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想連思  作者: 雪村 澪
第ニ章:秘密
4/15

沈剣流の影

都・南城門。


陽の光が傾き始める頃、旅人や商人、役人たちがひしめき合う城門前の道は、まるで川のようにうねっていた。人々の声、牛車の軋む音、遠くの寺院から響く鐘の音が、都の夕を知らせている。


そのなかを、霜華と無弦は歩いていた。


霜華は、顔を半ば布で覆い、無駄な視線を避けるようにしている。だが、その身の気配はどうしても隠しきれなかった。


通りすがる者の何人かが、彼女の姿を見て思わず足を止めた。目を引かれるのは、旅人としては不釣り合いなほど凛とした佇まいと、そのまなざしの強さ。


無弦は、それらの視線にすぐ気づく。


「……ああ、やはり目立つな」


「何が?」


霜華が横目で見ると、無弦は少し口を引き結んで言った。


「その顔」


「……無遠慮な男ね」


「誉めてる」


霜華はため息をひとつ吐いたが、それ以上は言わなかった。


(……もう、旅はおわり)


僅かな感傷を打ち消すように、霜華は思い切る。


「それじゃ……私はここで」


霜華は振り返り、無弦に向き直る。


「ああ」


無弦も静かに頷いた。別れは淡々としていた。

二人はもう互いに何も言わず、それぞれの道を歩き始めた。


雑踏に飲まれ、霜華は一人、歩みを速める。

(何を感傷的になっているの)

自分自身を叱咤するように息を吐き、再び歩み出した——その瞬間だった。


狭い路地の入り口から、ごろつき風の男たちが数人現れ、霜華の進路を塞いだ。


「姉さん、ちょいと付き合わねぇか?」


都に入ってから、霜華の佇まいに目を付けていた男だちが、下卑た笑いを浮かべ、霜華をじろじろと眺める。

霜華は冷ややかな目で一歩引いたが、背後からも足音が迫っているのがわかった。


(もう、面倒……!)


いつものことだけど、またかとため息をつきながら、霜華が鞘に手をかけたその時だった。


「おい」


低く冷ややかな声が、雑踏の中に刃のように響いた。

霜華の胸がどくりと波打つ。


無弦がそこにいた。


「あぁ? 何だてめぇは」


無弦は言葉なく、ただ鋭い目を向けただけだった。

だがその視線には確かな殺気が宿っている。ごろつきたちは僅かに怯み、舌打ちして散り散りに去った。


霜華は小さく息を吐き、無弦を見上げた。


「助かったわ……でも、どうして?」


無弦は小さく眉をひそめながら言った。


「別れた後、お前が路地に入るのが見えた。都は初めてだろう?」


霜華は思わず顔を赤らめ、視線を逸らした。


「……悪かったわね」


「それで、お前はどこへ向かうつもりだった?」


霜華は口を開きかけ、一瞬迷ったが、小さく吐息を漏らし、つぶやいた。


「沈剣門の情報が分かる場所が、この近くにあると聞いているの」


無弦の瞳が、わずかに翳った。


「場所は知っているのか?」


霜華は口元を引き結んだまま、首を横に振った。

無弦は軽くため息を吐き、再び口を開いた。


「……仕方ない。案内してやる」


「え?」


霜華は目を見開いて無弦を見た。


「都は危険だ。今のような目にまた遭うぞ」


霜華の顔に微かなためらいが浮かぶ。それを見て取った無弦は、少しだけ声を柔らかくした。


「……沈剣門の情報が欲しいのだろう? ある程度道筋がつくまで、俺の用事の傍でよければ手伝ってやってもいい」


霜華は、その言葉を胸の中で反芻した。

無弦が手を差し伸べる理由はわからない。

だが、今はただ、彼の存在が心強かった。


「……ありがとう」


霜華は小さな声で答え、静かに頷いた。


無弦も微かに微笑み、再び歩き出した。

隣を歩きながら、霜華の胸に穏やかな安堵が広がっていった。


混沌とした都の人波をかき分け、二人は再び並んで歩いていた。

まるで最初から、こうなることが決まっていたかのように——

ふたりの影はまた、ひとつになって路地を進んでいった。


道すがら、無弦は考えていた。


(都に入るのは数年ぶりだ)


何のために沈剣門の情報を集めているのか分からないが、道中の相棒が憂き目にあるのも寝覚めが悪い、と無弦は半ば仕方なく、霜華が都に慣れるまではと手伝うことにした。


霜華はというと、隣を歩く男を観察する。

彼は、表の顔を放浪の剣士として保ちつつ、謎の多い男だった。

同行を共にしながらも、彼から少しでも情報を引き出そうと様々な質問を繰り返したり、カマをかけてみたりした。だが彼から得られた情報は、ありきたりのことばかりで、新たな情報といえば....


ふたりは人通りの少ない路地裏にある茶館でひと息ついた。

木組みの天井には煤が溜まり、障子越しの光がほのかに室内を照らしている。


「“石香堂”……都の南側にあるはず。かつて、情報が流れていた場所」


霜華が地図を指しながら言う。


「今は廃れていると聞いたが、痕跡は残っているかもしれない」


無弦が頷いた。


「沈剣門は、そこを情報収集の場にしていたのね?」


「あぁ、それは確かだ」


無弦は短く頷いた。だが詳細は語らない。

霜華もそれ以上は聞かなかった。


(もっと色々知ってそうだけど...。)


チラッと無弦を見る。


(しつこくして去られたら元も子もないしね)


霜華は短くため息をついた。



都の片隅にある薄暗い路地裏。その奥で、無弦と霜華は一人の老人と向き合っていた。灯りは煤けたランプがひとつだけで、頼りない光が三人の顔を照らしている。老人は年の割に背筋を伸ばし、口元に人を食ったような笑みを浮かべていた。抜け目ないその目が、じろりと二人を値踏みするように見据えている。


「沈剣門について、何か知っていることを教えてほしい」


霜華が静かに尋ねた。控えめながら真っ直ぐな物言いで、彼女の声には礼儀が感じられる。しかし、その眼差しには油断ならない光が宿っていた。


老人はふんと鼻を鳴らし、痩せた指先を擦り合わせる。


「知っているとも。ただ……情報には相応の価値がある。」


乾いた木の葉のように掠れた声だが、その言葉は明瞭に二人の耳に届いた。


無弦は霜華と軽く視線を交わし、一歩前へ出る。そして袖の内側から小さな革袋を取り出し、じゃら、と控えめな音を立てて、老人の前に差し出された。老人は細い眉を上げ、


「ほう……」


と興味深げに呟く。指先で袋の重みを確かめたが、次の瞬間、小さな舌打ちを漏らした。


「……これでは半分も話せんな」


霜華の眉が曇った。


「足りない?」


問い返す声には、わずかな諦めがにじんでいた。


老人は肩をすくめ、にやりと笑った。


「ああ、足りんさ。沈剣門となれば、高値で情報も取引される」


開き直ったような口調に、霜華はガッカリしたように項垂れる。


無弦はそんな霜華の肩を、そっと励ますように撫でた。

そして懐から金貨を2枚取り出し、老人生の前に置こうとしたそのとき――。


「待って」


霜華が、急ぎ無弦を制した。


「そこまでは……。私のことなのに、あなたに負担をかけるわけには――」


その声音には、素直な遠慮と申し訳なさがにじんでいた。


だが無弦は、穏やかに首を振る。


「いいんだ」


迷いなく言い切ると、出し惜しみするそぶりもなく、金貨を静かに卓上へ置いて、老人に言った。


「これで話せるだけ話してくれ」


霜華は小さく唇を噛み、無弦の厚意を胸に刻む。


老人生は少し驚き、再び無弦を値踏みするように目を細める。

薄暗い灯火の下、その瞳には計算高い光が宿っていた。

やがて「いいだろう。できる範囲でな」と呟き、周囲を伺うように耳を澄ます。


老人は二人に身を寄せ、低い声で囁いた。


「沈剣門の影は、この都の夜に紛れている。連中はな、夜の静けさを好むものさ。毎月、月のない晩に、西の外れにある朽ちた祠……そこで集まっていると噂がある」


囁きを終えると、老人はゆっくりと身を引き、元の位置に戻った。

含み笑いを浮かべながら続ける。


「真偽は自分の目で確かめることだな。もっとも、命は大切にな」


無弦は静かに霜華の肩に手を置き、老人に一礼する。


「……感謝する」


老人は金貨の重みを確かめるように懐を叩き、「達者でな」と嘲るように笑った。

その笑い声が背後にいつまでも尾を引く中、無弦と霜華は顔を見合わせ、言葉なく路地を立ち去った。


闇に包まれた都の通りへ出る頃、二人の足音だけが静かに石畳を踏みしめていた。


夜更けの都は、人通りもまばらだった。冷たい夜気が肌を撫で、霜華は襟元を軽くかき合わせる。


先ほど老人から得た僅かな手がかりを胸の内で反芻しながら、無弦と並んで石畳の通りを歩いていた。二人の足音だけが規則正しく響き、周囲はひどく静かだ。その静寂がかえって不自然に思えるほどに――。


霜華はふと歩みを緩めた。何かがおかしい。先ほどから、誰の姿も見えないのに視線だけが背後に張り付いているような感覚があった。喧騒に満ちていたはずの都の大通りから一歩入った途端に、ぴたりと物音が止んだことにも気づく。まるで人の気配そのものが消えてしまったかのようだ。霜華は息を潜め、そっと周囲に目を走らせた。


「……無弦」


霜華が低く呼びかける。それ以上言葉は続けなかったが、無弦は小さくうなずいて応じた。二人はそのまま足を進めつつ、注意深く周囲の闇に神経を研ぎ澄ます。やがて、路地の曲がり角に差し掛かった瞬間だった。


ピシャッ――硬いものが風を切る音がした。

霜華がとっさに振り向くと、月明かりに銀色の閃きが飛来するのが見えた。


「危ない!」


反射的に叫び、彼女は無弦の肩を強く引こうとする、が、いち早く無弦は肩を僅かにすくめてかわす。


次の瞬間、金属と金属が触れ合う鋭い音が闇に響く。無弦が瞬時に短刀のような刃を弾き落としていたのだ。小さな刃はカランと音を立てて石畳に転がり、再び静寂が訪れる。


霜華と無弦は背中合わせに身構えた。闇の中に潜んでいる気配が、一つや二つではない。四方の路地や建物の陰から、じわりと人影がにじみ出てきた。黒い布で顔を覆った暗殺者たち——人数は五人か、それ以上か。手にした短剣や細身の刀が月の光を受け、鈍く光る。無言のまま二人を取り囲むように間合いを詰めてきた。


――シュッ。


床を蹴る音と共に、最初の一人が動いた。剣が霜華の肩口を狙って振るわれる。


「霜華!」


無弦が前へ出ようとするが、霜華はすでに鞘から刃を抜いていた。鋭く刃先を滑らせ、敵の剣を受け止める。


「大丈夫!」


霜華の剣技は美しいまでに鋭く、敵の間合いを巧みに外す。だが、男たちは明らかに尋常の刺客ではなかった。踏み込み、回避、連携すべてが、まるで教練された武人の動きだ。


(これは……沈剣流暗部の型……)


無弦はその動きに見覚えがあった。斬り口の角度、足運び、剣と体の連動。


――沈剣流、失われた剣術の流派。そして、かつて自分が属していた門の名。


「霜華、逃げろ。お前が敵う相手じゃない」


「っ!逃げっ!たくても...今は無理!」


霜華は全方位から迫ってくる刃を防ぎながら息を荒げながら言い返す。既に三合目、五合目と斬り結び、衣の袖には浅く血が滲み始めている。


(....チッ、内功が足りない...)


「あなたこそ逃げて!」


その言葉を遮るように、敵の刃が斜めに迫る。


霜華が下がりきるより早く、別の男が背後から跳びかかった。


「霜華!」


無弦の叫びと共に、空気が一変した。


次の瞬間、音が消えた。


――ゴッ。


それは風の音よりも速く、黒衣の男が一人、壁に叩きつけられて崩れ落ちた。霜華の視界に映ったのは、無弦が彼女を背後から抱え、華奢な身体をすくい上げる逞しい腕だった。


無弦は無言で霜華を降ろし、


「気をつけろ」


と声をかける。


霜華は思わず奥歯を噛みしめる。敵の力は自分とさほど変わらない——だが同時に相手取るには数が多すぎる。

無弦に助けられたことにも不甲斐なさを感じた。


無弦は細身の剣を抜き放ち、迫る敵の斬撃を最小の動きでいなしていく。四方から繰り出される鋭い突きを、無弦は驚くほど冷静に剣で弾き返していった。


その所作は淡々としていて、一見すると大振りの一太刀も放っていない。しかし、間合いに踏み込んだ暗殺者が一人、息の根を止められたかのように崩れ落ちた。無弦は既に返す刃で相手の喉元を正確に断ち切っていたのだ。残りの二人もわずかに警戒を滲ませ、一歩退く。


霜華と無弦は、互いの背後を預け合ったまま動きを合わせた。一陣の風のように霜華が左へ跳ねれば、無弦はそれに同調して右へと踏み出す。霜華の刃が敵の脇腹を浅く斬り裂き、怯んだところに無弦の突きが寸分違わず喉元を射抜いた。声にならない断末魔が闇に消え、屈強な暗殺者が音もなく地に沈む。


残る敵は二人となっていた。霜華は額に滲む汗を拭う暇もなく前方の敵と対峙する。胸の鼓動が高まり、呼吸が速くなるのを感じた。しかし相手も動揺しているのが分かる。仲間が次々と沈黙していったことに、さしもの暗殺集団も焦りを見せていた。


霜華は刀をきつく握り直すと、最後の力を振り絞って前へ踏み込んだ。


鋭い刃同士が火花を散らし、鍔迫り合いになる。霜華は相手の冷徹な瞳をにらみつけ、押し返そうと力を込めた。だが徐々に刃が迫ってくる――敵の体格と膂力が勝っていた。きしむ金属音が耳を突く。霜華の腕が震え、限界が近づいたその瞬間、目の前の暗殺者の身体がふっと揺らいだ。


無弦の刃が背後からその男の背を貫いていた。霜華に刃を押し付けていた力がふっと抜け、男は自分の胸元を見下ろしながら地面に崩れ落ちた。


驚く間もなく、最後の一人が無弦に跳びかかる。しかし無弦は振り向きざまに相手の懐へ滑り込み、肘打ちで急所を的確に突く。ぐしゃり、と鈍い音がして暗殺者の体が硬直した。次の瞬間、無弦の手刀がその首筋を打ち据える。暗殺者は呻き声ひとつ上げず、その場に崩れ落ちた。


静寂が戻った。闇の路地に立つ一つの人影だけが、かすかな息遣いを立てている。霜華の肩が上下し、冷たい汗が背筋を伝っていた。足元には動かない黒装束の男たちが倒れ伏している。かすかな血の匂いが立ちこめたが、夜風がすっと吹き抜け、それを運び去っていった。


霜華は荒い息を整えながら、静かに辺りを見回した。闇の路地には、生々しい戦闘の痕跡だけが残されている。


無弦は鞘に剣を収め、足元の暗殺者たちに一瞥をくれた。彼の横顔には大きな動揺もなく、呼吸の乱れもない。その落ち着き払った様子に、霜華は胸の内で言い知れぬ違和感を覚えた。


(都までの道中で襲われた時とは全く違う...)


「大丈夫か、霜華」


無弦が振り返り、低い声で尋ねる。霜華ははっと我に返り、小さくうなずいた。


「私は大丈夫。無弦こそ、怪我は?」


「問題ない」


無弦は短く答えた。確かに彼の身なりに目立った傷は見当たらない。それどころか、先ほどまで命のやり取りをしていた人間とは思えないほど、静かな眼差しを湛えていた。


霜華は眉根を寄せ、倒れた暗殺者の手に何か印でもないかと視線を走らせた。しかし黒布に覆われた手には、これといった印は見つからない。ただ、狙われた理由も含めて全てが謎のままだ。


「行こう、霜華」


無弦の静かな声が、思索に沈む霜華を現実に引き戻した。霜華は小さく息を吐き、頷く。


「…そうね。」


無弦が先に立って歩き出す。霜華もそれに続こうとしながら、そっと無弦の背中を見つめた。その戦いぶり――闇の中で見せた技の冴え――を思い返すと、胸の内に小さな疑念が芽生えるのを感じる。


無弦という人物は一体何者なのか。本当にただの流浪の剣士なのだろうか? 戦闘の最中、一瞬だけ見せた冷徹な眼光が脳裏をよぎる。


(実力を隠している...?)


霜華は頭を振り、雑念を振り払った。


二人は再び闇の中へと歩み出す。静まり返った都の大路へ出る頃、霜華はもう一度隣を行く無弦を盗み見た。彼の横顔は相変わらず穏やかで、先ほどの激闘が幻であったかのようだ。


霜華は密かに息をのみ、その視線を前方へ戻した。夜の静けさの中、その胸中では無弦への疑念が静かに深まっていくのだった。

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