春霞の道
春霞が、五蓮山の稜線を淡く包み込んでいた。
やわらかな朝の光は、まだ半ば眠たげで、山間の小径を仄かに染めている。
道ばたに咲く草花は、露を宿したまま静かに揺れ、風のさざめきに耳を傾けていた。
その道を、ふたりの旅人が歩いていた。
先を行くのは、女——霜華。
しなやかな足取りで山道を辿るその姿は、まるで俗世の塵を寄せつけぬ静謐をまとっているかのようだった。
無弦は、ひとつ歩を控えて、その背を見つめながら歩いていた。
(見惚れていたなど、言語道断だ)
無弦は己を叱責した。
武人たるもの、一瞬でも我を忘れたことが恥ずべきことだった。
(だが……あの透きとおる肌、凛とした佇まい——あまりにも、場違いだった)
まるで、荒れ果てた廃村に、ひとひらの雪が降り立ったかのように。
無弦は自分に言い訳を重ねながら、認めざるを得なかった。
目を奪われるほどの美貌だったことを。
黒髪は月夜の泉のように艶やかで、肌は白磁の器を思わせる清冽さを湛えていた。
細い顎、長い睫毛、伏せた瞳に宿る涼やかな影。
何もかもが、あまりにも無防備な魅力をまとっていた。
この江湖という地では、力ある者も、欲深き者も、魑魅魍魎のごとく蠢いている。
その中を、護衛も従者も連れず、たったひとりで旅をする女。
(……考えるだけ無駄か。所詮は余計なお節介だ)
無弦は、そう心の中で自分をいさめた。
そのとき、不意に——
「どこまで着いてくるつもり?」
低く、柔らかな声が、霜華の背から投げられた。
振り向くことなく、歩みを緩めることもなく。
「都だ」
無弦は、短く答えた。
「ふうん……じゃあ、行き先は同じね」
霜華は興味なさげに言い、なお歩を進める。
「お前は、都に何の用だ?」
「探し物をしてるの」
「何を探している?」
問いかける無弦に、霜華はふと立ち止まり、こちらを振り返った。
涼しい眼差しで、無弦をじっと見据える。
それは、彼女の癖だった。
わずかな手掛かりも逃すまいと、人の表情を読むために。
やがて、静かに唇が開かれる。
「……沈剣門の残党がいると聞いて」
その言葉に、無弦の目が微かに曇った。
だが、すぐに元の無表情へと戻る。
霜華は、その一瞬の揺らぎを、見逃さなかった。
「何か、知ってるのね?」
問いただす声は柔らかくも、逃がさぬ意志を含んでいた。
「……あぁ。噂くらいは、な」
無弦は、そつのない答えを返した。
だが、霜華の直感は告げていた。
彼の中に、まだ語られぬ何かがある、と。
「都まで道行きが同じなら——一緒に行きましょう?」
霜華は、さらりと持ちかけた。
無弦から何かを引き出すために。
無弦は、彼女の思惑を見抜いていた。
だが、それを咎めることなく、むしろ望むところだとばかりに、小さく頷いた。
霜華もまた、無弦もまた。
互いに探し、互いに試しながら。
春霞のなか、ふたりの影が、細く長く、静かに道を伸びていった。
——それが、やがて避け難い運命をもたらすことなど、いまはまだ知らずに。
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都へ向かう道は、次第にぬかるみを増していた。
春の雨に洗われた土は柔らかく、踏みしめるたびに靴底が重くなる。
昼下がり。
細い獣道を抜けた先で、小さな川を渡ろうとしたときだった。
霜華が、ふと滑って膝をつき、手に泥をつけた。
「……っ」
声にならない吐息を漏らし、霜華は素早く立ち上がる。
無弦は後ろからそれを見て、小さく眉をひそめた。
泥は、手だけではない。
霜華の頬にも、細い指先にも、跳ねた泥が薄く飛び散っていた。
それを、霜華は気にする様子もなく、川べりの草を手折り、泥をざっと拭った。
そして、ついでのように、指先で頬にも泥を塗り広げた。
無弦は思わず、言葉を失った。
「……何をしている」
「目立たないようにしてるのよ」
霜華は事もなげに答える。
「女ひとりで旅をしてると、いろいろと面倒が多いから」
そう言いながら、さらに泥を指先で頬に伸ばす仕草は、どこかぎこちない。
無弦は黙ったまま霜華を見つめた。
(……泥を塗ったくらいで、隠せる美貌ではないだろうに)
ふいにそんな言葉が頭をよぎり、無弦は小さく息をついた。
白磁のような肌に、柔らかな影を落とす泥。
それでも、見る者の目を奪わずにはおかない涼やかな眼差し。
何気ない仕草さえ、妙に目を引く。
(見るものが見れば、かえって目立つだけだ)
だが、そう口に出すことはしなかった。
黙っているほうが、きっと彼女のためだとわかっていたから。
霜華は無弦の沈黙を、同意と受け取ったのか、満足げに小さく頷く。
「……あなたも、気をつけたほうがいいわよ」
「俺が?」
無弦は思わず苦笑した。
「あなたも、あまり強そうに見せると、いろいろと絡まれるでしょう?」
霜華の瞳は真剣だった。
無弦は、その真っ直ぐな視線にふと胸を衝かれる。
(この女は、本気でそう思っているのか)
言葉少なに、けれど相手を案じるその気持ちに、無弦はほんのわずか、心をほどかれた。
泥だらけの顔で、涼やかにそう言い切る霜華が、ひどく可笑しく、そして眩しかった。
「……心得る」
無弦は、わずかに笑みを浮かべて頷いた。
霜華も、ほっとしたように笑った。
頬に泥をつけたまま、その笑顔は、無垢な月明かりのように美しかった。
二人の間を、やわらかな春の風が吹き抜けた。
それはまだ名もない、小さな信頼の芽吹きだった。
霜華は、無弦が言葉少なにそばにいることに、なぜか安堵を覚えた。
無弦もまた、この旅路を、彼女となら心安く歩ける気がしていた。
春霞に溶けるふたりの影は、知らず知らず、少しずつ、寄り添っていく。