霜華は、無弦の後を追った。


----


日が傾き、二人は長屋の外へ出た。


人目を避け、情報を探るために、都の裏通りへと歩を進める。


何日も、密かに動く中で、二人の距離は自然と近づいていた。


無弦は、霜華が危険な場所に踏み込もうとすれば、無言で肩を引き寄せた。

霜華はそれを咎めることもなく、すっと無弦に寄り添った。


互いに、言葉少なに。

だが、確かな信頼が少しずつ築かれていく。


ふとした瞬間、霜華が振り返る。

無弦も同じように顔を上げ、目が合った。


一瞬、空気が止まった。


霜華はすぐにそっぽを向いたが、顔がわずかに紅潮していることに気づかれたくなかった。


無弦は何も言わなかった。

ただ、胸の奥に、また一つ、小さな火が灯るのを感じていた。


肩を並べて歩むという感覚。

そして、それを失いたくないと思う、自分自身への戸惑い。


(……困ったな)


無弦は静かに目を伏せ、霜華の小さな背を見守りながら、歩みを進めた。


都の裏道を、二人の影が静かに並んで進んでいった。


無弦と霜華は、人気のない路地裏を抜け、目指す場所――軍営に近い一角へと足を運んでいた。


二人は目立たぬよう、粗末な旅人の装いに身を包んでいる。

だが無弦は、常に周囲へ意識を張り巡らせていた。


(……不自然に静かだ)


街路には人影がまばらで、空気が妙に張り詰めている。

まるで、見えない網が二人を捕えようとしているようだった。


霜華も気配を察していた。

低く囁く。


「……無弦。何か、おかしい」


「ああ」


無弦は短く答え、霜華の肩を軽く叩いた。


「警戒しろ。下手をすると、罠だ」


その瞬間だった。

周囲の建物の陰から、黒衣の男たちが一斉に飛び出した。


十、二十、いや、それ以上。

すべて、殺気をまとった手練れだ。


「しまった」


霜華が咄嗟に刀を抜く。

無弦も一瞬で剣を構え、霜華を背に庇った。


男たちは言葉もなく、無言で二人を包囲する。

まるで、最初からこの場所へ誘い込むために仕組まれていたかのように。


無弦は冷静に状況を見極めた。

この数、この気――沈剣門ではない。

霜華がいる、また、敵が分からない以上、安易に実力は出せない。


更に、一人では突破できるが、霜華を連れてでは難しい。


(……なら)


無弦は、ほんの一瞬だけ考え、迷いなく決断した。


次の瞬間。


「霜華、伏せろ!」


無弦が鋭く叫んだ。

霜華は反射的にしゃがみ込む。


無弦は剣を翻し、霜華を完全に覆うように立ちはだかった。

迫り来る敵の刃を、すべて自分一人で受け止める覚悟で。


「うおおっ!」


三人が一斉に斬りかかる。

無弦は無駄なく、正確に刃を捌いた。


一人、二人、三人。

連続で倒す。

だが、敵はまだ群れのように押し寄せる。


任務でも、義務でもない。

理屈抜きに、霜華をこの地獄から遠ざけたい。

無弦はただ、そう思った。


無弦は、刃を振るう。

鋭い一撃で敵を後退させ、そのわずかな隙に霜華の手を取った。


「走れ!」


言葉少なに叫び、霜華を引っ張る。

霜華は無弦の腕の力に引き寄せられながら、必死で走った。

背後から飛んできた刃が、無弦の肩をかすめ、服を裂いた。

血の匂いが漂う。


「無弦!」


霜華が声を上げた。


「気にするな! 先を急げ!」


無弦は振り返らない。

痛みも、疲労も、すべて振り切るように、ただ前へ。


やがて、細い裏路地へ滑り込み、複雑に入り組んだ通りを抜けていく。

数刻の死闘の末、ようやく敵の気配が遠ざかった。


無弦は壁に背を預け、深く息を吐いた。

霜華も、肩で荒く息をしている。


無弦の肩口から、赤い血が滲んでいた。


「……無弦、バカ」


霜華は震える声で呟きながら、破れた布を引き裂き、無弦の傷口を押さえた。


「なんで……」


無弦は、苦笑にも似た表情を浮かべた。


「着いてくると言ったのを止めなかった俺の責任だからな」


それだけを言い、壁にもたれて目を閉じた。

霜華は、無弦の横顔をじっと見つめた。


(……こんな男、初めてだ)


心の奥で、何かが静かに、しかし確かに芽生え始めていた。


二人は、互いに言葉を交わさぬまま、夜の冷たい風に身を預けていた。



その頃、都では――。


干瓢は迅速に動いていた。


崖涵城の城主へ早馬を飛ばし、夜間の奇襲に備えるよう命じると同時に、城内の防衛を強化。

兵士たちは静かに配置につき、あたかも平時を装いながらも、完全な備えを整えていた。


結果、夜半に沈剣門の残党が襲撃を仕掛けたが――。

備えは完璧だった。


城壁は破られず、守備兵の損害も皆無。

沈剣門の一派は、まともな戦闘もできずに撤退を余儀なくされた。


だが、それだけでは終わらない。


干瓢は城主に命じ、朝廷への報告を細工させた。


「襲撃があり、援軍が必要」と――。


狙いは、黒幕を炙り出すためだった。

そしてことは、思惑通りに進む。


「援軍を率いる役目、私にお任せいただきたい」


朝廷の朝議の場で、真っ先に名乗りを上げたのは、皇太子だった。


端然とした顔の下に、野心を隠し切れずに。

軍権を握る好機を逃すまいと、強く前に出た。


干瓢は、すべてを冷ややかに見ていた。


(……やはり、か)


確信を得た。


すぐに、干瓢は皇帝に進言する。


「ご安心ください。結果の報告が後から参りました。崖涵城は無傷。援軍の必要はございません」


その報告に、皇帝はしばし目を細め、そして頷いた。


「左様か。ならば、兵を動かすまでもないな」


冷たく、淡々と。


皇太子はその場で表情を保とうとしたが、こめかみが震えていた。


(……侍中め)


怒りを押し隠し、深く頭を下げてその場を去った。


その男は、謁見の後、自室へと戻り、机を叩きつけるように拳を落とした。


「なぜだ……なぜ失敗した!」


顔は苦虫を噛み潰したように歪み、怒りと焦りが滲み出ていた。


(今回こそ、手柄を立てて父上に認めてもらう計画だったのにー)


すぐに一人の使者を呼び寄せる。


「蒼文霓へ伝えろ。すぐに連絡を寄越せ。……何が狂ったのか、探れとな」


使者は平伏し、静かに去っていく。


皇太子――とは言え、最近は第五皇子の方が次代皇帝には相応しいという噂もあり、この男は、焦っていた。

今回の失敗は、単なる失点では済まない。


(このままでは、皇太子の地位さえ失いかねない……)


冷や汗が額を伝うのを感じながら、男はただ暗い天井を睨みつけていた。


外では、都の朝が、静かに始まろうとしていた。


---


無弦と霜華は、ひとまず傷を癒すため、都の外れにある小さな宿に潜んでいた。


薄暗い部屋。

互いに怪我の手当てを終え、ほっと息をつく。


霜華は無弦の隣に座りながら、そっと横顔を見た。


ぼろ布を巻いた肩口。

血は止まっているが、傷は深い。


(あたしを守ったから……)


霜華は小さく拳を握った。


(無弦が傷つくのは、嫌だ)


それは、もはや否定しようがなかった。

が、まだ小さな灯に過ぎない。

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