小さな灯
二人は夜の通りを歩いていた。
沈黙の中、霜華がふいに立ち止まり、夜空を見上げながら口を開く。
「……祠には、あなたは来なくていい」
言い切る声は静かだが、強い意志がこもっていた。
無弦は歩みを止め、霜華を横目に見た。
「一人で行く気か」
「当然でしょ」
霜華はきっぱりと言う。
その目はまっすぐで、揺らぎがない。
無弦は一瞬、口を閉ざした。
だが、すぐにかすかに息を吐き、低く答える。
「……危険だぞ」
その声音には、いつも以上に感情が滲んでいた。
霜華が眉をひそめる。
「今までも一人だったし、私、強いのよ」
そう言い切る霜華を、無弦はまっすぐ見た。
そして、あくまで落ち着いた声で言う。
「沈剣門の残党が相手だ。何が待っているか分からないぞ」
霜華は口を開きかけたが、無弦はそれを制するように、軽く右手を上げた。
そして、淡々と告げる。
「俺も行く」
それは命令でも、押しつけでもなかった。ただ、ごく自然な決意だった。
霜華は苦笑した。
「付き合いがいいんだか、面倒くさいんだか……」
霜華は、無弦の真剣な目を見て、諦めたようにため息をつくと、ぽつりと呟く。
「……勝手にすれば」
無弦はそれを聞くと、霜華の気持ちを知ってか知らずか、ふっと小さく笑った。
二人は並んで歩き出す。
夜の空気の中、寄り添うでも、離れるでもなく、ただ自然に。
----
西の外れにある朽ちた祠は、月のない闇に沈んでいた。
無弦と霜華は、その外れた木立の中、深い影に身を潜め、祠を遠巻きに見張っていた。
静寂の中、霜華が低く囁く。
「……誰もいないように見えるけど」
無弦は視線を鋭く光らせたまま、首を横に振る。
「待て」
じっと木陰に潜み続けるうちに、夜の闇の中から、黒い影が一つ、また一つと現れ始めた。
無言のまま、祠へと吸い込まれていく。
やがて、それは一人、二人では済まなくなった。
数え切れないほどの人影が現れ、祠の周囲に集まり始める。
「……五十、いや、もっといるか」
無弦は低く息を呑んだ。
想像していたよりも、遥かに大人数だった。
沈剣門の残党が、これほどまでに生き延びていたとは――。
木陰の中で、無弦は無言のまま耳を澄ませた。
やがて、祠の中から、男の声が響いてくる。
「……主の命はただ一つ。西の国境、崖涵城を襲え。血と火で城を包み、隣国・北楚の仕業に見せかけろ。混乱が広がれば、朝廷もまた揺らぐ。――それが我らに課せられた役目だ」
ざわめく気配の中で、命令を受けた者たちは膝をつき、頭を垂れていた。
無弦はその光景を、木立の影から目を凝らして見つめる。
(――大逆だ)
無弦の胸中に、冷たい戦慄が走った。
沈剣門の亡霊たちが、ただ生き延びているだけではない。
彼らは今、誰かの命を受け、国を揺るがす陰謀を実行しようとしている。
(……主とは誰だ)
無弦は眉をひそめる。
これだけの人数を束ね、国境の城を攻めさせるほどの影響力を持つ者――。
朝廷内部か、あるいは――。
思考を巡らせたそのとき。
カサリ、と音がした。
無弦は即座に身を強ばらせた。
音がした方向ー上を見ると、木に巻きついた蛇が乾いた枯葉を粉砕していた。
霜華はわずかに顔をしかめ、警戒対象方向を睨みつける。
「誰だ!」
祠の前に立つ男が鋭く声を張り上げた。
周囲の影が、一斉にこちらを振り返る。
無弦は咄嗟に、霜華の腕を引き寄せ、低く囁いた。
「走れ」
そして、夜の森を駆け出した――。
----
夜の森を、風のように駆けた。
枝が顔をかすめ、足元の下草が音を立ててはじける。
背後から、怒声と足音が次々に追いすがってくる。
「そっちだ! 逃がすな!」
「生かして返すな!」
怒鳴り声が夜闇を切り裂いた。
無弦のすぐ前を走りながら、息を殺して林の中をすり抜けた。
足場の悪い斜面も、濡れた苔も、気にしている余裕はない。
「数が多すぎる……!」
霜華が低く呟く。
「振り切るしかない」
無弦は短く答え、さらに速度を上げた。
彼の動きは獣のようにしなやかで、迷いがない。
だが追っ手もまた、獲物を逃がすまいと必死だった。
夜目に慣れた者たちが、音もなく木立をすり抜け、着実に距離を詰めてくる。
霜華は歯を食いしばった。
このままでは、やがて囲まれる――。
その時。
「こっちだ」
無弦が短く声をかけ、進路を急に右へと変えた。
霜華も迷わずついていく。
無弦は、細い獣道のような抜け道を見つけていた。
そこは木々が鬱蒼と茂り、追手が多人数で踏み込める場所ではない。
案の定、後ろの怒声がいくらか遠のいた。
「……行った?」
霜華が息を整えながら尋ねる。
だが無弦は、首を横に振った。
「まだだ。」
すぐそばで、足音が再び聞こえ始めた。
相手も手慣れた者たちだ。
完全に巻くには、さらなる時間が必要だった。
無弦は素早く周囲を見渡し、ひとつの判断を下す。
「――先に行け」
「は?」
霜華が振り向く間もなく、無弦は霜華の手を取った。
手が触れたことに、霜華は驚くが、
無弦は手を強く握りながら、低く、短く告げる。
「いいか。北へ向かって川を渡れ。そして川伝いに更に北へ五里ほど行ったところに、白峰庵という庵がある……そこで合流しよう」
「冗談でしょう」
霜華は即座に食ってかかる。
「こんなときに一人で残るなんて!?」
だが無弦は、微笑すら浮かべず、ただ静かに霜華を見た。
「二人とも生き残るためだ。いいか、北だぞ」
そして、霜華の手を離す。
霜華は一瞬躊躇したが、無弦の目を見つめると、北へ向かって走り出した。
霜華が北へ走るのを見届けると、無弦は東方面の森の中へ駆けていく。
闇の中で、二人の足音が、別々に消えていった。
無弦は、暗い森を駆け抜けながら、背後に散る殺気を感じ取っていた。
数が多い。想像以上だ。
(五十人どころじゃない。……百はいるな)
木々の間を縫いながら、無弦は手早く地形を頭に叩き込む。
霜華を北に走らせたのは、あの抜け道が安全圏に繋がっていたからだ。
そして、自分は――囮。
後方から飛び込んでくる気配を一つ、二つ、三つ。
無弦は足を止めず、腰の佩刀に手をかけた。
(余裕はないな)
霜華がいない。見られる心配も、もうない。
ならば、抑える理由もない。
静かに呼吸を整えると同時に、脚を止め、身体の向きを滑らかに返す。
木々の間から飛び出してきた三人が、闇に溶けたように動いた。
「……っ!」
一人目の剣が、無弦の頭を狙って振り下ろされる。
だが――無弦の姿は、その一瞬前にはもうそこにはいなかった。
「――斬っ!」
声にもならぬ呻きが漏れる。
無弦の剣が、細い月影のように一閃し、三人の喉元をほぼ同時に裂いた。
誰も声をあげることすら許されず、地面に崩れ落ちる。
無弦は、どこか冷めた目で倒れた者たちを見下ろし、次の気配にすぐ意識を向けた。
右手から四人、左の茂みからさらに三人。
続々と集まり、囲むつもりで動いている。
「囲め!」
「白装束の男だ!」
夜の森に声が響いた瞬間、無弦は一歩踏み込んだ。
剣が地を切り裂くように走る。
次の瞬間には、左右に展開していた七人が、目にもとまらぬ速さで切り伏せられていた。
無弦の動きは流れる水のように淀みなく、無駄の一切を削ぎ落としていた。
それはもはや剣技という域を超え、ひとつの「術」と呼ぶべきものだった。
無弦の繰り出す技を見て、沈剣門の残党のひとりが、震える声で呟く。
「……はっ……!白泉門の!」
「なに!? 白泉門だと……!」
名を聞いた途端、周囲の者たちは息を呑み、足を止めた。
警戒が一斉に広がる。彼らの前に立つ男は、まさしく白泉門の門主としての実力を明らかにしていた。
ひとり、またひとり。
無弦に向かう者は、例外なくその刃に沈められていく。
振るわれる剣は闇の中で淡く輝き、どこか神域に近い気配すら漂わせていた。
やがて、森に血の匂いが充満する。
「十……三」
無弦が小さく呟いた。
剣を振るいながらも、敵の数を正確に数えている余裕がある。
だが――。
(キリがないな)
倒しても、倒しても、湧いてくる。
彼は静かに剣を返し、周囲を一瞬見渡した。
右前方、倒木の影に、隙間――抜け道になるわずかな裂け目。
無弦は一息に駆けた。
追撃の気配があちこちから殺到する。
「止めろ!」
「逃がすな――!」
闇の中を、鋭い殺気と鋼が交差する。
無弦は刃を一閃させ、すれ違いざまに二人の敵の胴を裂き、血飛沫を浴びることなく駆け抜けた。
すべてが一瞬の判断、一撃の勝負。
その裂け目をすり抜けた瞬間、背後で怒声と足音が一斉に乱れた。
無弦は剣を納め、息を整えずに走り続ける。
(――白峰庵)
川に沿って北へ五里。
合流地点まではまだ距離がある。
霜華がそこへ向かっている。
なるべく多く敵を排除しておかなければならない。
夜の風が、無弦の頬を掠めていく。
森の木々を越え、彼はただ静かに、速く、闇の中を駆けた。
森を駆ける無弦の耳に、風を切る足音が重なった。
すぐ隣を、同じ速度で、一つの影が並走している。
無弦は横目でちらりと見る。
無言で走るその男は、鍛え抜かれた身体と、隙のない気配を纏っていた。
(……あれは)
一目で分かった。
この気配、この動き――昔、暗部にいた頃、自分と並び称された者たちと同じ空気。
余力を残しながら走っているとはいえ、遅れない。いや、むしろ、まったく並んでいる。
無弦は足を止めた。
同時に、その影も止まる。
互いに距離を取りながら、静かに向き合った。
森を吹き抜ける風が、二人の間を過ぎる。
無弦が構えると、男もまた、迷いなく剣を抜いた。
一閃。
空気が裂ける音とともに、互いの剣が交錯する。
重たく、鋭く、迷いのない一撃。
(……懐かしい)
無弦は、剣を受けながら奇妙な感覚を覚えた。
この太刀筋、この癖。
忘れるはずがない。
もう一度剣を交わした瞬間、無弦は口を開いた。
「……素慧兄さん」
剣が重なる。
互いに一歩も譲らず、鍔迫り合いの中、素慧の目が細められた。
「……無弦か」
低い、押し殺した声。
次の瞬間、素慧は無弦を突き飛ばすように剣を振るい、距離を取った。
二人の間に、再び静寂が落ちる。
素慧――かつて同じ沈剣門に属し、兄弟子として無弦を導いてくれた存在。
だが今、彼の目にあるのは、憎しみと痛みだけだった。
「お前が……お前がいなければ、沈剣門は……!」
素慧の叫びが、夜を震わせた。
無弦は、静かに剣を下げた。
素慧の怒りは痛いほど分かる。
無弦が出奔したあと、沈剣門は事実上壊滅した。
人々は無弦を裏切り者と罵った。
門主を殺して出ていった――そう思われていた。
(……だが、違う)
本当は、門主を殺したのは源董。
無弦は、その罪を着せられただけだ。
だが、そんなことを言ったところで、今の素慧に届くはずもない。
「兄さん……」
無弦は静かに言葉を紡いだ。
「まだ、あいつらの嘘に縛られているのか」
「黙れ!」
素慧が吠えた。
その剣には、ただの怒りだけでなく、苦しみも滲んでいた。
かつて可愛がった弟弟子を、今は殺さねばならない。
その矛盾に、素慧自身も押し潰されそうになっているのが、無弦には分かった。
(哀れだ)
無弦は心の奥で、そう思った。
素慧も、他の門人たちも――皆、源董の嘘に、騙されたまま。
「兄さん」
無弦は剣を構えながら、低く言った。
「俺は、あんたと戦いたくない」
素慧は目を細めた。
「掌門を殺しておいて、綺麗事を! 俺はお前を殺さねばならない。……俺たちを裏切った報いを、受けてもらう」
無弦は小さく目を伏せた。
この場で力を振るえば、素慧を倒すことはできる。
だが、素慧を斬れば、すべてが本当に終わってしまう。
誤解を解く希望も、赦しの未来もなくなる。
無弦は剣を一閃し、素慧の攻撃を受け流すと、瞬時に反転した。
「……すまない、兄さん」
低く呟きながら、森の奥へと走り出す。
素慧が怒声を上げて追ってくる気配があったが、無弦はそれを振り切るように、風のように駆けた。
(いつか、誤解が解ける日が来るなら……)
その一縷の希望だけを、胸に抱いて。
白峰庵へ向かう無弦の背を、冷たい夜風が押していた。
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一方、霜華は歯を食いしばりながら、ひたすら北へ向かって走っていた。
森を駆け抜ける冷たい風が、頬を叩く。
無弦の言葉――「川を渡れ」「北へ五里」――。
足元はぬかるみ、枝が腕を打った。
けれど、振り返る暇も、立ち止まる余裕もない。
背後には、かすかに追っ手の気配があった。
完全には撒ききれていない。
それでも、無弦が引きつけてくれた分、数は減っているはずだった。
(無弦……)
脳裏に、森の中で背を向けて走り去った男の姿が浮かぶ。
(……無事でいて)
霜華は心の中で、短くそう呟いた。
そしてまた、川のせせらぎを探して耳を澄ませる。
しばらくして――。
かすかに、水音が聞こえた。
その方向へ、迷わず駆ける。
やがて、月明かりも届かない森の中に、銀色の川筋が見えた。
冷たい水に足を踏み入れた瞬間、霜華は一瞬、躊躇いそうになった。
流れは速く、足元を取られそうだ。
けれど、振り返ったその一瞬の隙を、追っ手は見逃してはくれない。
「いたぞ!」
怒声が闇を裂いた。
霜華は迷わなかった。
短く息を吐き、全身の力を込めて川を渡り始める。
水は膝上まで上がり、冷たさに体温を奪われていく。
それでも、足を止めない。
無弦との約束、そして自分自身の誇りを胸に、ただ前へ進む。
川を渡りきったとき、背後の気配がいくつか、流れに足を取られて足止めされるのを感じた。
(今だ……!)
霜華は再び走り出す。
北へ、北へ――。
五里。
簡単な距離ではない。
だが、無弦を信じたのだ。
たどり着かなければ、無弦にも、何より自分自身にも顔向けできない。
息は上がり、足も限界に近づいていた。
それでも、折れることはなかった。
やがて、森が切れ、わずかに開けた丘の上に、朽ちた庵が見えた。
白峰庵――。
霜華は最後の力を振り絞り、その扉へと駆け寄った。
木の扉を押し開け、中へ飛び込む。
湿った木の匂いと、ひんやりした空気が、肩にまとわりついた。
ひとまず追っ手の気配はない。
霜華は背を扉に預け、静かに息を吐いた。
心臓が痛いほど打ち鳴っている。
それでも、目は閉じなかった。
(無弦……)
闇の中、ただ静かに耳を澄ませながら、霜華はじっと庵の中で待った。
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静まり返った庵の中、霜華は身を潜めながら、じっと耳を澄ませていた。
吹き抜ける風の音、かすかな梢のざわめき――。
その一つ一つに、無意識に肩が強張る。
霜華は手の中で、刀の柄を握りしめた。
冷たく、乾いた空気が指先にまとわりつく。
どれほど待っただろうか。
時間の感覚はとっくに失われていた。
その時――。
庵の外で、かすかな気配が動いた。
息を呑み、霜華は身構える。
足音。
だが、それは追手たちの荒々しい踏み込みではなかった。
静かで、鋭く研ぎ澄まされた気配。
霜華は刀に手をかけたまま、扉のほうへと視線を向ける。
やがて、軋むような音を立てて、扉がわずかに開いた。
「……霜華」
低く、落ち着いた声が、闇の中から呼びかけた。
霜華は、ようやく力を抜いた。
刀から手を離し、扉へと駆け寄る。
そこにいたのは、血の匂いを纏い、衣を汚しながらも、まぎれもなく無弦だった。
「無弦……!」
思わず声が震える。
それを悟られまいと、霜華は慌てて言葉を継いだ。
「遅い、バカ」
無弦は、かすかに目を細めて笑った。
その顔に、無事を確認できた安堵が滲んでいた。
「悪い」
たった一言。
それでも、その声音にこもった感情は、十分すぎるほどだった。
霜華は無弦を庵の中に引き入れ、扉をそっと閉めた。
「追手は?」
「あらかた撒いた」
無弦は壁にもたれかかりながら答える。
しかしその身体は、どこか不自然に力が抜けていた。
霜華はすぐに気づく。
無弦の袖口に、滲む血の色。
「……怪我、してるじゃない」
(兄さんの剣を交わした時か)
無弦は「かすり傷だ」とでも言いたげに肩をすくめたが、霜華は許さなかった。
「見せて。今すぐ」
その語気に、無弦も観念したらしい。
静かに腰を下ろし、破れた袖を捲った。
そこには、深くはないものの、鋭い刀傷が走っていた。
そして、着ている服は殺したのであろう敵の血で赤黒く染まっていた。
霜華は無言で腰の袋から布と薬草を取り出すと、手際よく手当てを始めた。
無弦はされるがまま、黙って傷に薬を塗られていた。
「無茶しないでよ」
霜華は手を動かしながら、ぽつりと呟いた。
無弦は答えなかった。
けれど、その横顔に浮かんだわずかな笑みが、すべてを物語っていた。
霜華も、それ以上は何も言わなかった。
代わりに、丁寧に傷を包帯で巻き終えると、無弦の隣に腰を下ろした。
庵の中は、再び静寂に包まれる。
外では、まだ夜が続いている。
だが、この小さな庵の中だけは、かろうじて安らぎがあった。
霜華は壁にもたれ、天井を仰いだ。
そして、小さく呟く。
「……疲れた」
無弦は、その言葉に小さく頷いた。
「あぁ、少し寝ろ」
二人は、それ以上言葉を交わさなかった。
ただ、確かに互いの無事を感じながら、夜の静けさに身を任せた。
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庵の中に、静かな夜が流れていた。
朽ちた壁の隙間から吹き込む風が、かすかに湿った冷気を運んでくる。
無弦は壁にもたれ、目を閉じたまま、静かに思考を巡らせていた。
(崖涵城が襲撃されれば、ただの国境の小競り合いじゃ済まない。北楚との間に、戦の火種が撒かれる)
それを企む「主」が誰なのか――まだ見えない。
だが、このまま放置すれば、国そのものが揺らぎかねない。
(……干瓢に伝えるしかないな)
干瓢。
今や朝廷で「侍中」の地位にあり、皇帝に直接言葉を届けられる数少ない存在。
白泉門を作り、無弦を門主に据えた男でもある。
誰よりも無弦を信じ、誰よりも無弦に期待している男。
彼にこの情報を渡し、即座に崖涵城の防衛を固めるよう動いてもらう。
だが、行動を起こすにはまだ情報が足りない。
沈剣門の残党――五十以上も集め、崖涵城襲撃という大それた計画を命じる「主」。
その正体を、必ず突き止めなければならない。が、どこから情報が漏れるか分からない。
(白泉門のものは動かせない。自力で探るか)
無弦は指先で膝を叩きながら、さらに思考を進める。
源董――。
師伯。
かつての沈剣門の長老。
そして、門主を謀殺し、沈剣門を崩壊させた張本人。
いずれ決着をつけねばならない。
沈剣門の真実を白日の下にさらすためにも、源董を放置するわけにはいかない。
(だが、今は……)
今はまず、崖涵城を救わねば。
それが最優先だ。
無弦は、頭の中で策を練り続けた。
考えなければならないことは山ほどある。
ふと、隣に目をやった。
霜華が、膝を抱えるようにして小さく身体を縮めていた。
吐く息が白く、肩を震わせている。
無弦は無言で立ち上がり、自分の外套を脱いだ。
そっと、霜華の肩にかける。
霜華はわずかに身じろぎしたが、目を覚ますことはなかった。
無弦は、しゃがみ込み、乱れた彼女の髪を指先でそっと整えてやる。
その額にかかる髪を、丁寧に耳にかけながら、ふと気付く。
(……落ち着く)
不思議だった。
霜華とこうしていると、妙に心が静かになる。
この危機の中でさえ、彼女の隣では、焦りや怒りが、すっと遠ざかっていく。
(……困ったものだ)
無弦は小さく苦笑した。
今は、こんな感情に浸っている場合ではない。
策を練り、動き出さなければならない。
なのに――。
指先に触れた霜華の髪の感触が、やけに温かかった。
無弦はそっと手を引き、再び壁に寄りかかる。
夜はまだ深い。
霜華が上着にくるまって、小さく息を吐く音が、静かに夜を満たしていた。
やがて、黒い空の端が、わずかに色づき始める。
(夜が明ける――)
無弦は静かに目を閉じ、もう一度、心を研ぎ澄ました。
庵の中には、弱いながらも確かな光が、じわりと差し込み始めていた。
夜明け。
白峰庵の中に、かすかな朝の光が差し込んでいた。
霜華は、かけられた上着の温もりに気づいて目を覚ました。
無弦の匂いがほのかに染みついていることに、気づいて、思わず頬を染める。
そっと目を開けると、庵の隅に、静かに壁にもたれた無弦の姿があった。
彼は目を閉じている。
だが、その表情は妙に柔らかかった。
いつもの、張り詰めたような気配が薄らいでいる。
霜華はそっと上着を抱きしめるようにしながら、小さく息を吐いた。
数刻後。
無弦と霜華は、都へ戻る道すがら、身なりを整え、目立たぬようにしていた。
無弦は白泉門に手配させていた密偵を通じて、干瓢への接触を取り付けた。
人目を避けるため、都の外れにある古びた茶屋で待ち合わせることになっていた。
茶屋に入ると、既に干瓢は席に着いていた。
若くがっしりとした体格と鋭い目つきは、老年の官僚をも圧倒する気迫を持っていた。
無弦が近づくと、干瓢は軽く顎を引いて合図する。
「――よく無事で来たな」
「こちらも命懸けだった」
無弦は低く答え、隣に腰を下ろす。
霜華は無弦の少し後ろに控えた。
干瓢の鋭い視線が一瞬、霜華を値踏みするように走ったが、すぐに興味を引っ込めた。
無弦はすぐに本題に入る。
「沈剣門の残党が動いている。数は五十を超える。集会とやらに参加していた五十ほどは始末しておいたが、まだ同数以上はいるだろう。狙いは、崖涵城だ」
干瓢の顔に、一瞬だけ緊張の色が浮かぶ。
「……北楚の仕業に見せかけるつもりか」
無弦は頷いた。
「その通りだ。連中の主がそう命じたらしい。実際に動くのがいつかは不明だが」
干瓢は目を細め、低く唸った。
「北楚の仕業に見せかけ、国境を騒がせる……」
茶碗を指先で回しながら、独り言のように呟く。
「……いや、国境を騒がせるだけでは済まんか」
無弦も小さく頷いた。
「崖涵城を襲撃すれば、都は軍を動かさざるを得ない。西の守りが薄くなれば、都の防衛も手薄になる」
干瓢の目が鋭く光る。
「つまり、崖涵城は囮だ」
無弦は木札を干瓢に渡しながら、さらに言葉を継ぐ。
「崖涵城を守る名目で、軍を率いる必要がある。……その志願者――軍を出したがる者が、黒幕の可能性が高い」
干瓢は木札を受け取り、しばらく黙考した後、低く呟いた。
「軍権を得るための口実か……」
「そうだ」
無弦は短く答える。
「表向きは北楚への対処を謳いながら、裏では都をがら空きにする。朝廷内の権力を握るための布石かもしれない」
霜華は、二人のやり取りを黙って聞いていた。
その内容の重さに、拳を強く握りしめる。
都を、国を揺るがす陰謀。
しかも、その陰で動いているのは、父を殺した疑いのある、沈剣門の残党たち――。
干瓢はしばらく考え込んでいたが、顔を上げると低く言った。
「無弦、お前は目立つな。……それから、目星のつく者を洗う」
「分かった」
無弦はすぐに応じた。
干瓢は立ち上がり、最後に霜華をちらりと見て、茶屋を後にした。
----
茶屋を出てから、霜華は無弦の横顔を何度もちらりと盗み見た。
(……何者なんだ)
あの干瓢――服装からして、高位の役人に見える。
そんな男と、対等どころか、ほとんどタメ口で話していた。
ただの江湖人じゃない。
少なくとも、普通の侠客ではないのは確かだ。
(沈剣門のことも色々知ってそうだし……)
ますます無弦への疑念は深まる一方だった。
それでも、霜華は無弦と行動を共にすることを決めていた。
(沈剣門のことを突き止めるまでは――)
「……無弦」
霜華は歩きながら呼びかけた。
無弦はちらりと視線を向けたが、何も言わない。
「どこに行くか知らないが……私も一緒に動く。ダメと言われても、着いていくから」
無弦は霜華を見た。
その目には、何の驚きもなかった。
むしろ、最初からそうなると分かっていたような、静かな受け止め方だった。
「勝手にしろ」
無弦はそう言い捨て、また歩き出す。
霜華は、無弦の後を追った。
----
日が傾き、二人は長屋の外へ出た。
人目を避け、情報を探るために、都の裏通りへと歩を進める。
何日も、密かに動く中で、二人の距離は自然と近づいていた。
無弦は、霜華が危険な場所に踏み込もうとすれば、無言で肩を引き寄せた。
霜華はそれを咎めることもなく、すっと無弦に寄り添った。
互いに、言葉少なに。
だが、確かな信頼が少しずつ築かれていく。
ふとした瞬間、霜華が振り返る。
無弦も同じように顔を上げ、目が合った。
一瞬、空気が止まった。
霜華はすぐにそっぽを向いたが、顔がわずかに紅潮していることに気づかれたくなかった。
無弦は何も言わなかった。
ただ、胸の奥に、また一つ、小さな火が灯るのを感じていた。
肩を並べて歩むという感覚。
そして、それを失いたくないと思う、自分自身への戸惑い。
(……困ったな)
無弦は静かに目を伏せ、霜華の小さな背を見守りながら、歩みを進めた。
都の裏道を、二人の影が静かに並んで進んでいった。
無弦と霜華は、人気のない路地裏を抜け、目指す場所――軍営に近い一角へと足を運んでいた。
二人は目立たぬよう、粗末な旅人の装いに身を包んでいる。
だが無弦は、常に周囲へ意識を張り巡らせていた。
(……不自然に静かだ)
街路には人影がまばらで、空気が妙に張り詰めている。
まるで、見えない網が二人を捕えようとしているようだった。
霜華も気配を察していた。
低く囁く。
「……無弦。何か、おかしい」
「ああ」
無弦は短く答え、霜華の肩を軽く叩いた。
「警戒しろ。下手をすると、罠だ」
その瞬間だった。
周囲の建物の陰から、黒衣の男たちが一斉に飛び出した。
十、二十、いや、それ以上。
すべて、殺気をまとった手練れだ。
「しまった」
霜華が咄嗟に刀を抜く。
無弦も一瞬で剣を構え、霜華を背に庇った。
男たちは言葉もなく、無言で二人を包囲する。
まるで、最初からこの場所へ誘い込むために仕組まれていたかのように。
無弦は冷静に状況を見極めた。
この数、この気――沈剣門ではない。
霜華がいる、また、敵が分からない以上、安易に実力は出せない。
更に、一人では突破できるが、霜華を連れてでは難しい。
(……なら)
無弦は、ほんの一瞬だけ考え、迷いなく決断した。
次の瞬間。
「霜華、伏せろ!」
無弦が鋭く叫んだ。
霜華は反射的にしゃがみ込む。
無弦は剣を翻し、霜華を完全に覆うように立ちはだかった。
迫り来る敵の刃を、すべて自分一人で受け止める覚悟で。
「うおおっ!」
三人が一斉に斬りかかる。
無弦は無駄なく、正確に刃を捌いた。
一人、二人、三人。
連続で倒す。
だが、敵はまだ群れのように押し寄せる。
任務でも、義務でもない。
理屈抜きに、霜華をこの地獄から遠ざけたい。
無弦はただ、そう思った。
無弦は、刃を振るう。
鋭い一撃で敵を後退させ、そのわずかな隙に霜華の手を取った。
「走れ!」
言葉少なに叫び、霜華を引っ張る。
霜華は無弦の腕の力に引き寄せられながら、必死で走った。
背後から飛んできた刃が、無弦の肩をかすめ、服を裂いた。
血の匂いが漂う。
「無弦!」
霜華が声を上げた。
「気にするな! 先を急げ!」
無弦は振り返らない。
痛みも、疲労も、すべて振り切るように、ただ前へ。
やがて、細い裏路地へ滑り込み、複雑に入り組んだ通りを抜けていく。
数刻の死闘の末、ようやく敵の気配が遠ざかった。
無弦は壁に背を預け、深く息を吐いた。
霜華も、肩で荒く息をしている。
無弦の肩口から、赤い血が滲んでいた。
「……無弦、バカ」
霜華は震える声で呟きながら、破れた布を引き裂き、無弦の傷口を押さえた。
「なんで……」
無弦は、苦笑にも似た表情を浮かべた。
「着いてくると言ったのを止めなかった俺の責任だからな」
それだけを言い、壁にもたれて目を閉じた。
霜華は、無弦の横顔をじっと見つめた。
(……こんな男、初めてだ)
心の奥で、何かが静かに、しかし確かに芽生え始めていた。
二人は、互いに言葉を交わさぬまま、夜の冷たい風に身を預けていた。
その頃、都では――。
干瓢は迅速に動いていた。
崖涵城の城主へ早馬を飛ばし、夜間の奇襲に備えるよう命じると同時に、城内の防衛を強化。
兵士たちは静かに配置につき、あたかも平時を装いながらも、完全な備えを整えていた。
結果、夜半に沈剣門の残党が襲撃を仕掛けたが――。
備えは完璧だった。
城壁は破られず、守備兵の損害も皆無。
沈剣門の一派は、まともな戦闘もできずに撤退を余儀なくされた。
だが、それだけでは終わらない。
干瓢は城主に命じ、朝廷への報告を細工させた。
「襲撃があり、援軍が必要」と――。
狙いは、黒幕を炙り出すためだった。
そしてことは、思惑通りに進む。
「援軍を率いる役目、私にお任せいただきたい」
朝廷の朝議の場で、真っ先に名乗りを上げたのは、皇太子だった。
端然とした顔の下に、野心を隠し切れずに。
軍権を握る好機を逃すまいと、強く前に出た。
干瓢は、すべてを冷ややかに見ていた。
(……やはり、か)
確信を得た。
すぐに、干瓢は皇帝に進言する。
「ご安心ください。結果の報告が後から参りました。崖涵城は無傷。援軍の必要はございません」
その報告に、皇帝はしばし目を細め、そして頷いた。
「左様か。ならば、兵を動かすまでもないな」
冷たく、淡々と。
皇太子はその場で表情を保とうとしたが、こめかみが震えていた。
(……侍中め)
怒りを押し隠し、深く頭を下げてその場を去った。
その男は、謁見の後、自室へと戻り、机を叩きつけるように拳を落とした。
「なぜだ……なぜ失敗した!」
顔は苦虫を噛み潰したように歪み、怒りと焦りが滲み出ていた。
(今回こそ、手柄を立てて父上に認めてもらう計画だったのにー)
すぐに一人の使者を呼び寄せる。
「蒼文霓へ伝えろ。すぐに連絡を寄越せ。……何が狂ったのか、探れとな」
使者は平伏し、静かに去っていく。
皇太子――とは言え、最近は第五皇子の方が次代皇帝には相応しいという噂もあり、この男は、焦っていた。
今回の失敗は、単なる失点では済まない。
(このままでは、皇太子の地位さえ失いかねない……)
冷や汗が額を伝うのを感じながら、男はただ暗い天井を睨みつけていた。
外では、都の朝が、静かに始まろうとしていた。
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無弦と霜華は、ひとまず傷を癒すため、都の外れにある小さな宿に潜んでいた。
薄暗い部屋。
互いに怪我の手当てを終え、ほっと息をつく。
霜華は無弦の隣に座りながら、そっと横顔を見た。
ぼろ布を巻いた肩口。
血は止まっているが、傷は深い。
(あたしを守ったから……)
霜華は小さく拳を握った。
(無弦が傷つくのは、嫌だ)
それは、もはや否定しようがなかった。
が、まだ小さな灯に過ぎない。